音階は消えず そこには、一台のピアノがあった。
幻ではなかろうか、とアポリアはもう一度、よくよく部屋の中を覗き込んだ。明かりが落ちた室内に通路からの光が差し込んで、黒く滑らかな楽器の表面を浮かび上がらせている。
それはほんとうにピアノだった。
アポリアは我知らず、部屋の中に足を踏み入れていた。ピアノなんて、もう随分見ていなかったからだ。
アポリアがこの部屋を見つけたのは偶然だった。ここに慣れてもらうためにも散策してきたらどうですか、Z-ONEにそう言われて、足の赴くままにアーククレイドル内を歩いていた。固く閉ざされた扉が延々と並ぶ通路を進むうち、アポリアはひとつだけぽっかりと口を開ける扉に気づいた。そうして覗き込んでみれば、幼い頃に慣れ親しんだ楽器がそこにあったというわけだった。
浮き足立つ気持ちを抑えながら、アポリアはピアノの周囲をぐるりと一周してみる。見たところ、大きな損傷は無さそうだった。
弾きたい。
その想いだけが、今のアポリアの胸中を支配していた。もう何十年も触れていなかったのに、脳裏にはかつて演奏した譜面とその音が、鮮やかに蘇り始めている。
思えば、アポリアは人生の多くの場面を音楽と共に過ごしてきた。父と一緒に練習したピアノ、母に披露したリコーダー──平和な日々が過ぎ去った後も、機械たちの襲撃が無いときは、戦場の片隅で同じ部隊の面々と、ありあわせの材料で作った楽器を演奏したものだった。
このピアノは誰のものなのだろう。Z-ONE、アンチノミー、パラドックスがピアノを演奏するという話は、まだ聞いたことがない。ただ、このアーククレイドルにある物は自由に使って構わないと、皆からは言われている。
ならば、とアポリアは鍵盤の前の椅子を引く。ピアノの椅子に腰掛けるのも何十年ぶりかのことだ、この楽器を演奏する時独特の背筋の角度。鍵盤に指を乗せる。爪は立てず、しかし指は寝かせずに。
身体は、弾き方を覚えている。
アポリアは、そのことが無性に嬉しかった。多くのものをなくしてきた人生で、それでも手のひらの中に残ったものがあったのだ。
さあ、何を弾こう? そう自身に問いかけて、アポリアは記憶の中の楽譜めくる。薄暗闇の部屋の雰囲気が呼び起こしたのは、照明が落とされた映画館の光景と、エンドロールに流れた主題歌だった。両親に連れられて鑑賞したその映画は、デュエルモンスターズのモンスターたちが主人公で、流行りに流行った主題歌は、一時期どこへ行っても耳にするほどだった。すぐにピアノの楽譜が発売されて、アポリアも両親にねだって買ってもらったのだった。
始めの音は何だったか。そうだ、あの和音だ。
頭の中に旋律を浮かべ、指先に力を込める。
そうして──アポリアが思い描いていた音は、鳴らなかった。
鍵盤を指で押さえた刹那、軽やかに鳴るはずの音は、本来定められた音程から外れていた。音の輪郭がぼやけ、違う一音に滲んでいくように、楽器は曖昧に鳴いたのだ。
アポリアはもう一度、同じ音を弾いた。どうかさっきの不機嫌な音は幻で、正しく穏やかな曲の始まりが、その幻を打ち消してくれることを願った。楽器はもう一度曖昧に鳴いた。
どちらが幻だったのか気付いた頭は、冷たい思考に浸されていく。よく考えれば、Z-ONEも、アンチノミーも、パラドックスも誰も使わない楽器が、まともに手入れされている筈がない。そんな楽器が、正しい音程を奏でられる筈がない。
このピアノは、その最後のあるじが死んだ時、ともに死んだのだ。
そう思い至って、アポリアは恐ろしくなった。魂のない亡骸だけが、正しく埋葬されず、ここに置き去りにされている。住む者が居なくなった建物、乗る者がいなくなった車、読む者がいなくなった時計──地上を彷徨う中でアポリアが見てきた多くと同じく、主人を失ったものの姿。
アポリアは椅子から立ち上がり、鍵盤蓋を下ろした。ふっと小さく埃が舞う。その様がまた、このピアノの死後の時間の堆積を思わせる。
アポリアはこれまで、多くの人の最期を見送ってきた。戦禍の中で擦り潰されていく戦友、隣を歩いていた旅の仲間、そして旅の途中で偶然出会った人々。その中には絵描きもいたし、エンジニアもいたし、学者も、医者もいた。思い返せば彼らが死んだ時、彼らが志した学問や芸術もともに死んだのだろう。
自然の中に意味を見出し、その規則性や美しさを形にするのは人のわざだ。それを為す人が居ないのなら、音階すら死に絶えてしまう。人の終わりとは、そういうことだったのだ。アポリアは今、またひとつ、人の終わりを見送った。
「アポリア、そこに居ますか?」
「なかなか戻ってこないから心配したよ」
部屋の入り口から影が差し、Z-ONE、アンチノミー、パラドックスがやってきた。アポリアがピアノから離れがたく思っているうちに、随分時間が経ってしまっていたのだろう。
「そのピアノ、ハヤマさんのだね。彼は……もう数年前に亡くなったけれど、ピアノが上手かったんだよ。寝たきりになる前は、よく私たちにも聞かせてくれてね」アンチノミーが懐かしそうに言う。
「この部屋にいたということは、アポリア、キミもピアノが弾けるのかね」
パラドックスの問いに、アポリアは首を横に振った。
