「なぁ、新。お前、事件の首謀者と裏で繋がってたって本当か?」
歪につり上がった口の端が容易に想像できるような、不快な声音が新の鼓膜が揺らした。
大勢の学園関係者が行き交うホールの真ん中で、極めて愉快そうな表情で声をかけてきた男は、新の友人。
より正確に言うならば、かつて友人だった男。
……あぁ、またこの手合いか。
新は欠伸を噛み殺して返答した。
「学園の暗部……そう呼ばれる人達とよく話をさせてもらっていたのは、本当だよ」
「……話、ねぇ。本当にお話ししただけか? 俺はな、お前がやったこと、全部知ってんだぜ――ほら」
ずい、と渾身の切り札を見せつけるように突き出されたのは、スマホの画面。
そこには、誰が撮影したのだろうか、確かにマシンを背にした過日の新の姿が映っていた。喜悦も顕に、敵対勢力に向けて能力を行使する自分が。
動画をじっくりと検分した新は、果たして大きな溜息を吐いた。
「……それで、君は俺にどうして欲しいんだい?」
「は? それで、って――」
「何が欲しい? お金かな? 暗部の情報? それとも、謝罪? ……あいにく、どれも大した持ち合わせが無いんだけど」
新は軽薄な笑みで答えた。
この手の人間は、退院して学園に顔を出すようになって数日でいやというほど相手にしてきた。
義憤に駆られて新を罵倒する者、正義の鉄槌と称して拳を振り上げる者、理解者面して暗部との仲介を求める者、ひいては的外れな同情の言葉をくれる無能力者に、嘲弄の眼差しを隠そうともしない能力者。
反応は様々だったが、そのどれもが、新の琴線に触れ得ぬつまらない悪感情であった。
(雁首揃えてよくもまぁ、こう下らないことが出来るものだ)
新は、今更自分が事件の関係者だと喧伝されたとて痛くも痒くもなかった。
事件が収束し、新が単なる一学生から“犯罪組織の一員”に成り下がった瞬間から、新には人として当たり前に向けられるべき尊重というものが、既に与えられなくなっていたのだから。
自分を取り巻く悪評が今更一つや二つ増えたって、全く構いやしないのである。
……かつて新の手の内にあったものは、もはや全て失われてしまった。友人も、借り物の能力も、無能力者が能力者を支配する不可思議で興味深い世界も。
学園暗部に協力すると決めた時から、相応のリスクを背負うことは覚悟していた。
作戦が失敗に終わったその時、新は学園で最も立場の悪い者――排斥すべき無能力者として扱われることになると。
新はそれを承知で学園暗部に掌を差し出したはずだった。
(けど……こんなに日々が退屈になるだなんて、思わなかった)
悪評と罵倒は構わない。
だが、今もこの身を蝕む退屈と孤独は、新にとっては耐え難い苦痛だった。
目の前の男が新の感興を誘うに足る何かをしてくれるなら、罵るでも殴るでも好きにしてくれて構わないのに、とすら思う。
そんな願いを込めて男に目線をやると、その男は蛇に射すくめられたかのように大仰に身を竦めた。
「お……お前、自分の立場が分かってんのか?」
「立場? 立場も何も……俺たちは対等な学生同士だろう?」
新が口にしたのは、学園の建前だ。能力者も無能力者も、新のように過去に瑕疵を持つ者も、ここでは全員が平等な一学徒。差別や贔屓など、あってはならない。
能力者と無能力者が入り乱れる学園の秩序の均衡は、日々ギリギリのところで保たれている。
一つ差別を許せばあっという間に崩壊することが目に見えているから、これに違反した者は即刻指導の対象になるのだ。
教師に目をつけられたくなければ、誰に聞き咎められるかも分からないホールのど真ん中で迂闊な発言をすべきではない。
そう考えた新は、あえて空惚けた返答をした。
だが、その飄々とした態度が男の神経を逆撫でしてしまうことまでは読めなかった。
「ッ……てめぇ、さっきから調子乗ってんなぁ」
「調子に? いやぁ、自覚は無いけど……何か気に触ったかい?」
「あぁ、触ったね……」
男が不自然に身をかがめる。
まずい、と思った時にはもう遅かった。
「――思わず手が出ちまうほどにな!」
回避動作を取る間も無く、男がおもむろに新に向かって手を突き出した。
男の両眼が、怒りに呼応するようにギラギラと奇妙に発光する。
――能力発現の兆候。
……あぁ、そういえばこいつは能力者だったな、とぼんやり思い至ったその時。
「だ、駄目ッ……!」
弱々しい影がタッと駆けてきて、俺と男の間に立ち塞がった。
不意の闖入者。
