慇懃妖異ミステリヰ カンカンと警鐘が近付いて来る。
帽子のつばをわずかに上げ、出久は大きな目を左右に走らせた。晴天の陽光に照らされて、西から路面電車がやって来る。
緑谷出久は人混みに紛れれば誰も気にせぬような、どこにでもいる容貌の少年だ。けれど愛嬌のある大きな目と頬の上のそばかすが、年の割に幼い印象を与えている。
縦横無尽に行く人の波にぶつからぬよう、出久はゆるりと歩を止めた。
働いている探偵事務所は細い路地の先にあるので、車が入り込むこともなく静かなものだが、ひとたび大通りに出ればこうして雑多な音や声で賑々しい。
路面に敷かれた鉄道は人々の足になって久しく、西洋風の建物へドレスを着た婦人が吸い込まれてゆく。俗に言われた文明開化の足音は、もう馴染み深い生活音であるらしい。
通りを歩いているのはほとんどが大人だ。自分の上司であり、師でもある人物は雑踏から頭一つ飛び出るほど背が高いので、いればすぐに見つけられる。出久は少しだけ視線を巡らせ、ほどなく足元へ落とした。
カンカン、チンチン。高低差のある二つの音が通り過ぎるのを立ち止まってやりすごすと、どこからか香ばしい匂いが漂ってきた。
(この匂い……)
雑踏の人々がまた思い思いに歩き出す。小さく鼻をひくつかせながら電車が来た方向へ歩いてほどなく、人だかりのできた小さな店を認めてやはりと頷いた。
「さあさ、つけ焼き煎餅が焼き立て! 運がいいよ、まだあるよ!」
「こっちに三枚ちょうだいな」
「俺は五枚!」
威勢のいい声と醤油が焼ける良い香りを振り撒き、路面電車の停留所からも客が呼び込まれているようだった。
この煎餅屋は昼間通りがかると大体繁盛している。つきたてのもち米を用いて作られた香ばしく歯ごたえのある一枚は、一度食べればやみつきなのだそうだ。
出久もこの匂いを嗅いでつい食べたいと思わないでもないが、混雑に入ってまで求めたいかといえばそこまでではない。
けれど今日はなんとなく足を向けてみることにした。給料が出たばかりで懐があたたかいと気が大きくなるというか、普段と違う物を少しくらい買おうかという気になってくる。
(そうだ、お客さんのお茶請けにもしようかな)
事務所で扱う、そういったこまごました物品の仕入れも出久は任されていた。
珈琲が普及したといっても、日本茶を好む層はまだまだいる。依頼人の好みにあわせて出すとしたら人気店の煎餅は気が利いているだろう。
出久は列に並び、自分の番が来ると周囲の客や店主に負けないよう声を張り上げた。
「すみません、醤油煎餅五枚──」
「あらあっ、緑谷くん!?」
「えっ?」
突然脇から恰幅のいい婦人に弾んだ声をかけられ、出久は面食らった。自分の母親ほどの年齢の相手にそう知り合いはおらず、咄嗟に返事ができず目を白黒させる。
「この前はありがとうねえ! 本当に助かったわ」
「あ、ああ、ご依頼の……」
確かに冷静になって見れば、数日前にやりとりを終えた依頼人の顔である。婦人の明るい声は注意を引き、周り数人の客や店主までもが目を丸くしてこちらに注目していた。
「この子の分もこれで! あ、袋は分けて頂戴ね」
「え、え!? そんな、悪いです!」
横から自分の分の代金まで支払われ、出久は慌てふためくが婦人はからからと笑っている。
「いいのこれくらい! あのね、うちの裏の化け猫騒ぎをおさめてくれた子なのよ」
「ほぉ、化け猫?」
隣の紳士と店主が興味を見せる中、婦人が大袈裟なほど頷く。
「もう夜な夜な不気味なひどい声で鳴かれて迷惑してたのなんの! それをこの子に依頼してから、あっという間にやんだのさ」
「そりゃアほんとか? すげェな、お前さん単なる書生じゃないのかい」
「いや、えーと……ははは……」
苦笑で誤魔化している間、店主は次々と煎餅を紙に包んでいく。一度店主から婦人の手に渡された包みを、緑谷はまだ受け取るのに躊躇した。
「お煎餅好きなの? ここの美味しいわよねえ」
「あ、その、お客さん用にと思って……」
「あらあ、あなたも食べてご覧なさい! それにあれっぽっちの報酬しかとらないで、ちゃんとお給金はもらってるんでしょうね?」
「あはは……そこまで大変な相手じゃありませんでしたから」
結局婦人に押し切られ、有難く焼き立て煎餅の入った袋を押し抱いて出久は帰路についた。
