微睡みのふちからいつの間に手を離してしまっていたのか、布団の上に放り出されたスマホが震えるわずかな音でふっと目を開ける。もう昼に近い時間だがカーテンを閉め切ったままの部屋は薄暗く、スマホの画面は眩しく光りバイブレーションを続けている。
久々に丸一日のオフだからと目覚ましをつけずに寝たのだが、今朝は寝苦しさで目を覚ました。息が引っ掛かるような喉の違和感と気のせいではない倦怠感に、起き上がる前に風邪をひいたのだと悟る。布団にこもった熱が不快で蹴りやって呻きながら起き上がると、ゆらゆらと三半規管すら不安定だ。しばらくしてから薬を探し出したのだが、最後に使った時にしまい忘れたのかいつものところには見つからず、捜索している間に寒気まで出始めて全部諦めてベッドに戻ったのだった。横になっているのが気持ち悪くて壁にもたれ座り込んでいたが、そうしているうちに微睡んでいたのだろう。
寝起きでぼうっとした頭のまま震える明るい画面をしばらく眺めていたが、それがユニットメンバーからの着信を示していると気付いて慌ててスマホをつかん
だ。
「……もしもし?」
「お疲れ。今少しいいか」
耳に押し当てたスピーカーから聞こえる低音に、倦怠感の中でも胸がとくりと動いた。自分とは声質の違う男性らしい眉見の声は面と向かって聞いても心地いいが、通話やイヤモニだったり、スピーカーを通すと余計に耳の奥まで響いて心臓が音を鳴らす。熱でゆるんだ思考はそのままそれを声に滲ませてしまって、うん、ととろけた声で続きを促す。
「明後日のダンスレッスンとボイトレの時間を交代できないかと秋山から相談があってな。1時間早まるんだが、問題ないか確認したい」
「明後日ね。ええと……」
スケジュール帳を確認したいが、リュックは机の横に放り投げたままだ。取りに行こうとベッドの端に寄ったそれだけの動きで視界がぐらりと揺れて、その不快さに唇を噛み唾を飲む。これではスケジュール帳を取り出したとて細かい文字を読める気は到底せず、諦めて目を閉じたままため息をついた。
「ごめん……明日確認でもいいかな。確か空いてたとは思うんだけど」
「ああ、なら秀にも聞いて問題なければ交代にしておく」
「うん……ありがとう」
会話が終わり、静かに長い息を吐く。背後のざわめきから事務所にいるのはわかっていたからすぐ天峰に連絡して秋山と調整するのかと思っていたが、通話は切られることなくざわめきが聞こえるままだ。目を閉じていると、自分も事務所にいるみたいで安心する。こちらから切ることもなくその音を聞いていると、息を吸う音がして本題より柔らかくなった声音が再び耳元に届く。
「眠そうだが、寝ていたのか」
「んー……少しだけ」
「起こしたのならすまなかったな」
「ううん、寝ようとしてたわけでもなかったから……」
熱が上がったのか、いつまでもふわふわとした頭のまま会話を続ける。耳に当てたスピーカーから声が聞こえるせいで眉見がすぐ近くにいるような気がして不思議な気持ちだ。中身のない会話をしているとは思ったが、もう少しこのまま、なんでもない話をしていたい。そうしている間は不快な寒気もどうにもならないしんどさも、少しだけマシになる気がする。
会話と会話の間に沈黙が挟まる。ぽつぽつと、距離感を測っているみたいだ。
けれど背後に聞こえる賑やかな声のおかげでそこに寂しさはなく、あたたかく優しい沈黙だ。
「……体調、悪いのか」
静かに囁くように聞かれたそれに吐息だけで笑った。通話越しの声だけでわかってしまうんだろうか。隠そうとしていたわけでもないけれど、筒抜けなのだと思うと悔しくて、うーん、とどちらともつかない返事をしてしまう。そうなのだと認めるのは格好悪いけれど、今は虚勢を張るんじゃなくてそのまま心配を受け止めたい。
曖昧な返事を肯定ととったのかどうかわからないまま見が思案しているのが通話越しに伝わってきて、何も言わず眉見の言葉を待った。結論を出したのか、ひとつ息を吐く音が聞こえる。
「薬は飲んだか。食料もなさそうなら買っていく」
「え……いや、そんなにしてくれなくて大丈夫だよ、悪いし。寝てたら元気にるから……」
「その様子だとどちらもまだだな。不調の時くらい人を頼ったほうがいい。今から向かうと……1時間くらいか。住所だけ送っておいてくれ。インターホンは鳴らすが、寝ていればドアに袋をかけておくから出なくて構わない」
とんとん拍子に進む話に頭がついていかない。これまで自宅に招いたこともなかった友人が、風邪程度でこんなに急に来ることになるとは考えていなかった。
わざわざそんなにしてもらうのは申し訳ないから来なくていいと言ったところで眉見は聞いてくれないだろう。百々人の家庭事情を知ってからというもの、眉見の少し過保護な面をよく見る。レッスン終わりに食事に連れていかれたり、眉見家で3人で映画を見てそのまま夕飯にしようと提案されたりすることも多くなっていた。
気遣いを無理に断るのも逆に悪いか、と諦めて結局押しに負けて返事をする。
実際この体調で食べられるような食料がないのも事実だった。今度必ず詫びをしようと心に決めて、寝癖であらぬ方向に跳ねている前髪を手櫛でざっくりと整える。流石に家まで来てもらっておいて、出迎えもせず帰らせることはしたくない。
「今事務所を出たから、また最寄りに着く頃に連絡は入れる。じゃあまた後で」
「え、あ、マユミくんっ」
通話を切ろうとする眉見をつい呼び止めると、「ん?」と優しい声がふわりと帰ってくる。今日の眉見の声色は、なんだかいつも以上に甘くて優しい。考える前に口が動いてしまったが、返ってきた声にどうしようもなく胸が苦しくなって、そうして寂しいのだと気が付いた。この通話が心地よくて、まだもう少しこうしていたい。自覚すると気恥ずかしい動機に、えっと、と口籠る。
「ごめんね、えっと……もう少し繋いでてもいい、かな……?」
「……ああ。電車に乗るまででいいか」
「うん……少しだけ」
眉見の靴が地面を蹴る音が聞こえる。事務所の賑やかさとはまた違うけれど、車が通り抜ける音や青号を知らせる音、すれ違う人たちの笑い声なんかが足音と衣擦れの音に重なって聞こえる。もう少しと言ったけれど話したいことがあるわけではなかったから2人とも黙ったまま、時折ぽつぽつと体調を聞かれたり今日の仕事の話を聞いたり、小さな会話が生まれてはすぐに溶けていく。
一定のリズムを繰り返す足音に揺られるよう、すぐ側にいた眠気がまたのしかかってきて瞼が重い。今寝てしまったら眉見が来た時に気づけないかもしれないからちゃんと起きていたいのに、優しく暴力的なそれは抗えないほど強く百々人を眠りに引き込む。膝と一緒に抱え込んだスマホから名前が呼ばれ、小さく笑う声がした。眠りに落ちる間際の、おやすみ、と優しく呟かれた声だけは、どうか目が覚めても覚えていますように。