類は友を呼ぶ 海の外には国がある。
それは当然のことなのに、イマイチ実感が湧かなかったのはあんずが一度も日本を出たことがないからかも知れない。小学校の時の修学旅行は日光で、中学生の時は京都。女子校の時には課外活動なんて無かったし、転校した先で行った修学旅行は2度目の京都だった。いつも一緒のTrickstarだけでなく、隣のクラスの鳴上嵐と旅行についてお喋りをして楽しかったけれど、ほんの少しだけ思ったこともあったのだ。私立なのに海外じゃないの?と。
まあアイドル科であることとセキュリティ上の問題、仕事との兼ね合いやらで海外に行けるはずもないというのをあんずだって分かっている。けれど、やっぱり憧れというものは捨てきれない。
特に納期が迫りきている時には。
・
「…………、」
高校3年から今までずっと、一直線にプロデューサーとして仕事をしてきたあんずが夢ノ咲とは違った様式にもどうにか慣れてきた頃、あんず自信今でも嘘幻なんじゃないかと思うようなプライベート上での一転があった。そしてその末にとある人と密かな関係を築き始めた。
プライドがエベレストの如く高く、全く血の繋がっていない相手に対して憚ることなく『お兄ちゃん』と言ってのけ、そのためならば犯罪も辞さない愛が深い…もとい、やばい人である。
けれど、仕事に対しては非常にストイックで、絶対に折れることがないであろう確固たる信念を持っている。それに愛情深いが故に内に入れた人間に対しては、いささか過保護気味ではあるものの、情を最後の一滴まで注いでくれるような人でもあった。
出会った当初は険悪そのもので、角が取れた後もしばらく芋女だの言われていたけれど、料理を教えてくれたり何かと親切にしてくれたりして、あんずとその人の距離は少しずつ、近くなり。
あれ、と気がついた時にはあんずはその綺麗な人に特別の情を抱いていていた。とはいえ告白なんて大それたことは、今の関係が悪い方に変わる可能性も考えて行わなかった。
学生時代を過ぎると、輪をかけるようにあんずが受け持つ仕事の量は増えた。目を閉じるのも惜しいほど日々に追われたことと相手が海外にいたこともあってあんずは、いつしか自分が恋をしているということをすっかり忘れていた。なにせ休む暇なく肉体的・精神的に追い詰められていたから。
あんずの空いたタイミングを見計らったように、アイドルとしてもモデルとしてもそれなりの実績と経歴を持ち合わせた、その人はあんずの手を引き寄せてくれた。
まあ厳密にいうなら、手を取られたのではなくその人が特集されている雑誌、それも世界的に有名なもの、を差し出され、押し付けられた。
そこからはとうとうと語られるメリットとデメリットに頷いていて、これまた気がついたら恋愛的意味で付き合うことになっていた。勢いって大事だよね、とは誰の言葉だったか覚えていないけれど、あんずはそれを身をもって味わったことになる。
そうして始まった関係は、あんずが想像するよりずっと穏やかで、静かで、綺麗だった。多分付き合ってもお互いに仕事が一番だったのが大きいのだとあんずは過去を振り返っても思う。遠距離恋愛よりももっと遠い大人みたいななにか。
そうしてその春の様な穏やかさの中あんずは
「旅行に行きたい」
と唐突に思う様になった。そう、それはただの願望で予定も何もあったものでは無かったのだ。猫を吸いたいとか、会社燃えろとか、本当にそんななんとなしに呟いた言葉に反応する人間がいるまでは。
・
「あんずにとっておきのプレゼント!」
「っえ、」
明星スバルという、アイドルになるために生まれてきたようなアイドルがいる。彼はあんずがこの世界に身を置くようになった一番最初のきっかけそのもので、楽しい時はもちろん苦しい時も時間を共有してきた仲間だ。Trickstarというユニットに属している彼はそのユニット名の通り、番狂わせとしても活躍してくれていて、そしてあんずの予想をポーンと飛び越えてくれる。良い意味でも、悪い意味でも。
「えっ、と…。これは」
「パスポートと、チケット!」
はい、ドーゾ!と手渡されたものを反射的に受け取ってパスポートの中身を覗けば、そこにはあんずのフルネームが記載されている。チケットにもご丁寧に名前が書かれている。それらとスバルの顔を繰り返し見比べるようにして再度、「え?」と声を漏らした。パスポートはあんずの記憶が間違いじゃなければすでに期限切れのはずで、もっと言えばこの赤色の冊子はあんずの家の通帳とかと一緒に置かれているはずだ。少なくとも、ここにはないはずなのにどうしてそれを目の前のスバルが持っているのだろう。
