The Stranger トランクを引っ張って一人旅をしている男性に出会ったことがある。
真夜中を過ぎた時刻だった。辺鄙な町の酒場の中は、いつものように人が少なかった。いつもの面の間に陣取り、鼻が曲がるまで密造酒を注ぎ、定められた手順でタバコを巻いて口に含んだ瞬間、ぼんやりとした視界の片隅に、そこにいるはずのない人影が入った。酔っ払って見間違いだと思いつつも、バーテーブルの一番隅の席に焦点を合わせると、そこには本当に何かがいた。周囲の光を吸い込んでいるかのような真っ黒な物体は、よく見るとトラベルバッグだった。ここの酒飲みたちは、十数年間同じ席に座って同じつまみを噛んでいるため、新しいつまみには目がない習慣がすっかり定着してしまったのだが、不思議なことにその時だけは、群衆の誰もあの怪しげな、つまりこれ以上ないほど食欲をそそる荷物を気にしないように、あるいは全く気づかないように、俺のタバコに火を付けてくれるだけだった。
その瞬間、は無駄なヒーロー心理を発揮した。この酔っぱらいたちに新たな話題を提供しようと思ったのである。不意に席を立ち上がり、バーテーブルに向かって歩き始めた俺の背後で、見慣れた連中は、俺がもう酔っ払ったようだと大笑いし、言葉を失う前に俺を忘れてしまった。
バーのテーブルはいつものように客一人なく空いていた。見慣れた静寂の中でいつもと違うのは、ただ一つ、一番奥の隅を占めて立っている、光沢のない黒いトランクだけだった。他のすべてが普通だったとしても、光沢のない物を見て何の違和感も感じなかったのは、きっと酔いのせいだろう。中に何が入っているのか開けてみようと手を伸ばした瞬間、背後から誰かが声をかけた。
「そこは私の席だ」
その声を聞いて、俺は背骨に冷水をかけられたように一瞬で酔いから覚めたが、反射的に後ろを振り返った時、俺を待っていた光景は、酔っている時よりも歪んでいて恐ろしいものだった。 ただの人の姿、酒場の薄暗い水銀灯の下で境界が不明瞭な人影に過ぎなかったのに。正確に何が当時の俺にそんなことを考えさせたのかは分からないが、とにかく俺は目の前で揺れ動くものに向かって、低く不明瞭な声で素早く謝罪の言葉を投げかけ、そのすぐ隣の席に腰を下ろした。正直なところ、逃げ出したい気持ちは煙突のようであったが、一歩を踏み出す前にすでに足が抜けてしまっていたからだ。
それまでずっと彼の視線は俺、正確には俺がスーツケースに向かって伸ばした手を覗いていた。俺が恐怖に震えている間、性別も年齢も全く見当もつかない仁英は、ゆったりとした動きでその場に潜んでいた。俺が彼を男だと思ったのは、純粋に声のせいだった。 そして、飄々とした、確かにそう聞こえるが、人間が人間に向けるには何かがひどく欠落しているような声が聞こえてきた。
「ま、いい、どうせ杯の中身が孤独という名前なら、酒を酌み交わしたからといって味が薄くなる心配はないだろう。 そうではないか？」
その言葉は、今、酒場の全軸で鳴り響いている歌を揶揄したものだった。店主が品揃えを揃えるためにどこからか拾ってきた古いレコード盤を一日中再生し、そのレコード盤という奴はいつも同じ部分から音が飛び出す。慣れすぎて頭が勝手に無視していた音が、突然耳にはっきりと入ってくる。奇しくもその瞬間、音楽に含まれるノイズ、俺が知っているまさにその箇所が繰り返された。俺は驚いた。 さっきまで何気ない日常的な音だったのに、突然耳を塞ぎたくなるほど気になったからだ。
そこで初めて、俺は影のような男から感じた違和感の正体に気づいた。人間は初対面の対象を警戒するものだ、生き残るためにそう進化した生き物なのだ。しかしこの影にはそんな気配は全くなく、影が口ずさむあの歌が俺に馴染んでいるのと同じくらい、影には俺は馴染んでいて認識が鈍るほどだったようだ。彼の言葉は全て独り言に過ぎなかった。
やがて俺は恐ろしい想像をしてしまった。この男に俺がそうであるように、俺にもこの男は慣れ親しんでいるのではないか？ 別段認識できないほどだ。今日初めて見るこの怪しげな影が！ その時点で俺は失神しそうになった。