「私は弾けるが、ピアノの方がもう……」
「それは、貴方には残念な思いをさせてしまいましたね。すみませんでした」
「否、良いのだZ-ONE。私ももう戻ろう」
気にしていないように振る舞って、アポリアは部屋を出た。その明らかに肩を落とした後ろ姿を、三人は見つめていた。
次の朝。
アポリアが朝のミーティングに顔を出すと、アンチノミーが後ろ手に何か隠しながら近づいてきた。
「アポリアに私たち三人から、渡したいものがあるんだ」
「渡したいもの?」
アポリアが頭に疑問符を浮かべていると、アンチノミーは背中に隠していた右手をアポリアの前に差し出した。そこにはスティック状の小型端末が握られている。
「この電源を入れると……」
アンチノミーがスイッチを切り替えると、端末からタッチパネルが浮かび上がった。柔らかく光を発するそれは、ピアノの鍵盤の形をしていた。
「……これは?」
「キミが昨日、ピアノを弾けなくて残念そうにしていたから、私たち三人で作ったんだ。こうして机の上に寝かせると、ほんもののピアノと同じように座って弾くことができる」
アンチノミーは得意そうに笑った。
「本物のピアノより鍵盤の数は少ないがね」とパラドックスが付け加える。
「どちらかというと、キーボードに用途は近いかもしれませんね。ピアノ以外の音も出ますから」そう言ったのはZ-ONEだ。
楽しげに話す三人を見て、アポリアは彼らの顔に薄らと隈が浮かんでいることに気づいた。これだけのものを一日で作るために、昨夜は皆遅くまで起きていたのだろう。知り合ったばかりの自分のために三人がそこまでしてくれたことが、アポリアは嬉しかった。
そして、再びピアノが弾けるということは、失われたと思われた音楽が、再び息を吹き返すということでもあった。
アポリアは机の上の鍵盤に手を伸ばした。昨日弾こうとして弾けなかった曲、その始まりの音を示す鍵盤を、そっと指で押さえる。
そうして今度こそ、楽器は正しく音を奏でた。
確かめるようにもう一音、伸ばした手は震えている。そうして響いた音も、間違わなかった。
「皆、何と……何と礼を言ったらいいか……」
目頭を押さえるアポリアを見て、三人は微笑んだ。
「お礼なんて気にしないでくれ。な、二人とも」
「ああ、構わないのだよ。代わりに偶に何か聴かせてくれたまえ」
「ええ、私たちも随分長い間、誰かの演奏なんて聴いていませんからね」
「勿論だ。早速何か演奏しよう」
目の端に滲んだ涙を拭い、アポリアは鍵盤の前の椅子に座った。「皆、何かリクエストはあるだろうか」
「まずはキミが弾きたい曲にしたらどうかな?」
アンチノミーの提案に、他の二人も頷いた。
「それなら、私が好きな映画の主題歌を……デュエルモンスターズの映画の曲だから、皆も知っているかもしれない」
「あ、それって昔パラドックスがよく歌っていたやつじゃないか?」
「何? 私はキミらの前で歌など歌ったことは無かろう」
「私たちの前では、確かにそうですね。でも子ども達を寝かしつける時、子守唄代わりにいつも歌っていましたよ」
「そんなこともあったか……キミらにも聞かれていたというわけだな」
三人の話を聞くうちに、アポリアはあることを思いついた。
「パラドックス、良ければ演奏に合わせて歌ってくれないだろうか」
「こんな老ぼれの歌など聞いてどうするのかね……」パラドックスは呆れたように眉を少し下げた。
「私が聴きたいのだ。音楽は、誰かと演奏するのがいちばんだ。だから頼まれてくれないだろうか」
パラドックスは額に手を当てて数秒考え込み、小さく息をついた。
「……良かろう。歌の上手さは保証できないがね」
「ああ、ありがとう」
パラドックスが一つ咳払いをするのを待って、アポリアは演奏を始めた。前奏は、太古から吹く風を思わせるように緩やかに。
翼もつものたち
果てより来たりて
とわの歴史をながめる
人が去りしかの地には
竜がすまう
パラドックスの静かな声が歌詞を紡ぐ。年齢相応にその声は枯れているものの、それが却って、物語の伝説めいたこの歌の歌詞によく似合っていた。
歌の上手かった母が歌ったこの曲は、元の音源にそっくりで、恋人が歌ったこの曲は、絵本を読み聞かせるように優しかった。歌に自信がなかったらしい父親は、鼻歌しか歌わなかった。
パラドックスの歌声が、アポリアの頭の中の記憶を呼び起こす。アポリアの演奏に合わせて同じ曲を歌った人々の、十人十色の歌声のさまを。
こんなふうに、再び誰かと共に音楽を奏でられるなんて、彷徨っていた頃のアポリアは想像していなかった。三人の新たな仲間は、アポリアが諦めた音楽を、魔法のように蘇らせた。
翼よ翼よ
時を忘れてどこまでも
竜よ竜よ
まことの祈りを運んでおくれ
三人は、失われたこの世界を取り戻すための研究をしているらしい。その遥かなる偉業も、優しく聡明な三人なら、必ず成し遂げるだろうとアポリアは確信した。この三人なら、きっと大丈夫。それが「四人なら大丈夫」になれるように、アポリアは彼らの力になりたいと思う。どうやって、というのが悩みどころではあるけれど。
まずは、彼ら三人の日々の楽しみになるように、ピアノを弾くところからかもしれない。
終