頭の中がハテナだらけのあんずに対してスバルは夏の空みたいに晴れ渡るような笑顔であんずを見やっている。もしくはいたずらが成功した、みたいな顔かもしれない。
「あんず、覚えてない?」
「……?」
「ホラ、何年か前にあんずがめちゃくちゃ忙しくてESで寝泊まりしてた時のこと。あの時、なんかの話題で貴重品とかをここに置いていくって言ってたじゃん。ESはもう家みたいなものだからおいて行って何かあったときにすぐに持っていけるようにってさ。」
そういわれてみれば、と記憶を引っ張り出せば確かにそういうことを言って実際にここのセキュリティルームに預けていたことをようやくあんずは思い出した。とはいえ、そのパスポートの入っているボックスのカギはちゃんと持っているはずとデスクを漁れば、確かにそれはそこにあった。ちゃんと相性番号付きの中に仕舞われていて、それを出せる人なんてあんず以外にはいないはずだ。
「あんず、甘いねえ。ここには英智先輩のお膝元だよ?やろうと思えばあの人は何だってできるんだよ~。ということで、はいこれ。」
ずっしりとまではいかないもののそれなりに重量のあるバッグをスバルはあんずに手渡した。中身は当然見えないのでぐにぐにと触ってみるもののあまり分からない。あえて言うなら、硬くない何か。けれどパスポートに旅券チケットを手渡されればなんとなく想像もできる。今度はどこに行くのだろうと営業やらプロデュースやらトラブル解決やらのために古今東西をかけてきたあんずは、なんとなしに裏返しになっていたチケットをめくった。
Frorence.
「え………?」
あんずが目を疑って確かめるようにスバルの顔を見ると、パチンとウィンクをした。それはつまり、あんずの目の錯覚でも何でもない事実ということを証明していた。スバルはパスポートを持っていた方の手を下から覆うように握って微笑んだ。いつも元気いっぱいのスバルの、アイドルの時にはあまりしない、慈愛に満ちている表情だった。
パリで飛行機の乗り継ぎを待って、大体14時間くらいすれば花の都フローレンスに着く。あんずはフローレンスよりもどちらかというとフィレンツェのほうが耳なじみがあるのでそちらを主に使っているが、多分それは在住の瀬名泉や月永レオの影響だ。流ちょうな言葉づかいで「フィレンツェ」と言われればなんとなしにそちらを使いたくなってしまう。現地では当然イタリア語読みの方を日常使用するのであんずは特段困ることなく空港に到着した。
日本と同じ北半球なので同じ季節なのは変わらない。まだ夏本番ではないとはいえ、温度は高く更に湿度も高めだ。泉が「京都と姉妹都市なのはそういうのもあるんじゃない」と冗談交じりに言っていたけれど、その説はあるんじゃないかと思ってしまう。でもなにより、日差しが厳しい。日本の比じゃないじりじりとした暑さに耐えかねてあんずは持ってきた帽子の縁からじっと空を眺めた。
「ああ、居た」
預けていた荷物を受け取ったあんずがエントランスを出て10分くらいすると、聞き覚えのある声があんずのそばで聞こえた。そちらに顔と体を向ければ、サングラスをしていてもわかる美丈夫がこちらに向かってきている。あんずも彼に近寄る形ですこし早歩きをして会釈をした。
「お久しぶりです、瀬名さん」
「久しぶり。元気?」
「はい、それなりに元気です。瀬名さんは、お変わりありませんか」
「お陰さまでね。ああ、荷物重いでしょ。持ってあげる」
「いえ!そんなことアイドルにさせるわけにはいきませんから」
「ああもう煩いなあ。持ってあげるって言ってんだから素直に受け取っておきな」
眉根を寄せてあんずの荷物をひったくるように持った泉はそのままもと来た道を歩いていく。あんずもそれをどうにか追って礼を伝えれば、満足そうに笑った。タクシー乗り場で泉はさらさらと住所らしき単語を伝えてあんずを車内に追いやると荷物をトランクに詰め込んで自身もあんずの左側に乗り込んだ。自然と動き出したタクシーの中はクーラーが効いていてあんずは小さく息を漏らした。
「、」
