未だ残暑極まる秋のはじまり、都会の街並みは変わらずエンジン音、信号音、人の騒めきが互いを打ち消すように響めき四散していく。
その中を青年は諸共せずカツカツと靴底と地面を子リズムよく鳴らしながら進む。
自動販売機の横を過ぎたら凸凹の地面…その先を10メートルほど進んだら右に曲がる。
青年は歩みと頭の情報とをなぞるように繰り返した。これがこの道に通ずるルーティンである。
人通りを抜けてパイプが剥き出しになってる壁と壁。厚ぼったい薄墨の路へ行き当たり青年はやっと息をついた。
人の多い所では呪力感知も儘ならない。所定にたどり着くのは慣れてきたけどどうにも気が張って仕方ない。青年は独り言ち、ここを指定してきた相手を待つ。
砂利を詰る音で目の前で立ち止まったことを確認し青年は伏せた睫毛をなんとなしに上げた。
意味は無いのだけれど
この青年、乙骨憂太は全盲だ。
正式名称は網膜色素変性症。幼少期は見えていた視界は終にまくを閉じ、義眼で日々を過ごしている。
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「待たせたかな」
約束時間の3分前に着いた夏油は、待ち合わせよろしくの常套句をころがせ微笑みかける。
「今日はよろしくお願いします」
「こちらこそ。それにしても君の年齢で掃除屋とは…それに…」
ー全盲でこの仕事をするなんて
恐らく成人をしていないほどの年齢であろう少年をしげしげ見つめては大げさにきょとんとさせた。
「そんなことよりもはやく案内してください」
乙骨はそれを駄弁と切り捨て相手の行動を急き立てる。睫毛の下から覗かせる浅葱色の義眼はその色味が冷たさを助長しているのだろうか。シンと物静かな眼差しがこれまでの少年の過去を語るようだった。
「それもそうだね、歩きながら説明するとしよう」
人通りが少なめの路地裏を選んだがここではいつ人が来てもおかしくない。こちらとしても本望では無いので後ろから着いてくるよう言い、踵を返した。
「今日、君が相手するのは準1級の呪術師だよ」
しり目に少し低い頭が着いてきてるのを確認しながら歩みを進める。乙骨の全くもって与太つかない足取りに本当は見えているのではないだろうかと思わせられる。戦闘になれた軍人でさえ容易にこなせる仕事ではない、ましてや全盲の少年には不可能と言っても過言ではなかろう。そこに秘められた強さは想像するに難い。底知れぬ恐怖と好奇心の沸き立ちに夏油はひとりでに脳髄のしびれを感じとっていた。
口頭で相手の年齢や性別、術式などを説明しながらさらに路地裏の奥まった方へ進んで行く。
「と、その前に2級呪術師が対峙する"はずだった"呪霊をやっとかないとね」
なんでもないような口ぶりで用件を付け足しながら歩みを弛めた。ほどなく目的地へ到着だ。
文字が掠れ読みずらくなっている工事中という看板は風化した標識ロープから投げ出されている。
柵越しに見えるのは倒壊途中のコンクリートの塊。
その退廃的な色を滲ませた建物は如何にも訳ありな様子でそこに鎮座している。夏油と乙骨はそこへ足をかけた。
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鼻腔をとおる土埃の混じった空気が廃ビルの色を映す。
視覚を持たざるもの他方への熟達を得るというが、呪力感知もまた然り。六眼を持つ訳では無いが、乙骨の「眼」はもはや呪力を見ることに特化した存在となり、繊細に巡っている呪力を感じることで視覚を補っていた。
無機質なコンクリートに囲まれてやっと乙骨は夏油の輪郭を感じ取る。声に相応して整った見た目をしているな、とここで考えるには少し場違いながらも思考はいたって冷静だった。
