かげろう 夏の盛り、真上から注がれる熱で空気自体がゆらゆらと揺れている。太陽光が白く飛んで見ているだけでも暑い外の様子にうんざりして目を細めながら、視線は光に金の飛沫をきらめかせる明るい髪を追っている。くゆる煙が重たげにのぼって霧散するのも一層暑さを際立たせているが、その炎天下でもそれなりに話は交わされているようで、灰皿を囲んだ数人には時折笑いが起こっていた。黒いバケットハットのふちが日光を遮って強い影を落としているから、百々人の表情はいまいち見えない。
外の猛暑に対抗するように空調は唸りを上げているが、スタジオ内もお世辞にも涼しいとは言えない。天井も高くいくつかの出入り口は締め切ることのできない古い建物内ではそれも仕方ないのだが、おまけのように生ぬるい空気がサーキュレーターで回されている。それでも屋外と比べれば格段に快適な中、流れる汗をタオルで拭って息をついていると秀に呼ばれた。
「鋭心先輩! スタッフさんが、差し入れでアイス買ってきてくれました。俺たちから選んでいいって」
撮影暑くて申し訳ないから、とクーラーボックスに詰められたカラフルなアイスキャンデーを勧められる。別にスタッフの責任でもないのだが、好意はありがたく受け取ることにして適当なものを手に取った。さっぱりとしたフルーツ味のそれらは早くも溶けかけているようで、残りも早々に配ってしまった方がいいだろう。秀も同じ考えだったようで、目が合うともう一本色の違うものを取り出した。
「百々人先輩には渡しておくんで、スタッフさんたちも早く食べちゃってください。もう柔らかくなってきてるし」
改めて礼を言い、二人で喫煙所に向かう。溶かしてしまわないようにと袋の端をつまんでぶら下げる秀は両手がふさがっていたため、代わりに外へと出る金属扉を開ける。熱いノブを回すと一気にべったりとした重たい熱気がなだれこんでくる。うわあ、と背後で小さくうんざりした悲鳴が上がった。
「百々人、差し入れをいただいた。好きな味はあるか」
「あんまり見ずに持ってきましたけど。俺どれでもいけるんで、選んでいいですよ」
空気自体が熱を持ち茹だってしまいそうな中、鋭心たちから顔をそらしてゆっくりと息を吐き出した百々人は、手に持った加熱式タバコの本体に目をやって、それからゆるりと首を傾げた。
「ありがとう。もうちょっとだから、これ終わったらもらうね」
溶ける、とは言わなくても分かっているだろう。外に出てきたばかりの鋭心ですらもうすでにじんわりと額に汗がにじんでいるくらいに耐えがたい気温なのだ。ほかのスタッフたちは早く取りにいかないと配ってくれている人に悪いから、と室内に戻っていった。一人が灰皿に押し付けたまだ長い煙草が、酸っぱいような苦い臭いを残していて、あまりいいとは言えない喫煙所の空気にひそかに呼吸を抑える。
「じゃあ俺も先に中戻って食べてますけど……アイス、溶けても文句言わないでくださいね」
「言わないよお。でも溶かしちゃだめだよ?」
「言ってるじゃないですかもう。鋭心先輩、戻りましょ」
「ああ。……いや、百々人を待とう。秀は先に戻っていろ」
秀の何を言っているんだという視線をかわしてアイスの袋を開ける。息をしているだけで肺が焼けるような猛暑だ。まだタバコの残っている百々人はともかくどうして鋭心まで、という疑問は口に出されなくても想像に易い。それでももうここでアイスを剝きだした鋭心に何か言うことはなく、「すぐ戻ってきてくださいね」とだけ残して重い扉の向こうに戻っていった。
タバコを吸い、息を吐くのに合わせて百々人が笑う。紙の煙草ではないから煙は上がらない。
「いいの? 暑いよ、外」
「お前もずっといるだろう。暑くないのか」
「暑いよ。でも喫煙所、ここだけだし」
喫煙者ではない鋭心にはそこまでして吸いたい理由はわからない。少し前から吸い始めたと思ったら、こうして現場スタッフとも喫煙所で仲良くなり、鋭心の知らない味なんかを覚えている。喫煙所という、自分が部外者でしかない空間は少し居心地が悪い。
「……百々人は、」
うるさいくらいに蝉がじぃじぃと鳴いていて、室内の声もここには聞こえてこない。じっとりと重たい熱が時間の流れもゆっくりにしているようだ。
なぜ煙草を吸いだしたのか、今まで聞いたことはなかった。鋭心個人としては百害あって一利もないように見えるのだが、世の中これだけ多くの人が吸っているからには、かっこいいからだとか依存だとか意外にも理由があるのだろう。吸わない方がいい、というのは鋭心の勝手な意見だから、深く踏み込まないようにしてきた。
「どんな味がするんだ」
なぜ煙草を吸うんだ、というストレートな言葉を飲み込んで遠回りした質問に変える。返事に悩みながら百々人はまた肺から息を吐くと、ため息に似たそれが湿度の中に消えていく。
「うーん、どう言えばいいんだろ……甘い、けど重い?」
首をかしげながら答える百々人の答えはあいまいで、喫煙者ではない鋭心にはまったく伝わらなかった。煙が甘いも重いも想像できなくて、なぜ煙草を吸うのかの答えには到底たどり着けそうもない。
眉を寄せてアイスをかじる。炎天下であっという間に溶けて垂れるアイスは、急いで食べているにも関わらず、指を濡らしアスファルトにも黒い染みを作っていた。じゅわりと広がる果物味を口内で味わいながら、まったくわからないといった態度が顔に出ていたのか、百々人が唇だけで愉快そうに笑う。
「えーしんくんも吸ってみる?」
一歩、鋭心に歩み寄った百々人が手に持った端末を目の前にかざして見せる。紙煙草よりもずいぶんと近代的なそのフォルムからではなく、誘いをかけた百々人の吐息から、ほのかに甘い煙たさを感じた。
「……。いや、遠慮しておく」
それを振り払うように首を振って断ると、そっか、とそう残念でもなさそうに百々人と香りが離れていき、鋭心はひそかに詰めていた息を吐く。いつの間にか吸い終わっていたのか、スティックを抜いて灰皿に捨てると、戻ろうか、と熱を反射する錆びた扉へと手をかけた。
「あっつー。アイスまだ大丈夫かな」
そうぼやきつつ衣装のシャツの胸元を掴み、ぱたぱたと風を起こして汗をぬぐう。まだ外の眩しさと比べて暗い室内に慣れない視界でぱちぱちと瞬きすると、あ、と声を上げて駆けていく。見つけた秀の背中に背後からいきなり声をかけて驚かせている姿は、先ほどまでの妙な影やなまめかしさとは転じて、いっそ学生のころよりも子供っぽいくらいだ。当然ながらかなり溶けてしまっていたアイスに文句を言って秀をからかうのも見慣れた光景で、それにどことなく安堵していることに気が付く。
百々人が煙草を吸うことが嫌なのだという自覚はあった。害があるからという正当な理由に加えて、よく知ったはずの男が知らない表情を見せることへの焦燥感が、喫煙している姿を見るたびに腹の底で不快にうずまく。
口に出すことはない勝手な不満はいまだ燻っているのに、先ほどほんの少し知ってしまった甘い煙が、脳に残ったまま離れてくれない。