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    影犬ほのぼの(?)ご飯話とりあえず書き終えた記念✌️2章と3章を載せてみる。見直しはまだしてない

    二.お隣さんとぶり大根

     荒れた路地を駆け抜ける。どんよりと低く立ちこめる灰色の雲は、今にも崩れ落ちそうな建物の壁と同じ色をしていた。
     高く跳躍したトリオン兵が、ひび割れて蔦だらけになった家に着地しようと落ちてくる。どれだけ荒廃していようが、それは誰かの持ち物だ。軌道をずらす為、走りながら銃を構えて引き金を引く。タタタ、と連続で発射された弾はトリオン兵の核部分を撃ち抜いた。
     力を失い落下するそれにもう一度弾を当て、向きを変えてやる。どさ、と叩きつけられた先は何もないアスファルト。よし、上手くいった。
     遠くでは、二宮さんがアステロイドで応戦する派手な音と光が見えた。そういえば、あの人太刀川さんと喧嘩したって言ってたな。嵐山さん情報だけど。
    「犬飼先輩、遅くなってすみません」
    「おっ、辻ちゃん〜。ひと足遅かったね、もう倒しちゃった」
    「調子、良さそうですね」
    「うん。まだまだいけるよ」
    「安心しました」
    「え?」
    「ここ最近、少し元気がないように見えたので」
     そう言った辻ちゃんは、涼し気な双眸に心配の色を浮かべていた。
    「そう?」
    「広報の仕事、大変なのかなって。ひゃみさんと心配してたんですけど……今日はすごく、調子が良さそうに見えます」
    「あはは、心配かけてごめん」
     辻ちゃんの一言一句に心当たりしかなかった。二宮隊のバランサーとしての能力を買われたのか、前々から打診されていた広報の仕事を受け始めたのが二ヶ月前。生活は一変した。移動時間すら惜しいから、ボーダー本部基地へのアクセスがいい場所に引っ越して、ひとり暮らしを始めた。少しばかりテレビに出るようになって、大学内でも商店街でも知らない人に声をかけられる機会が増えた。
     自分で思う以上に、消耗しているんだと思う。家に帰る頃にはヘトヘトで、泥のように眠り、いつの間にか朝を迎えるといった毎日を送っていた。精神をすり減らす日々の中、おれは食事を疎かにした。食べることは好きだけど、睡眠欲にはどうしても勝てなかったのだ。
     結果的に部屋の中で動けなくなってカゲに助けを求めました。なんて、二宮さんに知られたらどうなるだろう。怒るだろうな。隊を辞めさせられはしなくとも、休養という名の謹慎くらいはさせられそうだ。
    「無理はしないでくださいね。広報の仕事、手伝えばしませんけど愚痴くらいなら聞きます」
    「ありがとね。辻ちゃん優しいなぁ。でもおれは大丈夫だよ」
     最近になって知ったこと。おれの周りは、おれが思う以上に優しさであふれている。だって、あのカゲですら、おれに手を差し伸べてくれたのだから。
     家で貧血を起こして三日。カゲは何故か毎日ご飯を食べさせてくれる。本人は自分のシフトを乱されたくないからとか何とか、ぶっきらぼうに言っているけれど。ちなみに、今朝のしらすご飯も美味しかった。
    「ねぇ、辻ちゃん」
    「何でしょう」
    「おれってさ、犬っぽい?」
    「……なんですか、藪から棒に」
    「やー、何となく?」
     あいつは多分、捨て犬を放っておけないタイプの不良みたいなものだ。おれなんかを助けて、こうして回復するまで構ってくれるのは、きっとそんな理由。優しさに他ならない。
    『二人とも、三十秒後、西に門発生するよ。準備して』
    『了解』
     ひゃみちゃんの声に、緩みかけた意識をきゅっと引き締める。きっちり三十秒。おれたちは空を歪める黒い門に向かって駆け出した。

     二宮さんと二人きりの作戦室に会話はほとんどない。同じ隊で活動を続けながら、二宮さんは彼の師と同じく後進育成に舵を切り、おれは広報としてボーダーを支える決意をした。各々がそれぞれの仕事をこなす室内には、ペンが紙上を走る音やキーボードのタップ音など、心地良い作業音で満ちている。
     提出期限の迫っていた書類の最後の一枚をファイルに戻し、カバンにしまう。ひゃみちゃんが帰り際にいれてくれたコーヒーを飲み干すと、底に溜まった濃い苦味が舌の上に残った。
    「二宮さん、お先です」
    「……犬飼」
    「はい?」
    「悪い、ちょっといいか」
    「あれ、何かありました?」
     名前を呼ばれて足を止める。振り返った先で、二宮さんの栗色の瞳がおれを見ていた。隊の報告書に不備でもあっただろうか。
    「次の近界遠征の話がきてる」
    「ああ、もうそんな時期ですか」
    「辻と氷見にはこれから聞くが、まずはおまえだ。どうする?」