もう逃げる気も起きなかった。この男からそんなことができるとは思えなかった。 それは魚が自分の足で海を離れるのと同じくらい愚かなことだと思ったのだ。
「世の中には友達と女がいるもんだ、そうだな。ないと、何が楽しくて生きているんだ」
男の独り言に、自分が何を言っているのかわからないまま返事をしながら、とにかく永遠のような時間を耐えていた時だった。 いつの間にか店主が帰ってきて、男の前にグラスが置かれている。どれくらい時間が経ったのかわからないが、グラスの中身は少しも減っていない。安っぽいウイスキーオンザロックが入ったグラスの表面に水滴がびっしりとついていた。いつから何も言わなくなったのだろう。 隣に座る男の方を見ると、彼が視線を虚ろにしたままぼーっとしているのが見えた。
彼の意識が少しでもこちらに向いていることを肌で感じると、途方もない強迫観念が波のように俺を襲った。男から離れて楽になった呼吸は、今度は興奮で再び荒くなり始める。 彼と俺の間に置かれたスーツケースに再び目が行く。なぜそうなっているのか自分でも理解できないまま、俺はスーツケースをじっと見つめ、すでに鍵がないことまで把握していた。近くで見ると、そもそもなぜスーツケースだと思ったのかすら怪しいその物体は、黒曜石を削り取ったような本体に金属製の取っ手が付いただけの簡素なものだった。しかし、開けようとすれば開けるだろうという思いが、いや、どうにかしてあれを開けなければならないという強い衝動に駆られた。 原因不明の衝動は、当時は好奇心という名のもとに実行に移された。
その物のなめらかな表面に指先が触れる寸前に、バッグは勝手に開いた。そう思ったが、俺には何も見えなかった。開いた隙間から降り注ぐ眩しさに反射的に目を閉じてしまったからだ。半狂乱の状態で無理やり開いた目には、四方を見分けることのできない明るい光と、その上を闇のように覆う残像だけが見えた。 それでもわけのわからない執念でバッグを手探りで開けた瞬間、俺は視線を感じた。蛇の前に立ったカエルのように、ゾクゾクすることができなかった。
「何か見えたか？」
それは影のような男の声だった。いつの間にか残像に満ちた視界で、彼が俺を見つめていた。スーツケースは最初から開いていなかったかのようにそこにあった。それどころか、今までとは全く違う、至って普通のスーツケースの姿でごまかされているのではないか。愕然とした俺は、仄かにからかうような男の口調から、どこか大きなプレッシャーを感じた。 水の外に出た肉のように口元を尖らせる俺の前で、影のような男は蔑むような笑みを浮かべた。特定のもの、例えば俺を笑うというよりは、もともとその存在にとって自然な感じの嘲笑だった。圧迫感は、その事実を理解すると同時に一段と和らいだ。 あの男にとって、俺が識別する価値すらない存在であることが、なんと幸いだったことか。胸を撫で下ろす俺の前で、影のような男は奇妙な行動をとった。スーツケースに向かって声をかけたのだ。
「ちょっと遠慮してください、悔しい気持ちはわかりますが……」
まだ言葉の内容は全く聞き取れなかったが、その言葉に答えるかのように響く見知らぬ笑い声ははっきりと聞こえた。驚いた俺は椅子から落ちてしまった。周囲にいるのはあの影のような男と俺だけなのに、どこからまた人の声がするのだろう。 周りを見回す俺の前でスーツケースを抱えて立ち上がった男は、悠々とドアに向かって歩き始めた。 彼ら」が何を話しているのか、床を転がる俺の耳元まで聞こえたが、いつの間にか消えてしまった。ズキズキする頭を押さえて立ち上がった俺は、全身がズキズキするのを我慢して、慣れ親しんだ集団に戻るために無我夢中になった。閾値を超えた恐怖が、時間が経つにつれて薄まってきて、ようやく肌に伝わり始めたのだ。急に悪寒が走った。
よろめきながら近づいてきた俺を見て、酒場の連中は俺が酔っ払ったと言った。誰かが俺のタバコを大麻と交換したのだろう、と笑い声が飛び交う前に、その影のような男がスーツケースを持ってバーから出て行くのが見えた。何事もなかったことになったな、と閉まるドアを見ながら俺は新しいタバコを取り出した。