プライベートルーム(仮題) 光が多く取り込まれるように作られたESの中では光の差しにくいビルの中ほどを、あんずはひとり、足音をひそめて歩いていた。
ただいまの時刻は、午前六時半。自他ともに認めるワーカホリック気味のあんずにとっても、ビル内にいるには早い時間だ。ではなぜ、コーヒーと軽食の入った紙袋をぶら下げながら、やや高揚した気持ちで歩いているのかと言えば。それはひとえに、恋人である七種茨を想ってのことである。
ここ数日──いや、数週間の茨は、多忙を極めていた。
先月の終わりに、半年以上かけて作り上げたEdenの一大ライブを終え、一息つくかと思いきや。今度は事務所を上げて売り出していく予定の新人アイドル達のプロデュース業に勤しむこととなった茨は、アイドル業がひと段落着いたのをいいことに、やや健康面を疎かにするほどにプロデュース業に意気込んでいた。
そんな茨を見て、プロデュースであればと何か手伝えることはないか声をかけてみたものの、あなた言えどコズプロのアイドルの初動は任せられません、と一蹴されたあんずは、やや落ち込んでいた。プロデューサーとしても──恋人としても。
だってあんずと茨は、半年ほど前から住む場所を同じくすることで、会う時間を作れなくても、顔を合わすことの出来る回数はかなり増える、はずだったのだ。当初のあんずの想定では。それがこの数週間、三日に一回見かけられれば良い方で、下手すれば一週間以上直接顔を合わせられないこともあった。となれば当然、さびしいし、かなしい。けれど、なんで、と言ったところでどうにもならないことはあんずもよく分かっていた。だから。
新人アイドルのプロデュースが佳境となり、四事務所合同ミーティング──あんずも出席する──にてその大型ライブのプレゼンが行われる今日。その最終チェックと別件のアクシデント処理で昨晩帰宅出来なかった恋人を激励すべく、朝早くから差し入れを手に、ビル内を歩いているのだった。
自然光の届かないビルの中ほどに位置する仮眠室エリアは、静まり返っている。ホールハンズの予約表で茨が一番奥の部屋を使用していることを確認したあんずは、ゆっくりと歩を進めていった。
普段の茨の起床時間や、今日のスケジュールを考えればもう仮眠室を出ている可能性もあるが、三十分ほど前に差し入れを持っていく旨を記したメッセージに既読がついていないため、まだ起きておらずここに居るのではないかと踏んだ。ただ忙し過ぎてプライベートのメッセージを確認する暇がないだけ、ということも考えられるが……まぁその場合は、茨の居そうなところをいくつか巡ろう。
そんなことを考えながらたどり着いた一番奥の部屋の扉には『使用中』の札がかかっている。どうやらまだ、この中にいるらしい。控えめにノックをすると、数秒間を空けてから「はい」と応答があった。
「七種くん、私です。……入っても良いかな?」
そう声をかけてみるが、一向に返事が来ない。それどころか物音もせず、静まり返っている。もしかしてもう一度眠ってしまった? それはあんまり、良くないのでは──そう思ったあんずはドアノブに手をかけて、すんなりと開いてしまったドアに驚いた。だって鍵をかけずに眠っているなんて。あの茨くんが。
余程疲れているのだろうと察して入った部屋の中、細いベッドに横たわって目を閉じた茨は、やや青白い顔をしていて。予想は外れなかったのだと少し心配になる。ぱたん、と扉の閉まる小さな音を聞きながら茨の近くに寄ったあんずは、その肩を揺り動かしながら再度声をかけた。
「さえぐ……茨くん。起きて」
「ん、ぅ……何…………」
薄く開けた視界の先、ぼやけた物陰はどうやら愛しい彼女らしい、と認識した茨は、その他の情報を処理する前に体を起こしてそのまま、ぐ、と顔を近づけた。
「ぇ、茨く、……んん、」
「ん…………おはようございます、あんずさん」
眼鏡をかけていないせいでややぼやけたままの彼女の表情は、おはようのキスを受け入れたにしてはやや微妙だ。なぜ、と考え始めてすぐ、この場所が最近慣れ始めた二人のベッドルームではなく、睡眠を取るためだけに作られた職場の仮眠室であると思い至った茨は、文字通り頭を抱えるように額を抑えることとなった。
「……あー……すみません、あんずさん。自分、……受け入れたくはないですが、少々寝ぼけていたようで」
「……ううん、大丈夫。お疲れなんだよね、急に来てごめんね」
「いえ。……しかし、まだ始業には早い時間ですよね。どうしてこんな時間にESに?」
何か急ぎの案件でもありましたか、と続けた茨に、あんずは困ったような照れたような表情を浮かべた。
「いや、うん。最近茨くん、お疲れみたいだったから……差し入れでも、と思ったんだけど。今日、プレゼンの日だし……激励、みたいな。一応コーヒーと、片手でつまめるサンドイッチ持ってきたんだけど、もし時間なかったら食べられなくても大丈夫だから」
「なんと。……そのサンドイッチはもしかして、あんずさんの手作りですか?」
「えっと、一応そう。お口に合わなかったらごめんだし、嫌だったら食べなくていいからね」
眉を下げて笑うあんずは、控えめというよりも最早、自分を卑下しているようにも見えて。その表情と考えを崩したくて、茨は口を開いた。
「嫌だなんてとんでもない。ひとつ残らず美味しく頂きますよ。ありがとうございます」
「……そう?」
「ええ。……ああでも、激励と言うのならもうひとつ、あんずさんからしか頂けないものを頂ければ……自分、百人力でがんばれそうなんですが」
「え、なに……?」
手を伸ばしてかけ忘れていたらしい鍵をしっかりとかけた茨は、にこりと微笑む。
「勝利の女神のキス、頂けませんかね」
「へ、……いや、さっき……のは、寝ぼけてたのかもしれないけど。したよね?」
「あれは恋人同士のおはようのキス、でしょう。……あぁでも、女神のキスも俺以外の人にするのは許しませんが」
「……ここ、職場だよ」
「ええ、もちろん分かっていますよ。……ですが、今ここは、鍵のかかったプライベートルームですから。もちろん監視カメラなんてものはないですよ、と、この自分が保証しましょう」
それに、一度も二度も大して変わらないでしょう。なんて言う茨は、随分と開き直っている、とあんずは思った。「アイドルに寝惚けている暇などありません」と言っていたのをいじればもしかしたら、と思ったけれど、それでも舌戦で茨に勝てるとは思えなかったから、大人しく彼の求めに応じることにした。……そもそもあんずにしたって、強く断れるほど、それが嫌ではないのだ。
「じゃあ……ん、…………はい、どうぞ」
「……ちょっと。ここは唇にするところでしょう」
「だってこれは、『恋人』のキスじゃなくて、『女神』のキスだからね」
でも、ちゃんと勝利を掴み取ったら──女神兼恋人として、ご褒美をあげましょう。