     差し出された「近界遠征希望調査書」を受け取り、目を通す。いつもと変わらない内容を追いかけ、犬飼澄晴の隣にある「希望する」の文字に丸をつけた。
    「早いな」
    「もう決まってるんで」
     一ミリの躊躇いもなかったおれの左手に、二宮さんは少しだけ驚いたように左の眉を上げた。
    「広報の仕事、忙しくねぇのか」
    「忙しいですけど……でもそれとこれとは別です。二宮さんも行くんでしょ?」
    「当たり前だ」
    「おれ、鳩原ちゃんのこと諦めてないんで」
    「…………そうか」
    「これ、自分で出したほうがいいですか?」
    「いや、俺がまとめて提出する」
    「じゃあ、よろしくお願いします」
     ニコリと笑って調査書を渡すと、二宮さんは仏頂面のまま頷いた。再び自分の仕事に戻った隊長は、おれなんかよりよっぽど忙しそうに見える。あまり無理をしなければいいけど。
     廊下に出て出口へ向かう途中、すれ違う人々と挨拶を交わす。明らかに人数が増えた年下の子たち。自分の立場の重さを嫌でも思い知らされる。これでも、隊長の名を背負っていないだけまだ軽いほうかもしれない。
     月日が経つにつれて、鳩原未来の名前がみんなの記憶から薄れていくのを感じていた。二宮隊に狙撃手がいたという過去を知らない隊員も多くなった。記憶は風化していくものだ。それは仕方のないことだって、分かっている。
     でも、いつか連れ戻せるかもしれない。チームメイトに戻れる日がくるかもしれない。とりあえず、二宮さんや可愛い後輩たちを悲しませたことを叱らなくちゃいけないけど。
     望みは薄いと分かっていても、可能性が少しでもある限り、おれは諦めないって決めたんだ。

     帰り道、少し足を伸ばしてショッピングモールに寄った。ちょっといい菓子折りを購入する為だ。
     手土産を選ぶ目は二人の姉に鍛えられた。あの人たち、特に甘いものに関しては超うるさい……なんて、本人たちに聞かれたらめんどうだから、絶対口には出来ないけれど。
     引っ越しの挨拶品として選んだバウムクーヘンは、なかなか好評だったようだ。カゲがわざわざ美味かったって感想を寄越してきた時は、初めて姉たちに感謝した。
     仕事に穴をあけるという失態をおかさずに済んだのは、カゲの美味しいご飯のおかげだ。それから、おれが助けを求めた時にトリガーを起動した所為で、上からお叱りを受けたと聞いた。理由を聞かれても頑なに答えなかったから始末書書かされてた、というのはゾエからの情報だ。
     感謝と謝罪を込めて選んだのは、ラスクの詰め合わせ。二枚ずつの個包装になっているから、ひとり暮らしでも気軽に食べやすいと思って。念の為、姉にメッセージを送って確認してみる。悪くない。だそうだ。
     すっかり体調も良くなって、足取りも軽く帰路を進む。暮れなずむ曇り空に反しておれの心は朗らかだった。ああでも、カゲの優しくて美味しいご飯がもう食べられないと思うと、少し寂しい。
     自宅のアパートに到着する頃には、日はとっぷりと暮れていた。星の見えない静かな夜。耳を澄ませば、警戒区域から仲間たちの戦闘音が聞こえてくるかもしれない。
     自分の家に一度戻って、さっき購入した菓子折りとスマホだけを持って、目指すは隣のカゲの家。扉の前で一度深呼吸をしてから、インターホンを押した。
    「……はい」
    「こんばんは、カゲ」
    「おー、上がれや」
    「これ、渡しにきただけだから」
     紙袋を押し付ける。戸惑った様子でそれを受け取ったカゲは、お腹が空きそうないい匂いをふわふわと纏っていた。
    「……なんだこれ」
    「ご飯のお礼」
    「別にいらねって」
    「それから、区域外でトリガー起動した所為で始末書って聞いたんだけど、そのお詫び」
    「誰から聞いた」
    「ゾエ」
    「あのヤロウ……」
     後で締める、と低く唸ったカゲは、何故かドアを大きく開けた。
    「あ、じゃあ、おれはこれで」
    「あ? もうてめーの分まで作っちまったんだよ。入れ」
    「え、でも悪いし……」
    「はやく」
    「おじゃまします……」
     言われるがまま敷居をまたいだ瞬間、いい匂いは一気に濃くなった。
    「てめーに飯を食わせて、気づいたことあんだよ」
    「うん」
    「一人分より二人分のほうが、作んの楽」
    「そうなんだ」
    「煮物とかも出来るし」
    「ちなみに、今日の献立は……?」
    「ぶり大根」
    「やば」
     いい匂いの正体を知って、ぐぅ、とお腹が忘れかけていた空腹を訴えた。カゲにも音は届いてしまったのだろう。楽しげに笑う背中を追いかける。
    「手ぇ洗って、箸用意しろ」
    「了解」
