脚印梦想 軍師の野暮用でラダトに出掛けた帰り、小休止を取ろうと立ち寄ったサウスウインドゥの、そこはごくありふれた小路だった。
密集した建物の間を縫うように歩いていたビクトールは、半端に閉ざされた古い裏木戸の向こう側に、慣れ親しんだ気配を感じて足を止めた。
いわゆる流れ者どもの定宿が多いこのあたりは花街にもほど近い。朝方の涼気がようやく日差しに払拭される今時分は、人通りこそ絶えないものの、この界隈に珍しく落ち着いた空気が流れる頃合いだった。
「ビクトールか」
耳に慣れた声は、ビクトールの手が長年の日ざらしに古びた木戸にかかるよりも早く投げかけられた。明るく落ち着いた呼びかけは、まるでビクトールが今日ここを通りがかる事を既に知っていたように、きわめて当たり前の声色だ。
そういえば、ここしばらくフリックの姿を見かけていない。いや、それどころか、青年の動向についてさえも、ここ数週間まるで把握していなかったことに、今更ながらに気付いたビクトールは自身でも驚くほどに狼狽した。
別に狼狽えるようなことではないのだ。ある程度の、例えば部隊を動かすような多少規模の大きい動きがあるときならばともかく、たかが一、二週間足らずの雑多な用件ならば、一々互いの仕事を伝えあうようなまめなことなどしていない。もっとも大抵の場合は、酒場あたりで互いの動きはそれなりに耳に入ってくるものだが、事と次第、それにタイミング次第では、今回のように一ヶ月くらい互いの顔を見ぬまま、そしてその動向もわからないままになることなど、十分承知していたはずだ。
今更のようにフリックの不在に驚く自分に軽い驚きを覚えつつ、ビクトールは短い返事とともに木戸を押し開ける。高い石塀をくり抜くように設けられた古さびた扉だ。
身を竦めるようにしてくぐり抜けると、そこはこぢんまりと整えられた箱庭へとつながっていた。
大きく差し掛かった庇が居心地の良さそうな蔭を形作り、丹精に手を入れられた盆栽や、見事な細工物の水盆が、良い具合の適当さでけして広くはない庭に置かれている。熱気を持たない、ただただ白いばかりの朝の陽光に漂白されたわけでもなかろうが、まるでどこぞの仙人の庭ででもあるかのように、それはどこか現実離れした光景だった。
ビクトールは踏み入れた先をすがめでぐるりと見渡した。視界に馴染んで久しい青年が、そんな箱庭の片隅、丁度庇の蔭に設えられた椅子に腰を下ろして笑っていた。
「あんまり、無茶はするなよ。もう朝帰りって年齢じゃあないんだから」
「人聞きの悪い言い方すんなよなあ。こちとら夜っぴきお仕事に励んでいたってのによ」
揶揄するような言葉とは反対に、ビクトールの姿を認めたフリックの表情も声色も柔らかい。ついでに身にまとっている服も、トランからサウスウインドゥあたりでよく着られているゆったりとした包衣だったから、一見した限りではどこぞの若い文人が優雅に寛ぎつつ詩作かなんかにふけっていたかのようにさえ見えなくもない。
「お前もなんだかんだとまめな奴だから」
とはいえ口から出る言葉はいつもと何ら変わらぬ無造作なものだ。どっちの意味でまめなのかは敢えて言わないでおいておくけどさ、などと余計な一言をしっかり付け加えて、フリックはビクトールを手招いた。
「……まあなんにせよお疲れさん」
珍しいことに椅子に座り込んだまま、フリックはビクトールを手招いた。見ればその足下には盥が置かれており、その真ん中に裾をまくった脹ら脛が突き刺さっている。
「おう。……で、お前の方はここで一体何をやってんだ?」
膝から上の、やたら優雅な風情との落差も著しい。思わず問いただしたビクトールに対し、フリックは座面から腰を浮かせる事さえせずに、器用に背中をひねると、背後から別の小椅子を片腕だけで引き出した。一つ間違えれば腰を痛めるんじゃ無かろうかと、見ている方が心配になるほど強引な体勢だ。
