先輩が初めてソファーに座る話「いつでも使っていいですよ」
千景が初めて寮に来たその日、自室を案内した至がソファーを見やり笑顔で言った。
とはいえ、本音を言うとあまり使って欲しくない。ここは自分の城だ。居座られると息が詰まって困るのだ。そんな至の思いをよそに、千景は「ありがとう」と胡散臭い笑顔を浮かべて短く述べた。
しかしいざ同室生活を始めてみれば、千景が部屋で寛ぐことはおろか、不在であることがほとんどだった。至が持ちかけた契約があるとは言え、それでも、荷物を置いたり着替える程度にしか立ち入らない。そして至自身もその方が暮らしやすかった。
入寮希望と申し出た割には他に住処があるのは明らかだったが、彼が入寮を選択した理由については聞かない方が良いと言うのはわかっていた。互いのプライベートは一切干渉しない。それが、謎多きルームメイトとの暗黙のルールだと了解していた。
第四回公演が終わってからも、千景と交わした契約は続いた。でも、なんというか、千景は憑き物が落ちたような、そんな雰囲気だと至は感じていた。
「お前はいつ部屋片付けるの」
「は?」
「いい加減、少しは片付けたら」
二人で帰宅するやいなや、唐突に千景が口を開いた。今まで、至がどんなに部屋を荒らそうがゴミを溜めようが、一切文句を言わなかった千景からの言及。
「はあ、まあ、そのうち…」
「それはいつ?」
「えっ、先輩、あの、」
今までそんなこと言ったことなかったじゃないですか。今さらどうして。
「もしかしてずっと我慢してました?部屋汚いの…」
別に我慢してたわけじゃない、とため息混じりに答える表情は、あからさまに呆れている。
「ここは俺の部屋でもあるんだけど?」
「え」
「何」
言い返せないのは、千景の言い分が至極真っ当だからではない。言葉に詰まっていると千景は至にゴミ袋を差し出し、明後日はゴミ回収の日だと告げた。いつの間にか着替えを終えた千景は「今日は監督さんのカレーだって」と、嬉々とした表情を隠すことなくそのまま部屋を出ていった。受け取ったゴミ袋を握りしめ、未だスーツ姿の至はただ茫然と立ちつくすしかなかった。
「はあ、仕方ない…やるか…」
迎えた週末。結局ゴミ回収の日に片付けは間に合わず、またしても千景に小言を言われた至は、あー、とか、うー、とか別の生物のような声を発しながら緩慢な動作で、まずは脱ぎ散らかした衣類を拾い集める。半分ほど回収したところで、一度立ち止まりポケットからスマートフォンを取り出し、慣れた手つきで画面をタップする。せっかくの休日だ、回復したゲーム内の体力は漏らすものか。至は夢中になって操作する。
「まだ服が散らかってるけど」
「わ、」
突然背後から声をかけられ、至は驚いて声をあげる。振り向けば、予想通りの人物がドアの前に立っていて、彼が部屋を出る前とさして変わらない状況に小さくため息を漏らしている。
「そのシャツは洗うの?」
「あの、はい、そう…です」
「じゃあこれに入れて」
半ば諦めたようにも見える千景は、少し大きめの買い物袋を手に取り、持ち手を広げてシャツを入れるよう促す。袋の中を見ればすでに何枚かシャツが詰め込まれていた。
「?この中に?ですか?」
「クリーニングに出すから、ついでにお前のも」
じゃあこの中に入っているシャツは先輩のですか?一緒に出してくれるんですか?なんてぐるぐる思考を巡らせていると、早く、と急かすように千景が袋を持ったまま手を上下に動かすので、その姿が妙に可笑しくて、先輩らしくないな、と思った。
「はあ、はあ、終わった……」
「…まあ、及第点かな」
クリーニングに出すシャツを纏めるまでは良かった。先輩も手伝ってくれるんだ、SSR、なんて心の中で思った時もあった。しかしそれは一瞬で崩された。床に散らばってる物をどうにかしろ、と掃除機を手にした千景は、スイッチを入れ轟音と共にゆっくり歩き出す。出力は最大。このままでは、必死で集めた大事なコレクションたちが吸い込まれてしまう。まあ、もとはといえば、なのだけど。
「ちょっと…休憩…」
千景のスパルタの甲斐あってスッキリした部屋の中、至はどかっとソファーに横になる。何も言わない千景を見て、今日のところはこれで許されたのだと解釈した。
再びゲーム画面を開いた頃に、千景がまた部屋を出ようとしたのが何となく気になって、行先を尋ねると、キッチンにコーヒーを淹れに行くと答えたので、「俺のもお願いします」と頼んだ。お前なあ…、と言葉を残して千景は部屋を後にした。
静かになった室内で、そういえば千景が会社の先輩であることをふと思い出し、図々しかったかなと今さら思ったが、それでも千景が淹れたコーヒーが飲みたい気分だった。
ほどなくしてコーヒーの良い匂いと共に千景が部屋に戻ってきた。
案の定、至の分も用意して来た千景は「ほら」と声をかけ、ローテーブルにカップを置く。千景はそのまま自分の椅子に腰かけ、コーヒーを飲みながらぼんやり窓の外を眺めていた。
同じ部屋に居ながら、それぞれが別のことをして過ごす。相手の気配は感じるのに、嫌悪感はなく、沈黙が心地よかった。
「あ、そうだ先輩」
「何」
「この新作ゲームやりません?」
「やらない」
「じゃあ俺がやるところ見ててください」
「なんだそれ」
言ってから、至は少し後悔した。正直なところ、一緒にゲームがやりたいわけでもなかったし、自分のプレイを見て欲しいわけでもない。今、すごく変なことを口走ったと思う。訂正したところで逆に気まずくなるくらいなら、いっそ無視してくれた方がいい。
ゲームをプレイしながら頭の片隅でそんなことを考えていると、千景がゆっくりと立ち上がり、至の方へ向かう姿が視界の端に。ソファーが千景を受け止め静かに沈んだ。気付けばローテーブルには二人分のコーヒーカップが置かれていた。
千景は膝の上に乗せたパソコンを操作しながら、至が何か歓喜の声をあげた時だけ顔をあげる。それから、明日起きたら忘れてしまうような、薄っぺらい話ばかり。互いに、他愛のない話をしている自覚はあった。いつも通りなのに、何かが普段と違う。
そういえば千景がこのソファーに座っているのを初めて見た。
「なんか…悪くないなって思います」
何が?と聞き返すことはなく、千景は「俺もそう思うよ」と小さく言った。