邂逅 周りはたなびく青一色だった。
それを見るたび、胸が締め付けられる感覚があった。深く湛えられた清水のような青。
晋の旗。
昔、背負って戦った魏国の旗には誇らしさを覚えた。父と立つ戦場に心躍らない訳がない。歴戦の勇将たち、尊敬する父と共に、偉大な主の覇道を支える一助となるのだと勇んだ頃は、その旗を見るたび力が湧く思いがしたものだ。
いつしかその旗は、先人たちの遺したそれとは異なるものとなり、次第に夏侯覇を追い詰めていった。そしてとうとう命を脅かすものと成り果てる前に、夏侯覇は国を捨た。逃げ出した臆病者だと、父の仇を頼る親不孝者めと、父の足元にも及ばない軟弱者よと、青い旗は自分を追い詰め続けた。
しかしそれも、失われてしまった。
今、夏侯覇を取り囲む青は魏の旗ではない。父が命懸けで守った国はなくなってしまった。司馬一族の専横がなければ、国を追われることも無かっただろう。夏侯覇は今も魏国に生き、魏の旗を背に戦っていたはずだ。
白く染め抜かれた晋の文字を、夏侯覇は憎さを抱えて一瞥し、地上へ視線を落とした。周りは晋兵に囲まれている。しかし、囲んだ兵たちは一歩攻め込めずにいる。下手に間合いを詰めてしまえば、得物の大きさからは思いもよらない俊敏さで、薙ぎ払われてしまうのが分かったからだ。その逡巡を感じ、夏侯覇はどこかに突破口がないかと目線をやる。切り抜けられそうなところ、組み伏せそうな相手はいないか―――
不意に、自身を取り囲む輪から一人が歩み寄ってきた。ぎょっとしてそちらを向けば、良く、とても良く知った顔がそこにあった。
(……ああ、そうか)
噂に名高い歴戦の傭兵は、昔と変わらぬ姿でそこに立っていた。裏切り者を討てと命が出たか、偶然の邂逅なのか。蜀へ逃亡した自分を責めるでも咎めるでもない、静かな表情だった。戦装束も変わらず昔のまま、腰には一振りの剣と、小弓が下がっている。ぐっと苦しさが増した。この人と、父と共にいた頃は、なんと楽しかったろうか。稽古をした、遠乗りをした、狩りをした、共に笑った、そんな日々が次々に思い起こされてしまう。
(…っいやいやいや!)
頭を振る。懐かしさに揺らいでは駄目だ。
あの国も、この人も、敵だ。
それを選んだのは自分だ。
苦しさを握りつぶすように、夏侯覇は大剣を強く掴んだ。
「輝く鎧武者!夏侯仲権!」
大音声で名乗りを上げれば、泰然とした顔に驚きが混じった。それを見て、夏侯覇は覚悟を決める。
(なあ父さん)
「俺も、やる時はやるぜ!いざ、勝負!」
切先を向けて挑むは、魏武が守護者と称えた武。
(この人に勝ったら……父さんは褒めてくれるか?)
ふっと息を吐き、詰める。鼓動は早い。これは難敵を前にした焦燥ではない。
高揚だ。
「っだりゃああああああっ」
地を蹴り懐へ飛び込み下から刀を振り上げた。抜いた剣は合わせずに、ぎりぎりのところで身をかわされる。
『一撃は重いが、小回り利かねえからな』
いつかの稽古で父に言われた言葉だ。
『だから、踏み込んだ先が大事だ』
切り上げた事で空いた胴を狙って飛んできたのは剣の柄だった。体を捻り、右足で蹴り飛ばすのは柄ではなく、それを握った手だ。蹴った反動のままに後ろへ転がり、再び間合いを取った。
『いいか、諦めんな。諦めなきゃ、何か見えるものがある』
そう説いた父へ頷いたのは、眼前のこの人だ。長い間戦場にあり、決して諦めず、道を開いてきた人。
だから今こうして対峙している。
『しぶとく行け!』
「俺はまだ!」
正対して構え直す。
『いいな、死ぬなよ、息子』
「まだだ!」
蹴られた右手を振って、相手も剣を構え直す。腰を落とし、利き手を引いて大きく息をするその様は、まるで
(……惇伯父さん)
隻眼の将との手合わせは、苦い思い出でもある。一度として敵わなかったのは、二人が似ているからだと父は言った。良い意味での軽さを持ち味とした父とは違う、守りも兼ねた重厚な攻めを得意とした叔父。
『似ているから、経験負けするんだ。……いやいやいや、勝てねえとは言ってねえぞ。そういう時はな――』
「全っ開っ」
取った間合いのまま剣を振るえば、突いた空気が相手を襲う。衝撃波となった一撃を耐えるところへ奇襲をかける。
『搦め手だ』
一気呵成と切り上げ、重力に任せて切り下げれば、鎧に当たった感触はあれど肉を断つ手応えはない。三度間合いを取るべく相手を弾き飛ばそうとして、すんでのところで首を引っ込めた夏侯覇の眼前を、唸りを上げて切先が閃く。
危なかったと思う間も無なく、胴に重たい剣撃を受けて仰反る。視線を戻せぬままに反撃をするもかわされ、崩した体勢を追い撃ちが襲う。胴を薙ぎ払わんとした刃を飛んでかわし、空中で体を回転させ勢いをつけた。
「でいやぁっ」
叩き下ろした両手に手応えがあった。眉間を目掛けていたが、避けられたか斬ったのは肩の様だ。致命傷には程遠い。それでも一瞬の隙を得て、夏侯覇は間合いを取る。呼吸を整えようと息を吐いたその時、再び眼前に相手の顔が迫った。
(詰められた?!)
