0から始まるハッピーエンド「俺たち別れよっか」
ホークスから投げかけられた言葉に思考が止まる。グラスの中の氷がカラリと溶ける音がひどく耳についた。
前触れはなかったように思う。少し時間ができたからとホークス行きつけの店だという定食屋で舌鼓を打った。「時間ができた」という言葉に嘘はなかったらしく、食べ終わっても世間話をする余裕があったのは働きすぎるきらいのあるホークスにしては良い傾向だろう。話していた内容もいたって普通だ。先日久方ぶりに会った元級友たちとの交流についてや近頃話題になりつつある常闇の活躍についてなど。主に常闇が自身の近況について語って聞かせる形であったが、興味深げに聞くホークスの姿を見るのは嬉しかったし、時折僅かに零される愚痴の皮を被せた甘え(と常闇は思っている)を受け取れる立場にあることも喜ばしく思った。
問題である先の言葉だって、「そういえば」とまるでたった今思い出したことをついでにと零すかのような話し出しだったのだ。
それに別れるとは一体どういうつもりなのだろう。言葉の意味はわかる。別々になる、離れる、一つのものが幾つかになる、など。先程の言い方であれば一般的には恋人関係の解消が妥当なところだろう。わからないのは、何故今その言葉が彼から出てきたのかだ。
「ホークス、それは……」
「あ〜、言いたいことはあるだろうけど、とりあえず俺の話聞いてもらっていい?」
「……承知した」
聞けと言うのならそれが良いはずだ。とりあえずということは、その後で常闇の言葉を聞く意思はあるということ。疑問を投げかけるのはホークスの話を聞いてからで遅くない。
そうして語られたのは、二人が付き合うにあたって生じるデメリットについて。例えば世間体だとか、生産性のなさだとか。他にも様々な不都合を並べていたがそのほとんどが杞憂にもなりそうな月並みな理由ばかりで、重要であるはずのホークス感情については一切語られなかった。とはいえホークスの言うそれらに、感情論ではない具体的な解決策をすぐさま提示できるかと問われれば口を噤むことになるのだが、それだけで引き下がれるほど常闇の諦めは良くない。
しかし、と内心で首を傾げる。眼前のホークスは対外的なプレゼン資料のような説明を終えて満足した顔をしているが、常闇には依然として消えることのない疑問が残っていた。
常闇が知りたかったのは別れる理由などではなく、もっと根本的なこと。ホークスのことだからきっと何か深い事情があるのだろうが、この場で考えて正答を導き出せるとも思えない。さっさと聞いてしまおうと口を開いた。
「……つまり、交際を続けるには障害が多いため恋人関係を解消したい、という話だろうか」
「そうなるね」
「なるほど」
ホークスの主張と常闇の認識が相違ないことを確認して、最大の疑問を投げかける。
「ホークスよ、我々は付き合ってすらいない」
そう、常闇とホークスの関係は別れる以前に付き合ってすらいないのだ。それが何をどうして別れるなどという話になったのか。正直に言えば常闇からホークスへの好意は存在する。無論恋愛の意味を含めたものだ。ホークスから向けられるものについてはわからないものの、それでも「その他大勢」の域からは抜き出ていると思っている。いつかこの秘めた想いを告げ、そういう仲になることを考えなかったと言えば嘘になるが、始まる前に終わるとは一体どういうことなのか。これ以上関係を深める気はないという意思表示だろうかと、若干の恨みを混ぜたままじとりとホークスを見れば、想定外に深刻そうな顔で目線を逸らされた。
もしや何か思い違いをしてしまったのかと焦る。言葉通り受け取ってはいけなかったのかもしれない。事情があり詳細を話せないので遠回しな言い方をしたのか、何か暗号が隠されていたのか。ホークスからのSOSを、見逃してしまったのか。察することのできない自分に腹が立つ。
「常闇くん」
「っ、なんだ?」
僅かな違和感も看過してはならないと気を集中させる。こちらを見るホークスの目はぎこちなくウロウロと揺れ、頬は微かに赤い。……赤い?
「ちょっと今の話なかったことにできない?」
「は?」
正に穴があったら入りたいといったような表情で絞り出された声はか細く頼りない。
なかったことにとはどういう意味だろうか。交際解消の進言が何かしらのメッセージを隠したものであったのならば、真意が伝わらなかったことに対する諦めの言葉なのだが、どうにもそんな常闇を切り捨てるそれではないように思う。というより、失敗を心底から恥じているようにしか見えない。
「えっと、順を追って説明するとなんだけど、君って俺のこと好きじゃない?」
「待ってくれ」
「でもって俺も君が好きなんだけどね?」
「本当に待ってくれ!?」
秘めていたと思っていたものが筒抜けだっただけでなく、相手も同じ気持ちを抱いていたことを同時に知ったこの激情をどうか慮ってほしい。
「けどさっきも言ったように問題も山積みでさ。断ればいいだけなんだけど告白なんてされたら絶対頷いちゃうからどうしようかと思ったんだよね。だったらもういっそ一度付き合ってからさっさと別れれば丸く収まるかなぁ、と」
「それで?肝心の付き合う過程を飛ばして別れ話から始めてしまったと?」
「ソウデス」
速すぎるどころか一周まわってマイナス地点に辿り着くのは如何なものかと、長い溜め息が漏れた。想いが同じであることに喜べばいいのか、勝手に終わらせられそうになっていることに怒ればいいのか、もうそれすらもわからない。ただひとつハッキリしているのは、このままでは常闇の気持ちどころかホークスの気持ちさえどこかへ追いやられてしまうということ。それは阻止しなければならない。
「あなたは俺と距離を置きたいのですか」
「えぇ?……いや、それは違うね」
「では付き合うのが嫌だと?」
「嫌っていうか、懸念事項が多すぎる。立場上普通の恋人にはなれないだろうし、きっと君に嫌な思いをさせる」
普通でないといけないのだろうか。そもそもこの世にまったく同じ人間がいない以上、その関係性にも同じものは存在しない。であれば普通なんて基準はあってないようなものだと常闇は思う。数は大きな力になるが、常に大多数側である必要はないのだ。
「ならば試しましょう」
「試す?」
「普通も、普通じゃないことも。端から試して探していきましょう」
そうして見つけたものが恋人という関係ではなくとも。隣に在れるのなら幸福と呼べるはずだ。
「探しても見つからなかったら?」
「見つかるまで探せばいい。知っているだろう?俺は諦めが悪いんだ」
「君、テキトーに言いくるめようとしてるでしょ」
「真剣そのものだが?」
「ま、いいよ。乗ってあげる」
「それは僥倖」
ホークスが提示したデメリットの大半は予想される周囲の反発、次いで常闇が抱えることになるであろう面倒についてだった。そこにホークスの意思は反映されていない。いつまでも自分を勘定から抜く癖が抜けないことも気にかかるが、ひとまずは想定の域を出ない「常闇が抱えるだろう面倒」から潰していく方がわかりやすいはずだ。どれほど問題ないと言おうと言葉だけでは説得力に欠けるから、あとは行動で示していくしかない
「じゃあまあ、よろしくね?」
「こちらこそ、よろしく頼む」
早速次の都合が合う日はとスケジュールを確認しだす姿に、これもひとつの「恋人っぽいこと」だろうかと笑った。