山奥の村で消息を絶つふたりそれはなんてことない、ただの、ちょっとした旅行から帰る道中での出来事だった、はずなのだ。
ハンドルを握っていた輝さんは突如車を停車させ、ペダルの調子がおかしい、と怪訝そうに呟く。
出来る範囲で試行錯誤してみたものの、その場では解決することができなかった。このまま進もうにもしばらくは山道のため、不安が拭いきれない。専門業者に連絡したいところだったが、携帯の電波は不安定だ。
ここに留まっていても仕方がない。この辺りの村のほうへ向かってみることにした。もう日付も変わろうという頃だから電話を借りることは難しいだろうが、せめて電波が入ることを期待して。
暗い山道というのはそれだけで不気味だ。足元で砂利が擦れる音や枝の折れる音がやけに耳障りに聞こえる。
思わず繋いでいる手に力を込めてしまうと、軽く二回ほど握り返された。顔を上げて目が合うと、輝さんは堪えきれなかったように笑い「大丈夫だって」と宥めるように言った。よほど不安げな顔をしていたらしい。
少し緊張が解けた私たちは他愛もない会話をしながら、夏の気温に手汗が滲んでも繋いだ手を離さないままでいた。
民家らしき影が並ぶのを捉えたところで、一度携帯を確認しようと立ち止まったその時。
地面が揺さぶられる。姿勢を崩す私を咄嗟に支えた輝さんが何かを言おうと口を開くも、その言葉が届くより先に、けたたましいサイレンの音が鼓膜を突き刺した。
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もうずっと、何が起きているのかわからない。
この村には生きている人間がいない。しかし、血を滴らせ襲い来る彼らの出で立ちは、その手に握る凶器は、ここで暮らしていた人間であることを如実に物語っていた。
時間が経つにつれて、ひとではないおぞましいものまで姿を現すようになった。そう、あれはもう明らかにひとではない。それでもわかってしまう。あれらはどう見ても、元は、──────。
豊かな自然も、年季の入った家屋も、何もかもが恐ろしく映る。異様な状況に、肉体も精神も疲弊しきっていた。頭も体も上手く動いてくれない。
輝さんは私とは対照的に、冷静さと判断力を保っていた。こちらを気遣ってくれるところもいつもと変わらない。
さらに驚かされたのは、遭遇しないタイミングを見極めるのが上手いことだった。まるで、相手の行動が見えているかのようだ。いくら頭のいい彼とはいえ些か人間離れした芸当にも思えたが、深く考えないようにした。目の前にいる大切な人が、今まさにひとでなくなりつつある……そういった妄想に取り憑かれてしまいそうになるからだ。
ただ、それほどの力を持ってしてもすべてを躱しきることはできない。必要なときは倒してでも道を開くしかない。
そんな状況でも私は足が竦んでまともに戦うことができなかった。輝さんはそれ以降かたくなに私を戦わせようとはしない。……怖い思いをさせた、もう危ない目には合わせない、そうしきりに謝る姿を忘れられずにいる。彼にもとっくに限界が迫っていることを痛いほど思い知った。
輝さんはきっと、私を守りきれないことを恐れている。彼をこれ以上追い詰めないためにも、私は守られている必要がある。だから事が終わるまで任せきりで隠れて待っていることしかできない。……このままでいいとは到底思えないが、下手に動いて状況を悪化させることが怖かった。
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二度目の朝日を見る頃には、この村に安寧を求めることは諦めきっていた。留まっておける安全な拠点を探すよりも、脱出の手がかりや救助要請、協力者捜索のために動く方針に決めた。
そうなると必然的に会敵のリスクが高まる。一人分の道幅しかない地形も多く、その場合はどうしても迎え討つという選択肢を取らざるを得なくなった。
立て続く戦闘に輝さんは当初より苦戦しているようだった。なるべく遭遇を避けてきたとはいえこうした強行突破も少なくはなく、体力も集中力も相当消耗している現状では思い通りにいかないのも当然だろう。
