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    @Clanker208

    水都百景録の一部だけ(🔥🐟🍠⛪🍶🍖🐿🔔🐉🕯)
    twitterにupした作品以外に落書きラフ進捗過程など。
    たまにカプ物描きますがワンクッション有。合わなかったらそっとしといてね。

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    ★水都史実二次。人を選ぶ要素含むので前書き確認PLZ
    ☆この回は要素なし

    袁氏vs魏忠賢回。回数的にはここで折り返しです。
    こういう探り合いみたいなシーンって頭いい人が書けば本当にカッコよくなるんだろうけど自分には無理でした。
    魏忠賢が袁氏に目をつけて利用しようとしてたのは史実。わざわざ出向いてこないだろと思うけど、創作ゆえの単純化ということで。

    ##文章

    橄欖之苑 第七幕ある日のことだった。
    「万花楼で焦竑殿がお待ちになっている」。
    帰宅するなり、家人がそんなことを告げてきた。急な誘いに駆り出されるのは我々の間ではままあることだ。もっとも、それはどちらかといえば焦竑殿というより董其昌殿の得意技であったのだが。
    自分たちのことにはてっきりもう構わないのかと思っていたが、存外あの人もお節介なものだ。そんなことを考えながら官服を着替えると、馬を出し、指定された店へと向かった。

    万花楼は初めて訪れる酒店だった。繁華街の一角にあり、三階建ての立派な店構えをしている。
    馬を預けて足を踏み入れると、出迎えたのは音の洪水だった。広間は三階まで吹き抜けになっており、そのために宴席から聞こえる音曲や、酔客と妓女の交わすさざめきで常に騒がしい。中央の大階段や各階の欄干は灯篭や彩絹で飾られ、店名の通りいかにも華やかな趣だ。
    しかし違和感があった。酒店とはいえど、妓楼に片足を突っ込んでいるようなその場の雰囲気は、清淡な焦竑殿の印象とはとても結びつかない。誰かと一緒なのだろうか。それとも……。
    少し嫌な予感がした。
    番頭に焦竑殿の名を告げると、待ち人は三階の個室にいるらしかった。

    店員の後について広間の大階段を上り、紅灯の揺れる廊下を進む。次第にざわめきが遠くなる。廊下の両脇には個室が並んでいるが、客はおらず静かなものだ。しばらくは二人分の靴音と、そして自分の心音だけが聞こえていた。次第に高鳴るそれは、まるで警鐘のようにも聞こえた。
    やがてかすかに琵琶の音が聞こえてくる。廊下の突き当たりには両開きの扉。そこで弾いているのだろう。扉の前まで来ると、先導に当たっていた店員は立ち止まり、両手で扉を推し開く。
    漆塗りの戸板がキィときしむ。
    それは蛇の咢(あぎと)が開く音だったのかもしれない。

    「よう、袁老師(センセイ)」
    扉の向こうから俺を呼んだのは、地を這うようなかすれ声だった。

    不覚にも息が止まりかけた。
    玉すだれの下りた円窓を背に、四人の妓女を侍らせ酒杯を傾けていたのは、間違いなくあの時太和殿にいた男――魏忠賢だった。見忘れようはずもない、不吉な赤い衣と黒い外套。骨ばった蒼白な顔立ちの上で、釣り目がちの黒瞳が捕食者めいた光を放っている。
    しかし口調も物腰も、あの時とは異なり随分と野卑なものだ。――いや、こちらが彼の本性なのだろう。
    謀られているのは想定していたが、これは最悪の事態だ。ただでさえ、趙尚書や存之とのことがある。下手を打てば今夜限りの命ということにもなりかねない。

    「魏公公」
    とにかく今は、彼の気に障らぬことが一番だ。冷や汗の滲む手のひらを重ね、わざわざ丁重に頭を下げる。
    「ああ、そういうのは今日はいらねぇよ」
    魏忠賢は煩わしげに手を振った。
    「かわりに俺の方も、このままいかせてもらう。宮中が窮屈なのは、こちらも同じだってことだ」
    魏忠賢は片手を挙げて合図すると、女たちを下がらせる。琵琶を抱えた妓女を筆頭に、彼女たちは長い裾を揺らし、しずしずと退出していく。すれ違う一瞬、甘ったるい脂粉と香の匂いがした。

