変身のはざま濁った咳の音で目が覚めた。自分が今どこにいるのか、何をしていたのか、眠りに落ちる前の記憶を引きずり出すまで僅か数秒。ここは医務室で、隣には傷つき弱った親友がいる。苦し気な咳の音は続いていた。頭が「様子を見よう」と意思決定を下す前に身体が動く。
「っ……、チッ……」
思い切り飛び出したつもりだったが、衛生兵が気遣って出したのであろう新品の布団に行く手を阻まれた。寝起きは力の制御が甘くなる傾向にあり、身体が若干の電気を帯びる。殊更新しい布は、俺の身体によく絡まった。よくあることだ。よくあることだが、今はやれやれと苦笑できるほど心に余裕が浮いていない。いいようのないいら立ちをそのまま舌打ちにして吐き出し、力づくで布団を押しのけて石床を駆けだす。どこかに脱ぎ散らかしたスリッパがあるはずだったが、そんなものを探している暇はなかった。冷えた石肌が体中を振るわせようと、構うことだってない。
「ユリウス」
「えふっ、っ……、ごほっ……。……、ふ、ふふ。何かごそごそ言っていると思ったら。起こしてしまったかい、すまないね」
簡易的な仕切りとして用意された薄手のカーテンを引き開ければ、友は己の身体を抱きかかえるようにしてぐったりとベッドに沈み込んでいた。咳の衝撃が傷に響くのだろう。血のにじむ包帯を押さえつける手は震えている。口端に赤が滲んでいるのも気になった。医者が言うには内臓にもそれなりの傷が残っているという話である。血を吐き出しているのなら、放っておいていい状況ではないのかもしれない。
「大丈夫か」
「げほっ……、っ……。そう、死にそうな顔をしなくても。大丈夫だよ、……、だいじょうぶ」
柔らかな笑み。穏やかな顔。しかしユリウスの顔色は悪く、身体はガタガタと震えている。その言葉に信憑性はない。
「だいじょうぶ、って」
心臓が不快な早鐘を打っている。決死の思いで取り戻した、かけがえのないもの。もしかすればそれを失ってしまうかもしれない恐怖に、何度も掬い損ねてきた後悔が重なる。大丈夫、なんて絶対に嘘だ。天雷剣に聴かずともわかるほどの、彼らしくないあけすけな虚勢。数度の夜で言える傷では到底ないのだ。死に瀕した身体の痛みも、死を望んだ心の痛みも。それでもなお彼が笑っているのは、他でもない俺を気遣ってのことである。
手を伸ばし、頬に触れる。色の悪い肌は想像よりずっと冷たくて、ぞっと背筋が強張った。俺の親友はもっと暖かかったはずだ。笑顔だってもっと、爛漫なものを持っていたのに。生まれからくる孤独から脱し、友として隣にいるユリウスはもう少し幸せそうだったと思う。それがいつから、こんなに悲し気な顔を浮かべるようになってしまったのか。いや、本当はずっとずっと、俺の存在など彼にとってはとても弱い力であって、なにからも守れていなかったのかもしれない。明るい顔も全て虚勢で、彼にとっての世界は全てが地獄だったのか。
「君も……、けふっ、えふっ……。君も、無傷ではないのだから。真夜中だろう、休んでいたまえ。私のことは気にしなくていい」
「っ」
腹を抑えていた手がゆっくりと持ち上がり、俺の掌に友の指先が絡まった。かたかたと俄かな震えが伝わると同時、それでもなお笑いかけてくるユリウスの言葉にぶつりと何かが切れる音がする。瞬間的に沸き起こったのは怒りだった。どこまでも意地を張る友に対しての。
どこまでも無力な、己に対しての。
「どうして何も教えてくれない!」
「っ」
空の上。死にゆく友を必死で救ったあの時と、まったく同じ言葉が静寂を揺らした。驚きに見開かれた薄赤の瞳は、叱られた子どものような顔で俺を眺めている。一方の俺はどんな顔をしているのだろう。暗がりでは瞳に映る姿もわからない。
