マグカップ洗濯物を干していたら、ガチャっと大きな音がした。
台所で洗い物をしていた流川を見ると、泣きそうな顔でこちらを見ている。
「流川!大丈夫か?指!」
手に持っていたジャージを投げ出し、慌てて流川に駆け寄る。
シンクの中を見ると、大きく欠けたマグカップが転がっている。
「せんぱい、ごめんなさい」
「お前、けがは?」
「大丈夫」
「大丈夫って言ったって」
流川の手からは洗剤の泡がぽたぽたと落ちている。
「とりあえず一回手洗って」
「うん」
「手ぇ拭いて」
「うん」
「こっち来い」
流川をソファに引っ張っていき、自分の横に座らせて手や指先を確認する。
「ケガは大丈夫だな」
ケガはしていないが、項垂れてひどく落ち込んでいる。
「おい。大丈夫か?」
「せんぱい、ごめん。手が滑って。せんぱいの大事なマグカップ、」
「そんなに落ち込むなよ。確かに昔から使ってたやつだけどよ」
流川が割ってしまったマグカップは、三井が中学生のときの家族旅行で買ったものだ。このことは流川にも話していた。
慰めるつもりで言ったのだが、それを聞いて流川はさらに落ち込んだ。切れ長の目に、今にも溢れんばかりの涙をためている。
「せんぱい、ごめんなさい、オレ、」
「流川、」
三井は流川を真っ直ぐ見て、手を愛おしそうに撫でながら言った。
「マグカップはいいんだよ。代わりはいくらでもあるからな。俺が心配だったのは、お前の手。お前の手には代わりはないだろ。お前がバスケする手がケガしてないなら、それでいいんだよ」
そのまま額を流川の額にそっとあてた。流川のさらさらの前髪が当たってくすぐったい。
「せんぱい、ごめんなさい。心配してくれてありがと」
額を離して、やっと顔を上げた流川の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。
「あ!」
突然大きな声を出した三井を、流川はまだたっぷり涙を溜めている目で見つめた。
「なに」
「いいこと思いついた」
「なに」
「あー!お前またろくでもないこと考えてるなって思ってるだろ」
「ソンナコトナイデス」
「顔に書いてあんだよ」
「で?いいことってなに」
「デート行こう!」
「でーと?」
「お揃いのマグカップ買いに行こーぜ。ついでにご飯食べたりデートしよう」
三井の突然の提案に、流川の目から一気に涙が引き、キラキラと輝き出した。
「でーと!」
「おう、さっさと準備して出掛けようぜ」
「うん」
「俺が割れたマグカップを片付けるから、流川は洗濯物干してくれるか?」
「うん。せんぱい、気をつけてね」
「おう」
お互いの仕事を高速で終わらせて『デート』の準備をする。
洗濯物のシワがろくに伸ばされることなく干されていったが、デートのことしか頭にない三井には目に入らなかった。
街に向かう電車の中に乗り込んだ。心なしか、足取りが軽やかだ。
「せんぱい、マグカップってどこで買えるの?」
「どこでも売ってるだろ」
「百均?」
「百均かぁ。それでもいいけど、せっかくならおしゃれな雑貨屋で買おうぜ」
「おしゃれな雑貨屋」
「マグカップは今日のメインイベントだからな!その前に腹減ったからなんか食いたくねーか」
「うん」
「じゃあ、ラーメン?」
「ハンバーガー?」
お互いの顔を見合って、ほぼ同時に出た食事候補に、ぶはっと三井が吹き出した。
「デートだって言ってんのに、どっちもいつも食ってるやつだな」
思いっきり笑われて、少し拗ねた表情で流川が反論する。
「デートっぽい食べ物ってなに?」
「うーん、おしゃれなカフェでパスタとか?パンケーキとか?」
「それ、腹ふくれるの」
「確かにオシャレな食い物は量が少ないか。じゃあいつも通りの方がいいな!ハンバーガー食いにいこう」
「うん」
男子高校生には安くてうまくて腹がふくれることこそ正義だ。ふたりでハンバーガーを腹一杯食べ、その後は街をブラブラした。