夏油の要求は、まとめるとふたつ。
一つ、対象の処理、できれば捕獲すること
二つ、夏油との関わりを周囲に知られないようにすること
「他に聞きたいことはあるかい」
「…いえ。とくには」
依頼主の術式を知りたいところであったが、どこまで引き出していいものか考えあぐねて、喉を詰まらせる。
仕事柄あまり依頼人とのコンタクトは取らないことが多いが、今回は普通の一般人を掃除するのとは訳が違い、場合によっては処理し損なう可能性もあるだろう。そのため連携を取れるようにしておくことが賢明であろうという処置のようだ。余程処理したい相手なのか。いや、条件を考えて情報漏洩を恐れてのほうが妥当だろうか。
「そうかい、じゃあ私はここから少し離れた場所へと移るとするよ。安心してくれ、君がピンチのときは駆けつけれるようにしておく。」
「はぁ…。よろしくお願いします?」
では健闘を祈るよ。そう言って袈裟姿の男は三階の窓から姿を消した。
駆けつけるようにする、というのはこちらの様子が何らかの方法で認知できるのだろう。下手に戦闘を間延びさせるのは得策ではないようだ。
刹那
左耳を掠めるように呪力の塊が真横を過ぎる。
…
「ァひ…あそボ?ぼ?ァ」
小指がピクリと動くのを感じた。なるほど、たしかにこのレベルの呪霊を祓除する術師はやり手かもしれない。
細長い人のようなシルエットに、頭部が首にめり込むような異型。不自然な筋肉の付き方をした皮と骨ばかりの四肢。喘ぎ喘ぎの声は耳にじとりと纏わりついて乙骨は無意識に眉をひそめた。
「ぁ"ゝ、あ、アそぼぉ」
長い手足から繰り出されるは無尽蔵な打撃。それを乙骨は上体を反らしていなす。そのまま遠心力に従って体を捻らせ相手の連打を凌いだ。
「ごめんね、忙しいんだ」
上半身を前のめらせるよう身を低くする。
呪力を込めた足がシビビと電気が流されるような感覚がした。
爪先に全体重を乗せて地面のタイルを踏みしめる。
ビッー
風を切り裂くような痛烈な音。
それが聞こえたとき既に乙骨の刀には暗紫の血が滴っていた。
その、速さに間に合わず血が遅れて吹き出す。
差し込んだ刀を抜くため呪霊を蹴り飛ばし蔦のように絡みつく血をピシャリと薙ぎ払う。重力に従って落ちた血がモルタルに染み込み黒紫く咲いた。
「ふぅ…」
一息吐き壁にもたれ掛かるようにして今回の標的が来るのを待つ。
2時間ほど待ち、本当にここに標的が来るのかと懐疑に思い始めた頃。
ーシン…
周りの気配がシャットダウンされていくのに反比例して浮き彫りにされるように呪力が1つこちらの方に向かって来るのを感じとった。
帳。結界という呪術で外と内を切り分け呪いを炙り出すもの。このような機会が無ければ特段目立つ為に乙骨は使ったことがなかった。
しかしこれは中々に良い。相手の動きが鮮明に、手に取るように、わかる。乙骨は相手が徐々にこちらに近づいてくるのに伴って息を潜めた。
この戦いの自分の強みはあいてを真正面から相手せずに不意をつけばいいところにある。つまり初手が最大手で王手なのだ。
この廃ビルを辛うじて支えてる柱の影に隠れて息を詰めた。コツリ、コツリという靴の音が大きくなる。背中にくっつけているコンクリートの感触が滲むように冷たい。
あと一歩。
あと一歩近づいたらこちらの間合い。一撃で仕留める。
そのときだった
ゴシャガララ…
呪霊を徐伐した上の階からコンクリートの綻びた音がする。頭上だ。
どうする、避ける訳にはいかない、しかし斬撃でコンクリートと除いても相手には気づかれるだろう。
一か八か。
頭部に触れる一瞬間に呪力を込め、この落下物を防ぐ、
乙骨は自身のまいた種に舌打ちを飛ばしたくなった。