夜を追う者「忘れられない夜ってある?」
女がアカギに問う。薄暗い照明にぼんやり照らされた女の鼻はほのかに赤く染まっていた。
この女は最近通っているバーの常連だった。真っ黒で真っ直ぐな長髪が似合う、切長の目をした年上の女だ。アカギが初めてバーに入った日にも、女はそこに佇んでいた。彼女は辛いウイスキーをストレートで呑むのを好んだ。ロックは味が薄まるから好きではないらしい。そう言った彼女の目は微睡んでいて、確かにウイスキーの濃さを味わっているのが伝わってきた。彼女の目はいつでもとろけていた。
そんな彼女のような女に、アカギは幾度となく出会ってきた。そして何度も同じような質問を問われる。同じような女、同じような目、同じような夜がまた巡ってきたことに、アカギは正直辟易した。
こういう時、アカギは決まってこう突っぱねる。
「あるさ。でも、それをアンタに語る義理はない。」
これは本音だ。ここまで正直に答えないと、女が引き下がらないことを今までの経験からよく知っていた。
それでも女は諦めずに聞いてくる。
「私、知りたいの。あなたのような人の忘れられない夜がどんなだったのか。きっと素晴らしかったに違いないわ。そして…私はその夜を超える体験を、あなたとしてみたいのよ。」
ズレている、とアカギは思った。どうしてこういうことを聞いてくる女に限って、忘れられない夜が情事であることを疑わないのか。そんなことよりもうんと濃い、あの夜と、あの夜を忘れられない自分を冒涜されている気にさえなってくる。
「そんなに言うなら、賭けをしよう。」
アカギは自分のことを何も知らない女に、あの夜の濃さが計り知れないことを知らしめたかった。
「この10円玉が表と裏どっちを向いているかを当てるだけの、ありふれた賭けだ。アンタが勝ったら、今晩アンタと過ごそう。ただし、もしアンタが負けたら、俺はもう二度とアンタと会わない。」
「フフ…なるほどね。面白いわね。やりましょう。」
女は承諾した。
「それじゃ、始めよう。」
アカギはコインを天井に向かって大きく弾いた。垂直に降りてきたコインを、アカギは大きな手で受け止めた。
「さあ、どっちだい?」
アカギは女に問う。しかし、女の答えはすでに決まっていた。
「私、分かってるわ。答えは「どっちでもない」って。あなたの手にコインはない。こういうの、何度も何度も騙されてきて、よく知ってるのよ。」
「フフ…」
アカギから笑いが漏れた。呆れ返って笑うことしかできなかったのだ。
「残念。」
アカギの手にはまっすぐに表を向いた10円玉が乗っていた。
イカサマをして女から逃げるだなんて、端から考えていなかった。それは自分と彼女への誠意で、アイツへの敬意でもあった。それでも彼女はまんまと裏切ってきた。
「…そう」
女はくしゃりと微笑んだ。微睡んだ目はさらに潤んで赤くなっていった。
アカギはそれ以上女に何も声をかけなかった。これはアカギなりの優しさでもあった。
会計を済ませて、アカギは店を出た。
時間は日付が変わって間もない頃。終電はとうにない。
もうこの街にも居られない。行く宛がないことに慣れていたアカギは途方もなく歩き始めた。それしかできなかったのだ。
アカギは胸ポケットからタバコを取り出し、夜空を見上げて蒸し始めた。
空は一面雲に覆われて、月は見えなかった。
あれ以上の夜どころか、あの夜の片鱗にさえ触れられない。俺がずっとこうして彷徨っているのも、あの夜にまた触れたいからなのだろう。
暗い雲に吸い込まれていくタバコの煙を眺めながら、アカギは夜が更けるのを待った。