きっかけは本当に些細なことだ。
レンガの壁には落書きが施され、あちらこちらには煙草の吸い殻が落ちている。ひどいときには吐瀉物が放置されていて今まで見た何よりも混沌がひしめくこの街で、随分と整理された空間がそこにあった。
草や花が植えられているが、庭というには枯れた植物がやや目立つ。公園というにも少し狭く、きっと此処の庭師は無能なんだろう。
もしくはこの庭の持ち主がそこまでの興味が無いのだろうか。ただの郵便屋にはどうでもいいことだが。
「……この街にもこんなところがあったんだ」
風に靡いて揺れる葉の音がざあざあと鳴いている。あまりこういう芸術の知識は持ち合わせていないが、それでも心は落ち着いていくものだ。
敷かれたタイルの道に沿って歩いていく。大きく開けたそこには。
「……B?どうした、こんなところで何してる」
よく聞き慣れた、少し掠れた声。どうやらこの庭と並んでいる建物から出てきたらしい。彼の住処はアパートメントだったはずだ。こんな立派な家なら、数日と保たないだろう。金も、場所も。
「何って……こっちの台詞だ」
「……俺の仕事のひとつだよ。此処の主人が俺の雇い主なんだ」
腹立たしいが俺が此処で暮らせるのはそいつのお陰なんだ。
苦虫を噛み潰したような顔をしながらポケットに手を突っ込んで近付いてくる。
今、2人の前には自分たちの身長をゆうに越えるほどの彫刻が聳え立っている。頭と腕はなく、布を纏った身体と片足を半歩前に出し、背中には大きな翼を広げている——……。
「気になるか?」
「……これ、なに?」
「ニケっていう女神さまだよ。レプリカだけど…悪くない趣味してるだろ」
石だとは思えないほど精巧に作られた翼に目が奪われる。まるで。
「天使みたいだ」
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