「大丈夫なはず、大丈夫なはずないだろ、こんな……っ、傷ついて、苦しんで、傍に居ると言ったのに、どうしてまだ一人でいようとするんだ……! どうして俺は頼ってくれない、どうして俺には教えてくれない……! 異形でさえ掬い取れる心を、どうして俺は……」
膝が折れる。身体から魂が抜け出ていくように、薬と血の匂いが絡まる友のベッドへ突っ伏した。
「俺は、どうして何もできないんだ」
絡まった友の手を握りしめる。目尻が熱い。涙が零れ落ちている。ひっきりなしに嗚咽が漏れて、それからしばらく何も言えなかった。わだかまった心を思い切り吐き捨てたおかげか、沸騰した頭は比較的すぐに冷えていった。怒号を詫びねばならない。どんな感情をも秘匿してしまうのは確かにユリウスの難点だが、間違っても今、怒鳴るべきではなかった。責められるべきはこちらだ。最後の最後まで救えなかった俺に、こいつを責める権利はない。
「すまない。……、ごめんな……、っ……こんな、こんなの自分勝手だ……」
「……。……、ひとに、弱みをひとつ明かすと……、面白がった大人たちに、いつまでもその弱点を狙われる」
「……」
「そういう、人生だったから……。……そういうふうに生きてきた。君に何も預けなかったのは、その生き方に君を巻き込みたくなかったからだ」
「……、頼りなかったか」
「違うよ。……それだけ大切だったんだ。信じてくれアルベール。自分の人生がどうなろうと、君さえ生き抜いてくれるのならそれで幸福と思えるほどに」
「おかしい。おかしいだろ、どうしてお前がいないのに」
「誰にだって不要と言われる命が一つ消えるだけだ。それで英雄が助かるのなら安い」
「安くない!」
勢いのまま再び怒鳴って、今度は怒りが雷となって肌を焼く。不可思議な耐性を宿しているらしい俺の身体は、自らの力に痛みを感じることが滅多にない。それでも鈍い痺れを感じるほどの暴発だった。手を重ねる友の肌もきっと傷んだはずである。ハッとして顔を上げ、慌てて掌をつかみ取ると包帯の奥に幾重もの蚯蚓腫れが這っていた。
想えば想うほど。願えば、願うほど。なぜ、どうしてと頭がこんがらがってしまって、なんでもかんでも上手くいかない。包んだ掌に走る紛うこと無き俺が刻んでしまった傷に茫然と俯けば、場違いなほどあっけらかんとした楽し気な笑い声が降った。
「だから、死にそうな顔をするなよ」
「だって、傷、が」
「大丈夫。だいじょうぶだよ、アルベール。わかっているとも、何より大事にされている。そういうふうに愛を注いでくれる君だから、絶対に傷を見せたくなかったんだ」
友は、変わらずぐったりとしている。耳なじみのいい低音に混ざる小さな咳には淡が絡んだままだ。長話をさせるべきではない。頭ではわかっているのに、身体がどうにも動かなかった。また一つ、情けなさが募って景色が歪む。ぼろぼろと頬を落ちていく涙を、億劫そうに動く掌がせっせと拭ってくれるのにたまらなくなって、余計に雫が大粒になった。
「私より痛む顔をして、私より凍てついて、いつか人懐こい優しさまで壊れてしまいやしないか怖くて」
「……っ、……」
「何もできないと言ったね」
「言った。傷つけることだけ得意で、どうしようも、ないから」
「せがんでくれたじゃないか、私に生きろと」
「……っ、でも、それで、お前は……茨の世界に、戻ることになってしまって……。守りたいのに、うまく、いかない……守れないから、苛立って、っ、お前にぶつける怒りじゃ、ないのに」
ぐずぐずに歪んだ顔で友を見る。裁いてくれという気持ちだったが、ユリウスが寄越したのはぎこちない抱擁だった。痛むだろう身体を必死に起こした男は、這いずるようにして俺を包み込み、怪我人とは思えない力でぎゅうと背を抱きしめてくれる。