    背後で戸が閉まる音がする。魏忠賢はどうぞと言わんばかりに手を差し出した。促され、警戒しながら席に着く。円い八仙卓の上には二人分の酒瓶と杯、幾つかの料理が置かれている。家鴨の焼き物、羊の蒸し焼き、皮付きの豚肉を飴色に焼いたもの。肉料理ばかりだ。彼の前に置いてあると、どことなく不吉に見えて食欲が失せる。そうでなくても、今は何も喉を通りそうになかった。

    「馬鹿正直に呼びつけたんじゃあ、あんたは来てくれないと思ってな。なかなかいい趣向だったろう」
    魏忠賢は口の端を片方だけ釣り上げると、酒杯を気取った風に傾けた。
    「店選びが惜しかったな。敷居をくぐるまでは、完璧に騙されていた」
    疑いを招かぬよう、俺は机の上で指を組む。
    「あの枯れ木みたいなじじいに合わせると、俺が楽しくねぇからな」
    そう言うと、魏忠賢は俺の背後、妓女たちが去っていった扉の方に名残惜しそうな視線を送った。
    「客氏(あのおんな)にも飽きてきたところだ。たまにはいい目を見させてもらおうと思ったが――後宮の女に慣れているとどうにも物足りねぇ。せめて、趙元奴や李師師やらが、今の世にいてくれりゃあな」
    美女たちの幻を思い描いてでもいるのか、彼は上空に視線を彷徨わせながら目を細めた。
    しかし彼が口にするにしては、その名はあまりに皮肉だった。李師師に趙元奴。いずれも一夜に万金を積むような伝説的な妓女たちだ。彼女らを寵愛した徽宗が奢侈にふけった結果、宋は金国の侵入を許したというのに。

    「笑えるって顔してるな」
    無表情に努めたつもりだが、顔に出ていたのか。それとも彼自身で、皮肉には気付いていたのか。魏忠賢は机上に片腕を乗せて身を乗り出す。
    「宋の轍は踏まねぇよ。まずは何より俺がいる。それに――岳王様はおいでにならぬが、明にはあんたもいることだしな。……ま、今日はそういう席ってことだ」
    おどけた調子でそういうと、魏忠賢はもう一度深々と椅子に腰掛け、足を組んだ。
    一方の俺はといえば、存外友好的なふるまいに安堵していた。しかしよく考えてみれば、彼が自分を敵視しているというのも早合点だったのかもしれない。確かに趙尚書や存之ら彼に敵対的な人物と交流はあるが、彼らに同調したわけではないし、もし始末するとなれば、彼らの方が先に狙われるだろう。それに、奴は現在東林党の上奏で動きづらくなっている、という話も聞いた。今は奴も味方探しに躍起になっているのかもしれなかった。

    「……つまり、俺を京師に呼び戻したのは貴殿ということか?」
    「帝の意向もあるがな。親愛なる老師(センセイ)の戦功を祝して、昇任を賜りたいと。まぁ、俺としては手間が省けて助かったぜ」
    「前線の安全を放棄してまで、俺に声を掛けたのか」
    「遼東の蛮族はあんたが追っ払ったんだろう。あそこまで前線が後退すりゃあ、毛文龍がなんとかする。今のあんたに求められてるのは局地的な対応じゃなく、全体を見て戦略を練ることだ」
    彼の口から出てきた言葉に、俺は少し驚いた。彼の口から毛文龍の名が出てくるとは思っていなかったし、戦局の理解が適切だったからだ。