うなじの汗が滑ったことがわかるくらいには暑くて緊張している。迎えに来てくれたことのお礼も言いたいのに、あんずの口はどうしてか動かない。あんずの左手に自分の体温じゃない温度がある。おそるおそる左にいる人を見ると、相手は何もしていないかのようにじっと青い空を見つめている。涼しいはずの空気がそこだけ通っていないかのようにジワリとした暑さと熱を帯びている。あんずは自分も窓の外にある木々と街並みを見つめる。
覆い隠された自分の左手を裏返して相手の手首から手のひらを指先でなぞっていく。爪で軽くはじいたり絶対に傷をつけない程度の力でひっかく。あんずはそれをタクシーが止まるまで繰り返した。
「月永さんはお元気ですか?」
「レオくん?ああ、うん元気にしてる。でも今は仕事でいなくて明後日帰ってくるよ。」
「はい、今オランダにいるって伺いました。祭典のゲストとして呼ばれたって」
「そう。アイドル関連の仕事じゃないけど、よく調べてるじゃん」
「これでもプロデューサーなので」
紅茶でも淹れてあげるとあんずを家の中に引き入れた泉は座ることなくキッチンに向かった。泉を待つ間、手持ち無沙汰になったあんずは終わっていない仕事を片付けようとPCを取り出してファイルを開く。企画をするのは楽しいものの、どれも頭を絞りつくして何かしらを抽出しなければいけない苦しみがある。それに、その苦しみが終わっても次のフェーズが待っているから、最後まで気は抜けない。気が抜けたとしてもまた、新しい仕事が来る。あんずの毎日は輪のように終わりがない。
「お待たせ、」
どうにもまとまらない。
こういう時は一旦気分を変えた方がよいとあんずが首をひねると泉の足音と食器の揺れる音が響いた。ゆっくりと泉が顔を出して部屋にほのかな紅茶の匂いが漂わせる。ぱたんとあんずが木偶ストップを閉じた。
「……いい香りですね」
「俺の好きな店の紅茶。滅多に飲まないけど、まあ今日くらいはね。はい、気を付けて」
「ありがとうございます」
受け取ったカップにはすでに紅茶が入っていて先ほどとは比べ物にならないほど強く香る。あんずはそれを肺いっぱいに吸い込むように呼吸をし口に含めば、爽やかさがすっと鼻を通った。普段飲むコーヒーとは違う味わいに美味しいと呟けば泉は満足そうに微笑む。あんずにはアイスティーで泉自身はホットティーとわざわざ分けてサーブをしている。泉が白いティーカップに口をつけた。
「そういえば、明日は観光をするんだっけ」
「はい、折角なのでしようかなと。アイディアが浮かべばいいんですけど」
自分は食べないであろうクッキーをプレートに載せてあんずに勧めた泉は思い出したようにそう尋ねた。それをいくつかいただきつつあんずは明日以降の予定を口頭で説明していく。初めてする一人だけの海外旅行というのもあって結構綿密に計画を立ててきた。明日は日が高くなる前に行動を開始しなければ日差しにやられるんだろうな、と頭の中で微調整を繰り返す。そんなあんずに泉は何か言いたげに口を動かし眉尻を上げた。小さく首をかしげると、あきらめたように泉はため息をついて声を張った。
「あのねえ、ここに俺がいるんだけどお?!」
「え、」
「俺がいるのになんでわざわざ一人で勝手に計画を立ててるわけえ!ここに住んでるんだからアンタの焼け付け刃以上の知識経験値は持ってるんだけどお!?」
「えっ、」
「何目を丸くしてんの。いい、俺が明日ちゃあんとガイドしてあげる。」
顔がずいっと寄せられて圧を感じる。あんずはそれに圧倒されるように頷き、ありがとうございますと口に出した。それに満足そうにうなずいた泉は突然そっぽを向いて何かを呟いた。小声だったのと丁度外が騒がしくなったことで泉の声はかき消されて何を言ったのか分からずじまいだったものの、聞き返すのも何となくはばかられてあんずはアイスティーを喉に流し込んだ。ティーグラスがカランと音を立てる。
そうして泉はあんずを宿泊予定のホテルに案内して、「じゃあまた」と軽く手を挙げた。慣れない長旅で疲れているであろうあんずを慮ってか、早朝ではなく10時くらいに迎えに行くからと半ば一方的に告げると泉はさっさと踵を返し。そしてふと足を止めて再度見送るためにドア付近で立っていたあんずに近づいた。自然な仕草で右の親指であんずの唇をなぞる。
そうして。
ふわりと、ESでほかの誰もつけていないであろう香水の香りがする。
「じゃあ、また明日」
すぐに扉を閉めるんだよ、と忠告をして今度こそ泉はあんずの視界から出て行った。あとに残ったのは香りと感触のみ。