     三日もお世話になっていれば、役割分担はバッチリだった。箸を置き、カゲが皿に盛った料理を受け取ってテーブルに並べていく。熱々のぶり大根から立ちのぼる湯気の暴力的なくらいの芳香に、おれは口角が緩むのを抑えきれない。
     
    「なにこれ、大根すっごくやーらかいんだけど……」
     飴色になった大根は中まで味が染みていて、それはそれは美味しかった。
    「時間あったからな。鋼が鈴鳴のほうで急用出来たって個人ランク戦ドタキャンしてよ。することねーから煮てみた」
    「することないからぶり大根作ろうとはならないよね、普通」
    「だな」
     料理を挟むと、おれたちは普段より幾分か柔らかい雰囲気で会話が出来る。おれはどうやら、こうしてカゲと普通に話が出来るのが嬉しいみたいだ。
    「犬飼」
    「ん?」
    「さっきも言ったとおり、二人分作るほうが楽だから。明日も食いに来い」
    「おれとしては嬉しいけどさぁ……申し訳ないって」
    「この間みたいにぶっ倒れるほうが申し訳ないと思え」
    「う……じゃあさ、片付けはおれがするよ」
    「おう」
    「それから、食費半分入れるから」
    「分かった」
     片付けを終えたおれたちは、コーヒーを飲みながら簡単なルールを決めていく。数日の実践で土台は出来ていたので、案外すぐにまとまった。
    ・料理を作るのはカゲ。食材の買い出しと片付けはおれ。
    ・食費は折半すること。
    ・どちらかが夜や早朝のシフトに入っている時は無し。外食の際は要連絡。
     それから。
    「ああそうだ。犬飼、これ」
     ふらりと立ち上がって隣の部屋に消えていったカゲが、戻ってくるなり何かを投げてきた。キャッチすると同時に、手のひらの中でチャリンと音がする。
    「鍵。勝手にあけて入ってきていい」
    「ありがと。後でおれのも渡すね」
    「はぁ? いらねーだろ」
    「使わなくても受け取って」
     おれだけが鍵を受け取るのは、何だか不公平な気がして嫌だった。急いで家に戻って持ってきた鍵を投げると、カゲは渋い顔をしてキャッチした。幼い頃から気に入っている飛行機くんのマスコットがついている。
    「なんだコイツ」
    「飛行機くん」
    「すげぇぶさ、」
    「ブサイクって言ったら、次のランク戦蜂の巣にするよ」
    「はっ、出来るもんならやってみろ」
     人生、何があるか分からない。二宮さんにスカウトされた時も、自身の誕生日に仲間が失踪した時も、同じことを思ったけれど。
     カゲとおれ。自他ともに認める相性の悪さをほこるおれたちが、一緒にご飯を食べる。そんな不思議な生活は、こうして始まった。

     
     ひとり暮らしを始めてから、帰りが少し遅くなるだけで仮眠室を借りることが増えた。連絡する必要もないし、心配する人もいない。まるで褒美がほしいから勉強を頑張る子どもみたいな動機だけど、まあ、実際そうだった。
    「嵐山さん、お先に失礼します」
    「ああ、お疲れ。終わったのか?」
    「少しだけ残ってるんですけど、これなら家でも出来るなって思って」
    「そうか。無理はするなよ」
    「あ、はい。ありがとうございます」
    「最近、二宮さんが心配してたんだよ。仮眠室の使用履歴見て「あいつ、家帰ってねぇのか……?」って難しい顔してたぞ」
    「あー……あはは、なんかすみません……」
     いつだって爽やかな嵐山さんによる二宮さんのモノマネに対する衝撃は、居た堪れなさに打ち消された。
     勝手にいっぱいいっぱいになって周りが見えていなかったけど、落ち着いて一歩引いてみたら分かる。おれは自分の想像よりもたくさんの人に見守られていたって。
     本部を出てからスマホで時刻を確認すると、予定していた帰宅時間を一時間ほどオーバーしてしまっていた。今から帰るとカゲにメッセージを送ると、返ってきたのは「了解」という吹き出しがついた可愛らしい犬のスタンプ。影浦隊の仁礼ちゃんに半ば無理やり入れさせられたらしい。何だかんだ使うところが、優しいよね。
     自分の家には戻らず、荷物を抱えたままカゲの家の鍵をあける。おじゃまします、の言葉に、おう、と簡潔な返事。営業モードになっていた表情筋のスイッチが切り替わる音がした。
    「ごめん、思ってたより遅くなっちゃった」
    「俺も帰ってきてからそんな時間経ってねぇし。気にすんな」
    「ほんと? わ、いい匂い。なんだっけ、これ」
    「ホイコーロー」
    「そうそう、美味しいよね」
    「てめーは何食っても「美味しい〜」って言うだろ」
    「え、酷くない? そんなアホっぽい言い方してる?」
    「してる」