バッシュを見ながらバスケの話をしたり、ゲーセンに行ってUFOキャッチャーでムキになったり、クレープを食べながら好きな音楽の話をしたり。
時間は夕方、いよいよメインイベントのマグカップの購入へ向かう。
「そろそろマグカップ買いに行くか」
「うん。どこにいくの?」
「さっきの靴屋の近くにいい感じの雑貨屋があったんだよな。マグカップが見えたからそこに行ってみるか」
「ウス」
こじんまりとした、けれどおしゃれな雰囲気のお店。窓際にマグカップが飾ってあるのが見える。
店の前に到着し、三井が恐る恐る雑貨店の扉を開ける。カランコロンとドアベルが鳴り、女性がこちらを見てニコッとしてくれた。
「いらっしゃいませ」
優しそうな人だ、よかった。
初めておしゃれな雑貨屋に来て緊張気味だった三井は少しほっとして、周りを見渡した。
「外から見えてたやつはコレだな」
「せんぱい、ここにもある」
「ほんとだ」
ふたりで真剣にマグカップを見ていると、女性が奥の方へ引っ込み、がさごそと音を立てている。しばらくして、手にペアのマグカップを持って戻ってきた。
「こちらもかわいいですよ。ここに置いておくのでゆっくり見てくださいね」
「あ、ありがとうございます」
「せんぱい、これ」
「あぁ、これいいな」
シンプルなデザインの青と茶色のマグカップ。
マグカップの片方を慎重に手に取る。
取手を持ってみると、手に馴染む。横を見ると、流川も大事そうにもう片方のマグカップを手で包んでいる。
「これは美濃焼なんですよ」
「みのやき」
「はい、岐阜県で作られています。シンプルなデザインで、色もキレイですよね」
「はい、手に持った感じもすごくいいです」
「こちらはおすすめです。他にもいくつかありますので、比べてみてください」
「ありがとうございます」
店員のお姉さんと三井が会話しているのを、流川が無言で聞いている。
改めて今出されたマグカップをまじまじと見る。
シンプルなデザインで、特に柄はないが、全体がきれいな色になっている。みのやき?で、すごく良さそう。これなら飽きることなく、大人になってからも使えそうだ。
流川の方を見ると、流川もこちらを向いた。キラキラした目をしていて、それだけで流川の気持ちがわかる。
「お前も気に入った?」
「うん。色が好き」
「じゃあこれにするか」
「うん」
買う前にドキドキしながらこっそり値札を確認する。良かった、これなら買える金額だ。
「すみません、これ買います」
お姉さんに声をかける。
「ありがとうございます」
ふたつのマグカップが箱に仕舞われて、袋に入れられるのをふたりでじっと見つめていた。
帰りの道中、流川は終始うきうきしていた。
もちろん俺もだ。
初めてのお揃いのものだ、嬉しくないわけがない。
マグカップの入った袋は流川が大事そうに抱えている。
「俺が持つ!」
なんて目をキラキラさせながら言われたもんだから、あまりの可愛さに思わずニヤけてしまった。
「せんぱい、帰ったらこれすぐ開けてもいい?」
「ああ。でもさっきのお店のお姉さんが、長く使うならこれをした方がいいってメモくれた」
「ム。すぐ使えないんだ」
「うん。米のとぎ汁を使うみたい。帰ったら早速してみるか」
「うん」
袋を宝物のように扱い、時々キラキラした目を袋に向ける流川に夕陽が当たり、赤く染まっている。本当にコイツの顔はキレイだな、と関係の無いことを考えながら電車に揺られた。
帰宅後、米のとぎ汁を用意するか。その前に洗濯物を取り込まねぇとな、と思って乾いているであろう洗濯物を見ると。
流川が干したものが全部シワシワだ。
どうしてこうなった。いつもあれだけシワを伸ばせと言ってるのに。
「流川!ちゃんと干す時にシワ伸ばせって言っただろ!」
「せんぱい、早くとぎ汁」
「おい!聞いてんのか?!」
「お米研ぐ?」
と、しばらく全く噛み合わない会話をしたが、その後お姉さんのメモを見ながら無事に米のとぎ汁で『目止め』できた。