下半身の動きを極力押さえた不自然な体勢にもかかわらず、片腕だけでフリックが渡して寄越したその椅子は見た目よりもはるかに重みがあるものだ。磨き抜かれて黒光りする木材はおそらく紫檀か黒檀か。いずれにしても値の張るものに違いはない。よくよくみれば木戸の古びた風情といい、そこここに植えられた小さな灌木といい、並べられた盆栽の数々といい、庭の随所から金と手がかかっていることが見てとれる。フリックが腰を下ろしている椅子だとて、それなりに手が込んでいる細工物だ。
問題はそのフリックの足下の盥である。先ほどからの不自然な体勢は、どうやらその盥に真っ直ぐに突っ込んだ足を、極力動かさないようにしているせいであるらしいが、それにしてもその理由がビクトールにはわからない。
「見ての通りだよ。もうちょっと簡単に済むかと思ってたんだけどさ」
「見ての通りったって、お前。そりゃどう見ても洗濯糊ん中に足をつっこんじまったまんま動けなくなったようにしか見えねえんだがよ」
「どれだけ強力な洗濯糊と、どんな間抜けがいたらそんな馬鹿げた話になるんだよ」
「いやあ、目の前にあんまり間抜けな格好している奴がいるからなあ」
「良く言うよ。俺が何をしてるんだか、まだわからない奴とどっちが間抜けなんだか」
盥に張られた水は、うどん粉を溶かし込んだように上澄みと沈殿に別れている。その真ん中に、まるで棒っ切れのように、フリックの足がまっすぐに突き刺さっているのだ。足浴ならば、いくらなんでももう少し寛いだ姿勢でいるはずだし、そもそもここまで動かずにいなければならない理由がない。
「……足形でも取ってんのか」
「半分はご名答。だけど、正解っていうにはちょっと物足りない答えだな」
にこにこと笑いながら、これまた上等な茶碗を無造作に差し出してくるフリックは、どうやらやけに機嫌が良い。卓を挟んで腰を下ろしたビクトールに、さらに干果の皿を勧めてそれから一つ、大きくくつろぎきった欠伸をする。
「──通りがかるといいなと思ってたんだ。靴がさ、いい加減、随分くたびれてきてたから」
柔らかな声は、茶器の湯気を受けてか、丸みを帯びて眠たげだ。主語を省いたその物言いには慣れた甘えが含まれていて、それがビクトールには心地良い。
「ああ、靴か。そっか。新調すんのか」
ようやく合点がいった様子のビクトールに、フリックが満足げに頷いた。
聞けばここはビクトールも名前だけは知っている革製品を扱う店の離れだという。ある程度出来合いの物を足に合わせるのなら店先で調整をしてくれるのだが、一から注文してつくるとなるとそうもいかない。型や寸法をとるだけで半日はかかるからと、店主のお眼鏡にかなえばこの庭に通してくれるのだそうだ。
もっとも自分がここに通されたのはシュウに紹介して貰ったからかも知れないな、とフリックは笑う。
「まあ、金も相応にかかるけど、こればっかりはな。出来合いのやつとは足下が比べものにならないからさ。ここのとこ働きづめだったから、今までの奴ももう直して使うのも限界だったし」
もう一度、大きな欠伸とともに上体を思い切り伸ばしたフリックは、続けて両腕をもみほぐすように引き延ばした。
「お前の方は一段落ついたんだろ。急いで戻る必要がないなら少しでいいから付き合えよ」
寛いでろって言われたって、こんな格好じゃね、と、小さく肩をすくめて笑うフリックはどうやら随分退屈していたようだった。聞けばもう小半時近くもこうして盥の中に足を突っ込んだまま、せいぜいやることと言ったら亭主の用意してくれた茶をすすりながらぼんやり庭を眺めることくらいだという。
もとよりサウスウインドゥで少しばかり体を休めてから戻る心積もりだったビクトールだ。フリックの提案を断る理由は何処にもない。勧められるままに卓上の茶道具を勝手に拝借しながら息を吐いた。