     もしかすると、おれは寂しかったのかもしれない。小さな頃から二人の姉に揉まれて育って、ボーダーという歳の近い仲間がたくさんいる組織に身を置いて。思えば、静かな場所ってあまり経験がなかった。ああ、でも結成したての二宮隊は酷かった。あの張り詰めた空気は、思い出しただけで笑えてくる。
    「おい、ぼーっとしてんじゃねーよ。食うぞ」
    「ああ、ごめんごめん」
     手を合わせる。高さの違う二つの声が重なった。
    「いただきます」
     疲れた身体には、ちょっと濃いめの味が嬉しかったりする。近距離攻撃を得意とする攻撃手としておれよりよほど動き回るカゲは、それをよく分かっているのだろう。ひと口頬張ると、ドンピシャのもったりと濃厚な味付けに思わず唸ってしまった。
    「うぅ〜……」
    「……んだよ」
    「美味しい……」
    「まぎらわしいリアクションすんなバカ!」
    「あはは、ごめんごめん」
     テーブルの下で足を小突かれて笑う。カゲは笑っていないけど、満更でもない顔をしていた。

     料理の腕はからっきしでも、皿洗いの腕はかなり上達したと思う。カチャカチャと食器たちが触れ合う音に、ざあざあと流れる水の音。賑やかなテレビの音と、背中に感じるカゲの気配。
    「おれ、今日のスープすごく好きだった」
    「あ?」
    「コーン入ってるやつ」
    「ああ、中華風コーンスープな」
    「うん」
    「スマホで調べた。簡単だから後で教えてやるよ」
    「おれにも作れる?」
    「どーだろうな。てめー、コーヒーいれんのも下手だし」
     蛇口を捻って水を止める。タオルで全て拭いたら終わりだ。
    「えー、そんなに下手?」
    「インスタントもびっくりな下手くそ」
    「でも飲んでくれるんだ」
    「いれてもらったもん残すのは失礼だろーが」
     おれなんかがいれたのに? と続けようとして、思いとどまる。この心地良い空気に水を差したくなかった。
    「おれ、二宮隊でコーヒーいれたことないや」
    「へぇ、意外だな」
    「二宮さん、ああ見えてジンジャエールが好きなんだよね。だから冷蔵庫の中そればっかり……よし、終わった」
    「おー、サンキューな」
    「こっちこそ、ごちそうさまでした。ねぇカゲ、お願いがあるんだけど」
    「あ? なに」
    「仕事、ちょっとだけ残っててさぁ……ここでやっていい……?」
    「好きにしろ。茶ァくらいいれてやるから」
    「やった、ありがと〜」
     カバンからタブレットを取り出す。おれと入れ替わる形でゆらりと立ち上がったカゲは、シンク下から取り出した小鍋でお湯を沸かし始めた。
     小さく絞られたテレビの音程度の雑音は、かえって集中力を高めてくれる。コト、と傍らに置かれたマグカップに顔を上げると、カゲは敵意の欠片もない、優しい顔をしておれを見下ろしていた。
    「熱いから気ぃつけろよ」
    「ありがと……ほうじ茶?」
    「ん。この間実家行ったら、親がくれた」
     ふわりと芳しい香りが、蕩けそうな眠気を誘う。美味しいご飯で癒されたからといって、慣れない環境での心労が全てなくなるわけじゃない。自分で選んだ道だから、弱音は吐かないって決めた。でも、たまには立ち止まっても、許されるのだろうか。
     作業を止め、両手でマグカップを包むと、指先からじんわりと熱がかよっていく。まぶたが重い。
     ああ、疲れた。
    「……お疲れさん」
     鼓膜を揺らした低くて柔らかな声は、カゲのものだったかもしれないし、ただの幻聴だったのかもしれない。今はどっちでもよかった。おれを包み込む優しさは本物だから。
     隣に引っ越してこなければ、絶対に知らなかった。カゲの無条件な優しさや、世話焼きなところなんて。

     朝起きたら、いつもと違う景色が広がった。自宅とも仮眠室とも違う匂いに飛び起きると、窓から差し込む朝日が網膜を焼いた。眩しい。昨日の空の灰色が嘘みたいな青空に、ボソリと文句を言いながら理解する。ここはカゲの家だと。
     自分が転がっているのは、フローリングだった。ぐ、と天に向かって伸びをする。背中がパキパキとすごい音を立てて、思わず笑ってしまった。でも、身体に掛けられていた毛布のおかげで寒くない。
    「おー、起きたかよ」
     家の主は、既にキッチンに立っていた。
    「……ごめん、寝ちゃった」
    「仕事熱心なのはいいけどよ。自分とこ戻る体力くらいはとっとけ」
    「…………ごめん」
    「ま、いーけどな。ほら、パン焼けるから顔洗ってこい」
    「うん」
     朝食の誘惑に背中を押されて立ち上がる。顔を洗って戻ってきたら、毛布のお礼にコーヒーをいれてあげるんだ。今日も多分、薄いのが出来上がると思うけど。きっとカゲは、文句を言いつつも全部飲んでくれる。
     そんな朝も、悪くはないでしょう?


