彼方へ送る追憶の一束※主人公の名前は「リンドウ」です
幼少の砌、閉ざされたかの故里で過ごした記憶はひどく曖昧に混濁している。穏やかな風を浴びればほのかな懐かしさが過ぎり、ひとけのない静けさにこれ以上ない安寧を覚えるのは確か。しかし人里離れた森の奥、閉ざされた静かな村を見て胸に滲む感想はといえば御伽噺のようだなんて少し他人行儀なものだ。あるはずの思い出が霞んでいるのは、魂と体の分離があまりに長く続いたせいだろうと説いてくれたのはグルデアだった。どこへでも駆けていく願望を形どった己の記憶に、幼子のまま眠っていた己の記憶が、まだうまく結合し切っていないらしい。
「よいしょ……っ、と、あいてっ」
朝露に濡れた草花をかき分け、新緑の空気を胸いっぱいに吸い込んだのも束の間。額に衝撃を感じ、ややあって頭を打ったのだと理解した。呪いから解放され、時を戻した体は遅れた成長期を迎えている。その速度は目覚ましく、昨日はぴったりだったローブが朝起きると丈が足りないなんてザラなことだった。お忍びに出向く際に使っている抜け道も、いくつか通れなくなってしまったものがある。記憶に誘われるようにして潜った木のうろに頭をぶつけたのも、きっと覚えより背丈が伸びてしまっているからに違いなかった。くすくすと微笑むように緑が揺れている。妖精にでも見られたのだろうか、後でガリカに揶揄われなければいいのだが。
「ふふ。……変わらないな、ここは」
王国を未来へ導くために王都を飛び出すようになってしばらく。空を駆ける鎧戦車に、民草は恐れではなく笑顔を向けながら手を振ってくれるようになった。柔らかな翼を宿す機体を歓迎してくれる街も随分と増え、干渉を決して好まないはずの古仏郷もまた王の翼を快く受け入れてくれる場所の一つである。旅の合間の羽休めとして立ち寄ったこの故里で、いつものようにひょいと仲間の輪を抜け出したリンドウは朧げな記憶を追いかけていた。呪いによって意識を奪われるその日まで、夢中になって本を読んでいた大木の根本である。
(木漏れ日の具合がちょうどよくて、涼しいし、居心地がいい秘密の部屋。きっと僕だけのものだと、小さい頃はすっかり独り占めした気になっていたけれど)
強打した額を摩りながら前を向き、膝立ちで奥へ入り込む。ぽっかりと口をあけたうろは子供にとっては十分に広く、今の僕には少し狭い。今度はどこもぶつけないようにゆっくりゆっくり視線を回し、苔むした木の皮に幾つかの引っ掻き傷が残っているのを見つけた。
「……君にとってもそうだったのかな」
指先で苔を拭うと、引っ掻き傷は明確な文字となって現れる。石か何かで刻みつけたのだろうそれは、簡単な魔術の術式を描いていた。子供らしくあちこち歪んでいるものの、どこか几帳面そうな筆運びはリンドウのものではない。しかし見知らぬ文字ではなかった。その文字は巨船から奪い、盗み見た呪いの設計図に書かれていたものと少し似ている。
【指先に意識を。体の奥底に渦巻くマグラの「流れ」を意識して、何をしたいかを想う。はじめはそよ風がいい。風を出せると、妖精が喜ぶ】
走り書きを読みながら、そうっと手のひらに風を生み出してみる。かつて、リンドウは同じように風を生み出したことがあった。まだ呪いと縁遠く、おそらくは母の柔らかな声が側にあった本当に幼い頃のこと。たまたま見つけたこの隠れ家で、たまたまこの走り書きを見つけ、そうして小さな魔法を覚えた。魔道器を使わない、元来の魔法の使い方を。魔力の適性が高いことを見抜いた父は常々虚だった目を細め、俄かに微笑んで「母譲りか」と呟いていたが正しくは違う。リンドウに魔法を教えたのはかつて、このうろを隠れ家にしていたかもしれないただ一人の子供なのだ。
それはきっと、おそらく、ルイ・グイアベルンその人である。
ルイ・グイアベルン。暴虐とも、理想とも呼ばれる複雑な存在だ。恐王星で相見えたニンゲンとしてのルイは多くの民草の目に止まることになったものの、その正体が現王と同じエルダ族であったことはついぞ公になることがなく今日を迎えている。人々の噂はどんな鎧戦車より早く世界を巡るが、彼の出自については本心をむき出しにした彼と対峙したリンドウ達以外知り得ない密かな真実のままだ。郷と街が結ばれればどうかと思ったが、どうやら郷の中にもルイを知る人間が残っていないらしい。「ルイ」と言う名も「グイアベルン」という氏も、古仏郷には伝わっていないのだ。
幾度も刃を交えてきた相手故、彼の周到さも、覚悟の深さも身に沁みてよく知っている。炎の壁に怯えるほかなかった無力な己など、名ごと捨て置いていても何らおかしくはないだろう。もしかすれば、端麗なかの容姿すら面影を残していないものだったのかもしれない。
(けれど、君の船の名は「カラドリウス」だった。船の中にあった真っ白い花だって、あれはきっと王座への固執なんかじゃない。ルイが奥底で握りしめていたのは、きっと)
気まぐれか、郷愁か。死線を共にした仲間たちには苦い顔をされそうだが、どちらか推し量るのであれば後者であれとリンドウは想う。何をも諦めず喰らいつく己を、憧れると言って笑った彼の中には俄かな人間らしさがあったのだ。理想郷を語る父に焦がれたという少年のルイが、あの瞬間僅かに顔を覗かせたような気がする。
