依存的な運命の日 コキがアーモロードの世界樹の迷宮でウォリアーの少女、ワカバに拾われから一ヶ月が経ちました。
相変わらず第一階層でお金を稼ぐ日々ですが稼ぎはワカバの膨大な食費と、探索に必要な物資の補充によりほとんどなくなります。貯金なんてできるような生活ではないため、コキは家計に頭を悩ませる日々です。
日々の生活のために世界樹の迷宮に挑んでいる不安定な毎日ですが、充実していました。
それは、いつも隣には大切な彼女がいるから。出会ってから一ヶ月という短い時間の中で、お互いがいない生活など考えられないぐらいかけがえのない存在になっていました。
しかし、同胞のシノビたちに命を狙われているコキは、この楽しい毎日が近い内に「終わり」を迎えることになると、理解していました。
その「終わり」が双方に癒えない傷を与えることになると分かっていながら、この幸せな日々に身を投じていました。
毎日のように自分を呪いながら。
「暇ねー」
朝のアーモロード。
街道の端、街灯の麓で小さいテーブルを広げて肘をつき、ご自慢のふわふわな桃色の髪先を弄って暇を潰す少女の名はスオウ。未来が見える占い師でありゾディアックです。
珍しく朝に占い屋を開けてはみたものの、想像以上に客が入らず閑古鳥が鳴く有り様に飽き飽きしている様子で、テーブルの上で頬杖を付きます。
「暇だわ……気分転換とか言って朝に開けるものじゃなかった。店じまいしようかしら」
「本当にリピーターなんているの? アナタ」
頭上から声がしてすぐに視線を上げます。いるのは見慣れた顔でした。
「あらコキじゃない。リピーターぐらいいるわよ、アンタのタイミングが悪いってだけ」
「本当にそうなのかしらねえ……」
怪訝な顔。彼女の遠慮と容赦の無い言動が脳内を何度も巡り色々と言おうと考えて……声が喉まできたところで止めることにしました。
コキが何も言わなくなったのを見るとスオウはあからさまに不機嫌な調子で。
「てか何しに来たのよ。客の入らない占い師を冷やかすって言うなら今すぐ帰ってくれる?」
「たまたま通りかかったら朝からやってるのが見えて、珍しいなってー寄っただけよ」
「何? アンタも暇なの? 貧乏休み無しみたいな生活してる分際で」
「ただの買い出し。これから店に行くところよ……ワカバもまだ寝てたからね」
「さいで」
聞いてもないのに相方のことを口にされたので、スオウは心底どうでもよさそうに吐き捨てました。本当にどうでもいいので。
「アナタこそこんな商売してて本当に生活が成り立っているの?」
コキが素直な疑問をぶつけるとスオウは大きくため息を吐いて、
「何度も同じこと言わせないでくれる? 成り立っているわよこう見えても。アンタに心配される筋合いはないし、占いだけがアタシの全てじゃ無いってことぐらい知ってるでしょ?」
「冒険者業もたまにしているとは言ってたけど……それでも普段はこんな感じだから、同行させろって言い出された時は不安だったのよ?」
コキがふと思い出すのは先日の探索。
唐突にスオウが「暇だし探索に着いて行ってあげるわよ」と言い出したことがきっかけで、コキとワカバとスオウの三人で樹海を探索する運びになったのです。
自信家で横暴な彼女の性格に相応しく、スオウのゾディアックとしての能力は非常に優秀でした。
星術を始めて直近で見たコキが呆然として、冒険者慣れしているワカバが黙ってしまうぐらい、彼女は強かったのです。
その結果、星術により蟹の魔物は一撃で葬られ、ウミウシのような魔物から見たことのない素材が採れたりと良いことづくめで終わったのでした。
「あら、アタシの星術は役に立ったでしょ? 蟹とか蟹とか蟹とか蟹とか」
「まあ、そうね……蟹をすぐに倒せたのは大きいわ。ワカバも喜んでいたし」
「たまになら着いて行ってあげてもいいわよ。こっちは暇が潰せれば何でもいいし」
「良いこと聞いたわ。それじゃ、ワカバが蟹が食べたいとか言い出した時に声をかけるわね」
「やっぱりあの子基準なワケ?」
「当然」
断言したコキの目に迷いは一切ありませんでした。