元友人は幸いにも反射的に手を引っ込めてくれたが――俺を庇うように両手を広げた闖入者の背中は頼りなく、お世辞にも人一人を能力者から庇えるようなものとは思えなかった。
良く見積もってもせいいっぱい威嚇するリスのようで、どうも覇気というものが感じられない。
おまけに、何故か肩に奇妙なぬいぐるみを乗せているので、何だかいっそう間抜けに見えた。
一瞬は警戒していた友人も、興を削がれたように肩を竦めた。
「――は、誰だよてめぇ?」
「えっ、あ、申し遅れました、僕はセオ……じゃなくて! 君、正当防衛以外で攻撃の意志を持って人に能力を使うのは禁止だよ!」
講義をするように人差し指を立てるその姿は、この場の空気に不釣り合いな程に幼げであった。
……セオ。
どこかで聞いたことがある名な気もするが、思い出せない。
何にせよ、よりにもよって俺を庇ってしまうなんて運の無い人だ。
案の定、元友人はにやりと笑みを深めて男の肩を叩いた。
「あー、あんたは知らないんだな? なら教えてやるよ。いいか、そいつは例の事件の関係者で、街を滅茶苦茶にした張本人なんだよ。あんたが庇ってやる必要なんて無いの。分かる?」
講釈を垂れた元友人は、最後に「な? 新」と同意を求めるように唇を歪めた。
新は肯定も否定もせずただ黙って、厄介事に首を突っ込んできたご親切な男に憐憫の視線を向けた。
新は多くの一般市民の命を危険に晒した罪人。
起こした事件の規模を思えば、過激な私刑もやむなし、というのが世間の風潮だった。
実際、学園に復帰した新が学園の生徒らに絡まれるところを目撃した者は多いが、誰一人としてその行為を咎めるものはなかった。
止めた方が悪になるのだから、当然だ。
状況を読み損なったこの間抜けな男――セオとやらも、さっさと何処ぞへ消えてほしい。元友人を下手に刺激される方が面倒だ。
「……おい、何黙ってんだ? 聞いたことくらいあるだろ、こいつは――」
「――新くん」
くるり、とセオという男が新の顔を振り仰いだ。
暗い印象の黒髪、色ばかり鮮烈で、そこに宿る光は弱々しげなちぐはぐの瞳。その頼りなさげな双眸が、緩やかに細められた。
そこでやっと気が付いた。
――この人は。
「知ってるよ、新くんがやったこと。……目の前で、見てたから」
「……はぁ?」
「でもね、どんな理由でも理不尽に人を傷つけるのだけは、絶対に駄目」
「何を訳の分からないことを……あぁ! もしや、てめぇも例の事件の一味か? だからコイツを庇うんだな? そんなに制裁を受けてぇなら、纏めて――」
「――そこの君、何をしている!」
その時。凛とした声が、ホールに響いた。
一際存在感のある集団が、自然と割れる人垣の道の真ん中を歩み近付いて来る。
一目で分かった。公安の上層部の人間達だ。
「あ……皆。ごめんね、何も言わずに離れちゃって」
「はは、急に走ってった時は驚いたけどな……ま、怪我してないなら良いんだ」
髭面の男が元友人にちらと視線を向ける。元友人は物言いたげに口をはくはくさせたが、髭面の隣に立っていた目つきの悪い男に睨まれると、蛇に睨まれた蛙のように固まってしまった。
元友人はかろうじて「しッ、……失礼します!」とだけ口にし、足早に去っていった。
後に残されたのは俺と――
「大丈夫だった? 新くん」
この黒髪の男……それに、公安の人間達だけだ。状況だけ見れば、四面楚歌と言って良かった。かつて敵として相対した彼らの目が、嫌悪や警戒を滲ませたそれらが、新の一挙手一投足を注視する。
表面上はにこやかだが、皆その腹の内では新への敵愾心や猜疑心を燻らせていることがありありと見て取れた――その内、ただ一人を覗いては。
セオ、と呼ばれた男を見下ろすと、彼は不思議そうにこてりと首を傾げた。
警戒心の欠片も無い、ぼやっとした顔をしている。
この振る舞いは、新の如き無能力者など簡単に転がせる能力を隠し持っているが故の自信に裏打ちされたものか、あるいは――
「新くん? もしかして、どこか痛むの? それなら保健室に……」
「君さ、無能力者じゃなかったっけ?」
「……へ?」
――自身に向けられた敵意に鈍感な、単なる馬鹿か。
セオは、質問の意図が分からないというように目を白黒させたが、ややあっておずおずと首肯した。
なるほど、後者か。
新はセオの意志薄弱そうな振る舞いを目にして、すぐさまそう結論づけた。
誰彼構わず優しさを振りまいて、困っている人間には迷わず手を差し伸べることが出来る……無能力者差別が横行するこの世界でそんな精神性を維持していられる無能力者なんて、何も考えていない余程の馬鹿か、本物の聖人だけだ。