    「ということは、俺を陥れようとしたのは貴殿ではないのだな?」
    「あれは手下どもが勝手にやったことだ。それも科挙の同期ってんで、東林党の一部と手を組んでな。馬鹿馬鹿しい話だろ?毛文龍のことなら、俺はむしろ、奴を上手く使った方がいいと思ってる。扱いづれぇが分かりやすい男だしな」
    言い終わると、魏忠賢は杯を取り上げ、酒を口に含んだ。
    「……なるほどな」
    俺は口元に指を当て、視線を伏せる。宮中の情勢について、色々誤解があるかもしれない。幸い奴は俺の話をちゃんと聞く気があるらしい。返ってくるのは偏った情報ではあるだろうが、気になることを聞いてみることにした。

    「抗戦の意思はあるんだな?俺はてっきり、貴殿は和平派だと思っていたが」
    「それはどちらも合ってるし間違いだ」
    「どういうことだ?」
    俺は怪訝に思ってまたたく。
    「和平だろうが主戦だろうが、俺にとって大して違いはねぇってことだ。俺はただ、椅子に座っていたいだけなんでな。だから、上手く和議出来る奴がいればそれに頼るし、上手く戦える奴がいればそうするまでだ」
    「つまり、戦いたければ協力しろと?」
    「それはあんたの解釈だ」
    魏忠賢は曖昧に答えた。あくまでこちらの意思で判断させるつもりなのだろう。

    「まだ何か聞きてぇことは?」
    そう言うと、魏忠賢は箸を伸ばして家鴨の肉を一切れつまんだ。
    「貴殿のことを聞かせてくれ」
    奴がそれを咀嚼している間に、俺はさらに補足する。
    「……俺はこちらに戻って来たばかりで、貴殿のことはあまりよく知らない。周囲からは、あまりよい話は聞かないが」
    「だろうぜ。あんたの周りにいるのは東林党の御利巧ちゃんばかりだからな」
    「何故東林党を敵視する?」
    「何故かって?」
    如何にも仰々しく言うと、魏忠賢は芝居がかった所作で両手を広げる。

    「政が遅滞するのは奴らのせいだろうが。それまで上手く回っていたところに、青くせぇ理想を振りかざして秩序を乱してる。奴らが消えりゃあ、朝廷は明快で、滞ることもなくなる」
    次の瞬間には、白骨めいた顔は嫌悪に歪んでいた。
    「だいたい清廉面してやがるが、奴らだって一皮むけば、己の権益が可愛いだけだ。いいか、今の明に必要なのは金だ。金を持ってるのは誰か?……江南の商人や工人だ。農民から取り立てたところで高が知れてる。ある所から取るのが筋だろう。奴らはそれを、私利私欲のために邪魔しやがる」
    魏忠賢は頭を振ると、如何にも頭が痛いという風に、こめかみに手をあてた。

    江南で生まれた東林党には、当然ながら江南の地主階級の出身者や支持者が多い。温暖湿潤な気候から得られる豊かな作物に、張り巡らされた水路や海路による商業活動で蓄積された貨幣。江南の豊かな富は、華北の政権にとって常に垂涎の的だった。しかし統一王朝とはいえ地域ごとの利害は異なる。江南の当事者からすればそれは不当な収奪というわけだ。

    「余計な草がなくなれば、作物は良く育つ。そのために、俺は鉈を振るっているってわけだ」
    ……そこには、さぞかし多くの血がついていることだろう。
    俺は思わず、心中で皮肉った。
    聞いている限り、彼の主張は論理的だ。だが見過ごせない大前提がある。「朝廷」「大明」。主語を大きくぼかしているが、彼の言うそれは、自分自身のことにほかならぬと言うことだ。彼の思うとおりに朝廷が回り、彼が使うための金が要る。ではそれによって彼は何をしようとしているのか。それを確かめない事には判断は下せなかった。