高い石塀と庇の向こうにいまだ朝靄の名残を残した空が広がっている。茶杯を手にぼんやりと見上げれば、おそらく隣家のものだろう欅の梢が風にそよいでいるのが目に入る。そこここから漏れ聞こえる鳥の音に紛れて、遠く表通りのざわめきが耳に届く。
フリックと、なんとなく交わしている気楽な話も、どこか途切れがちながらも心地よい。
夜っぴき仕事で知らずに強張っていた部分がゆるゆるとほどけていくのに伴って徐々に眠気も兆してくる。その眠気にビクトールがそろそろ身を委ねようかと思った頃合いに、まるで見計らっていたかのように、幾分小柄な年配の男が家の中から姿を見せた。
店の主人だというその男は、ビクトールの存在にも驚いた顔一つ見せなかった。大店の主人らしい鷹揚さを持ちながらも、いかにも熟練の職人めいた手短な言葉で新たな客人に歓迎の挨拶をすると、さっさとフリックの足下にかがみ込む。盥の中身を確認する主人の様子を見守っていたフリックが、二言三言言葉を交わすと、詰めていた息を吐き出した。
あからさまにほっとした様子のフリックの足首を、主人の手が包みこむ。片足ずつ盥の中から引き出す手つきは、まるで壊れ物でも取り扱うような恭しさだ。
盥の中の足形の出来上がりを確認した男は、裸足のまま立ち上がろうとしたフリックを制すると、再びその足下にかがみ込んで、傍らの手桶に浸した綿布を手に取り、型どりに汚れた足を拭き清め始めた。
半ば眠気に流されるまま、ビクトールは主人の手つきを眺めやる。
職人の無骨な指は、フリックの足を形作る骨や筋肉の流れを一つ一つ確認するかのように、丹念に汚れを拭っていく。フリック自身でさえ気付かぬ足癖さえ見つけ出すような執拗な手つきは、勿論、注文主の足に合った靴を作るための靴職人の熟練の所作だ。
どこかまとまらない思考の中、何故かビクトールはその光景から目が離せないまま、ふと深い感慨に思い至った。
──ああ、そうだ。
俺は、あの足を知っている。
踵の、がさついた丸み。踝からすうっと伸びあがるしなやかな腱や筋肉。すっきりと伸びて甲を形作る細い骨。存外力強い土踏まずの曲線や、使い込まれた母趾裏の硬い皮膚。それから左右で動きが異なる、指の開きの癖も、汗ばんでくるときの、その感触の変化も何もかも。
ああ、と、もう一度、ビクトールは大きく息を吐き出した。
フリックはすねのあたりまで揉みほぐす職人の手にすっかり足を委ね、心地良さそうに目を閉じている。
すべてがひどく穏やかに流れていた。どこか遠くの露地から、子どもの遊ぶ声が聞こえてくる。
サウスウインドゥの外は、まだひどい有り様だった。昨晩のラダトでの野暮用もまた、気持ちの良い仕事と言うにはほど遠い代物だった。
だが、この小さな庭は、そんなものとはまるで縁が無いかのように、ただただ穏やかにたたずんでいる。
ひたひたと満ちたりた何かが、睡魔とともにビクトールの身のうちに打ち寄せてくる。
何もかもを、つかの間の眠りに委ねて目を閉じようとするその間際、ビクトールはもう一度向かいに座るフリックの姿を目に留める。
フリックはビクトールを見守るように、柔らかな表情を浮かべている。
何もかもを見透かしてでもいるように、優しく深いその笑みは、ビクトールの思惑も欲望も、それら何もかもすらも承知の上でいるようで、ひどくビクトールを安心させる。
太陽はようやく中天に差し掛かろうとしているところだ。つかの間の眠りに引き込まれるビクトールの頭上を、白い、鳩の群れが横切っていく。
職人の手に足を委ねたままのフリックだけが、その羽音に気付いたのか、ふと空を見上げた。
白い鳥は、かつての砦の方角に飛び去っていく。中天に至る前の陽光にその鳥影が消え去るまで、フリックはぼんやりとその飛び行く先を眺めていた。