水曜日の夜から「俺、今日は早くねるから!」
俺がみんなにそう言ったのは、今から一時間も前だった。お風呂から上がって、部屋を暗くして布団に潜り込んだけど、なかなか寝付けなかった。
寝なくちゃ寝なくちゃと思えば思うほど眠れなくなって、ずっとお布団の中でぐるぐる考え事ばかりしていた。
とうとう諦めて、布団から這い出て机に向かった。なにか書ければ、こんな眠れない夜もまだましになるかもしれない。
ただ今日はなんにも思いつかなくて、俺はとうとう筆を放り投げた。それと同時に、控えめにノックされる。こんな時間に誰だろうとドアを開けると、南吉と賢治と未明が立っていた。みんな不思議そうな顔で俺を見る。
「起こしちゃったかな? ボク達、部屋からあかりが漏れていたから気になって」
「みーくん寝ないの?」
「眠れなくて……」
宣言してた手前、結局夜更かししているのがなんとなくバツが悪い。
「じゃあ三重吉もココア飲む?」
「うん! 飲む!」
夜の図書館はいつもと様子が違う。四人でキッチンまで行く道程は、なんだか冒険みたいだった。南吉の手を握りながら廊下を歩く。
子供だけで火を使ってはいけないから、レンジで作る。俺らが一度去ってから、世間はずっとずっと便利になった。
茶色い粉を入れて、ミルクを注いでレンジでチン。
待っている間の南吉はもう眠そう。南吉が寝ちゃう前に、はやく。心の中でそう願えば丁度良く、ちん! と軽快な音が響いた。
「出来たみたいだね、あちっ」
「も〜、未明気をつけなよ。あちっ」
「あはは、三重吉も人のこと言えないじゃないか」
四人並んであったかいココアを飲んだ。すごく甘くて体がポカポカしてくる。ゆっくりと芯から体が温まるような感覚は心地よい眠気を誘う。賢治があくびを一つ。
みんなが微睡む中で、俺だけは時計の針を見ていた。明日になるまで、まだ少し時間がある。でも出来るだけ早く寝ないと。寝れるかな。
「ねぇ、三重吉は何をそんなにソワソワしてるの」
未明に言われてどきりとした。ちょっと迷った後に正直に言うことにした。
「明日は木曜日だから」
「あぁわかった、楽しみで眠れないんだね!」
言い当てられたから素直に頷いた。三人がニコニコとこちらを見てくるのがなんだか気恥ずかしくて俺は一気にココアを飲んだ。
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冷たいシェイカーを振る。一度ヘミングウェイさんにダイキリを作ってから腕が認められたのかいろんな文士達からリクエストが来るようになった。今日は太宰さんのリクエストで「芥川龍之介イメージのカクテル」を作っている。本人には内密に、というのでこっそり。試作品は僕と、そして久米と寛とで味見した。みんな芥川についてはよく知っているからうってつけだ。
ミントを使って味を変えてみたり、スモークを使ってタバコを表現してみたり。みんなとあーでもないこーでもないと言いながら作るカクテルは楽しかった。
「うん、これなんか大分芥川くんに近いじゃないかな」
「そうかぁ? 俺の中の龍はもっと違うイメージだけどな」
「作家としての芥川か、友人としての芥川をイメージするかで変わってくるんだろうね。どっちを取るかは悩みどころだね」
作品から読み取れる芥川と、普段接している芥川を思い浮かべてシェイカーを握る。後一杯で何かを掴めそうだった。
「……これだ!」
XYZ をベースにブルーリキュールを混ぜたオリジナルカクテル。芥川の作家としての才能と、人間としての危うさを表現できた力作だ。
「うん、美味い!」
「読むと芥川くんを連想する……。これを注文した人にとってはいいけど、僕にとっては……」
二人も気に入ってくれたみたいだ。久米はアルコールが回り始めたのか、顔がどんどん赤くなっていく。
「二人共今日は付き合ってくれてありがとう。お礼に何か一杯作ろうか?」
「いいねぇ!」
寛がニヤリと笑う。久米は一瞬顔を輝かせたものの、すぐに首を横に振った。
「……いや、今日は遠慮しておくよ」
「おいおい、本当にいいのか?」
寛は驚いた顔をしたけどなんとなく僕はその意味を了解した。
「うん。明日は木曜日だから」
「そうだったね。それじゃあ二日酔いになったら大変だ」
僕は冷蔵庫からトマトジュースを引っ張り出して二人に勧めた。それを飲んだら、今日はもうおしまい。僕も明日の為に、二人が帰ったらすぐに店仕舞しよう。
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ぼんやりと月を眺めながら煙草をふかす。月が珍しく綺麗に見える夜だ。月と自分だけが世界にあるような、奇妙な感覚。
煙草の煙がゆっくりとのぼる。なんだかそれが蜘蛛の糸みたいだ。きっとその先には、夏目先生がいるんだろう。生前僕を救ってくれたように、今も僕の背中を押し続けてくれる。そのような師に出会えたのは幸運だ。
煙をゆっくりと吐き出す。ジリジリと煙草が燃える。もうこのままだとこれも寿命だろう。僕はすぐに2本目を取り出して火を付ける。月明かりと煙草の火だけが僅かな光源だった。
このまま夜風にあって風邪でも引いたら大変だ。僕はまだ充分に残っているタバコを地面と足とで揉み消した。だって明日は木曜日なのだから。
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「あ、そっか、明日は木曜日だ」
カレンダーで今日の日付を確認すると水曜日だった。危なかった。何も気が付かずにいたら大変だ。
明日は木曜会。生前の夏目門下で集まる文学サロン。転生してからは皆同じ図書館で暮らしているし、少しも疎遠にもなっていない。だけれども、木曜日の午後に語り合うのはやはり特別なのだ。
きっと今頃三重吉は楽しみにしていて眠れなくなっているだろう。かくいう俺も、今日は一献だけしかしてない。
明日は、漱石先生に会える日だ。優しくて、俺の創作の原点で、文学でも私生活でも躓いたら必ず助けてくれる。そんな漱石先生と同じ午後を過ごせる。それだけで心がわくわくとしてしまう。あぁ、三重吉のことを笑えないな。俺も眠れなくなってしまう。
「百閒君、はやく寝ましょう」
そんな俺を見兼ねたのか、漱石先生がベッドから声をかけてきた。今日は夕餉後からずっと漱石先生の部屋にお世話になっていた。あとは眠るだけだ。だが心が落ち着かないので目は非常に冴えている。
「まだ眠くないですよ」
「君は昼からでも寝坊するでしょう。もう寝ますよ」
「はぁい……」
先生の言うことは恥ずかしながら本当だ。言われた通りにはやく寝ることにした。
布団に潜り込む。漱石先生の匂いが間近に感じられる。ぎゅうっと抱きつくと、先生もゆるやかに抱きしめ返してくれた。先生の柔肌がすぐそこに感じられて大変良かった。
今日の先生を抱きしめながら、明日の先生を夢に見る。