マーブル模様の境界線 おはよう、こんにちは、いってらっしゃい。
挨拶の度に交わすキス。
かつて剣を交えあっていた幼い頃が嘘みたいに、
とにかく近いのよ、夫婦というものの距離感は。
指輪に愛を誓ってから、互いの様子を伺いながら、歩調を合わせる結婚生活。
少し立ち止まると、私達の距離はもっと踏み込こむ。
そう…日常のキスの後に少し、そのまま静止するだけで。
触れるだけだった口づけは、もっと深くて甘いものになる。
私達を隔てた境界線は、今や存在しないから?私の独立心はたやすく崩れる。
甘えてもたれかかれば、広い肩、男性の筋肉、喉仏。
私の身だってそうなるのだと思っていたのに、手に入らなかった異性の体を、彼に見るという不思議。
彼の綺麗に切りそろえられた爪。
ピアノを弾きバイオリンの弦を押さえるために短いはずの爪は、夜に私をくすぐるためのそれは鋭利な武器となる。
「どんなに貴方と一つになってしまいたいか、分かりますか?」
彼は返す言葉を探そうとするけれど、言葉に表せないときは、彼はきまってピアノを探すから。
どんな曲になるか気になるけれど、今はそんな気分じゃないの。
「今は……、ここから聞きたいのです」
貴方の唇から、という意味で薄い下唇の輪郭を指でなぞる。
――言葉や音楽なんかではなく、キスで語って。
口に出しては破廉恥かしらとはぐらかしては、せめて視線で訴えかける。
きらり、
眼鏡の奥、紫色の瞳が揺らぐ瞬間が好き。
そうよ、そうこなくては。古来からの戦好きの血が騒ぐ。
「—―努力しましょう」
大仰に返事をして近づく彼の唇。昼下がりの光は彼によって遮られ、
身長差の二つの影が重なり合って、白い壁面に映って揺れる。吐息の靄、コーヒーの匂い。甘いチョコレートの味。
唇同士を合わせあい、粘りついた膜と液が混ざり合ってとけあう。脳を突き抜ける官能に漂う。
「は……」
ここはどこの国?
「ンん……」
きっと、未知の新世界。
彼の息を吸い、私の唾液は飲み込まれ、思考と視界がぐにゃりと曲がって、遠のく意識を手放すまいと確かな彼の腕にすがる。
――私、強かったのよ、戦なら。
自負はもはや過去形に。『これは戦とは違うのですよ』と窘めるような彼の口腔に、包まれて体も心も沈められる。体の芯が火照ってずくずくと疼いている。熱い、甘い、溶けてしまう。舌を差し入れ吸いあげられて、なぜ私が女で、彼が男だったのか、長年の謎のピースがぴたりと嵌る。
唇が離され、恍惚の泥の中からにわかに引き上げられる。
「私は長らく、結婚のほうが得意だと思っていたのですけれど…」
貴方にとっての戦だから、そうでしょうとも。
貴方の圧勝で決まり。私はとうに白旗を上げているというのに
声の主はさも敗北したかのようにため息をつく。
……私だけじゃなく、貴方もそうなのね。あぁ、なんてうれしいこと――。
私はそれだけでのぼせ上って、乱れた息もそのままに、再び口元を寄せれば、さらに彼より引き寄せられる。愛の歓びを知ってしまった憐れな私の唇は、夫の唇に噛みつき続きをねだる。
勝ち負けなんて、犬も食わない野暮だと思い直した。
これが普通、これが日常。
上司だって誰が見たって咎めやしない。
そうよ、いま私達は夫婦なの。
どちともなくもう一度、もう一度と、ただのキスに没頭した。