先輩が初めて朝寝坊する話『飲みに行かないか?』
キリ良く片付いた仕事。翌日は土曜日。
その相手はゲームのイベントを走っていたわけでもなさそうだったので、誘うには丁度良かった。何となく一杯飲みたい気分になった千景は至にメッセージを送ると、すぐに既読がつき、いいですよ、と簡潔な返事が来た。
その後二人はエントランスで合流し、店を決め歩き出す。至と二人でいると周りの視線が一気に集まるのはもう慣れた。変に知らない誰かと噂をされるより、いっそ堂々と至と並んでいる方が千景にとって利があった。
思い返せばこうして二人だけでゆっくり飲みに行くことは珍しい。
仕事の愚痴に始まり、劇団のこと、ゲームの話、会話が弾む。軽く一杯だけのつもりだったが、至はすっかり酔っているようだった。
至は酔うと饒舌になる。饒舌になるし、素直になる。千景はそれが嫌いではなかった。グラスを傾け、至は独り言のように語り出す。
「せんぱい、本当は俺たちにも、俺にも隠してることあるでしょ。バレてると思うんで白状しますけど、俺せんぱいのスケジュール毎日見てますよ」
「この前出張って監督に言ってましたけど、本当は出張じゃなかったの知ってますよ。全然いいんですけど。先輩だって色々あると思いますし」
千景はこれが脅しでないことくらい理解していたので、そのまま大人しく聞いていた。
「でも俺はせんぱいがせんぱいなら別にそれでいいんですよ。ここに帰ってきてくれたらそれでいいです。俺なかなかできた後輩だと思いません?」
「俺は気にしてないです」と口では言うものの、これがきっと本音なのだと悟った。本当は気になってます、と顔に書いてある。それでもこれ以上踏み込んでは来ない至を、事実、出来た後輩だと思っている。
でも今は、少しばかり甘えた声で、どこか淋し気に訴える至を、素直に可愛いと思った。
「何、淋しかったの?」
「ちがいます~」
「今日は寮で寝ようと思ってたんだけど、」
「…」
「何」
「本当に、別に、気にしてないです」
「わかってるよ。俺が自分の部屋で休むだけなんだから、別に不自然じゃないだろ」
急にしおらしくなった後輩の様子から汲み取るに、思っている以上に至は千景のことを心配しているのかもしれない。
「終電も近いし、そろそろ帰るか」
「はい」
静かな車内、二人はほとんど言葉を交わすことはなかったが、一度だけ至が小さな声で「明日も寮にいますか」と聞いたので、千景もまた小さく「そうだね」と答えた。それから至がほっと息を吐いたようにも見えたが、気のせいと言えばそうかも知れなかった。
それから帰り道はほとんど互いに無言だった。
日付が変わった頃、ようやく二人は帰寮した。
「おい」
「はい」
「少しは片付けようとか思わないわけ」
「今言います?」
先を歩いていた千景が部屋のドアを開け、散らかった部屋を見るやいなや口を開いた。至も至で酔いが醒めたのか、先ほどまでの素直さはもうどこかに行ってしまったらしく、携帯電話の画面をタップしながら千景の方を見もせずに言った。
「お前なあ…」
「なるべく先輩のスペースは浸食しないようにしてるんですけど」
「そういう問題じゃないだろ」
「そのうちちゃんと整理しますって」
至の言う「そのうち」はいつまで経っても訪れないことはわかりきっているのに、毎回許してしまう千景も大概甘いと自覚はしている。
至は会社内では千景に対しても愛嬌よく接しているが、実際のところはこんなにもふてぶてしい。しかし、千景は至のそういうところが好いと思っていたし、そういう至だから同室でも気兼ねなく接することができている。
かと言って、面と向かってそんなことを告げたりはしない。
代わりに何かしてやりたいとう気持ちはあるものの、これは、ほんの気まぐれ。
「飲み足りなかったから部屋でもう少し飲もうと思ったんだけど、」
ローテーブルの上は出しっぱなしのゲーム機と、捨て忘れた夜食の殻で散らかっている。これじゃあ飲めないね、とわざとらしくため息と共に吐き出すと、至は目を丸くし、いそいそとテーブルの上を片付け始めた。先輩の気が変わらないうちに、と必死なのが可笑しくて、千景は彼が脱ぎ散らかしたスーツをそっとハンガーに掛けてやった。
どうにかテーブルにスペースを確保し、103号室では真夜中の二次会がひっそりと始まった。
※
「うぅ…」
至はひどい頭痛で目が覚めた。昨日は珍しく深酒してしまった。千景が部屋で飲もうと言うから少しはしゃいでしまったかもしれない。
至は酔うと本音がぽろぽろ零れてしまうことは自覚していて、それ故に普段は酔わない程度にしか飲まない。安心できる場所で、安心できる相手と飲む酒はたまらなく美味かった。
酔っ払って千景に語る内容は部屋でも変わることはなく、出来た後輩アピールを散々したかもしれない。それを思い出すのが恐ろしくなって、これ以上考えるのは諦めることにした。
「やべ、ログボ」
思考をいつものルーティーンに戻し、寝転がったまま携帯電話の画面をタップする。のそのそと緩慢な動きで作業を繰り返していると「おはよう」という声がすぐ隣から聞こえた。
「ん?先輩?」
違和感を感じたのは、もう昼だというのに隣のベッドから声が聞こえてきたからである。
至は身体を起こし、声が聞こえて来た方を見やると、おそらく今しがた起きたであろう千景が座ったまま壁に寄りかかっていた。
前髪の一部がぴょんと跳ねている。まだ眼鏡をかけていない姿はいつもより幼く見えた。
「珍しいですね、先輩がこの時間に起きるなんて」
「昨日は飲みすぎたかな」
「はは、先輩もそんなことあるんですね」
ゆっくりと話す千景の声が心なしか掠れている。額を手で押さえている姿から察するに、千景ももしかしたら二日酔いなのかもしれない。
「ふはっ」
「何」
「先輩もしかして二日酔いですか」
「お前は相当飲んでたぞ」
「誰かさんが珍しく部屋で飲みたいって言うからつい。おかげで今すげー頭痛いです。」
寝起きの千景という貴重な姿を見ることが出来たのなら、この二日酔いだってそう悪いものじゃない。千景の新たな一面を発見するのは密かに楽しいのだ。それも、誰よりも、早く。
千景の訝しげな視線も気にせず、観察を続けていると、彼は両腕を天井に伸ばし小さく欠伸をひとつ。枕元に置いてあった眼鏡をかけ、何事もなかったかのようにしっかりとした足取りでベッドを下り、あっという間に部屋を出て行ってしまった。
タオルを持って行ったから顔を洗いに行ったのかもしれない。ついでに水を持ってきて欲しい、とささやかに思っていたが、言うのはさすがに躊躇った。
ほどなくして再度部屋が開き、千景が身支度を整えて戻って来た。あまりにも普段通り。やっぱり二日酔いは勘違いかもしれない。
ガンと痛む頭を押さえながらそんなことを考えていると、下から至を呼ぶ声が。
「ほら、お前も飲んでおけ」
視線を落とせば、ローテーブルに置かれていたのは空になったボトルではなく、水で満たされたグラスがひとつ。
「…」
「何、コーラが良かったとか言うなよ」
「先輩って…もしかして、世話好きだったりします?」
「は?」と驚いた千景の顔が可愛いな、とは言わなかった。