しかし強行突破が必要ということは、どこにも抜け道が存在しなかったということだ。時間をかければ急襲に遭う危険性がある。そのため私は彼の周囲を警戒することだけに集中していた。だから、気づくのが遅れた。
背後で聞こえた物音。振り返ろうとしたときには既に体に重い衝撃を受けていた。うつ伏せに倒れ込む。
「"───"!!」
私の名を叫ぶ輝さんの声。こちらへ駆けてくる足音。なんとか逃げようと身を起こしかけたところにまた攻撃を受け体勢を崩してしまう。
「……あああぁあああぁああぁぁッ!!!」
雄叫びと共に肉を殴る音がはっきりと聞こえる。
「ああァ!!……ぁあ!!」
顔を横に向けると、既に動かなくなったそれを一心不乱に殴り続ける輝さんの姿があった。
「てる、さ、」
喉が震えて上手く声が出ない。でも止めなければ。軋む体を無理やり動かして、這うようにしながらようやく輝さんの脚に縋りつく。
「輝さん……!!やめて、もう……っ、もう、いいから……!!」
「……っ、はあッ、はッ、……は、…………」
手にしていた鉄パイプの先を地面に落とし、荒くなっていた呼吸が徐々に落ち着いていく。
「……悪い。……止めてくれてありがとな」
「うん……」
輝さんは震える指先で壊れものを扱うように、何かを確かめるように触れながら、私を抱き起こす。この村に来てから降り続いている雨が彼の顔を濡らし、泣いているように見えた。
「早く離れねぇと。……歩けそうか?」
「つかまってなら、なんとか」
「ごめんな、背負ってやれたらよかったんだが……」
そう言って空に視線を向ける。……上空からの攻撃を警戒していることがわかる。
「うん、大丈夫。……ありがとう」
輝さんの左腕につかまり、体重を預けさせてもらいながら歩く。
少しの間体を休めるため、目についた民家に立ち寄ることにした。もぬけの殻となっていることを確認するのにもなんだか慣れてきてしまっていた。
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「傷口、やっぱ洗ったほうがいいよな。でもあの水じゃちょっとなぁ……」
私の体についた傷を確かめながら難しい顔をする輝さん。
というのも、この家に限らずどこの蛇口をひねっても赤い水しか出ないらしい。とても傷口の洗浄に適しているとは思えなかった。
「どっかに飲み水とかねぇかな。喉も乾いてるし」
確かに飲料水の確保はしたい。傷口の手当てはあの赤い水で我慢するとしても、さすがに飲むわけにはいかないだろう。しかし少なくともこの家にはないようだし、自販機などの所在も記憶にない。
「……よし、ちょっとこの周りだけ見てくるか。隠れて待っててくれるか?」
「え……っ、だったら一緒に……」
「ありがとな。でも動くのきついだろ?少しでも休んでくれよ」
「……輝さんだって休まないと」
「俺はまだ平気!まぁ、戻ってきたら休ませてもらうかな」
輝さんはどこか焦っているように見える。こんな状況で落ち着けというのも無理な話だとは思うが、それほど優先度の高くない理由で単独行動に出ようとするのは、やっぱりらしくない。
おそらく私に怪我を負わせたことを気にしているのは間違いない。それゆえに私といるのが気まずいのだろうか。……だったら、引き止めないほうがいいのかもしれない。
「……ごめんな。一人になるの、不安だよな」
「…………」
「俺も一人にしておきたくない。でも、おまえのために一つでも多く、何かしたくてさ。そうしないと気が済まねぇんだ」
「……うん」
「ごめん、こんなのおまえのためなんかじゃなくて、俺の自己満足のためだって、わかってんだけどさ」
「…………うん」
「……すぐ戻ってくるって約束する。そんで、もう絶対一人にしない。……だから」
「うん。ありがとう。待ってる」
輝さんは苦しげに微笑みながら、そっと私を抱きしめる。雨に濡れていて一瞬ひやりとするものの、次第に触れているところがぽかぽかと熱を帯びて気にならなくなる。いつもと変わらない、慣れ親しんだ体温が、じんわりと体の芯まで染み込んでくるようで心地いい。慰めるように、離れるのを惜しむように、お互いの背中を幾度も撫でてから、ゆっくりと体を離した。