    三.それぞれの役割と惣菜屋のハムカツ

     大学の広い食堂内を見回すと、慣れた視線が肌に刺さった。奥の窓際の席。俺が視線に気づいたことに気づいたのだろう。鋼の表情がパッと華やいだ。
    「お疲れ、カゲ」
    「お疲れ。ゾエいるから、鋼が手ぇ振らなくても気づいたわ」
    「ゾエ、目立つもんな」
    「駅とかでも、ゾエさん目印にされがちだよねぇ」
     荒船の隣に盆を置いて腰をおろす。
    「うわ、またかけうどんかよ」
    「別にいいだろ。鋼だって今日もそばなんだし」
    「そば、美味いぞ」
     既に食べ始めている三人を横目に手を合わせる。あまりの色味のなさに心配したのか、対角線上に座るゾエが小さなコロッケを一つうどんの中にいれてきた。衣にジュワジュワとつゆが染み込んでいく。
    「サンキュー、ゾエ」
    「いいのいいの。食べて」
    「太刀川さんが、コロッケうどん美味いぞって言ってたな」
     思いがけず尊敬する先輩の好物が完成したからか、鋼は緩く微笑んでいる。つゆの染みたコロッケは、たしかに美味い。箸先でひと口大に割ってから口に運ぶと、ふと先日の夕食時に食べたコロッケを思い出した。
    「……そういや、商店街の惣菜屋のコロッケ美味いぜ」
    「へぇ、そうなの?」
    「この前食った。中、じゃがいもとひき肉だけですげーシンプルだけど、美味い」
    「え、ゾエさん絶対好きなやつだ。今度行ってみようかな」
    「おう」
    「この前、俺は「かげうら」のお好み焼き食ったぜ」
    「どーも。毎度ありがとうございます」
    「おばさん心配してたな。雅人が全然帰ってこないのよって」
    「おばさんに心配かけちゃダメだぞ、カゲ」
    「たまにゃ帰ってるし……って、てめぇらうぜーのぶつけてくんな!」
     飛んでくる生ぬるい視線を牽制しつつ、ずるずるとうどんをすする。隣では全て食べ終えた荒船が、茶を飲みながらぼんやりと壁の大きなテレビを眺めていた。
    「お、犬飼出てんぞ」
    「ホントだ。嵐山さんに引けを取ってない。すごいな」
     荒船や鋼の言葉に少し遅れて、あの明るい声が耳に届いた。顔を上げると、隔週で行われている定例会見の様子が映し出されている。教科書を切り取って貼り付けたような笑顔の犬飼は、たしかに隣の広報部隊の隊長に負けない存在感を放っていた。
    「いつもニコニコしてるもんねぇ。明るいし、話すの上手だし、ピッタリだと思うな」
    「……そんなニコニコしてっかぁ?」
    「おまえら、相性悪いからな……」
     俺が首を傾げると、三人は揃って苦笑した。
     最近は比較的良好な関係を築いている気がするのだが。俺の前では、あんな作りものみたいな顔はほとんどしない。気の抜けた顔、とでもいうのだろうか。まあ、それをこいつらに言ったところで何が変わる訳でもないのだが。
     会見の内容に興味はないので、午後の個人ランク戦のことを考える。たまには太刀川さんに挑んでみるか。

    「おまえ、今日テレビ映ってたな」
    「え、観たの?」
    「学食で流れてた。みんな見てたぜ」
    「そんな気がしたんだよね……だから今日のお昼は隠れてた」
    「は? 食ってねーのか」
    「うん。お腹すきました」
     まさかの告白に、俺は犬飼の茶碗の盛りを一回分増やした。今日の献立は和風ハンバーグだ。上にのせた青じそと大根おろしでさっぱりと食べられる。
     その隣にちょこんと添えてあるエビフライは、今日犬飼が食材の買い出しの際にオマケしてもらったものだった。顔が広く知れ渡るようになったからか、それとも元々の人当たりの良さか。こいつは商店街に行くと、八百屋や惣菜屋のオジサンオバサンによく「オマケ」してもらって帰ってくる。こいつが買い出しに言った日、僅かではあるが豪華になる献立に、俺は一人得した気分になっていた。
    「カゲは今日、太刀川さんに挑んだって聞いたけど」
    「ん。六対四で勝った」
    「聞いた聞いた、びっくりしたよ」
    「最後はギリギリだったけどな」
     茶碗を並べて腰をおろす。いただきます、といつもの言葉が少しだけ早口で告げられた。どれだけ腹減ってたんだか。
