ありふれたトラブルの話それが起こったのはほんの少しムルソーが不意を突かれて体勢を崩した時だった。
ひらひらと舞いながらグレゴール達に近寄って来ていたリボンが突然方向を変え、ムルソーへ向かって行ったのだ。
グレゴールが思ったのはまず「ヤバい」と言うただ一言だけだった。
その場に居たヒースクリフもダンテも同じ事を思っただろう。
桃色のリボンに締め付けられている奴隷が尚もムルソーに踊るように追撃を与えているのを見て2人は急いで駆け寄った。
桃色の欲望と言う名のこの幻想体の厄介な所は味方を操ると言う事だった。
空中を漂っていたリボンはその為の物だ。
それがグレゴール達を追い越してムルソーにびたびたと張り付き、やがて一本のリボンになってムルソーの体を覆っていった。
〈ヒースクリフ!〉
ダンテの呼びかけに答えるようにヒースクリフがせめてもと奴隷をバットで殴り倒したのは良かったが、ムルソーは体中を縛られながらその場を動こうとしなかった。
「おいっ‼︎ムルソー‼︎」
ヒースクリフがそう叫んでバットを振り翳した瞬間。
ムルソーが突然顔を上げてヒースクリフの足下を掬い、自らのE.G.Oを発現して鎖でヒースクリフの体を縛り付けた。
「い"ッ……!てめ、ぇ……‼︎」
そしてムルソーが両腕を振るい、ヒースクリフを壁に叩き付けた。
ただでさえ鎖に締め付けられて苦痛を顔に浮かべていたヒースクリフが唸り声を上げた。
「ヒ、ヒースクリフ……!」
グレゴールは急いでムルソーに巻き付いているリボンを右腕で引きちぎりにかかったが、その時ムルソーがまだヒースクリフを解放していない事を失念していた。
「いでッ……!」
「ぅぐっ……!」
2人分の呻き声が同時に発され、グレゴール1人だけが地面に倒れ込んだ。
ヒースクリフは縛っている鎖を引っ張られ、倒れる事は許されなかった。
「クソッ……この……!」
ヒースクリフがムルソーの胸に飛び蹴りを喰らわせるとムルソーが顔を歪ませたのが見えた。
「ぅ……ぐ……っ、」
その一撃が効いたのか、ムルソーはぎこちない動きで腕を掲げて巻き付いているリボンに噛み付いた。
「ん、ぐ……っ!」
だが、傍目から見ても分かる程にリボンがムルソーの体を締め付け、恐らく首を締め付けられた事で怯んだのだろう、ムルソーは咄嗟に口を開いてしまった。
リボンが頭に伸び広がり、ムルソーの口は封じられてしまった。
「クソ……!ムルソー!せめてこの鎖解け‼︎」
「ん、んん……ッ…!」
ムルソーはヒースクリフの意に反してヒースクリフを地面に頭から叩きつけた。
「……ん"、フーッ……フーッ……!」
体にはリボン、鎖にもリボン。
鎖とリボンに締め付けられてムルソーは苦しそうに悶えていた。
〈ま、まだ正気があるみたい!呼びかけながらリボンを剥がして!〉
「ああ……!」
グレゴールはムルソーの背後に回り、左腕を首に回して吹き飛ばされないように体を密着させた。
「ムルソー!すぐ剥がすから出来るだけ大人しくしてろ!良いな⁉︎」
出来るだけ怪我を負わせないように力加減をしながら服ごとリボンを引き裂く。
ムルソーは少しだけ身悶えたが、出来るだけ動かないようにしてくれていた。
「よしよし……あとちょっとだからな……」
もう大分剥がしたので首元のリボンも引っ掻いて引きちぎってやる。
するとムルソーがE.G.Oを解除し、ヒースクリフが解放されたのを見てグレゴールはムルソーから身を離した。
ムルソーはその場に膝を突き、咳き込みながら呼吸を整え始めた。
「管理人の旦那、ヒースクリフは……」
ダンテの方に振り向いて訊ねると、ダンテは項垂れて首を横に振った。
〈さっき頭を打ちつけられたから……完全に割れちゃったみたい……〉
「あー……」
〈でもありがとう、グレゴールのお陰で被害は少なく済んだから……〉
ダンテは死んだような声でそれだけ言って時計を回した。
「可哀想に……二人とも……」
「……すまない。」
流石のムルソーも眉間に皺を寄せて沈鬱な顔をしていた。
「まあ、俺達にとってはよくある事だから……ヒースクリフには謝っといた方が良いと思うけど。」
「そうしよう。」
生き返ったヒースクリフはかなり苛立った様子だったがムルソーの謝罪を聞き入れて許してくれた。
「いつもの事だしな。」
「……」
グレゴールとダンテはこれが日常茶飯事になって本当に良いのか、少しだけ引っ掛かりはしたが何も言わなかった。