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暗い押し入れの中では、時間の感覚がわからなくなる。
時計は僅かに開いた戸の隙間から見える位置にない。外から聞こえる音は、……先ほど銃声が何発かあって、それきり何も。
輝さんを見送ってから一体どれくらい経ったのだろう。何時間も経った気もするし、実際はそれほど経っていない気もする。
何も考えたくないのに、一人になるとよくない思考に嵌っていってしまう。
さっき、輝さんを引き止めればよかった。私のためって言うなら行かないでって。そもそも怪我なんてしなければよかった。ちゃんと自分の身くらい守れなきゃいけなかった。そんな足手まといだから置いていかれたのかも。……輝さんがそんなこと考えるはずないのに。…………さっきの銃声って、……………………。
胸の辺りが苦しい。泣きそうなのか、吐きそうなのか、もうよくわからない。嗚咽が漏れそうになるのを押し殺す。
そんなとき、この部屋に近づいてくる足音が聞こえた。
……輝さんの足音では、ない。
心臓を掴まれるような感覚。体が動かない。
部屋のドアが開く音。押し入れの戸の隙間から見えたのはやはり輝さんではなく、他の生存者でもなかった。
今だけ呼吸も体の震えも止まれと無茶苦茶なことを自身の体に命じながら、部屋の様子を窺う。それは押し入れの前を何度も通りはしたが、しばらくすると部屋を出ていった。
……もうここにはいられない。あれがまたこの部屋に来る前にここを出なければ。
恐怖で強ばり、負傷の痛みも引きずる体に鞭を打って、音を立てないように押し入れを出る。武器としては心許ない傘だけを手に、窓から部屋の外に出た。
……足音を聞いたとき、瞬間的に最悪の想像をしてしまった。あの足音は輝さんのものに聞こえなかったけれど、帰ってきたのは輝さんなんじゃないかって。
もうひとではなくなってしまった輝さんが、帰ってきたんじゃないかって。
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外に出た私は、ほとんどパニック状態に陥っていた。ずっと輝さんが先行してくれていたため、一人ではどう行動していいかまるでわからなかった。建物の壁に背を預けて、座り込んでしまいそうになるのをどうにか防ぐ。
そこで動けずにいると、またあのサイレンの音が鳴り始めた。脳が揺さぶられるかのように頭に響いて、気分が悪い。もう無理だ。こんな状況を一人で耐えるなんてできない。早く輝さんに会いたい。一緒に帰りたい。探しに行かなきゃ。
ぐらつく頭を抑えながらそんなことを考えていると、突如脳裏に目の前のものとは違う風景が浮かんだ。……私の記憶にしては妙に鮮明というか、私じゃない誰かの視点を見ているように感じた。それに今見えた後ろ姿は、輝さんだった気がする。
もう一度見られないか試みる。目を閉じたまま遠くを見るようなイメージで意識を集中すると、先ほどより様々な景色が見えた。
……おそらくこれは、村中を徘徊しているあの者たちの視界だ。もしかしたらこれで輝さんのところまで辿り着くことができるかもしれない。
依然体の震えはおさまらない。けれども迷いは消えていた。迎えに行こう。これでちゃんと見つけることができたら、きっと全部上手く行く。
───このときの私は、なぜだかそう信じきっていた。
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わかっていたのに、わからないふりをした。
わからないのに、わかったふりをした。
ふたつだけわかることは。
神様なんていないということと。
それでも天罰は下るということ。
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やっと、見つけた。
ずっと他者の視点から追いかけていた後ろ姿を、ついに自らの視界の中に捉えた。
その背中は真っ赤に染まり、足取りはふらついている。怪我を負った身で動くのはつらいはずだ。早く手を貸してあげないと。
そう思うのに、足が地面に縫いつけられたかのように動かない。そこに彼がいるのに。
