視線。じっくりと全身を眺め、首筋、腕、下腹部へと落ちていく。レンズ越しに揺れる長いまつ毛が、蜂蜜色を隠して再び俺を見る。
やってしまったな、と自覚した時には既に時遅し。彼シンクレアが向けるその色は痛いほど知っていた。
「今日もお茶汲み係か? 相変わらずいい香りだ。」
「そうかぁ? 俺ァこれ嫌だっつってんだけどよ…お前が飲むからってやめないんだ」
「あはは」
事務所の戸を空け、いつもより強く香るその匂いに心がざわつく。書類を挟んだ先にいるのは、気だるそうにしているグレゴールさんだ。この夜明事務所の創設者で、俺たちの恩師。
この3人で事務所を経営してかなり経つが、未だに底知れないすごい人だ。
「綺麗な黄色だよな」
目の前に用意されたティーカップに注がれる双和茶は濃く、彼によく似た美しい金色をしている。ほんのり酸っぱくフルーティーなそれは、可愛い後輩が一生懸命に淹れるから好きだったのに。
今となれば、後悔の香りなのだけれど。
「んで? 今日の予定は?」
「それがなぁ、最近騒がれてる“ねじれ”ってやつをどうにかしてくれってどこもかしこも言ってやがる」
「あれ…ですよね。 ピアニ―――」
シンクレアの言いかけたそれは、アルフォンスによって止められた。その言葉は安易に出してはいけないと言いたげな目に、ゴクリと喉を鳴らし素直に従う。
何万人もの犠牲者を出したソレは、あるたった1人に止められたと聞く。そして、それと似たような奴らが次々とあふれ、様々な事務所や協会が対処してるのが現状。
この“ねじれ”というものは、金になる仕事ではある。けれどその分、命を落とす危険もうなぎ登りで、そんじょそこらの違法な技術を相手にするとじゃ話が全然違う。現に自分たちのいる事務所も、下手に手を出して良い案件なのか暫し迷っているのだが…。
「…受けてみりゃいいんじゃねぇの」
だって、どうせ受ける羽目になるんだ。
「………そうは言うけどなぁ、いつもの仕事とは全く違うかもしれないんだぞ」
「でも、金になるんだろ」
誰かがやらなければならない。困っている人がいて、それが巣でも関係なしに現れるときた。こちらも慈善活動をしているわけではないし、巣に出たとなれば支払額はうんと変わる。俺たちは生きてかなきゃならない。ならば、命を賭しても金を稼ぐしか道は無いのだ。
「…わぁったよ。 聞く限り安全そうなやつから手ぇつけるかぁ……はぁ。」
「どうせ選択肢なんて無くなンだから、早いうちから決めた方がいいだろ」
「……アルフォンスさん」
「んぁ?」
「…死なないでくださいよ」
「そりゃ、お前も同じだろ」
シンクレアの切実な声は、あっけらかんとしたアルフォンスの態度にかき消された。ふぅと煙草を蒸すグレゴールは、面倒くさそうにこちらを見たあと、書類に視線を戻す。やはり、師匠の目から見てもわかりやすいのだなと笑い飛ばしてしまいたかった。
彼から向けられた想いは、ただの同僚を思いやる柔らかなものとは遥かに遠く、重たく、どろりと溶けた桃色をしている。
それに気がついたのはつい最近であって、丁度俺にとって人生の節目となった出来事の10周年だった。
「すみません」
「、んぁ? どした」
「ちょっとここ、わからなくて」
スっと渡される書類を眺めていれば、シンクレアはさりげなく隣に座り、書類を指差す。ナチュラルに距離を詰められる感覚に、ゾッと体温が下がり冷や汗が滲んだ。正直やめて欲しい。そうして、失ったものが大きすぎたから。