『目止め』をしながら、洗濯物を干す時にシワを伸ばすことを再度教えた。が、流川はマグカップの方ばかり気にしていたので、伝わっていたかはあやしい。
▽▽▽▽▽▽▽▽
「寿さん、これは?」
「あー、それはリビングだな」
「これは?」
「えー?それなんだっけ?」
「開けてみるね」
「あー!もう!埒があかねーな。とりあえず今日乗り切るための最低限のものだけ探し出すぞ!」
「ウス」
ここは今日から流川とふたりで住むアメリカの家。
日本で社会人としての生活に区切りをつけ、流川を近くで支えたいとアメリカに渡ることを決意したのが半年前のことだ。
流川の住んでいた家に転がり込もうかと思っていたら、「せんぱいとイチから部屋のものをそろえたい」とかわいいことを言うので、しょーがねーなーと思っていたんだが。
すでにバカでかい一軒家を3軒ほどピックアップ済みで「どの家が好き?」と聞くもんだから頭が真っ白になる程驚いた。なんて行動力だよ。かわいいとコイツ大丈夫か?という感情が無いまぜになりながら、それもまた嬉しかった。
とにかく、ふたりで住むバカでかい家が流川のおかげでスムーズに決まり、おかげで日本でのいろいろの清算に集中できた。流川が先に引越し、数日差で俺もアメリカに到着した。
今は俺の荷物の荷解きをしながら、最低限の生活用品を探し出しているところだ。
「ん?これ、」
流川が緩衝材に包まれたものをふたつ取り出して、中身を取り出そうと緩衝材を剥ぐ。
「寿さん、これ」
「あー、これ持ってきちまった」
三井は照れながらもう片方のものを手に取り、緩衝材を剥ぐ。
「あのとき買ったお揃いのマグカップ。まだキレイだったから」
「ずっと大事に持っててくれたんだ。ありがとう」
「楓との初めてのお揃いだからな」
青と茶色のマグカップを並べて置く。
ふたつのマグカップをしばらく無言でながめていると、三井が懐かしそうに話し出した。
「このマグカップ買った時のこと覚えてるか?」
「うん。おしゃれな雑貨屋さんで、入る時に緊張した」
「そうそう。で、奥からこのマグカップを出されたんだよな」
「一目で気に入った」
「俺もすぐにこれがいいって思った。手触りとかもあったけど、これなら大人になってもずっと使えるなーって思ってこれにしたんだよな」
三井が無邪気に笑いながら流川に言った。
「あの時から、大人になってもお前といるって思ってたんだよ」
流川の視線がマグカップから三井の照れたような笑顔に移った。
そして流川は三井の正面に座り、手を取る。
「寿さん、大好き。あの頃からずっと大好き。これからもずっとずっと大好き」
「なんだよ、プロポーズみたいだな」
冗談めかしたつもりが、目には涙が溜まっていくのがわかる。
「プロポーズのつもり。もうずっと一緒。これからたくさんお揃いのもの増やそう」
「かえでっ…」
目から涙が溢れ、頬を伝って落ちる。
流川が三井の涙を指でぬぐい、両手で三井の顔を包み込む。
「もう寂しい思いはさせないし、バスケももっともっと強くなる。寿さんが胸張って自慢できるような男になる」
涙が溢れ続けている三井の瞳は、流川を一直線に捉えている。
「だから、ずっと一緒にいてください」
三井の表情がついに崩れて、くしゃくしゃになった。
「かえ、で、ありがと。ありがとう、」
「寿さん、返事は?」
流川が三井を覗き込むように見ている。
三井は涙でくしゃくしゃにさせながら、顔を上げて流川にとびきりの笑顔を見せた。
「はい、に決まってる」
流川が目にうっすらと涙を貯め、三井をぎゅうと抱き寄せた。三井もそれに応えるように流川の背中に手を回し、力を込める。
三井の涙が、流川のTシャツを濡らしていく。心臓の音がとても近くに聞こえる。
今まで散々離れて過ごした。寂しい思いも苦しい思いも悲しい思いも、たくさんした。だからこそ、今ここにふたりでいることがただただ幸せだ。
「もう絶対に離さねーよ」
三井が涙を流しながら言うと、流川がふっと笑ったのが肩越しにわかった。