バタン、と耳元で大きな音が聞こえてもあんずは動くことすらできずただ立ちすくんだ。
・
白にロイヤルブルーの装飾が施されている。ただの天井にしておくには少し勿体無いと思ってしまうほどの見事な模様にあんずは暫く目を奪われたままだった。深みのある青色をユニットカラーにしているところはあるものの、今パッと思い浮かんだのはひとつだけだった。
あんずは肌触りの良い布団から体を滑らすように抜け出すと、鏡の前にたった。メイクも何もしていないすっぴんの自分自身が映し出され、無意識にパーツの一つである唇をそっとなぞった。
「う、」
恥ずかしさと緊張と安堵感が映る。それを思いきり見つめ、あんずは蛇口を捻って洗い流した。化粧水と朝用の乳液を取り出して適量ぎりぎりを顔に塗りたくる。今日は絶対に鉄壁のメイクをしなければいけない。
目の前の美人を前に出来るだけの要塞を築かなければ。
瀬名泉があんずを迎えにきたのはあんずが身支度を終えて軽くものを体に入れてしばらく経ったくらいだった。体がソファに溶け切る前に来た泉にあんずは思わず拍手をしそうになった。元々それなりに気を遣える人ではあったけれど、それご洗練されたというかより自然になったような感想を抱いた。
「なあに」
「いえ、なんでもないですよ」
「……?」
じいっと泉を見つめるあんずを不可解そうに見ながらも、さっさとホテルから出ていくのであんずはそれを2歩後ろから追いかける。昨日と同じ泉によく似合った服を着ていて、その場の誰よりも際立っている。それをぎゅっと見つめてあんずは歩く泉の隣まで歩を進めた。
「最初はどこに連れて行ってくれるんですか?」
「日差しが強くなる前に外の観光名所を案内してあげる。メジャーだけど、あんずはフィレンツェ初めてだからね」
あとでトラムにも乗るけど、歩いて街並みを見たいでしょ。あんずの意見を聞くことなく、決まりきったように言い切った泉にあんずは少し笑いながら頷いた。あんずと泉が初めて会った時から変わらない、強引さが垣間見える。泉は歩きつつ街の説明をしていく。プライベートガイド顔負けの話にうんうんと頷きつつ質問をしたりすると、ちゃんと答えが返ってくる。
露天に紛れるようにあるイノシシの像や日本食も置いてある市場を巡り。石造の橋から街並みを眺め、休憩も兼ねてミケランジェロ広場でカフェをしていると泉はふっと堪えきれないように笑みをこぼした。
カプチーノを飲んでいたあんずは、肩を震わせる泉をきょとんとした顔で見つめた。今の今まで泉の笑いの琴線に触れるようなことはなかったはずなのに、やはり疲れてしまったのだろうかと眉尻を下げれば、掌を口元に当てて顔を下に下げた。
「あの、」
「ああごめん、つい」
「ついって、」
「やっぱりあんずはあんずだなあって」
「……、」
意図を掴みきれず怪訝な顔をすれば、泉は目の前にあったソーサーの縁を親指でなぞった。なんてことないその動作に艶かしさを感じてしまう。思わず下唇の内側を歯で軽く食んだ。
「昨日のアレもあったし、少しくらいはあまぁい感じになったりするかなって思ってたんだけど、一切ないから」
「!」
「あんずに限って経験があるとは思えないし。だから案内しつつちょっと様子見してたんだよね。そしたら絶対に仕事しか考えてないんだろうなあって思ってさ。鉄壁の女だねえ」
「そんなことは、ないです」
「へえ?」
「緊張してました。確かに案内してもらっている時は、仕事のことを考えてましたけど、朝とか…、いえなんでもないです」
「へえ、少しは意識してくれたわけ?昨日タクシーの中で俺の手を弄んでくれたから、そんな気持ちないと思ってたけど。ああ、だから今日はメイクが濃いわけか」
弄ぶ、という聞く人によっては眉を顰めてしまう表現を使ってくるあたり、泉はとてもご機嫌なのだろう。冷たさを感じさせる外見に合わせて言葉もキレを増している。あんずは耐え忍ぶ形でそれを受け入れつつ、顔は赤みを増していく。昨日から今までの自分を丸裸にされていくような気持ちが羞恥心として現れていて更にそれをちくちくと弄ばれている。
それを何分か何十分か何時間か。あんずには到底わからなかったものの、少なくとも泉の気が収まるまでそれは続き、始まりと変わらない泉の笑い声で締まることとなった。それなりにタフと自負していても、こうも緊張と羞恥に晒されれば疲れも溜まる。あんずはそっと最後の一口のカプチーノを口にした。