まるで“自分はワカバの一番の理解者であり子供のような言動の彼女の面倒を見て当然”だと、言葉はなくとも態度で語っているように見えました。
なのでスオウはため息を吐きます。この、現実から目を背けている女に向かって。
「てかアンタさ、同胞のシノビに追われているとか言ってなかった? いつまでもアモロで油を売ってて良いワケ? シノビの諜報能力なんて軽く見れるようなモノじゃないでしょ?」
淡々と現実を突きつけてやりました。何度か会話をする中でお互いの事情は話しているため、身に置かれている状況を知っているのです。
いつ起こってもおかしくない「残酷な現実」を聞かされたコキは眉ひとつ動かさずに答えます。
「……自分の身を守るため、殺されないようにするためならアーモロードから離れた方が良いとは思っているけど」
スオウではなく、遠くを見つめて、
「……もう、いいの」
短く、小さく、言い切ったのでした。
スオウは驚きもしなければ呆れもしません。ノーリアクションに近い様子で言葉を投げかけます。
「何それ」
「逃げなくてもいいかなーって結論付けたのよ。向こうは私のことを見失ってるみたいだし、下手に動くよりもここに留まっておく方が見つからないかもしれないでしょ?」
「名前も身分も偽らずに堂々と本名と本職で居座っている時点で“見つけてください”って言ってるようなものでしょうが」
反論の余地もなさそうな正論で殴られたコキは一歩だけ引きました。苦い顔で。
「ほ、本名で登録しちゃったから今更、変えられないし……ワカバだって混乱するし……後の祭り……だし」
最もらしい言葉を並べていますが所詮は言い訳です。スオウは「あっそ」と面倒臭そうに返し、
「アタシはどうでもいいけどね。アンタが昔の仲間に発見されようが未発見で終わろうが」
「言った側から薄情ね……甲斐甲斐しく樹海まで着いてきたのは何だったの? 本当にただの暇つぶし?」
「当たり前でしょ。アタシは常に自分の気分で生きてるのよ」
「とことんドライねえ……助かったのは事実だからこれ以上文句は言えないけど」
「懸命な判断ができてよろしい。で、いつまで樹海に潜るの?」
突拍子のない質問にコキの言葉が一旦止まります。ほんの一時だけ。
「…………ああ、また私の未来を見たわね」
またもや会話の中で自身の未来を覗かれていました。彼女の能力に理解があるとはいえ突然誰にも教えてない予定のことを言われてしまえば、脳が混乱して動きが止まってしまうのは当然のこと。
「私の未来を見るのはいいけど、あんまり他人の未来を覗き見るのはやめた方がいいと思うわよ」
「失礼ね。アタシにしか使えない力をアタシがどう使おうが勝手でしょ? “他人の未来を見てはいけない”なんて法律もないんだから好きに使わせなさいよ。大体アタシだって余計なトラブルは避けたいんだから言う相手は選んでいるに決まってるでしょうが」
「全く、もう」
横暴とワガママの権化みたいな言葉にコキは額を抑えてため息。これで四歳も年上なのですから世の中とは理解し難いモノです。
「で? いつまで樹海にいるのよ。それぐらいアタシに教えたって何のバチも当たらないでしょ、教えなさいよ」
見た目は十代の少女にしか見えない占い師が急かすのでコキは渋々答えます。
「……とりあえず、二、三日は潜っている予定よ。地下二階のキャンプ地点を拠点にね」
こうして答えたにも関わらずスオウは興味のない顔で。
「ふーん? 毎日街に戻って人間らしい生活してたクセにいきなり樹海籠りするなんて、どういう風の吹き回しよ、心変わりでもしたワケ?」
「心変わりも何も、お金を稼ぐために樹海での狩りは必要だし、ワカバのご飯も樹海内で賄えるから何かと都合がいいってだけよ。一日一日チマチマ稼いで黒字か赤字かでヒヤヒヤするよりも、まとめて稼いで素材を売った方が利益率が高いって気付けたし」
そう答えたコキは言いません。街でご飯が食べられなくなることでワカバがワガママを言い出さないか心配だということを。言ってしまえばスオウから「アンタはあの子の母親か!」と鋭いツッコミが飛び出すことを知っているから。