     まずは大根とベーコンのスープで口を潤し、ホッとひと息吐いた犬飼は、大きな口でハンバーグを頬張った。
    「っ、おいひい」
    「おう」
     ふわ、と表情が崩れる。ほら、これだ。テレビ用の取り繕った顔じゃなくて、飯が美味いと気の抜けたマヌケづらを浮かべるこいつのイメージが、俺の脳内に強く刷り込まれているのだ。
     ゾエたちに今のこいつの表情を見せてやりたい。でも、それは何故か酷くもったいないことのように感じられた。
    「エビフライも食ってみ、美味いから」
    「……ホントだ、サクサク」
    「てめーの営業のおかげだな」
    「いや、営業って」
     衣で誤魔化されていないエビフライのシッポの部分まで全て食べて、犬飼は苦笑した。
    「テレビの影響って、思った以上に大きくてさ。惣菜屋さんでこれくださいって言ったら、「あら、テレビに出てたボーダーの子じゃない〜! オマケしてあげる!」って感じ。おれ、ただ突っ立ってるだけ。ありがたいんだけど、圧倒されちゃうよね」
     その光景を思い出しているのか、端正な顔が引き攣っている。自分のペースに持ち込もうとするこいつが圧倒されて引いてるのは、正直見てみたい。
    「今度、時間合う時俺も行くわ」
    「え、カゲああいうの苦手じゃない?」
    「苦手だ。でももらってばっかじゃ悪ぃし、ちゃんと礼はしたい」
    「カゲはいいやつだね、ホントに」
    「……どこがだよ」
     上層部ぶん殴って、ポイントを剥奪されるような人間なのに。
    「義理堅いところもそうでしょ。あと、おれなんかを助けてくれるんだもん。いいやつだよ」
     真顔だと案外きつい印象を与える双眸が、ほんの少し弧を描く。澄んだ空の色をした瞳に映る俺は怪訝そうな顔をしていた。
     刺さる感情に嘘はなさそうだ。どうやらこいつは本気で俺みたいなのを「いいやつ」認定しているようだが、実際は違う。結局は全て自分の為。俺は、利己的な人間なのだ。
    「…………俺は、てめーの思うような人間じゃねぇ」
    「そうかな。本人が違うと思ってても、周りのみんながそうだと思ってたら、それが「影浦雅人」って人間なんじゃない?」
     この議論は、どこまで行っても平行線を辿るだろう。俺ははぁ、と大げさな溜め息を吐き、低い声で続けた。
    「……もうこの話はやめだ。飯がまずくなる」
    「ありゃ、ごめん」
     犬飼が口をつぐむと、しばしの静寂が訪れた。初めてこいつに飯を食わせた時よりも重苦しい雰囲気が、二人の間に居座ろうとする。俺から話を振ることはほとんどない。だから目の前のこいつが喋らなければ、箸と食器がぶつかる音や、テレビから流れてくるわざとらしい笑い声しか聞こえない。
    「カゲ、あのさ」
    「あ?」
    「さっきとは違う話。してもいい?」
    「勝手にしろ」
    「おれね、遠征希望したんだ」
     どこか硬さを孕んだ声に、俺は少しだけ反省した。食事の時間に、いらぬ気を遣わせてしまったと。
    「……広報と両立、いけんのか?」
    「うん。大変なのは分かってるけど、頑張ろうと思う。カゲはほぼ決定だよね?」
    「だろーな。前回も、俺は初めから決まってたし」
    「さすが切り込み隊長。頼りにしてるよ」
    「うぜぇ……つーか、その呼び方、誰が広めたんだろーな」
    「噂だと当真だって」
    「あいつ……最近じゃ、C級のガキどもまでそう呼んできやがる」
    「それだけカゲは憧れの的ってことでしょ。カッコイイもん、切り込み隊長って」
     そこまで言って、満足したのだろう。犬飼は止めていた手を再び動かしはじめた。
    「鳩原ちゃんを見つけて、連れ戻す」
    「……」
    「おれの目標」
     鳩原未来が近界に消えた。ずっと隠されていた事実が表沙汰になった時、二宮隊は揺れた。あの頃から在籍する隊員たちの間では、触れてはいけない不文律となっているほどなのに。まさか、こいつから触れてくるだなんて。
     笑顔で覆い隠した傷だらけの感情は、たしかな強さとなって犬飼を支えていた。眩しさに目を細める。それでも、そらしたくはなかった。
    「……頑張れよ」
    「うん」