煉瓦作りの舗道を逸れて未舗装の細い路地に入れば、かつかつと鳴っていた下駄底が少し大人しくなる。腕の中でかさかさと鳴る紙袋の隙間から漂う匂いが香ばしい。その仄かな温かさを気にしながら、日陰を歩き続ければ己の職場兼仮住まいの事務所が見えてきた。
細い煉瓦造りの西洋風の建物で、外階段から二階に入る。
「まあ、猫自体は……ね」
小さく呟きが落とされた後、影で猫がニャアと鳴いた。
「ただいま~……」
無人の事務所内に声をかけ、テーブルに紙袋を置く。
すると背後で、締まったばかりのドアベルが再度鳴ったので不思議に思い出久は振り返った。
果たしてドアの前には、男が一人立っていた。
驚いてたたらを踏みかけ、テーブルに脛をぶつける。痛い。しかしすわ強盗かと身構えるまでもなく、一目でその男の身なりは良いと分かる。仕立ての良い羽織を着て上背があるので勘違いしたが、顔をよく見ればまだ少年であった。
出久のすぐ後に入って来たのか、ただ鋭い目つきを事務所内に走らせ、黙って佇む姿には異様ささえある。
「あの……?」
恐る恐る声をかけるが、出久はそこで言葉に窮した。
どうしても、突然現れたその少年の容姿に釘付けになる。
生まれつきなのか、彼は髪が二色に分かれていた。左側は燃え盛る暖炉の火のように赤く、反して右側は降り積もる雪のように静謐な白銀である。そして、すっと通った鼻梁に左右で温度の違う色の瞳。
それら全てが、芸術品のように美しく少年を形作っていた。
────異能を持って生まれし者は、その外見に特徴があらわれるという。
例えば人間離れした美貌、目立つ特徴的な容姿。
出久の幼馴染の少年も、明るい色の髪と鮮烈な色の瞳で鬼の血を引くなどと言われていたものだが、目の前の彼は度を越していた。
(この人は────どんな人生を歩んできたんだろう)
世間に〝異形〟と呼ばれるものが蔓延り、人々を悩ませるようになってから、それに対抗するように今度は〝異能〟を持った人間が生まれた。
異形には異能を。人々は特殊な力を持って生まれた彼らに期待したが、それは同時に畏怖と断絶を生んだ。人はどうしたって己と違うもの、理解できないものを怖がる。今でこそ人に感謝されるような職業があれど、その差別の歴史は未だ途絶えてはいない。
部屋の中へぐるりと視線を向けていた彼は、再度正面の出久に視線を固定した。品定めをされているような、あまりよくない心地がする。
「────轟焦凍。家は四丁目で呉服屋をやってる」
年の頃は出久と同じくらいに見えるも、低く落ち着いた声だった。
その自己紹介に、出久は目を瞬かせる。
「依頼しに来た」
その一声を皮切りに、幽世へ入り込んでしまったかのような事務所の空気が再び動き出した。
「あっ、ご、ご依頼! どうぞ! おかけください!」
応接用ソファの上に積みっぱなしだった本を慌てて退かし、湯を沸かしに奥へ急ぐ。ついでに脱いだ帽子を壁へ引っ掛け、狭い室内を動きづらいので草履に履き替えた。洋風の事務所は絨毯が敷いてあり、客人ともども靴のまま通せるようになっている。
「珈琲と緑茶、どっちがいいですか?」
給湯場から顔を出すと、焦凍はちょうどすすめられたソファに腰を下ろそうかというところだった。きょとんとした目が初めて年相応に思える。
「じゃあ、緑茶……」
早速買ったばかりの煎餅が出番を迎え、出久は一人口角を上げた。焼き立ての今が一番美味いに決まっている。依頼人が来なかったら湿気てしまう前にどうにかせねばならなかったと今更に思い至り、一人で味わうよりも余程良いと幸先の良さについ表情が緩んだ。
「お煎餅、今買ってきたばかりなんです! よかったらどうぞ」
テーブルに煎餅を入れた籠と湯のみを二つ並べて、出久は焦凍の正面に座った。それに焦凍が怪訝な顔をする。まるで二人きりの茶会でも始まりそうな雰囲気だ。
「……? 所長は」
焦凍の短い問いに、慌てたように目の前の少年がソファの上でびしっと姿勢を正した。
「あっ。も、申し遅れました。僕、所長代理で調査員の緑谷出久と言います」
焦凍は手にした湯呑みを口から離す。
どう見ても自分と同じか、それ以下に見える年端もいかぬ少年は、行儀よく揃えた膝の上で手を組み、真正面から焦凍の視線を受け止めた。
「では──改めて、ご依頼内容を伺います。この度のご相談は──」
小さく首を傾げたいとけない表情の上で、翡翠色の大きな瞳がきらめく。
「事件ですか、怪異ですか?」