「本格的に家計がヤバいと」
「そんなことないから! 本当にないから!」
「嘘おっしゃい」
断言したスオウがまたコキの未来を見たのかは分かりません。これだけでは本当に分かりません。
全力で否定したコキはため息交じりに肩を落とし、
「はあ……とりあえずしばらくアモロに帰らないから。アナタとのお喋りはしばらくお預けね」
「それはそれでつまんないわねー、てかアンタ本当に垂水ノ樹海に二、三日留まるの?」
「さっきも言ったでしょ」
「ふーん……そう。なら次に会える時を楽しみに待っておくとしましょうか。たっぷり溜まった愚痴でも聞いて暇つぶししたいし」
「結局それか……良い性格してる」
「アタシはこの性格には誇りを持っているわよ。アンタと違ってね」
「はいはい私は自分が嫌いですよーっと……じゃ、また今度」
投げやりに言い切り、コキはスオウに背を向けて立ち去っていきます。
黙って右手を振ったスオウは静かに手を下ろし、
「……ま、今更くたばるような奴でもないか。大丈夫と言えば大丈夫でしょ」
と、ぼやいた後にこう続けます。
「失うことにはなるみたいだけど」
垂水ノ樹海、地下四階。
第一階層の最下層と呼ばれているフロアの最奥には、垂水ノ樹海の生態系の頂点に君臨する迷宮の主が住んでいます。
その名はナルメル。巨大な鯰のような魔物で臆病な性格。棲家は沼地。
性格には似合わない巨体に秘めている力により幾多の冒険者が沼の中に沈んでいく光景はもはや日常と称しても過言ではなく、ナルメルは迷宮探索に慣れた頃の初心者冒険者たちに立ち塞がる最初の壁として君臨しているのでした。
そして、ナルメルは今、沼から飛び出し全身を曝け出した状態で地面に倒れていました。
体に無数の傷がある上にぴくりとも動く気配がないことから、完全に力尽きていることが誰の目で見ても分かります。
「たおした」
ウォリアーの少女、ワカバは淡々と状況をぼやき剣を収めました。
途端にナルメルの棲家を我が物顔で徘徊していた他の魔物たちも蜘蛛の子を散らすように一斉に逃げていき、先程まで戦いの喧騒に溢れていたこの場所は驚くほどの静けさに包まれます。
少女の後ろには、倒れた魚を複雑な心境で眺めるコキが立っていまして。
「大きな魚が食べたいって言うから付いてきたら……ま、まさかそれが迷宮の主、だと、は……」
生まれて初めて迷宮の主と対峙し勝利を収めた彼女は、改めて周囲の脅威が完全に去ったことを確認してから膝をつきました。
疲労困憊状態の彼女とは対照的にワカバは息切れひとつしておらず、ナルメルの死体を見て目を輝かせていました。
「ごはん、ごはん、おおきいおさかな」
感情の起伏が乏しい彼女ですが声色は明るく今にもスキップして歩き出しそうなほど上機嫌。
楽しそうな彼女を見るだけで、例えようのない大きな安心感に包まれるコキは表情に疲れを残しつつも微笑みます。
「頑張ったものねワカバ。でも、それ本当に回収して食べるの?」
「ごはんだから、たべる」
即座に返事がきました。決意は固いようです。
「そ、そう……持って帰るなら持ち運びしやすいようにある程度解体しないといけないわよ? できる?」
「だいじょうぶ、できる」
どこか自信満々に答えた彼女は再び剣を抜くとそれを使って解体作業を始めます。もはやコキにとっては見慣れた魔物の解体風景でした。今回の獲物は少し巨大ですが。
慣れた手つきで段取りもよく捌く姿を見つつ、コキは再び立ち上がります。
「もしかしてワカバ、何回かその魔物を狩ったことがあるの?」
「あるよ」
振り向かずに答えたワカバは続けます。
「ナルメルおくびょうだから、たまにみるときずだらけのときある、そこがねらいめ」
「へっ? あー……たまにここに来ると傷を負ってるナルメルがいるから、それを狙って狩ってたの? 私を拾う前に?」
「うん」
頷きつつも作業の手を止めないワカバ。ただし、彼女の言葉足らずな説明だけでは理解しきれません。
先ほどまでの戦闘時、傷を負わせた際に沼地に潜ったり戦線離脱を図って逃走しようとするナルメルの傾向を思い出しつつ、仮説を立てます。