さて、とあんずが飲み干したタイミングで泉がそう声を上げた。まるで時が来るのを待っていたような言い草に疑問を覚えたものの、実際そうなのだろう。時計を確認して満足そうに頷いている。
「じゃ、行こうか」
どこに、と言う暇もなく泉は「こっち」と道を進んでいく。先ほど通った道とは違うものの、方角は同じでこの先にあるもの、それは泉が「あとで行くから」と言っていた、
「あ、」
「そ。今の時間がおすすめなんだよね」
絶対に忘れられない景色を見せてあげる。
ふくらはぎがピンと張っているような感覚がする。いくつかの踊り場を経たとはいえ、最近デスクワークが増えたからか膝が笑いそうだった。一緒に登っている泉は少し暑そうに襟元を開けているものの、息が上がっていない。
「生まれたての子鹿そのものじゃん」
「アイドルと一緒にしないでください…」
そもそもの体力ゲージも違うのだと呟きつつ、階段を登っていく。それを上から眺めていた泉は「しょうがないから夜、運動に付き合ってあげる」とため息をついて階段を上っていく。あと少しだからと励まされつつ、あんずも段差を一つ一つ上り進めていく。
あんずが上を向くと前には当然泉の背中が見える。あんずよりは高い身長ではあるが、男性の、それもヨーロッパ人と比べれば低い方である。モデル業界では不利とされていても、頂点を目指して足掻き続けるその姿にあんずは憧れてきた。時には同じように努力する仲間としても見てきていた彼がいつの間にかあんずの特別な人となった。
「ほら、」
あんずの空いた左手を泉が取る。
外では腕を組むことはおろか手すら握ってあげられないけど、と恋人になった日に泉自身が言っていたはずなのに今、泉があんずの手を引いた。それに驚いていると、取り繕うかのように
「ただ支えてるだけでしょ」
と言ってのけた。あんずを自分と同じ段まで引っ張りあげて向こうを見るように顎で示したものの、手はいまだに離れない。どころか時折力を込められる。あんずもそれをほどく気はない。少しだけ、握られた位置を変えて絡ませて自分から離れないようにする。
あんず、繋がれた手を見つめていれば名前を呼ばれた。見上げると背中ではない泉の顔が見える。日の明かりに照らされて、白銀の髪の毛が茜に染まっている。ふわふわと浮かぶシャボン玉が一斉に弾けたみたいにぱちぱちと頭の中で瞬く。
「わ、」
「わ……?」
いきなりどうしたんだ、と言わんばかりの泉の手を離す。さっきまで絡ませていた指があんずの意思一つでばらばらになる。えっ、と泉の驚く声が耳に入ったものの今のあんずはそれをただの音として処理した。
あんずという人格は幼少期に形成されたものだが、生き方あり方と言う意味でいうと夢ノ咲で形成された。学生でありながら終電で帰り、仕事と学業とで心身を追い詰めてきた。もう逃げないと誰に言うでもなく誓ったことを遵守するかのように生きてきた。師事してきた作曲の天才には遠く及ばないものの、その薫陶は受け継いでいる。
「湧いてきました…!」
「げっ、」
嘘でしょと言う声すらあんずには届かない。カメラを取り出して泉に指示を出す。プロデューサーの必需品として常に携帯しているメモとペンも取り出して思いついたステージ構図をがりがりと書き殴る。腕があと二つあればもっと効率的にできるはずなのに。
対して泉はこちらも同居人で慣れているのかとてつもなく大きいため息をついてあんずの指示に従う。人が少なかったのが不幸中の幸いと言えるほどで、正気に帰った時あんずは泉に土下座をするだろう。どこぞの赤髪の得意技の。
そうじゃなくてもっと腕をあげてください。外がフィレンツェであることがわかるようにしてください。もしここをステージにするなら瀬名さんはどう動きますか。
あんずの中ではゴールがあるのはわかる。けれど泉にはショットなのかライブなのか、それすら分からない。ただひたすらにあんずの言っていることを自分なりに解釈してポージングを取りつつ動いていく。普段のぼんやりとした雰囲気とは打って変わって、今のあんずは経験を積んできたプロフェッショナルのプロデューサーだ。芸能界入りが泉より遅くとも濃密な時間と重い期待に応えてきたあんずの意図を掴み取ってそれ以上のものを提供する。
あんずはきらきらと楽しくてたまらない顔をしている。
――最近、あんずちゃんスランプみたいでね?