昔、同じように後輩に言い寄られたことがあった。その時は告白される寸前まで気づけなかったし、職場では既婚者であることは周知の事実だった。オマケにその後輩は男で、気づけと言う方が無理な話だろうと何度頭を捻ったか。当然丁寧にお断りしたし、同じ職場の後輩となれば接点を完全に無くすなんて無理な話で。
そいつとは元々ガス抜きを名目に愚痴を聞いてやっていたこともあって、飲みに誘われれば「マァ、流石に男には手を出さんだろ」と安易に乗ってしまったのが終わりの始まり。最初はただいつも通り飲んでいたはずなのに、気づけば記憶は飛び、腰の痛みに目を覚ましたのが朧気に残っている記憶の欠片だ。
流石にそれからは男でも好意のあるやつとは飲んじゃいけないのだと思い知ったし、もう二度と不貞などしないと誓ったはずなのだが。どうにも自分は押しに弱いらしく、本当にどうしようもない色欲魔だったのだと要らぬ知識を得た。
正直とても良かった。ほんとうに、どうしようもないやつだとは思うのだけれど。
「…アルフォンスさん?」
「っぁ? ぁ、わるい。 えっと、ここはな…」
こてんとあざとく傾げられる顔は近く、意識を飛ばしていたことをここぞとばかりに悪用されていた。ほんのり赤い頬に、男の癖に中性的で整った顔。あれ以来男でも女でも変わらず愛せてしまう事実を知ってからか、不思議と嫌悪は無いのだが。
「…ありがとうございます。 あの、この後暇ですか」
「えっ。 あ〜…………えっと。」
そういうシンクレアは、明らかに覚悟の決まった顔をしていて、その誘いに乗ればあの二の舞になるのは目に見えている。
どうにか断る理由をくれと師匠の方を見るが、知らんと目をそらされてしまった。どうしてこういう時は助けてくれないのか。
嫌悪は無い。ないのだが、恐怖心はある。白状すれば元妻に未練はあるし、子供だっていた。離婚してからは1度も顔を見せてもらって居ないし、生きているのかもわからない。順調に育っていればそろそろ中等部あたりなのだが、果たして元気にしているのだろうか。
毎月欠かさずに仕送りという名の養育費を指定された口座に振り込んではいるが、使われた痕跡は未だない。無駄に積み上がって行く金額に、どうにか1度でも使ってくれと祈ることしか出来ない。
「僕と出かけるのは嫌でしょうか…」
「エッ、ぇ〜………いや…そういう、わけでは」
「…チャンスくらい、くださいよ」
「ッ〜…! 師匠〜………」
「…………はぁ。 シンクレア」
明らかなアルフォンスの態度に、それでもとかじりつくシンクレアはどうにも折れそうに無かった。いつもはあんなに気弱で、なよなよと優柔不断なくせに。こういう時ばかり、皆どうして思い切りが良いのだろうか。
「マ〜………コイツは押せばいけると思うぞ」
「バッ、な、おいっ、あんた俺の過去知ってんだろ!?」
「…過去?」
「そろそろ吹っ切れる時が来たんじゃないかぁ? 10年だろ10年。 …………新しく始めるにはいい区切りだと思わないか?」
「そ、れは、でも、俺は…!」
「じゃあキッパリ断っちまえばいいだけの話だ。 なぁ? そうだろ」
じとりとアルフォンスを見るグレゴールの目は鋭く、全て見透かしているようだった。もちろん彼の葛藤も、過去の恐怖も忘れられるものでは無いけれど。マァ過去の色恋を忘れるなら、新しく始めろという言葉がある程なので。
「ウチはそういうの許してっからな。 上手くやれよシンクレア」
「…! はい!」
「おれの、俺の味方どこ…?!」
当たって砕けろ。そう残してグレゴールは奥の仮眠部屋へと姿を消してしまう。砕けられてどうするんだとアルフォンスは思うが、隣の彼をそっと覗き見ればそうも言ってられないくらいには励まされてしまったらしく。
「…改めて聞きますね、この後…空いてますか?」