    「ならばその上でうかがおう。貴殿が目指すものは何だ?」
    「それだ」
    ばん、という乾いた音がした。魏忠賢は机を叩いた手のひらをそのままに、待ってましたと言わんばかりに唇を釣り上げた。どういうつもりかと眼をしばたたかせている俺に対して、彼は身を乗り出し、人差し指を突き付けてみせる。
    「俺はいつも不思議なんだ。どいつもこいつも、何故そんな下らねぇことを聞きたがる?」
    何がそんなにおかしいのか、魏忠賢は如何にも愉快げだ。まるで人の理屈の通じぬ妖魅でも相手にしているような気分になる。

    「俺には、あんたらが考えるような、崇高な目的なんてねぇよ。しいて言うなら、椅子に座り続けること、ただそれだけだ。そのためには、民衆の御機嫌取りもしてやるし、国庫だって満たしてやる。――あんたが望むなら、登莱に戻してやることだって」
    登莱に。
    俺は机上で組んだ指に力を籠める。
    彼の手を取れば、登莱巡撫の地位が返ってくる。遼東の軍備強化や毛文龍の活用も受け入れられる。……あまりに旨い話に胃もたれしそうだ。機嫌を取るための虚言にも思えるが、きっと奴は本気で言っているのだろう。自分の味方――より正確には自分の利益になる者には、忠誠を勝ち取るために代価を惜しまず餌を与える。そして彼は誰のどんな望みだって叶えられるだろう。何故なら、彼自身は何も持っていないのだから。
    恣意的なばらまきや人材配置は朝廷の秩序を狂わせる。
    ―――だがもし、本当に望みが叶うとしたら?
    俺は眉を寄せ、唇を噛んだ。

    「なぁ袁老師(センセイ)、明は良い国だよな」
    急にしみじみとそう言うと、魏忠賢は肘をつき、手のひらに頬を載せた。その視線は対面に座る俺の方ではなく、側面の壁にある格子窓の外に向けられていた。紙は貼られておらず、外の様子がうかがえる。そこからは、灯籠の明かりに照らされた大通りが見えた。自慢の作品でも愛でるような顔でそれを眺めやり、彼は言葉を継ぐ。
    「クソみてぇなごろつきが、いまや『九千九百歳』だ」
    魏忠賢は顔の向きはそのままに、俺の方を一瞥した。
    「あんただってそうだろう?その日暮らしの貧農だって、救国の英雄様だ」
    「……」
    閉じた口の裏側で、俺は軽く歯を噛みしめた。勝手に人を祭り上げておいて、よくぞそんな臆面もないことを言えるものだ。彼に共感するところなどない。むしろ、自分の手でなしてきたことに、汚物をなすりつけられたような不快感が這い上がってくるだけだった。
    「使ったのが刀か筆かの違いはあるが、実力がありゃ、運命なんざ幾らだって変えられる。だから俺はそんな祖国を守ってやりてぇし……そのために、あんたの才が適切に用いられることを願ってる」
    魏忠賢は薄青色で縁取った唇を笑みの形に割った。それはまるで、捻じれた三日月のようだった。その上から、甘い餌をちらつかせて誘惑する捕食者の眼差しが俺の顔を窺っている。言い返したいことは腐るほどあるが、ただ黙ってその視線を跳ね返した。
    「話は以上だ。またお話しできるのを楽しみにしているぜ」
    やがて気楽な調子で手を振ると、魏忠賢は対話の終わりを宣言した。俺は何も答えず、この部屋に最初に足を踏み入れた時と同様、深々と一礼した。

    「そうそう、忘れてた」
    扉を開けようと手をかけたところで、出来ればもう二度と聞きたくはないかすれ声が背を叩く。
    「お友達は、ちゃんと選んだ方がいいぜ」
    「……忠告、痛み入る」
    そう言って、俺は部屋の扉を開け放つ。かくして、最悪の時が終わった。

    ようやく肩の力が抜けたのは、万花楼から出た後だった。
    手綱を引いて、今だ賑わいのやまぬ夜の大街を歩く。馬は乗り手の動揺に敏感だ。今は乗馬に集中できる気もしない。
    朔へと向かいつつある月の光は弱い。しかし各家の軒先にともる灯籠のおかげで街路は十分に明るかった。通りのあちこちに屋台が出ており、時折、胃の腑が喜びそうな匂いをふくんだ湯気が漂ってくる。
    胸の内にたまった瘴気を追い出してしまうように、ひとつ深呼吸をする。
    清冽な夜気が心地よく胸にしみわたる。しかしそれも、心のうちにわだかまる毒霧を晴らすことはできなかった。