「大変お手数をおかけしました……」
「それで?」
「そ、それでとは」
「良いの、浮かんだわけ?」
そう泉が問えばあんずはにっこりと笑った、「今夜練るのが楽しみです。」さっきまでのそれなりに恋人らしい雰囲気は霧散していて、泉とあんずを包んでいるのは友人として醸し出されるものだった。
チケットは時間制でそろそろ降りなければ、ペナルティなんなり課されるかもしれない。泉は行くよ、とあんずを急がせるように軽く背中を押した。上り階段ならともかく下り階段で手を繋ぐのは特段理由がない。逆に危ないかもしれないと恋人らしい行動は起こさずに段差を降りていく。
地上に着く頃には、辺りは薄暗くなっている。予定よりは早いものの、明日もあるしとあんすを連れ立って泉は自宅に帰っていく。馴染みの店に行くのも悪くはないが、いかんせん味は現地人向けで日本人好みではない。それならばと折角だからと地元の材料を使って家でゆっくりすることを選んだ。
「先にホテルに戻るよ」
「えっ、」
そわそわとしているあんずを見てしまえば、それ以外の選択肢はない。タイプが違えど、あんずと月永レオはクリエイターだ。内に宿る熱を早いうちに形にしなければ世界の損失になる。それは巡り巡って泉の損失になる。さっきと打って変わって不安そうな顔をしたあんずはごめんなさいと謝罪の言葉を口にしている。それに対して違うと言ったところであんずの性格上、聞くわけもない。同居人の時と同じことをすればいい。
「良いから早くいくよ」
「えっ、あの」
「作業道具とってきな」
天邪鬼な泉が出来ることと言えば、行動で示すだけだ。
歩く時間も惜しいとばかりに路面電車を使える場所では使い、朝よりもずっと早く最短で目的地に到着した。ロビーで待ってるからと泉と別れたあんずは、しかし10分もしないうちに肩に荷物を掛けた状態で現れた。けれど「どうせあとで死ぬほど腕を酷使するんだから今くらいは休ませときな」とあんずに響く言葉で言いくるめてさっさと重みのある鞄を受け取った。
そのままエントランスを出ていこうとするのであんずは置いて行かれないように今度こそ最初から泉の隣に体を持って行く。約2回目の道を進むにつれて、浮かぶアイディアや疑問点をあんずの歩くスピードに合わせて歩いてくれている泉に話しかける形で形成しなおしていく。そのプロセスを何回か繰り返していると、初日にこれでもかと見やった泉の居住地がどんどんと近づいてくる。ふと、一番最初に見た時と違って重厚感に輪をかけたような佇まいが何かを彷彿とさせる。
ぱちん、残っていたシャボン玉がはじける音がした。
・
一心不乱にPCを叩き続けるあんずを横目に泉は簡単に調理をしている。最初、あんずも手伝うとは言ったものの泉はそれを断り逆にあんずにソファに座るように命令をした。何のためにここにいると思ってんの。悪いと思うならさっさと書き上げな。そういってあんずをPCの前に座らせてキッチンに戻っていった。普段料理はする方で、資格はないもののプロとして働けるだけの技能はある泉は何をつくろうか迷ったもののすぐに冷蔵庫から食材を取り出して切っていく。
チキンに香草を巻き付けてそれをオリーブオイルであぶっていく。中がぱさぱさにならない絶妙なタイミングで火を止めて保温状態にすればメインは一旦終わる。次は付け合わせとスープでもと思案していると、リビングから足音が聞こえてくる。この家に泉を除いて今は一人しかいない、そのまま気に留めることなく料理を再開していれば、控えめにそれでいてはっきりと泉の名前が呼ばれた。
「今日は、本当にありがとうございます」
