意識の微か目を覚ますたび、隣に鬱陶しいくらいの愛がある。
「……」
重く、怠い瞼を開く。寝ぼけて真っ白になった頭に記憶を取り戻していき、ここが医務室であることを思い出した。腹を抉り、爆風に痛めつけられた身体を横たえているのだ。少しでも身じろごうものなら、茨に巻き付かれたかのような痛みが全身を駆け巡る。不思議なもので、助かってすぐよりしばらく療養した今の方がずっと具合が悪いような気がした。
(緊張、が……抜けたからだろうな……。いやはや、きょうみぶかい)
醒めたばかりの意識は、すぐにでも泥沼に攫われてしまいそうに曖昧だった。夢とうつつをぐらぐらと行き来しながらくだらない好奇心を浮かべ、きっと変に身体が揺れたのだろう。静かだった世界に、自分ではない誰かの声が乱入する。――いや、「誰か」なんて言うのは他人行儀かもしれない。優しく穏やかで、しかしどこか不安げなつぶやき。親友殿の声だった。
「ユリウス?」
この声に呼ばれたのならそちらを向かなくてはならない。ぼうっとしながら首を回し、襲い来る鈍痛に顔を顰める。すっかり慣れた苦痛だったが、仄かな体温が柔らかく頬に寄り添ってくれた。
「悪い、応えさせてしまったな。動かなくていい、まだつらいだろう」
「……」
名を呼び返したかったが、巧く喉が動いてくれない。乾いた粘膜がひりついて、かさついた咳がこんこんと一つ二つこぼれ出ただけだった。剣士の硬い指先が雑に頭を撫でていく。ぼやけた視線をじっと注げば、端正が過ぎる整った顔立ちがくしゃりと歪んでしまうのが見えた。呆然と痛みを逃す私などより、よほど苦悶に満ちた顔だ。大声で泣きだす一歩手前の子供に似ている。
「大丈夫だからな」
静寂に落ちた言葉は、一体どちらに向けたものなのだろう。彼にしては珍しく、覇気に満ちていない弱弱しい音だった。
自殺計画はほかならぬ自身の迷いによって頓挫することとなったが、この私が本気で練った策である。中止の代償として身体に負った傷は重いものだ。おそらくこの身体が正しく人のものであれば、不本意な形ではあれ計画は成功を収めたのだろう。
(……)
そちらのほうがよかった、なんて。少し前までは、未だ死への渇望があった。今は、残滓を探す方が難しいかもしれない。
飽きもせず顔を擽っている指先に、どうにかこうにか掌を重ねた。アルベールは不思議そうな顔で私を見下ろしている。紅眼がぱちぱちと瞬きを繰り返し、「なんだ」とほんの少し笑顔が戻った。こちらのほうがいい。この男が浮かべる悲劇に満ちた顔は、どうにも苦手なのである。二十歳を超えた大人というに、いつまでたってもあどけなくって無邪気な笑顔。それが彼に一番似合う顔であり、私の一等すきなものだった。
もし計画が成就していたら、この顔はきっと二度と微笑みなど浮かべてくれやしなかったろう。
いや、もしかすればその鼓動すら、私と共に葬られていたかもしれない。死への恐怖など毛頭ないが、この男を道連れると思うと腹の底がぞっと冷える感覚がある。私が消えるのはいい。けれど、彼はいけない。喪失を拒絶する根拠は何かといえば、ほかでもなくそれは愛だった。茨ばかりの世界に光をくれた大事な男だ。私なぞを親友と呼び、他とは違う特別をくれた。ただひとつ、私が持ち得るたからもの。
「……」
なぁ、アルベール。私は生き恥を晒すと言ったが、その実ここで息をしていることにほっとしているよ。たったひとり、私を失っただけで君がこんなに薄暗く曇ってしまうなんて知らなかった。もっとうまく生きるだろうと思っていたんだ。呆れるほど貰っていた熱烈な愛を、いなくなれば忘れるだなんて軽んじた私を許してくれ。唯一無二の意味合いを、今頃になって知った気持ちだ。私の世界から君が欠けてしまうと、私が駄目になってしまうように。君の世界もまた、私がいなくなってしまえばきっと成立しないのだろう?
重ねた手のひらをきゅう、と握る。募る言葉はなにひとつ音にはならなかったが、寝たきりの怪我人にしては必死の握手だ。瞳に慈愛を浮かべてみれば、アルベールはわかったような顔をして「うん」と一つ二つ頷いてくれる。何が伝わったわけでもないだろうに、不思議と満足した気持ちになった。
「俺も長く休みをもらったんだ。だから、お前がもう少しましになるまではここにいる」
「……、……」
「一緒に居ような、ユリウス」
影が落ちてくる。気づけば抱き締められていた。あまり頑丈ではない医務室のベッドが、主さに耐えきれずぎしりぎしりと鳴いている。逞しい抱擁は少し苦しく、体内で眠る獣がもぞもぞと動き出す気配があった。退治してあげようかなどと物騒に牙を剥いたそれを、これはいいのだと苦笑して宥める。
しばらくの間じっと体温を重ねていると、段々眠気が戻ってきた。温もりは勿論。鼻腔を擽る親友の香りが、これ以上ない安寧を寄こしてくるせいもある。意識が途切れかけているのに気付いたのか、武骨な指先が長い髪をそうっと梳いていった。
「眠るか?」
「……、ん」
ようやく、少しの返事が音になる。耳元で満足げな笑い声がした。
「いいことだ、よく寝て早く治してくれ。……けれどできれば、あまり長く眠るなよ」
あべこべの言い分だったが、彼の言わんとしていることはわかる。意識の浮き沈みが激しい自覚はあった。心身ともに傷つききっているせいで、目を覚ます間隔がまちまちになっている。正確に測ったわけではないのだが、いつでもアルベールが傍に居るからなんとなくわかってしまうのだ。長く目覚めなかったとき、彼は大層不安そうな顔をする。今回の眠りもそうだ。きっと長かったのだろう。
(すぐ戻るさ……。だから)
君も一緒に少し眠ってしまえばいい、と。誘うつもりで、繋がったままの掌を握り直してみる。静かな部屋に、二人分の穏やかな呼吸が木霊した。どく、どく、と血潮が巡る音もやまない。生きている。生きていて、それで幸せだと思う。
次に目が覚めた時も、同じ鼓動と温度がきっと傍にあるのだろう。鬱陶しいくらいの、揺らがない愛。見失おうとも見失えない確かな道しるべを抱きながら落ちる眠りに、不安や恐怖は何もなかった。