神父とその眷属の信仰心について足音とともにぴたぴたと水音がしている。月明かりが所々から差し込んでいる生臭い香りが充満してる廊下を通って、その扉の前に立つ。
ノックを二回。返事は無い。
「グレゴールさん、入りますね」
静かに戸を開けて身体を滑り込ませる。邪魔にならぬよう音を立てないように。扉が締まり切ると、しんと静寂が広がって、この部屋だけまるで別世界だ。
役としての神父だなんてとんでもない。一遍の曇りもなく、この完璧で夢ような世界の永続を望んで、皆が軋ませてきた心を慈しむように撫で、優しく、温かく、我らの目指すべき共存の形へ導いてくださる。
グレゴールさんは目を閉じて、祈り続けている。
それに倣い、膝をついて祈りを捧げる。
この世界を作り出したお方に。
そして、我々と人との共存を願い、誠心誠意を尽くしてきたお方に。
グレゴールさんの深呼吸が聞こえた。祈りの時間は終わりだ。
「トーマ」
僕の名前を呼ぶ。幾度となく繰り返されてきた報告ゆえに、それだけで済む。
「はい、グレゴールさん。今日は五人が血を口にしてしまいました。カールですが、客人の腕に噛みつき生き血を啜りました。本人が強く罰を望んだため両手両足を潰し磔にしています。クララは飢餓に耐えられず血袋を作ってしまいました。反省の言葉を垂れ流しながらも啜ることを止められない様子でしたので、悪しき血鬼役として役立っていただくことになりました。ゲオルクは共存の道への理解が出来なかったようです。客人の血を口にした後、錯乱してしまい自分のことも何だかわからない有様だったので異分子として処理しました。ハンスは先日追放となった者と同じく血液を保管した瓶を隠し持ち、複数名を唆していました。しばらくの間アトラクションの一部として反省の日々を過ごしたいとのことでしたので、告解室で自らの罪を告白した後、牙を抜き逆さ吊りになる予定です」
淡々と説明をする。グレゴールさんは静かに息を吐く。
「……そうか」
どれだけの時が過ぎただろう。笑顔の絶えない夢の国、ラ・マンチャランドの看板が掲げられてから、どれだけの悪しき血鬼を裁き、時に励まし、時に叱りつけてきただろう。いつになったら解るのだろう。皆信じる心が足りないのだ。両手を開けば、笑顔を浮かべて手を取れば、共に歩めぬはずもないのに。たった少し、ほんの少しだけ、血への渇望を我慢すればいいのだ。我らに敵意がないと知れば、同じく心清き人間が、手のひらに収まるより少ない血を分けてくれるというのに。
「……トーマ」
神父様の優しい声がする。告白を促す、赦しへ導く声が。
「……あ、」
神父様は何も言わずこちらを見ている。慈しみか、哀れみか、温度のない視線で。
ガタガタと勝手に震え出す腕を、脚を、なんとか押さえつける。
「告白、します。……客人の遺体を棺に納める時、両手に、両足に、体に、甘やかな血がついて…………っ!」
鮮やかな赤が目を灼いた。血液を模した砂の塊のような固形物など比べ物にならない。さながら明かりに誘われる虫だ。惹き付けられて逃げられなくて。
「まだ温かい血が滴っていて、私は……愚かにも、口をつけて……」
何をしたというのだろう。こんなこと、どうってことない行動のはずなのに。生きるために必要であるはずなのに。ほんとうに愚かなことなのだろうか。牛や鶏を食糧とするのと何が違うのだろうか。
「……死んでいる体から無意味に流れる血をどうして見過ごすことが出来るのですか。流れるままにする方が無益だと思ってしまうのは罪なのでしょうか」
「……それは死者の冒涜に他ならない。真に隣人でありたくば、そのようなことはしない。死を悼まねばならない。卑しく血を啜らず、微笑んで博愛に満ちた人を送らねばならない。……お前は俺の眷属だ、できるだろう?」
「…………申し訳、ありませ……っ、あ、私、私は……」
「お前は正直に告白した。大丈夫だ、きっと赦して下さる。二度とないように、耐えられるように――ほら、トーマ」
誰よりも慈悲深い方。我らを見捨てない方。
手を広げて招くそこは、自分にだけ赦された場所。
「……ごめんなさいごめんなさいごめんなさい、私を裁いてください、ごめんなさいごめんなさい…………」
空腹より忍耐より貴方の期待に応えられないことが苦しい。
背を撫でさする貴方の手に、ほんの少しの震えがあることになど、気を向けるべきでは無いのだ。