「えーと、もしかして、別の冒険者が仕留め損なって逃がしてしまったナルメルにワカバがトドメを刺していた……ということかしら? 合ってる?」
「うん」
正解だったようです。コキはホッと一安心。
「漁夫の利ねえ……ま、これでワカバのご飯がゲットできるんだから悪い話ではないか。私たちにとっては」
「ぎょー?」
「戦っている最中に割り込んで最終的に勝ち残ってご飯をゲットする人のことよ」
「ぎょー」
納得したのでしょう。おそらく。
魔物の解体作業はワカバに任せておくことにしてコキはナルメルの棲家を改めて見渡します。新たな魔物が現れないかも心配ですし。
すると、戦闘中は微塵も気にならなかった扉が目に留まりました。
「あの扉は入ったことないわね……まだ垂水ノ樹海は続いているのかしら」
「たるみのじゅかいじゃないよ、だいにかいそうだよ」
「第二階層?」
「かいれいのすいりん」
ワカバの言葉で思い出します。ここ、垂水ノ樹海はアーモロード世界樹の迷宮の「第一階層」と呼ばれており、迷宮の奥には第二階層第三階層第四階層第五階層と続いていることを。
そして、数年前から第六階層は封鎖されていることを。
行きつけの定食屋で聞いた話を思い出すと同時に、まだ見ぬ階層への興味も湧いてきたコキは。
「第二階層かあ……私たち二人だけで垂水ノ樹海の主を倒しちゃったし実力もついてるはずよね? 一回挑戦するだけしてみない?」
まだ見ぬ高級な素材があるかもしれないし……とは言わずに提案しましたが、途端にワカバの手は止まり。
「やだ」
と、返されてしまいました。
「ほわ?」
「あそこ、いきたくない」
視線を落とし、何度も首を振って拒絶の意思表示。食べ物以外の物事はほとんど受け入れていた彼女が拒絶するのは珍しいことでした。
「行きたくないって、どうして?」
「いきたくない」
「“行きたくない”だけじゃわからないわよ?」
「いきたくない、いきたくない」
「……もしかして、理由が分からないの?」
問いかけに頷いて答えました。
「わからない、いやだ、いやだからわからない、いやだからいきたくない、いきたくないいきたくない」
何度も「行きたくない」と繰り返すワカバの目尻に涙を見つけ、面食らったコキは慌てて駆け寄りワカバの手を取って、
「わ、分かった分かったから!? 理由は分からないけど理解したわ!」
そう言えば、彼女は顔を上げて首を傾げます。
「う?」
「行きたくないならそれでいいわ。今日はナルメルを解体して食料にしてキャンプ地点に戻りましょ? ね?」
「だいにかいそう、いくって、いわない?」
「言わない言わない」
「よかった」
安心したのか笑顔になったワカバは目尻に溜まった涙を拭いました。
コキが手を離すと解体作業に戻ります。どこか上機嫌に鼻歌まで歌って。
「……」
楽しそうに作業を続ける横顔を見て、コキは思います。
ワカバのことを、ワカバの口からひとつも聞いたことがないと。
ナルメルを倒したその日の夜、垂水ノ樹海地下四階には雨が静かに降り注いでいました。
本来は地下二階で野宿するハズでしたが、解体したナルメルを持って地下二階まで登ることは難しいと判断し、今日は地下四階の野営地で野宿することにしたのです。
この野営地は地下二階の木々に囲まれた野営地とは異なり開けた場所です。部屋の西側には川が流れており、雨が振っていなければ清流の音を楽しめたことでしょう。
なお、テントの外にはナルメルの死骸……もとい食べ終わった後の骨が転がっています。明日に片付ける予定です。
「すやすや」
テントの中でワカバは熟睡中。たくさん暴れていっぱい食べて眠りにつく、生物の本能を享受した満足げな寝顔でした。
その隣でコキは起きていました。
考えてしまう。追手に見つかった時のことを。
あの時は重傷を負うだけで済んだ。けれど次はないだろう。
殺されることになっても仕方がない。掟を破ったシノビの末路として相応しいと思う。
けどワカバは? 私がいなくなった後、この子はどうなる?