(けど、それなら寧ろ好都合だ)
俺は笑みを深めて、徐にポケットに手を突っ込んだ。周囲に僅かな緊張が走るが、気にせず乱雑に折り畳まれた紙を取り出す。
その紙は、今朝方に新の元へ届いた命令状。
差し出し元は公安。
その内容は――くだくだしい前書きを取り払って要約すると、「公安の派遣した監視の元で学園に復帰するか、学園を去るか選べ」というもの。
俺は好奇心の赴くまま自由に生きていたいのに、監視をつけられるなんて真っ平だ。
だから本当は今日、学園を辞めることを公安に伝えに来た――のだけど。
俺は公安の面々に向かって紙をひらひらと掲げた。
「俺、決めました。監視を受け入れて学園に戻ります――ただし」
す、と人差し指を立てる。それだけで、場に緊張が走った。ぽかんとしているのは、例の黒髪ばかり。
あぁ、本当に都合が良い。
「――監視にはセオを付けてください。同じ無能力者同士、丁度いいでしょう?」
ホールの緊張した空気が、いよいよ冷たく張り詰めた。
優秀な公安のお歴々には、俺が何か企んでいることくらいお見通しだろう――いや、どんな鈍感な人間でもその程度は容易に察せられるか。
けれど、断らせはしない。
「俺、不安なんです。皆さんも見たでしょう? 能力者が俺に向かって力を使おうとしたところを」
「あ、新く――」
「あれは、もともと俺の友人でした」
は、とセオが息を飲んだ。眉がへの字に垂れ、右の手が中空を彷徨い、そっと肩のぬいぐるみに触れる。
「あの時、友に敵意を向けられたショックと、一方的な暴力への恐ろしさで、俺は全く動けなかった……けれどそんな時に彼が、セオが助けてくれました」
「新くん……」
「セオとならば、俺はうまくやっていける気がするんです」
膝をかがめてセオに微笑みかけると、おどおどしていた色違いの瞳が一転して決意を帯びて煌めいた。
公安の人間が何か言いたげに口を開く――その直前に、彼の手を取った。
セオはきっと、真摯に頼み事をされたら断れない人間だ。
予想通り、彼は公安の人間よりも素早く口を開いた。
「分かった。僕が新くんの監視を務めるよ!」
「待て、セオ。それは――」
「あぁ、ありがとうセオ!」
他の人間には喋らせない。
セオのやる気満々な表情に、俺は勝ちを確信した。
純粋で、甘くて、呑気で人を疑うことを知らない……彼のような人間なら、俺でも簡単に転がせるだろう。
公安にしか渡っていない機密情報、学園暗部の現状、俺の好奇心を満たすそれらを彼から存分に頂いてやろう。
学園の暗部にはまだ残党が居る。セオを粗方利用したら、その人達とコンタクトを取って計画の再始動に手を貸すのも悪くない。
セオを踏み台にして、俺は俺の興味を満たす。
素晴らしいじゃないか。
俺の前途もまだまだ捨てたものではない。
「これからよろしくな、セオ」
「うん。宜しくね、新くん!」
セオ、愚かで純粋な俺の希望の光。
短い付き合いになるだろうが――という言葉を飲み込んで、俺は心から微笑んだ。
◆◆◆(惚れた後)
「そういえば、今日から監視が解かれるそうですよ」
学園の講義が終了して間もなく。雑談の折に触れて、深御は新に向かってそう切り出した。
幸喜新さん――如何なる思惑があってか、暗部と手を組んで無辜の人々に刃を向けた、己の友人。
彼が監視付きで学園に復帰したと聞いた時は心底驚いたものだが、こうしてまた穏やかに彼と話せるようになったことにはそれ以上の驚きと感慨を覚える。
新さんがこうしてセオさん抜きで一般の生徒と同じように並んで講義を受けられるようになったのは、彼が公安の面々に太鼓判を押されるまで信頼を回復させた――要は心を改めたと認められたためだ。
最近の新さんの振る舞いは、品行方正を絵に描いたようだった。
暗部の情報を提供したりマシンの解析に協力したりと公安に協力的な姿勢を見せたうえ、あの奔放で制御の効かない新さんが、四六時中の監視の目も甘んじて受け入れていた。
果たしてその行いは正当に評価され、この度新さんは晴れて自由の身となることが決まった。
元々自由を好む新さんのことだ。この知らせは彼にとってさぞ嬉しかろうと思われたのだが――
「……は、ぁ?」
――彼の反応は私の想像とは少々異なっていた。
「なんですか、その反応は」
「いや、だから……え? 監視が解かれる? 誰の?」
「貴方の話に決まっているじゃないですか」
何を惚けた反応を……と首を傾げると、新さんは鳩が豆鉄砲食らったような顔――いや、捨てられた子犬のような顔で固まっていた。
……何故そんな表情を?
