飯空/飛べない蝿 毎日は忙しく過ぎていくけれど、昼休みのあと、三限の講義室に流れる時間は一日の中で最も気だるく、生ぬるい泥に浸かっているような感覚に陥る。
教授の声は遠い。僕もそのうちああやって講義をする側になるのか。時々くだらないことをぼんやりと考えて、講義の内容が耳をすり抜ける。カチカチ、特に意味もなく、ペンをノックする。
ふと、気づく。
ノートを広げた講義室の机上を歩く、一匹の羽虫が居た。じっと観察すると、珍しくもないコバエの一種だとわかる。しかし目を引いたのは、その蝿の片方の羽が、もげて失われていたことだ。
カチカチ。
蝿はその細長い脚で机を渡り、白いノートの上を歩く。二度と飛ぶことができないのだから、そうして這い回るしかない。やはりそれでは餌にありつけず、飢えて死ぬだろうか。
なんとなくペン先を近づけると、蝿はすばやく向きを変え逃げていく。いつもは煩わしく飛び回り、退治するのに苦労するのに。母さんや悟天がしょっちゅう台所で奮闘しているのを思い出す。逃げ足は意外に早くはあるが、飛びさえしなければ殺すことなどたやすい。
そんな必要もないので、長机を遠く逃げていく蝿を ぼーっと眺めていると、なぜかふと父さんのことが頭をよぎった。
魔人ブウとの戦いのあと、父さんは僕たちのところへ帰ってきた。けれど父さんは相変わらず、何にも縛られず自由なままだ。またどこかへ行ってしまう気がした。僕たちの手の届かないところへ。
もう天使の輪は消えたのに。父さんの背中にはまるで見えない羽が生えているかのようだ。ただ気づいていなかっただけで、昔からずっと。
家族である僕らでさえ父さんを縛ることができなかった。それをみんな心の何処かではわかっている。それが父さんであり、むしろずっとそうあってほしかった。僕らじゃ想像もつかない高くて遠い場所へ、その羽で飛び立って、いつまでも誰よりも強く輝いてほしかった。
でも。一方で昏い願望が首をもたげる。
その羽をもぐことができたらどうだろうか。僕が父さんを地に縛り、自由を奪う。どこへもいけなくなった父さんを、殺すことも、生かすことも僕の手の中にゆだねられる。誰にも邪魔されない、空のない地の底。そんな場所でさえ、父さんの輝きは失われないだろう。ただ全てが、僕のものになるというだけ。
カチカチ。
舌を噛む。そんなこと、望んではいない。
間延びした午後の陽光、甘く生ぬるい腐敗の気配。
行き場を失ったのだろうか。飛べない蝿はまた僕の目の前に引き返してきている。
その矮小な命を一息に、潰し殺してしまいたくなった。