おさなごころ何かの拍子に二人きりになったとき、このところのユリウスは妙に甘えたなそぶりを見せる。気を許した相手に対して等身大の本性を曝け出すのは昔からだ。悪戯好きで、好奇心に突き動かされる軽快な性格。これを見ることが親友の特権だとばかり思っていたが、最近は加えて温もりを分けられている。例えばソファに腰かけて兵法書を読んでいると、なんの気なしに膝へ頭が乗ってきたり。どちらかの家に泊まるとなると、狭苦しても構わないと笑いながら一つのベッドで眠りたがったり。ともかく、友に触れる機会が多い。こんなにもわかりやすい信頼の誇示は初めてだった。
(親友殿のことだ。驚きのあまり目を白黒させている俺の反応を見て、楽しんでいるというのもあるんだろうが)
俺の思案を知ってか知らずか、ユリウスは今日も温もりのわかる距離にいた。夜が更けぬうちに眠れとベッドに押し込まれ、当然のように隣に寝転んでそのままだ。真っ暗闇の中、眠気などまったく寄せ付けず目を見開いている俺に対して、友は穏やかに目を閉じている。ただ、眠ってはいないのだろう。呼吸がやたらと規則的だ。
暗闇に慣れた目は、友の輪郭を鮮やかに捕らえる。ユリウスの顔立ちを言葉に表すのは難しい。悠然とした振る舞いと長髪が相まって中性的とも見えるが、考え事をしているときなどは眉が立って凛々しい顔をすることがある。気が抜けると目つきが鋭くなるのだ。恐らくは、厳めしいあの表情こそ彼の顔立ちなのだろう。それは、皮肉にも先王に似た顔立ちだ。普段眉を下げているのは、もしかすると抵抗だったのかもしれない。
今、目の前にあるユリウスの顔はどちらとも取れない表情をしている。力の入っていない眉はきりりと形よく立っているが、かといってその顔に厳めしさはない。どちらかというと無垢な子供のように穏やかで、普段に比べると愛らしさがある。憑き物の落ちたような顔、といった具合だった。いや、正確に言えば憑き物は以前よりしっかりと彼の身体に寄生しきっているのだが、ともかく陰がないのだ。友の寝顔など幾度も眺めてきたが、こんなにも健やかな顔が未だかつてあっただろうか。
「ふ……」
咎を負ったその心が、以前より軽くなっているはずもない。だが愛を求めて伸ばしていた手は、空を切るばかりではなくなったのだと思う。拠り所があるという安心感を、どうやら俺はきちんと友へ与えることができているようだ。寄り添う温もりを根拠にして、自惚れは止まらない。しまいには、微笑むだけのつもりがうっかり声を零してしまった。すると呼応するように、ユリウスの瞼がゆっくりと上へ持ち上がる。魔力の増した瞳は暗闇に淡い光を湛えて、不機嫌そうに俺を見つめた。
「笑っていないで、眠る努力をしたまえよ雷迅卿。せっかく早い時間に寝床に倒してやったのに、子守歌も必要かい」
「誰もいないのにかしこまって呼ぶなよ。――努力不足はその通りだが」
反省どころか不満を返すと、呆れたように鼻を鳴らされてしまった。眉間に皺を寄せたままのユリウスは、しかしこちらへすり寄るようにして胸元に顔を埋めてくる。ふわりと鼻腔を擽るいい香りは、彼が愛用する香のものだ。友の香りに満たされた俺は、思わずすり寄ってきた身体を柔らかくかき抱く。
「ふふ」
胸元からくぐもった笑い声が聞こえる。今度はユリウスが笑っていた。眉間に刻まれた皺はすっかり平坦になっていることだろう。されるがままの男は、抵抗のての字もなく腕の中に納まっている。
「子供のころ、ずっと持っていた願いごとがある」
「ねがいごと?」
「母に抱きしめられること」
言葉に詰まる。なんてことのないように淡々と繰り出される言葉に、どれほどの孤独が纏わりついているのかは想像に難しい。茨に虐められ続けた男は、最早言葉に悲しみを滲ませることもできなくなっている。幼子の砌は泣いたこともあるのだろう。喚いたことだってきっとある。だが今、目の前にいる彼は全ての感情を置き去りにして、ただ、ただ、軽やかに過去を追憶していた。
「誰に、というのは正直なところ重要ではなくてね。町を行く子供が転んで、泣いて、それを抱きしめられて泣き止むのをいいなぁと思ったんだ。誰かに慰めてほしかったのかもしれない。育ての親も、乳母も、勿論実の父だって、私にそうしてはくれなかったから。そうなると、姿も知らない母が唯一の希望に見えてくる。きっと母なら、いつか母なら。あんまり叶わないものだから、いつしか願い自体をすっかり忘れてしまったけれど」
言葉は変わらず淡々としている。誰に触れてもらえることもなく、しかし迫害の果てに命を取られるようなこともない。ひたすらに自分を嫌う世界を見下ろし続ける苦痛は、地獄という一言で足りるものなのだろうか。一言、ひとこと、ユリウスが繰る言葉の奥にある過去を覗き見ては頭を抱えることしかできない。気の利いた慰めの一つも紡げないまま、せめてと思って友を抱く力を僅かに強めた。
「それをね、思い出したから……。君にぶつけてみることにしたんだ。大の男がべたべたと、少しは気味悪がられるかと思ったのに。君ときたらなんでもかんでも受け入れてしまう。実験菓子は目ざとく拒絶して見せるのにね? ああ、でも、あれだって。結局はなんだかんだと食べてくれるけれども」
照れると饒舌になるのは友の持つ愛らしい癖の一つだった。こちらが黙ったままなのをいいことに、つらつらと耳なじみのいい低音が続く。
「こうして君に許されているとね。幼い私が弔われていくようだよ」
「縁起でもない言い方はよせ。満たされているとか、充足したとか、もう少しあるだろ」
「ふふっ。そうだね……、満足しているというのは、その通りだな……」
ほんの僅かに身体が離れて、照れくさそうな笑顔が見えた。隠し、偽り、いつだって飄々と振舞っていた男がわざわざ心を見せてくれている。鈍感には自身があるが、その意味がわからないほど執着がないわけでもない。この男に、ユリウスに。たった一つの特別を許されることが好きなのだ。これが恋だということも、それが無尽蔵の愛を生むことだって、ちゃんと、きちんと、わかっている。
「一人で生きる生き方を、すっかり忘れてしまいそうだ」
「忘れてしまえ、そんなもの。この先きっと困らないぞ」
はにかんだ愛らしい笑顔をいつまでも見ていたい気持ちと、体温に飢えた男を抱きしめてやりたい衝動が拮抗する。結局勝敗をつけることはできず、友を眺めたままそうっと頬を撫でてみる。柔らかく、暖かい。生きている温度だ。辛うじて繋ぎ留めた唯一無二が微笑んで生きていてくれる今がどうしようもなく愛おしい。
「やめるなよ」
「くふふ、何を?」
「甘えることを」
「やめられないさ。この温もりはどうにも甘美で心地いいから。そういえば温泉に似ているなぁ、雷風呂か?」
「……」
「あいでで、ふふ、馬鹿、本当に発電するやつがあるか」
まるで眠る気のない戯れを、互いに咎めることはしない。そういう夜があってもいいだろう。眠りは至高の休息だが、最愛との時間とてまたかけがえのないエネルギーになり得るものだ。擦り寄ったままの温もりを改めてぐっと抱きしめると、友からも同じだけの抱擁が戻る。夜の静寂に響く笑い声は、どちらのものも底抜けに幸せそうだった。