おはようはまだ先にして 冬の夜は長く、朝と言える時間になってもまだあたりは薄暗く日の出が遠い。
夜を明かし駅へと戻っていくまばらな人々とは反対に、コートの襟を寄せてスタジオまでの道をのんびりと歩いていく。早朝の街の、青みを帯びた水底みたいな静けさが好きだった。
手前のコンビニでエナジードリンクと菓子パンを買い、小さなビニール袋を片手にスタジオのエレベーターの中で深呼吸をして気持ちを切り替える。ここからは仕事相手、アイドルとしての花園百々人を見せていかないといけない。
「おはようございます、C、FIRSTの花園です。本日はよろしくお願いします。」
「おはようございます。控室そこの奥、第3です。あ、眉見さんも来られてます
よ」
集合時間にはまだ随分余裕がある。諸々の余裕を見て早い時間の電車で来たのだが、上がいたようだ。教えられた通りに進んだ先、控室のドアを控えめにノックする。
「……あれ」
ノックが小さすぎたのか出ているのか、返事はない。様子を伺うようそっとドアを開けると、椅子にもたれかかり頭を揺らす眉見の姿があった。脱力した手にゆるく握られたままのカップが危なっかしい。
「マユミくん。おはよう?」「おは……百々人か、おはよう」
声をかけるとぱっと顔をあげて反射で返そうとし、百々人の姿を認めるといっも通りの声で挨拶が返ってきた。そのまま何事もなかったかのように手にしたコンビニのホットコーヒーを口に運ぶのが愛おしくて、思わずくすりと笑う。隣に座るとビニール袋から出したエナジードリンクにストローを刺す。
「来るの早いね、いつ着いたの?」
「まだ5分ほど前だ。早めに着いて一息つこうと思って」
「で、コーヒー飲みながら寝落ちしちゃったんだ?」
「・・・・・・・さすがにこう早いとな」
バツが悪そうに言うと眠気を覚ますように伸びをするが、そのまま直後に滑れた久伸を噛み殺す。閉じようとする瞼はきを繰り返しながら細められていて、宙を睨んでいるみたいだ。百々人も眠くはあるけれど、それにしたって眉見はそれよりもさらに眠そうで、このまま仕事に入るのは随分きつそうに見える。
「マユミくんさあ、仮眠とったら?まだ時間あるし、起こすよ」
「だが寝起きで撮影に入るわけにはいかないだろう」
「今のままもよっぽどだと思うけどな。撮影までにメイクも打ち合わせもあるし、仮眠くらい大丈夫だよ」
渋る眉見を頷かせようと寝た方がいい理由をいくつか挙げてみると、眉間を押さえたまま目を細め黙り込む。少しして諦めたように息をつくと、飲みかけのコーヒーを机の端に寄せた。
「15分たったら起こしてくれるか」
「あ……うん、いいよ。おやすみ」
こちらから勧めたものの案外あっさりと受け入れられて動揺してしまった。机の上に両腕を枕にして伏せる眉見の横で、音を立てないように飲みかけの缶をそっと置く。手持ち無沙汰にスマホで今日のスケジュールを確認するもののあまり頭に入ってこず、それも早々に画面を閉じてしまった。よほど眠かったのか、丸まった背中はすぐに静かに上下し始めて、控室の中は暖房が温風を吐き出す音だけになる。
眉見が眠そうなのもこうして目の前で寝ているのも珍しく、ついその背中を観察してしまう。始発よりも早い時間にプロデューサーの運転でロケに向かった時は天峰含め3人とも車内で寝ていたけれど、そういう時でもなければ普段は百々人の方が眠がっているくらいだ。あまり気を抜いた姿を見せる人ではないし、誰かがいれば眠いそぶり自体いつもなら見せない。それが今、こうもあっさりと隣で寝息を立てている。
静かに丸まった購脂の頭は無防備で、この人に気を許されているというそのことに浮かれてしまいそうだ。身じろぎ一つ、息をするのも慎重になるようなぼんやりとした熱を孕む静けさの中、時計の秒針だけがやけに大きく響く。もうじき天峰も到着する頃だけれど、それがまだもう少し先であることを望んでいる。ぼんやりとしていた頭は、もうエナジードリンクなんて必要ないくらいにはっきりとしていた。