がん、と鎧に衝撃が走る。鎧越しでも分かる強烈な一撃に、背筋が凍る。さらに二撃、三撃目と立て続けに喰らい、堪らずふらりと体が揺れた。好機に剣を振りかぶる傭兵へ、夏侯覇は刃を突き出した。
「今だ……全開!」
放たれた衝撃波は、相手の胴を切り裂く。
はずだった。
そこにいるはずの人はない。はっとして見上げた視線の先に、弓を構えた姿があった。
右肩に強い衝撃が走る。射抜かれた、と思った途端に焼けるような痛みが襲ってきた。それと同時に身体中の力ががくんと抜け、よろけた所へ最後の一閃が放たれた。最早立ってもいられず、仰向けに倒れ伏す。
歓声が沸いた。
くそ、と夏侯覇は思った。お前らな、俺が負けたからってそんな喜ぶなよ。
不意に目の前に人影が立った。今しがた自分を斬り伏せた人が、すぐそばに膝をつき、こちらを覗き込んでいる。
「……意地が悪いな、あんた」
声を出すのも精一杯だったが、絞り出した声は届いたらしい。無言で何事かと尋ねる相手へ、
「父さんと同じやられ方でさ……裏切り者には丁度いいか?」
自嘲気味に言い募れば、ぐっと辛そうな表情をした。そして小さく、守れなくてごめん、と言った。
(守れなくて?誰を?父さんを?それとも)
「俺……か?」
この人のそんな顔は初めて見た。いつも皆と笑っている姿しか見たことがない。鍛錬の時も行軍の時も、辛い表情をしてもその中に悲壮感はなかった。
(皆がいたから)
魏武が去り時代が移ろう中で、人が変わらない訳がない。苦楽を共にした仲間を一人また一人と失い、夏侯覇は魏国に居場所を失くしていった。この人もそうなのだろうか。魏の宝剣と称えられたこの人も。
あの空のような青に、それに続いた水のような青に、同じ苦しさを覚えたのだろうか。
「……そんな顔、すんなよ」
笑おうとしても口の端が持ち上がらない。手足の感覚などは、とうに失っている。
「ごめん、父さん。……俺、勝てなかったわ」
小さく呟いたところへ、くしゃくしゃと頭を撫でられた。少し乱暴に、しかし深い愛を込めて。
「馬ッ鹿だなあ、息子。あいつに勝てるわけないだろ。……実はな、俺もまだだ」
茶目っ気たっぷりに声を潜めて、夏侯淵はそう言った。
「よし、行くぞ息子。俺たちであいつを倒す!なに、二人で何度も挑みゃ、いつかは勝てるだろ!」
からからと笑う父は、夏侯覇へ手を差し伸べる。
(ああ、そうだね、父さん。行こう)
手を取った父の背の向こう、空には無数の魏国の旗がたなびいている。
青々と、蒼々と。
きれいだなと、そう思った。
歓声は、次第に隊を整列する号令となり、やがて強敵を打ち倒した興奮と共に、次の戦場へと立ち去っていく。
傷だらけの白い鎧を纏う傭兵は一人、膝をついたまま佇んでいた。しばらくそうして、傭兵は倒れた人の兜から房飾りを数本引き抜いた。それから髪をひと掬い手に取って、剣でそっと切る。それを房で縛り纏めると、そっと懐に仕舞い込んだ。
「―――」
何かを言いかけて口をつぐみ、傭兵は踵を返す。
後には夢の果てだけが残されていた。