「うぐ」
「それは、私にぶつけるべき怒りだよアルベール。私が君を置いていったんだ。私が君に何も教えなかったんだ」
「っ……」
「……せっかく生き直す機会を得たんだ。もう少し、甘えられるようになれたらと、思うよ。想ったことを、感じたことを、素直に君に託せるようにな。……そうしたら、こんな顔をさせずに済む」
「……、お前に強いてばかりだ……」
「ふ……、確かに強いられてはいるが、悪い気はしない。多少なり強引に引きずられないと変われないたちでね。君が齎してくれる変化というのは、往々にして私を幸福にするんだ」
わかるだろう、と囁く友の肩に顔を埋めた。血の匂いが濃く漂う包帯に、遠慮なく涙を吸わせて嗚咽を上げる。
「……っ、おしえて、ほしい……。つらいのも、いたいのも、くるしいのだって、どうにかするから」
「うん」
「どうか、一人で耐え抜かないでくれ。傍にいるから、俺が、いるから……。ひとりで、いくな、ユリウス……」
「ああ……。っ、う、げほ、っ、ひ、っ、ぅ、っぐ」
柔く髪を梳こうとした手が強張るのを感じる。続く嫌な咳の音に慌てて抱擁を振りほどくと、背を丸めたユリウスは力なくえづいてシーツに沈んでいくところだった。
「っ……、ユリウス」
「は、っはぁ……、……、っふふ、本当のところはね、……だいじょうぶ、では、まったくなくて……。夜は、あちこち痛むんだ。薬が切れるのが早いのか、なんなのか……。さぁっと冷えて、気持ちも悪い」
「嘘ばっかりじゃないか。……、医者を?」
「……、っ、はぁ……、星の入った身体だ、薬を増やしたところで、どうだろうね。……医者より、君に居てほしい」
「……、わかった」
折れた膝をぐっと立ち上げて、頽れてしまったユリウスの身体を布団の真ん中へ戻してやる。僅かに空いたベッドサイドに腰かけて、苦し気に荒く上下する胸元をおっかなびっくりに擦ってやった。色の悪い唇からほうっと安心したような吐息が漏れ出て、やがて呼吸が落ち着いていく。
「ふふ……、びっくりするほど、安心、する。……こっちのベッドで眠らないかい」
「狭くなるぞ。休めるか?」
「狭い方がいいよ。湯たんぽがあったほうが身体もおちつく」
「湯たんぽって、お前な……」
医務室のベッドは簡易的なもので、ユリウスが横たわるそれは当然一人用のものである。軽い方とはいえ、成人男性が二人で寝転んで大丈夫なものだろうか。一瞬不安が過ったが、ようやくユリウスが差し出してくれた甘えを断る理由にはならない。ごしごしと顔を拭って、間違っても友を追いやらぬようにそうっと布団の中に忍び入る。強張る身体はやはり冷たい。
「……確かに、これは湯たんぽがあったほうがいい」
「そうだろう? ……このまま、目が覚めるまで……、一人にしないで、くれるかい」
「ああ。……一緒に居る」
あやすように背を叩くと、ユリウスの咳はみるみるうちに収まっていった。安堵が麻酔になったのか苦し気な呼吸も穏やかになっていき、やがて寝息が部屋に木霊する。
「……、ごめんな」
焼いてしまった掌を撫で、小さな謝罪を独り言つ。もっとうまく守りたい。もっとうまく愛したい。ユリウスが俺の願いを受けて生き方を変えてくれるように。俺も彼のために、あらゆる変化を得たいと思う。
「俺も、変わるから……。お前を幸せにできるように、お前が笑って、いられるように」
決意を勝手に寝顔へ誓って、友を抱き込み眼を瞑る。肌を伝ってくるユリウスの鼓動は、長く絡まっていた漠然とした不安をどこかへ吹き飛ばしてくれるような力強さを持っていた。