また、ひとりぼっちで樹海に籠る暮らしに戻るのだろうか。
私がこの子を必要としているようにこの子も私を必要としている。親のように思われているのかもしれない。
親のような存在の命が奪われてしまえば心に大きな傷を負ってしまうのは当然だろう。
一度、仲間を失ったことで心を壊したこの子にまた同じ傷を与えることになる。
最悪の場合……。
「はぁ……」
ここ最近は毎日のように思考を巡らせ同胞に見つかった時のことを考えてしまいます。
思考を繰り返しても状況は変わりません、ため息を吐いても同じことです。
「いっそのこと、黙って姿を消すのは……」
そう呟き、体を起こした時でした。
熟睡しているワカバがコキの髪を握っていることに気付いたのは。
「…………」
髪の先をほんの少しだけ、でもしっかりと握り締めている手は、何があっても絶対に離れたくないという彼女の意志を表しているようにも見えました。
その姿があまりにも愛おしくて。
「やっぱり、ダメよねえ私は……見捨てるなんて最初からできっこないのは自分が一番分かっているのに」
小さく独り言をぼやき、眠っている少女の頬をそっと撫でました。
すると。
「……う」
緑色の目が開かれ、小さな声が出てきました。
「ごめん、起こしちゃった?」
コキの声に応えずにワカバも体を起こします。髪を掴んでいた手はいつの間には離されていました。
そして周りを見てから首を傾げるのです。
「……うん? あれ?」
「どうしたの?」
「コキ」
「なあに?」
「おこってる?」
「なんで?」
また突拍子もないことを言い始めました。こういったことはワカバと付き合っていく中で何度も経験したことがありますが、不意打ちというものはいつまで経っても慣れません。
ワカバはコキを見据えて続けます。
「だいにかいそういくの、イヤだっていったこと、おこってる?」
「怒ってないけど? なんで私が怒ってるかもって思ったの? そんな素振りしてた?」
「コキがいきたいっていったのに、とめたから」
視線を落とた顔は何かに怯えている子供のようでした。
出会った頃にも見た覚えのある怯えた表情、出会う前に起こったであろう嫌な記憶を思い起こしているのでしょうか。
何があったか問いたいところですがこの少女の心の傷を広げる真似はしたくありません。
だから、コキはワカバの頭に手を乗せ、そっと撫でます。
「アナタが行きたくないなら私も行きたくないなって思っただけだから大丈夫よ。心配しなくても」
優しく声をかけますがワカバの表情は晴れません。
「……」
「ワカバ?」
「つよくなりたいひととか、おかねかせぎたいひとはみんな、だいにかいそうに、いく、そっちのほうがまものもつよくていいそざいがいっぱいある、から」
「そうね」
「コキ、おかねほしいから、だいにかいそうにいきたい?」
言葉が詰まりました。
常日頃からキャンバスは金欠状態。ギルドマスターであるコキはギルドを維持するためにお金稼ぎに奔走していたのですが、その苦労をワカバも察してきたのかもしれません。
金欠の原因がワカバ自身の膨大な食費であることに関しては気付いてない様子ですが。お金がない状況を案じ、気を遣っていることはすぐに理解できました。
コキは少女の頭から手を離し、優しく語りかけます。
「確かにお金は必要だけど……安定して稼げているのはワカバの案内があってこそだし、魔物についても教えてくれるからよ? もしも第二階層に行ったら垂水ノ樹海と同じように、私に色々なアドバイスをしてくれるかしら?」
「むり」
即答でした。想像通りの回答です。
「でしょ? じゃあ行かない方がいいわ。ただでさえギルド非推奨の二人パーティで探索しているんだから、他のパーティよりもリスクが大きい分稼ぎがなくなる可能性も高くなる。無理をして第二階層に行って大失敗をしてお金が稼げなかったら、冒険どころか生活もできなくなってしまうもの。危ない橋は渡らないほうがいいわ……って、意味わかる?」
「ちょっとだけ」
「よし。確かにお金は欲しいけど、ワカバのお陰で垂水ノ樹海で赤字ならない程度に稼げているんだから、第二階層に行く必要はないのよ」
