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    忸怩くん

    @Jikujito

    鋭百、春夏春、そらつくとか雑多

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    忸怩くん

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    【鋭百】ワンス「傘」

     わざと傘を忘れて相合傘を狙ってみる、なんて歌詞を歌ったこともあったけれど、そんなしたたかな小悪魔にはなる気も予定もなく、忘れず家から傘を持ってきていた。朝は晴れていたのだが昼過ぎから降りだすと昨日クラスメイトとの会話を耳に挟んだため、玄関先に折り重なったビニール傘の1本を掴んできたのだが正解だったようだ。学校を出るころはまだぎりぎりどろりと垂れだしそうな鉛雲は沈黙を保っていたが、事務所の最寄り駅につくともうすっかり本降りになっていた。
    雨粒が音を立てて弾ける真っ黒に染まった路面を駅の中から眺める人々の中、見慣れたカーキ色の学ランを見つけた。向こうはこちらに気が付いていないようで、彫りの深い顔は眉を寄せ雨を睨みつけて思案しているようだった。
    「傘ないの? めずらしいね」
    「百々人」
     その隣に並びながら声をかけると、翡翠色の目をみはってから再び路面に視線を戻した。いつもなら天気予報をしっかり把握しているから忘れず傘を持ってくるのに、今日に限って予報を見ていなかったのだろうか。
     そんな疑念をくみ取ったのか、眉見はバツが悪そうに嘆息した。
    「持ってきてはいたんだが、学校に忘れたんだ。気付いた時には取りに戻っている時間がなかった」
     失態だと反省しているのか、苦虫を噛み潰したような顔で言うから思わず笑ってしまった。傘なんてコンビニで買えばすぐ解決してしまうのに。ただ、たしかにこの土砂降りではコンビニまで行くのを躊躇してしまうのも頷ける。下げていたビニール傘を、ばん、と大きな音を立てて開き視線で入るよう促す。素直に入ってきてくれたが、すぐに傘の柄を奪われて大きくこちらへ傾けられた。大きな音を立てて雨粒がビニール素材の上で跳ねている。言葉を交わさず傘に誘うことも、その持ち手を委ねることもできる程度には仲良くなれているらしい。それはうれしいのだが、こちらにばかり傘を傾けず、雨を吸ってしまっている自分の右肩も少しは大事にしてほしかった。
     歩くたびに肩が触れ、気を遣って離れてはまた近づいてぶつかる。普段隣を歩いているよりも近づかないと互いに濡れてしまうから、自然と腕が触れ合うほどの近さになる。歩幅とリズムを合わせてぶつからないように調整してくれているのがわかるとくすぐったくて、気を紛らわすように道行く人々の色とりどりの傘を眺めていた。鮮やかなひまわり畑、赤青白のストライプ、グリーンのグラデーションがかったビニール、シンプルな黒、花びらを模した桜色に金縁、上品なかたちのグレー。デザイン性が高く雨の日が楽しみになるような傘が近年はたくさん出ていて、こうしてあたりに目を向けるだけでも各々が好きなデザインで町を色づけている。眉見もいつもは質のよさそうな紳士傘を持っているから、こうしてコンビニの安いビニール傘を差させているのが申し訳なくなった。すぐ取られたり無くしたりと、傘に頓着しないせいで家の玄関には似たようなビニール傘が何本も積まれている。
     互いに歩調を合わせることに集中して無言の時間が続くけれど、雨や車が行き交う音で絶え間なく音があって息苦しさはない。ただ大きくない傘の中では近すぎて体温まで感じとれてしまいそうだ。誰かとこれだけ近い距離にいるとき、どういうふうに呼吸したらいいんだろう。つい息をひそめてしまって苦しくなって、事務所までの道をやたら遠く感じた。互いにリズムを合わせた歩調は気持ちに反して緩やかで、慎重に水溜まりを避けて歩くからいつまでたってもたった数分の道のりが終わらない。ようやくたどり着いた事務所の階段下で傘が閉じられ、簡単に水気を振りとばした傘の先端から道路脇の側溝へと溜められた雨が流れていく。丁寧に傘をまとめる眉見の肩口の色がすっかり変わってしまっているのを見て、思わず呆れた声を出した。
    「マユミくん、びしょぬれじゃん。僕ばっかりに差してくれなくてよかったのに」
    「傘の持ち主を濡らすわけにはいかないだろう。百々人が来なければ全身濡れるところだったんだ、助かった」
    「ちょうどいいタイミングで駅ついてよかったよ。ほら、早く着替えに行こ」
    「いや、今日は資料を受け取ったらすぐ出るんだ」
     同じ時間に駅にいたから一緒のレッスンだと思い込んでいたが、今日は眉見単独でラジオの収録があると聞いていたのを思い出す。教えられたとおりの正確な動きで指先まで張りつめた眉見のダンスが見られないのは少し惜しい。きれいに閉じられた傘を受け取りつつ、ふと抱いた違和感を口に出した。
    「あれ、今日ってぴぃちゃんと移動?」
    「いや、電車で行く。プロデューサーは別件があるそうだし、会ったことはある相手だからな」
    「だよね? じゃあこれ、ビニ傘でわるいけどよかったら使って。捨てちゃっていいから」
     受け取ったばかりの傘を差しだしたが、眉見はだめだと首を振る。
    「お前が帰りに濡れるだろう」
    「夜には止むらしいから大丈夫だよ。もし降ってても天峰くんに入れてもらえばいいし、帰ってシャワー浴びればいいし。びしょ濡れでスタジオ行ったらびっくりされるよ?」
     仕事のために濡れないことと百々人を濡らさないこと、どちらをとるか悩んだ末にしぶしぶ傘を受け取ってくれた。駅で鉢合わせたおかげで右肩以外が濡れるのはどうにか防げたようだ。険しい顔をしながら傘の柄を強く握りしめる。
    「すまない、次会う日に必ず返す」
    「捨てちゃっていいよ。なくすたびに買ってるから、家にいっぱいあるんだ」
    「だが……いや、なら俺がありがたく使わせてもらう。そうだな……ロッカーに入れておけば百々人も秀も使えるか。他の人のものと混同しないように目印もつけないな、アンブレラマーカーも買うか……」
     ビニール傘なんて使い捨てだ。あってもなくてもどうでもいいようなものなのに、百々人が簡単に手放したそれを大切に使おうとしてくれている。だったらもっと大きいのもってこればよかったとか、ちゃんといい傘あげるから取り替えてよとか、焦りみたいな恥じらいが頭の中をぐるぐると回るけれど、結局何も言えずに好きに使っていいよと言うにとどまった。一度眉見のものになり大切に扱われてしまった以上、どうでもいい傘だとかそんな扱いはできなかった。
     玄関に積まれた不燃ごみが、眉見の手に渡るとお気に入りのブランドみたいに大事に扱われてしまう。それが不快なのか心地いいのか、その判別はまだつかなかった。
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