「時期尚早だという声もあったのですが、熱心な嘆願もあり特例で――」
「いい」
「はい? いいって、貴方……」
「特例なんて要らないよ。なんでそんなことをする必要があるんだ?」
吐き捨てるように叩きつけられた言葉に、深御は驚愕で二の句が継げなかった。
監視や束縛というものを何より苦手とする気質を持った彼が、まさかこの報を前に喜ぶどころか拒否を突きつけてくるなんて。
それどころか、監視を解かれることに対して妙な焦りさえ滲ませている。
その理由を合理的に考えるなら……。
――新さんはセオさんを利用して何か企んでいる? もしそうなら、尚更早急に二人を引き離さなければならない。
深御の心情を知ってか知らずか、新は尋問するような口調で深御に詰め寄って来た。
「『熱心な嘆願があった』って言ってたな。誰からだい?」
「……それを聞いてどうするんです?」
「さぁ。ただその親切に感謝するだけかもしれないだろ?」
瞳に剣呑な光を宿らせて、新さんは厭な薄笑みを浮かべた。
飄々とした詐欺師のような笑みだ。彼が何か企んでいることは疑いようがない。
正直に伝えていいものか、一瞬悩んだが――黙っていれば彼は強引な手段で調べようとするだろう。
そちらの方がかえって危険を招く恐れがある。
それならば、今正直に答えてやってから、その人を新さんの元から遠ざけた方が安全だろう。
そう結論づけて、深御は素直に口を開いた。
「セオさんですよ」
瞬間、新さんが椅子ごと後ろに倒れた。
「新さん!?」
突然床に仰向けに倒れた新さんは、どういうわけか虚ろな瞳で天井を見つめていた。
「ど、どうして……どうしてなんだ? き、昨日まであんなに楽しく話してたのに……」
「ど、どうしたんですか新さん? なんだか様子が……」
「ま、まさか勝手にクローゼットを漁ったのがバレたのか? それとも隠しカメラの存在に気付いた? それで俺のことが嫌いになって離れようと……?」
小さな声で聞き取れない独り言を呟く新さん。
明らかに尋常ではない。
深御がその異様な有様に気圧されていると、彼は急に何かに取り憑かれたようにむくりと起き上がった。
「公安の情報を暗部の人間に流してくる」
「……は?」
「そうすればまた監視がつくよな?」
「な、何ですか藪から棒に。冗談にしても笑えな――」
「冗談じゃない。実はまだ連絡の手段を隠してあったんだ」
「は……!? い、いやちょっと待ちなさい!」
突拍子も無いことを口走って教室を出ていこうとする新さんを止めようと手を伸ばすと、扉から見覚えのある黒髪が顔を出した。
「こんにちは、新くん居ま……」
「セオさん、その人捕まえてください!」
「えっ!? えっとえっと、新くんこっちおいで!」
セオさんは突然の頼み事に目を白黒させ、バッと腕を広げた。
逃げようとしている人を相手に「おいで」と言って素直に来るものなのか、という疑念とは裏腹に、新さんは大人しく……どころかわざわざ方向転換をして、吸い込まれるようにセオさんの前で立ち止まった。
「つ、捕まえたよ!」
新さんの腕を両手できゅっと掴んで掲げるセオさん。
捕らえられた新さんはといえば、不自然なほどに大人しくしている。
それが逆に不穏だがひとまず礼を述べると、セオさんは小さく眉を下げた。
「あの……新くんがまた何かしたの?」
「したと言いますか、しようとしていたと言いますか……」
あれはほんの軽口だったのだろうか? いや、それにしてはあまりに真に迫っていた。
何と言ったものかと深御が頭を悩ませていると、今度は新さんが口を開いた。
「セオ、は、その……俺のこと、嫌いになったのか……?」
「えっ? どうしたの、急に!」
「だって……セオが俺の監視を止めたいって言い出したって」
眉を下げておずおずと問いかける新さんは、見たことがないほど弱々しい表情をしていた。
それどころか、もはや普段とは別人のようだ。
常の彼は、どこか心の内を読ませない泰然自若とした佇まいをしている。
だが今はどうだ、幼子のように感情を顕にしてセオさんに縋っている。