     真面目な空色は、まっすぐに未来を見据えていた。
     

     大学の講義が終わった俺たちは、アーケード商店街の入り口で待ち合わせた。シャツにジーンズというラフな格好でひと足先に到着していた犬飼は、先日液晶越しに観たのと同じ笑顔を浮かべていて、俺は思わず眉を寄せる。
    「悪ぃ、待たせた」
    「全然待ってないよ。さ、行こうか」
     八百屋と惣菜屋ね。歌うような軽やかさで言った犬飼に任せて、俺はその後ろをついていくだけだ。
     ちくちくと刺さる感情に、マスクをあげる。好奇心や憧憬の中にひと匙の敵愾心や嫌悪のエッセンスが加わっていることに、こいつは気づいているのだろうか。
    「カゲ、靴屋のサカモトさんからお菓子いただいちゃった」 
    「あ……すんません、ありがとうございます」
     犬飼が視線で示した先で微笑む小柄な高齢女性からは、柔らかな好意が感じられた。渡されたビニール袋の中を覗く。駅前の洋菓子屋名前が表記された焼き菓子セットがこれでもかと詰められていて、ビビった。
    「え、いや、こんなにいいんすか」
    「サカモトさんね、去年のイレギュラー門発生の時にカゲに助けてもらったんだって」
    「去年の……? あー、この辺であったな……すんません、覚えてなくて」
     助けた人間の顔なんて、一々覚えちゃいない。救った人、屠ったトリオン兵。全てを事細かに記憶していたら、あっという間に脳のキャパシティを超えてしまうだろう。人を助けたという事実だけをぼんやりと思い出し謝罪すると、サカモトさんはいいのよ、とにこやかに言った。ほんのりと、革の香りがする。
    「じゃ、この辺で失礼しますね。ご自愛ください」
     慣れた様子の犬飼に、今度は並び立って歩く。伊達に広報の仕事を捌いていないと、尊敬の念すら抱いてしまった。
    「……もちろん、全員が好意的なわけじゃないよ」
     こちらを一瞥した犬飼が、ぽつりとこぼした。
    「分かってる。刺さってくんだよ。憎悪っつうか、敵意が」
    「やっぱり? ボーダーは特殊な組織だから。全員に好かれようなんて無理だよね」
    「……割り切ってんのか」
    「んー……割り切ってる、とは少し違うかな」
    「……?」
    「第一次大規模侵攻で家族を失った人とか、住む場所を追われた人。苦しさをどこにぶつけていいか分からない人が大勢いる。その矛先になるのもおれたちの仕事だって、最近初めて知った」
     いけ好かないはずの笑顔が、ほんの少しだけ頼もしく見えた。
    「……なんてね。おれが偉そうにあれこれ言える立場じゃないから。今のは嵐山さんの受け売り。あ、タナカさんこんにちは。わぁ、卵安いね」
     息つく間もなく、犬飼はコロッと雰囲気を変えて八百屋へ踏み込んでいく。マジですげーな、百面相かよ。
    「ねぇカゲ、おひとり様一パックだって。二パック買う? 多いかな?」
    「多いかもしんねぇけど、オムライスでも作りゃあっという間だろ」
    「よし、決まりね。タナカさん、卵二パックください」
    「はいよ。彼がこの間言ってたボーダーの子かい?」
    「そうです。カゲ、この人が八百屋の店主のタナカさん。よくオマケしてくれる」
    「いつもあざっす。助かってます」
    「彼、すごく強いんですよ」
    「ちょ、犬飼」
    「へぇ、若いのにすごいねぇ。犬飼くんのお友だちが来てくれた記念ってことで、今日もオマケしちゃおうかな。よし、キャベツ持って帰りな」
    「やった、ありがとうございます」
    「あ……すみません」

     礼を言いに行ったつもりが、土産をたくさん持たされて帰ることになるとは思ってもみなかった。
    「これじゃ、たかりに行ったみてーじゃねぇか……」
    「いいんだよ、ご厚意には甘えておこう」
    「八百屋のオッチャン、俺のこと犬飼の「お友だち」って言ったぜ」
    「ボーダーのみんなが聞いたら笑いそう」
     ならば、今の俺たちの関係性は何なのだろう。考えたところで、すぐに答えが出るとは思えない。頭のいい犬飼なら、知っているだろうか。
     なぁ、犬飼。自分とは正反対の、しゃんと伸びた背中に声をかけようとして、思いとどまる。
     知って、俺はどうしたい?