「輝さん」
絞り出した声は聞くに堪えないほど震えて掠れていた。
彼がゆっくりと振り向く。
「……あ、」
その顔を見て思わず声が漏れるも、その声が意味を成す言葉に繋がることはなかった。
……血色の悪い肌。光を失った瞳。目元から流れる血。こちらに向ける笑みも、私のよく知るものとはまるで違って見えた。
全身の力が抜け、その場にへたり込む。彼がゆっくりとこちらへ向かってくる。はやく、にげなきゃ。……逃げる?相手は輝さんなのに。なんで。
動くことができないまま、間近に迫る気配に固く目を瞑る。すると、伸ばされた彼の腕が背中に回った。
「ひとりにして、ごめんな」
……抱きしめられている。しかし、つい数時間前に感じた愛おしい体温は、もうそこにはなかった。感じられるのは生臭い血の匂いと、血液の通っていない皮膚の感触だけ。
「いっしょに帰ろう」
そう、一緒に帰るために探しに来たんだった。でも、私たちに帰る場所なんてもうどこにもない。
輝さんは私の手を引こうとしたが、今の私は立つことすらできなかった。動かない私に、彼は何かを差し出す。
それはジュースか何かの瓶のように見えた。ああ、そういえば飲み水を探しに行ったんだっけ。中身を見ると、……赤い液体、だった。
「これで、歩けるようになるぜ」
「……なに、言って」
飲み口を傾けて飲ませようとしてくる。忌避感が募り思わず跳ねのけると、瓶の中身はほとんどこぼれ出てしまった。
「あ、ご、ごめんなさ、」
「……そっか」
瓶を手放した彼の手は、私の首元に向かって、そして。
そのまま、強い力で絞めあげた。
「─────!!?っ、う、…………!!!」
「大丈夫。すぐに目が覚めるから、な」
「や、ッ───……!!」
痛い。苦しい。怖い。手を引き剥がそうとしても全く歯が立たない。声が出ない。指先に力が入らない。
輝さんは優しく微笑み、あやすように語りかけてくる。その言葉を理解する余裕なんてない。だんだん遠くなるその声からは、持ち前の明朗さが失われていた。舌も上手く回っておらず、虚ろな響きをしている。
「がんばったな。もうこわくないからな。だいじょうぶだから。いっしょにいこうな」
「ぇぅ、は、─────────……」
ろくに抵抗もできないまま、ただその声を聞いていた。
心の奥底まで凍りつくような、どろどろとした絶望が注がれていくのを感じながら、私の意識は途絶えた。
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遠くから、呼ぶ声がする。
とても億劫だったが、なんとか重たい瞼を開ける。
私の体は誰かに引きずられているようだった。案外、痛みはそれほど気にならない。
見上げれば誰が私を引きずって歩いているのかがわかった。輝さんだ。彼は私の腕を、爪が食い込むほど強く掴んでいる。
私が立ち上がろうとしていても前へ前へと引っ張って行こうとするものだから、何度もつんのめってしまいなかなか苦労した。
「輝さん」
返事はなかった。すぐ後ろから呼びかけているのに。
「帰り道、こっち?」
反応はない。でも、怒っているわけではなさそうだ。むしろ機嫌はいいように見える。
前方には赤い海が広がっている。確かに、この向こうから呼ばれている気がする。周りにもこの海に向かっていく人たちがたくさんいるし、何より輝さんがこっちだって言うなら、きっと大丈夫だ。
やっと帰れるんだ。二人で一緒に。本当に本当に嬉しい。幸せを噛みしめるように輝さんの腕を抱きしめる。
何をあんなに怖がっていたんだろう。輝さんが傍にいてくれるなら、ずっと一緒にいられるなら、あとはどうなったって構わないのに。
海にその身を浸していく。私たちを迎え入れてくれるぬるい水温が心地よい。
そのまま全身をとぷん、と水中に沈める。溺れているはずなのに、不思議と息苦しさはない。水底に招かれるように落ちていく感覚。微睡むように意識がとろとろと溶けていく。
再び重くなる瞼に抗うことなく目を閉じる。おやすみの代わりに大好きなひとの肩に頬を擦り寄せて、そのまましあわせな眠りについた。
目が覚めても、ずっと隣に彼を感じていられると信じて。