    無事に籠の中から出られた安堵感。
    自分を掬い上げたのと同じものが、最悪の化け物を生んだ皮肉。
    何より胸に突き刺さっていたのは……一瞬でも、奴の言い分に惹かれたという事実だった。
    奴が提示したのは、今の自分の望みそのものだ。自分がもう少し単純だったら、釣り込まれていたかもしれない。しかし人心掌握の手腕に長けるという奴は、きっと誰に対しても同様に振る舞うだろうし、それが出来るだろう。なぜならば、

    奴の正体は虚無だ。

    邪であるとか悪であるとか、そんな単純な存在ですらない、空の器のようなものだ。
    奴は気に食わない相手の皮をはぐのが好きらしいが、自分自身で試してみたらどうか。そこにはただ、底知れぬ空洞があるだけだろう。
    こうあるべき、こうするべき、そんなことは何一つ考えていない。倫理や道徳はもとより、主義も信念もない。だから何物にもなれるし、何でも取り込んでしまう。
    それは明確な理念を掲げて正道に突き進む東林党とは、対照的な存在だ。
    そしてだからこそ、彼は強いのだろう。

    ――では、宦官党に加わるのは正解だろうか?
    今のところ、答えは否だ。
    監視の目を張り巡らせて粛清を繰り返し、恐怖で人を統制するようなあの男のやり方には賛同できないし、そもそもこの国の主はあくまで帝だ。たとえ政策上の意見が合おうと、奴に頭を押さえつけられるくらいなら、別の道を探す方がましだ。面従腹背できるほど、器用な性分もしていない。

    それに、奴の専横を許すのはやはり危険だと感じる。
    彼が考えているのは徹頭徹尾己のことだ。
    この国では、支配の正統性は即位の手続きよりも治国の実績によって保障される。天命なるものは、言い換えれば民の総意だ。だから奴は、民を満足させるために力を尽くすだろう。
    だがもし、彼がそれに関心を無くしたら?
    例えば後金に離反を持ちかけられたとしたら?
    今より良いものが手に入るとなれば、奴は明などためらいもなく捨てるだろう。

    ――では東林党に身を寄せるのか?
    それもまた否だ。そうなれば、魏忠賢を明確に敵に回すことになる。奴は俺に答えを求めなかったが、その代わりに監視の目をつけるだろう。取り込めれば取り込む、そうでなくても、己の存在を意識させて動きを封じる。……今思うと、それがこの会見の真意だったのだろう。下手に目を付けられぬよう、身を守らなければならない。

    だから今でも答えは中立だ。
    陣営を明らかにせず、互いを攻撃する動きにも加わらない。今いる場所で、出来る限りのことをする。それが自分にとっての最善だ。あまり気は進まないが、いざとなれば帝の後ろ盾が使えるかもしれない。
    ……それでも、本当にそれでいいのかと囁きかけてくる声がある。
    いったい何が正しいのか、最早良く分からなくなっていた。

    ――いや。
    正しさとはなんだ?
    道義的な正しさか?
    理屈の上での正しさか?
    それとも勝ち残ることか?
    感情に従えば理想は遠のく。だが理性に従えば己が死ぬ。

    「どうすればいい?」
    引きずるようにしていた足を止め、口元に手を当てる。
    その問いは海中に投じられた小石のように、暗い深淵に沈んでいくばかりだ。
    考えれば考えるほど、身動きが取れなくなっていく。これも奴の思う壺なのだろうか。
    一人でこうしていては埒が明かない。
    しかし意見を聞くなら、誰にするかも今は慎重に見極める必要がある。

    「……そうだ、あいつならきっと」
    浮かんだのは、子先殿の顔だった。
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