これが演技だというなら空恐ろしいことだが……。
「あぁ! ふふ、それで不安になっちゃったの?」
「……仕方ないじゃないか。セオに嫌われたら、俺はもう生きていけないよ」
「ふふ、大袈裟なんだから。大丈夫、僕が君のことを嫌いになるわけないじゃない」
――新さんは、大人びた人間だった。社交的で朗らかで、礼儀も知っていて友人も多い。
しかし、本当の心の奥には踏み込ませず、常に人との間に一線を引く人だった。
それどころか時折、人を見る目がまるで実験用の檻に閉じ込められたラットを観察するような冷たさを帯びることがあった。
マシンを率いた彼と対峙した時は驚いたが、同時に妙な納得もあったのだ。
――ああ、彼にとって周囲の人間は、本当に檻の中の実験動物に過ぎなかったのだ。ガラス越しにこちらを眺める科学者と心を通わせることが、どうして出来ようか……と。
――そんな感想を抱いていた新さんは今、セオさんに頭を撫でられて、信じられないほど表情を蕩けさせていた。
「監視の命を取り下げるようお願いしたのはね、新くんが自由にお出かけ出来るようにしたいなって思ったからだよ。ほら、何度も『旅行に行きたい』って言ってたでしょ?」
「つ、つまり……俺のために?」
「もちろん」
気負いない首肯を受けて、新さんはどっと脱力した。
「な、なんだ……はは、うん、そっか、そうだったのか! セオは本当に俺のことが大好きだね?」
「うん? うん、僕は皆のことが大好きだよ」
私は今何を見せられているんだろうか。
セオさんと話す新さんは、大好きな飼い主にじゃれつく犬のようだった。
セオさんの手が新さんの頭から離れると、名残惜しそうにその手を目で追う。
友人としては何だか見ていられなくなって、目を背けた。
「なぁセオ。俺は、旅行に行くのも他愛の無い買い物に行くのも君と一緒が良いよ。だから、監視はこれまで通り行ってくれて構わない」
「えっ? うーん、でも……」
セオさんがこちらに視線を寄越した。
変に嘴を突っ込んだら厄介事に巻き込まれる予感がしたので、咄嗟に「お二人で話し合って決めてください」と返す。
セオさんは顎に手を当てて口を開いた。
「でも、もう新くんは悪いことしてないのに……。僕がずっと着いてたら変な目で見られちゃうよ。せめて寮の部屋くらいは分けた方が良いと思う」
「…………。……分かった、悪いことをしたら良いんだね?」
「あー、セオさん! 部屋を変更する手続きも色々と手間が掛かりますから、現状維持で問題が無いならそのままで良いと思いますよ!」
慌てて声を張り上げると、セオさんは「そう? 深御くんがそう言うなら……」と納得を見せ、新さんは「深御の言う通りだよ。流石は俺の友達だな」などと言い出す。やかましい。
「それでセオ、俺に何か用があったんじゃないのかい?」
「あ、うん。本当は監視のことについてお話しに来たんだけど……」
「あぁ。それなら片付いたから問題無いね。用事も済んだことだし、一緒にお茶でもしないか?」
「え? う、うん。少しだけなら……深御くんも一緒に」
「私はこの後も講義がありますので、遠慮しておきます」
本当は茶を喫する時間くらいはあるが……着いて行ってもロクなことにならないのは明白だ。
「じゃあ行こうか。深御、また次の講義でな」
「あ……じゃあね深御くん!」
足早に退室する新さんは、一度だけこちらに視線をやり……手をセオさんの腰に添えて出ていった。
ここまでお膳立てしてやってまだ牽制をかけてくるその姿勢には恐れ入るが、それだけ筋金入りということだろう。
……公安に報告することが増えてしまった。
公安に恭順の姿勢を示しながら暗部との繋がりを隠し通す彼の手腕は、無能力者ながら侮れない。彼をこちら側に引き込めるのならこれ以上無いことだが、それにしたってこれは……。
吉報として報告すべきか悲報として報告すべきか、悩むところだった。
「くれぐれも、ちゃんと手綱を握っておいてくださいね……」
切なる願いは、溜息と混じりあって空気に溶けた。