「え、ああ。うん、別に大したことはしてないけど」
改まって礼を言われるのはどうしようもなく恥ずかしいけれど、泉はそれをどうにか受け止めた。どういたしまして、すこしつっけんどんな口調で返せば、再度泉の名前をあんずが呼んだ。真剣みを帯びているそれに泉が振り向くと、あんずがじっと泉の顔を見つめホールハンズを差し出した。それを自然と受け取った泉がどういうこと、と目線でホールハンズと目の前のプロデューサーを行き来させていると、既読していないメッセージが一番上に登っている。送り先は『プロデューサー』で、数いるその職種の中でもその名前で登録されているのは目の前の人間しかいない。泉はそのまま未読メッセージのあるチャットを開いて、送付されたファイルを開いた。外部の人間に見せるために施された資料ではなく、シンプルでどちらかというと今さっきたたき台だけを創ったような乱雑さを感じられる。
「これって、」
「今、私が作ったものです。まだ概要だけなんですけど、」
「どういうこと?」
「今の私が瀬名さんと泉さんに返せるものがこれくらいしか思いつきませんでした。プライベートと仕事を混合するなって話かもしれませんが、私はこれを完成させてESに提出します。ヨーロッパに拠点を置こうとしているESはきっかけを欲しています。この企画をブラシュアップしていけば遠からず受け入れてくれるはずです。私はそこで瀬名さんの今までの経歴と将来性を見越して推薦する予定です。瀬名さんはこの方法で進んでいくの嫌かもしれないですけど、一つのきっかけと思ってください。白濁併せ持ってこその仕事ですし、それに企画が成功したら瀬名さんだけでなく泉さんにとって、プラスになります」
「ふうん」
「企画が通ったら必ず連絡をしますので、返事を聞かせてください。辞退をしてもかまいませんが、ひとつずるい言い方をさせてください。…泉さん、これが今の私ができる精一杯の気持ちです。
まっすぐに泉の顔を見ているあんずの顔は真剣そのもので、ただ時折不安そうな表情を覗かせている。それ以上何も言わないあんずを3秒間じっくりと眺めて泉はホールハンズに視線をずらした。そして指を動かして何かを書き込むとあんずに端末を手渡しあんずを連れ添ってキッチンからリビングに移動する。あんずの端末は通知が来たことを知らせていて、それが誰かなど確認するまでもない。少し小走りでその端末を開き泉とのチャットを開いた。目が左から右に移動するのと同時にあんずの口角も上がっていく。泉さん、あんずが嬉しそうに弾んだ声を出した。
「ほんと、あんたにはかなわないなあ」
・
「明日レオくん帰ってくるから、美術館とか案内してもらいな。申し訳ないけど明日は仕事だから、観光が終わったら俺の所に寄ってよ」
「え、いいんですか」
「そりゃあ、あんたがただの人だったら駄目だけど、あんずはESの誇るプロデューサーでしょ。勉強になると思うから来たらいいよ。話は通しておくから」
「ありがとうございます。お言葉に甘えて、勉強させていただきます。お仕事でその分返します」
「別に要らない。…ああじゃあこの後もらおうかなあ」
「この後、とは……」
「そ。確認だけど、とりあえず納期やばい仕事とかは終わってるんでしょ?俺への仕事を創ってくれたわけだし」
「そうですね、取り急ぎは」
「じゃあ、今から俺とあんずの用事に付き合わせてあげる」
「…………?」
「ドゥオモで言ったじゃん、『夜の運動に付き合ってあげる』って」
「……えっ」
「さ、行くよ。あんずは運動不足みたいだからねえ。一生懸命運動するといいよお」
「!!」