     頬をなでる風は随分と夏めいて、日も伸びた。茜に染まる帰り道を、自転車に追い越されながらのんびりと歩く。
     惣菜屋でもらったビニール袋を覗き込んだ犬飼は、パッと顔をあげて俺を見た。
    「見て、ハムカツだぁ」
    「揚げたて入れてくれてたな」
     ポテトサラダとコロッケを買ったら、ハムカツをオマケしてくれた。給食で食べたことがある、昔ながらの薄いやつだ。
    「袋、まだ温かい」
     惣菜屋のオバサンたちに気圧される犬飼は珍しくて面白かったが、俺も人のことは言えなかった。例えるならば、ウチのオペレーターのヒカリを五人集めて凝縮したみたいな濃さだった。
    「この薄いやつ美味しいよね」
    「ん」
    「こう、チープな感じがさ」
    「分かる」
    「分厚いのも、それはそれで美味しいんだけどね。あーお腹すいた」
    「食いながら帰っか?」
    「うー……いや、家まで我慢する。どこで見られてるか分かんないし……」
     へにゃ、と情けなく眉を下げる犬飼は、さっきとは別人のように見えた。こいつの中には、外面モードとそうでない時との明確なスイッチがあるらしい。今は明らかにそれがオフになっていて、俺はどうやらオフの状態で近くにいることを許されている。

     家に帰り、買ったりオマケしてもらった惣菜類を犬飼が皿に移している間に、俺は味噌汁を作っていく。長ネギだけでもいいだろ、たまには。
     いつものように向かい合って座り、手を合わせる。いただきます、と言い終わるや否や、犬飼は真っ先に味噌汁の器に手を伸ばした。
     ぷはぁ、と気の抜ける声。整った顔が浮かべる安堵の表情に、こちらの力まで抜けてしまいそうだ。
    「味噌汁っていいよね……落ち着く……」
    「今日のはすげぇシンプルだけどな。ネギだけ」
    「美味しいよ。あったかい」
     はぁ、疲れた。俺に聞こえるか聞こえないかの声量で、犬飼はつぶやいた。
     惣菜屋の元気なオバサンたちを思い出す。奥で調理をしているパートの人たちも含め、商店街を象徴するような活気に満ちあふれていた。
    「俺、ほとんど何もしなかったけどよ……すげぇ疲れた……」
    「あはは、カゲ頑張ってたもんね」
    「普段オマケしてもらってるし、刺さってくるのが好意なだけに邪険に出来ねーし……」
    「いい人たちだよね」
    「ん……でも」
    「でも?」
    「不本意だが、初めてお前を尊敬した……」
     絞り出した本音に、犬飼は声を上げて笑った。
     ハムカツをかじる。サクッと軽い音が小気味良い。
    「おれも結構疲れるよ? 顔が笑顔で固まっちゃいそう」
    「マジかよ」
    「マジマジ。だからこうしてカゲの美味しいご飯で癒されてる」
    「ふーん」
     それは、中々の賞賛ではないだろうか。照れくささを誤魔化すように、テレビに意識を向けた。食べることに夢中になっている犬飼は気づいていないのか、気にせず続ける。
    「おれ、カゲの前では結構気ぃ抜いてるかも」
    「……何となく分かる」
    「そう? もうちょっと引き締めたほうがいいかな?」
    「いや、そのままでいい」
    「そう?」
    「どうせ、隊でも気ぃ遣ってんだろ」
    「そりゃあね。だってウチの人たちみんなクールでしょ? 潤滑油にならなきゃ」
    「ここで飯食ってる時くらいは、気ぃ抜いていいんじゃねーの」
    「…………やっぱり、カゲは優しいなぁ」
    「るせ」
     こいつが俺を優しいと表情するなら、それでもいいか。今は素直にそう思えた。
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