よろこびごと「それで、先生がね……」
細い指でゆっくりとグラスの縁をなぞりながら、目を細めてソローネは語り出す。
おや、とテメノスとパルテティオは視線を交わした。
(これはやはり?)
(そういう事だよなぁ)
彼女がオズバルドの話をする頻度が増えてきた事に、二人は薄々気がつきはじめていた。確かに何かと印象的な学者先生ではある。オズバルド自身が酒の席に加わっていなくても、誰かの口からこの男の話題は必ずといっていいほど出るものだ。だが近頃ソローネが“先生”の事を口にする回数が明らかに増えており、更にその内容が酒の席でするような面白可笑しいものではなく、「朝食の時にオズバルド先生が」「先生がオーシュットと話をしているのを後ろから見ていたら」「最近先生の読んでいる本」など、日常のふとした出来事や彼女の個人的興味によるものが大半を占めているのである。
(ああ、この感じは覚えがありますね。若いお嬢さんが想い人を語るのにそっくりじゃないですか)
フレイムチャーチの教会に来る娘たちが、友と寄り添いながら頬を上気させて好きな男の子の話をしていた。皆嬉しそうに語り、「内緒ですよテメノス様!」と笑顔を向けてくれた。身も蓋もない言い方をすれば他人事ではあるのだが、こちらまで温かい気持ちにしてくれる娘たちの表情は良いもので、幸せになってほしいと願ったものだ。
テメノスが初めてオズバルドとソローネと出会った時、彼らは二人旅をしていた。厳しい顔の大男と鋭い視線の女で、外見だけで例えるならば“美女と野獣”の表現があまりによく似合う二人である。ちぐはぐな組み合わせに第一印象では関係性が掴みにくく、これはもしや恋人関係なのだろうか?と考えた事もあったが実際そんな事もなく、旅の目的が一致した連れ合い同士と言うのが正解なのであった。
(まぁ実際は彼女の方が彼に想うところあり……と、そうなってしまったようですが)
自分の直感も捨てたものではないな、と少しおかしくなる。
オズバルドは悪い男ではない。長い獄中生活と多くを奪われた悲しみが普段の言動から見て取れるが、彼の持つ愛情深さは誰の目にも明らかだ。
(なかなかお似合いの二人かも?しかしソローネ君も難儀だな。オズバルド先生、攻略にかなり時間がかかりそうな御仁だ)
「いやぁソローネ君、大変ですね。オズバルド先生はお酒をやらないから、夜の時間を共に過ごす口実が作りにくいでしょう」
「うわ、テメノス直球だなおい!」
すまし顔のテメノスに、焦ったように苦笑いを浮かべるパルテティオ。対照的な男二人である。
「何、急に」
ソローネは整った眉を歪めて軽くテーブルを叩いた。
やれやれと首を傾けながら、テメノスは悪戯ぽくソローネに微笑みかける。
「知っていますか?大通りのカフェ、珈琲が大変な人気らしいですよ。その深い味わいに魅せられる紳士も多いとか」
「それは良い情報だね。覚えておく事にするけど、変な気を回さないでよ。なんなの?」
「少々応援してみようかなぁと。オズバルド先生、かなり手強いでしょうから」
ああもう、と言いたげなソローネはため息をつくとグラスの中身を一気に飲み干す。
「余計なことしなくていいから。……まぁアレだな、あえて言うなら……」
「言うなら?」
「上手くいったら、あんた達に惚気話でもするかな」
「あまり生々しい内容はやめてくださいよ、ソローネ君。気まずくなるので」
「いや、でも実際なにかあったら言いたくなるかも……。先生、凄そうじゃん?」
「ソローネ、まじでやめてソッチ系の話題は!俺、旦那と同室の時あるから」
その後ソローネからオズバルドの惚気を聞くことはなく、ああ上手くいかなかったのかとテメノスは残念に思ったものだった。
だがこの話にはまだ続きがある。八人の旅が終わりを迎え、幾度か季節が巡った頃の事である。パルテティオの幹事で開催された宴の席で久々に一同が顔を合わせ、それぞれの近況を語り合った。懐かしい仲間との再会にテメノスの頬が緩んでいると、悪戯そうな微笑みを浮かべたソローネが肩を叩いてきた。
「なんですその顔?久々に会えて嬉しい…というにはちょっと癖のある表情ですね、ソローネ君」
「テメノス、覚えてる?私とオズバルド先生の惚気を聞かせてやるって話」
「懐かしいですねぇ。当時聞くことは叶いませんでしたが、まさか」
「私、婚約した。オズバルド先生と」
ああ、なんとこれは。
少し照れた顔のソローネに、柔らかい表情を浮かべるオズバルド。
生きていると、嬉しい事もあるものだ。
「おめでとうございます。では聞かないとね、惚気話をたっぷりと」
数年越しの約束を果たすべく、テメノスは二人に歩み寄った。