数多の犠牲の上に成り立つ公平は、決して許されない横暴だ。しかし手のひらを目一杯に広げようとも、こぼれ落ちていくものが少なからずある。差し伸べた手をすり抜けてしまったものからすれば、弱者を切り捨てるルイと、自分はきっと何ら変わりはないだろう。
だからこそ、時折彼を思い起こす。打ち倒したことに後悔はない。しかし、彼の理念を愚かなものとして忘れ去っては決していけないと想うのだ。レラの凶行の背後に惺教の思惑があったように、マグナス兄弟の信仰に過去の凄惨な実験があったように、ルイの覚悟の後ろには絶望と憎悪があったのだから。殺戮者として軽蔑するには、彼はあまりにも人らしかった。
「あら、懐かしい風」
風と走り書きを眺めていると、どこからか軽やかな声がした。はっとしてうろの入口を見やれば、木漏れ日を背負った妖精がひとりリンドウを笑顔で見つめている。
「こんにちは」
「こんにちは。あなた、新しい王様でしょ? ガリカが向こうで探してたわ、行ってあげなくていいのかしら。それとも私が言ってあげるべき?」
「少ししたらちゃんと戻るよ、大丈夫。できれば秘密にしておいてもらえると助かるな」
「へぇ、王様って大胆なんだ。いいわよ、秘密。けれどそれならご褒美が欲しいな」
妖精は楽しげに羽ばたきながら、にんまりと微笑んでリンドウの目前に迫る。自由気ままな妖精は新たな王……ではなく、その手に浮かぶそよ風をいたく気にしているらしい。
「この風で遊びましょ」
「風で?」
「そうよ。少し前にね、そうして遊んでくれる子がいたの。妖精の羽が風を捕まえると、うんと高く飛べるんだから。ほら、あの木の上に飛ばして頂戴」
「うわ、ちょっと待って、あいてっ」
よその妖精を相手取ると、人に似ているというガリカがいかに淑やかであるかがわかる。小さい妖精の手に引きずられ、再び頭をぶつけながらうろを出た。
「あのあたりよ。そこにね、美味しい木の実があるんだわ」
妖精の指さす先を見れば、木漏れ日に眼が眩む。早く早くと急かす声に負けて、柔い風を上に吹き上げると歓喜の声がどんどんと遠くなっていった。
「あはは! 高いたか~い! ふふふ」
「……」
青空に吸い込まれるようにして消えていく妖精を、少し日に慣れてきた瞳で追いかける。
彼、なのだろうか。妖精と遊んでくれていたのは。
「よかった、まだあった。ほら、あなたにもあげる」
「お礼に飛ばしたのに?」
「飛んだら取ってくるのが癖なのよ」
しばらくして戻ってきた妖精は、一口大の木の実をひょいとリンドウの掌に載せた。炒ってもいないのに香ばしい香りがする。見たことのない木の実だが、美味しそうな匂いだ。王たるもの、得体の知れないものを躊躇なく口にするのもどうかと思ったが考えたのは一瞬のこと。じっと顔を覗き込む妖精に負けた、というよりは、確証があるようでない、彼の面影を追うようにして木の実を食む。
「……、これは……」
「どう?」
「おいしい! お菓子みたいだ、ちょっと甘くて」
「ふふ、そうでしょう? 数が多くないから、おかわりは無しよ」
「……」
得意げな妖精の言葉に、少しだけ思考を巡らせる。彼の遺体は残っていない。骨も残らず散った化け物は、弔われることなく人々の記憶の中に消えてしまった。あれだけの男だ、忘れ去られることはないだろう。彼を偲ぶものとて大勢いる。だがそれはルイ・グイアベルンに向けられたものだ。幼き日、焼き討たれた故郷と共に恐らくは死んでしまったエルダの少年を弔うものは、果たして今までいたのだろうか。
「無理を承知で、もう一つ貰えないかな。わけてあげたいんだ。――もういない人だけど」
「ええ? うーん……」
リンドウの言葉をどう受け取ったのか、妖精は思ったよりも真剣に悩むそぶりを見せてくれた。ここに居ない誰か、と聞いて、もしかすると母を思い出してくれたのかもしれない。
「しょうがないわね、懐かしさのお礼にもう一つだけよ」
「わかった。えいっ」
もう一度、そよ風を送る。木の実と共に、白い花も一つ手折って土産にさせてもらおうと決める。きっと彼は望まないけれど、王としてやはり、確かにそこに居た「炎を恐れるこども」を捨ておくわけにいかないのだ。理想を信じぬく心、同じ故郷、同じ種族。もしかすれば彼とリンドウは、少し運命を違えただけで十分同じに成り得た存在なのかもしれない、故に。
(彼が見ても愚かでない世界を。理不尽が、子供の手から夢を奪わぬ世界を。散った夢も、かなえていかなきゃ。僕が王、なのだから)
妖精が渋々「おかわり」をくれたのと、遠くからガリカの呼び声がするのがほとんど同時だった。じゃあねとあっさり手を振って消えていく妖精と別れ、足元の花を掬って木の実とふたつ、手土産を抱く。
「もう、すぐどっかいく! ……まさかとは思うけど、お花摘みしてたの?」
「うん。ほら、執務室。書類ばっかりで殺風景だろ」
「確かにそうだけど、その花あんまりいい思い出がないじゃない」
「いい思い出にすればいい。王家の花だよ、僕たちの花だ」
うーん、と頭を抱えるガリカを笑って、仲間の待つ郷の中へと戻る。ところどころに朽ちた人家を残すそこにもまた、新たな緑が芽生え始めていた。