蝶葬と工房のグレムル深夜1時を過ぎ、もう既に私が居る階の明かりは殆ど消されている中、私は未だ終わらない仕事に取り掛かっていた。
全ての業務処理があと何時間で終わるかどうかはもう考えなくなっていた。
終わらせてもまた別の人間から仕事が増やされるのだ。
数える事に意味を見出す方が難しくなった。
「……」
不意に、何だか妙にオフィスが寒く感じて、少しだけ肩を回した。
血行不良が原因だと思ったのだ。
回した腕を再びキーボードに伸ばした時だった。
「生きていく為にはここまで働かなきゃいけないのか?」
「……?」
頬を両手で挟まれ、上を向かされると……いつもと雰囲気の違うグレゴールが私の顔を覗き込んでいた。
「働いて、働いて……その先に望む物はあるのか……?」
「……生きていく為には賃金が必要不可欠だと貴方も分かっている筈ですが……」
「ふふ……何か勘違いしてるな?俺に似た誰かがここに居るのか。」
「……貴方は別人と言う事ですか?」
「そうだよ。だから……お前さんの事は知ってるけど、知らない事があるんだ。」
「……」
先程まで眠気に襲われていたのだが、一気に目が覚めた。
もしこれがグレゴールの悪戯でなければこの男は侵入者と言う事になる。
場合によっては撃退する事も考えなければならない。
「……賃金、ねぇ……そんな物で、君が懸けた時間が買えるのか?それで満足出来るのか?」
「……最低賃金は労働基準法によって定められています。少なくとも規定通りの金額を貰っているのに満足しない理由はありませんね。」
「……君はその時間を他に割きたいと思わないのか?」
「……思いません。」
グレゴールは目を丸くした。
実を言うと、私自身も驚いていた。
仕事が無かったら、今この時間自分が何をしていたのか、全く想像出来なかったからだ。
「可哀想に……そんなんじゃいつか疲れ果てて飛べなくなってしまうよ。」
「……可哀想、ですか?」
「そうだよ。とっても。」
「……私は、特別不幸だとは思っていませんが。」
「……」
グレゴールが可哀想な物を見るような目で私を見た。
最早何も言えない域に到達したようだ。
「……手を……離してもらえませんか?まだ二人分の業務が残っていますので……」
「……」
釈然としない顔をしながら私の顔から手を離してくれた。
「……逃げ出したくなったらいつでも逃げ出すんだよ。俺が迎えに来てあげるからね。」
「……」
背後からひらひらと蝶が飛んで来て、マウスを握る手にとまった。
ただの蝶ではないなと思いながらも手を振って追い払うと、またひらひらと背後に飛んで行った。