赤字にはなりませんが貯金は一切できないとは言いません。これはコキの意地です。
ワカバは首を傾げます。言葉の意味が理解できないのではなく、疑問を持ったから。
「そう、なの?」
「そうよ。だから心配しなくていいの。今日はもう寝ましょ?」
「うん」
遠慮がちではあるものの頷き、納得したことを体で表現してから横になりました。
それを見届けてからコキも寝転がって、
「……ねえ、ワカバ」
目を閉じる前に小さい声で語りかけました。
「う?」
「第二階層に行きたくない理由、分からないって言ってたでしょ? もしも……本当にもしもよ? その“わからないこと”が分かったら……教えて欲しいな」
「……」
「無理に思い出せとか言わない。でも、忘れていることなんて何かをきっかけに思い出せるかもしれないでしょ? その時でいいから、いつか教えてね?」
「…………うん」
雨の音で消えてしまいそうなほど小さく返したワカバは、毛布の中に潜り込んでしまうのでした。
「ありがと。ワカバ」
いつか別れる時が来るのにこの子のことを知りたいだなんて傲慢にもほどがある。
でも、最期の一瞬まではこの子の一番の理解者になってあげたい。
これが私にできる精一杯の恩返しだから。
翌朝。一晩中降り注いでいた雨はすっかり上がり、本日の空模様は非常にご機嫌です。
そんな中、ワカバ寝起きの第一声はこちら。
「トカゲたべたい」
でした。
彼女のいう「トカゲ」とは垂水ノ樹海に生息している魔物、もといFOE「貪欲な毒蜥蜴」に他なりません。
ワカバが「食べたい」と言うのであれば食欲に付き合うのがコキの勤め。ナルメルの死骸を丁寧に処分してから地下二階に戻ります。
地下二階を縄張りにしているこの魔物、基本的に決まったルートを徘徊しているところから縄張り意識は低く、自ら冒険者を襲う素振りを全く見せません。
その為、樹海に潜ったばかりの新人冒険者から甘く見られがちで、喜び勇んで挑んで行った新人冒険者たちがこのトカゲに返り討ちに遭って全滅したりしなかったりする光景は、垂水ノ樹海の風物詩だったりします。
「トカゲのおにく、コキにもあげるね」
「はいはい。まずはキッチリ仕留めてからね」
「うん」
緊張感のない会話の後、ワカバとコキはトカゲに向かって飛び込んで行きました。
売られた喧嘩は臆せず買うトカゲ。敵意を持って接近してきた人間たちを睨み、戦闘体制に入ります。
刹那、トカゲの右前足にクナイが数本刺さりますが気にする素振りもなく、自身の尻尾を振り回し、冒険者たちを蹴散らそうと攻撃を繰り出します。
「おっと」
棘の生える尾のひとなぎを後ろに引いて回避したコキは、着地と同時にトカゲを睨みました。
「確かに当てたのに足の動きが止まってない、浅かったかしら……」
独り言をこぼし、クナイを握り直しました。
トカゲの目がコキを見た刹那、視覚外から飛び込んできたワカバがトカゲの頭を斬りつけます。ただし、切り口はやや浅く、トカゲの側頭部が少し斬られただけでした。
不意打ちにも近い攻撃にトカゲは体制を崩しかけますが数歩下がるだけで終わります。
その隙に着地したワカバはすぐにトカゲに向き直ると、このまま突っ込んで行くではありませんか。
トカゲは口を大きく開け、正面から来るワカバに向かい牙を向けますが、ワカバは足に力を込めてブレーキをかけて勢いを殺し、寸前の所で大きな口が空虚を喰むのを見ました。
そしてもう一度剣を振りますが危機を察知したトカゲは瞬時に首を引いてしまったため、剣の大振りは空気を斬って終わりました。
「おしい」
少女は短くそれだけ言い、小さく息を吐くのでした。
ウォリアーである彼女の一撃は強力ではあるものの武器が大柄かつ重量のあるものが多いため振るう際の隙が大きく、正面から挑んでまともに当たることは滅多にないのです。今の空振りの理由もこれ。
「ワカバ、こっちが動きを止めるまでもうちょっと待って」
「なんで、まつよりきったほうが、はやい」
自分の意見だけ言い、すぐにトカゲに向かって突っ込んでしまいました。
普段の言動は子供そのものだと言うのに、戦闘になれば怖気付くことなく勇敢に魔物に向かっていく姿はまるで猪。防御を気にせず正面から敵に突っ込んで行く彼女の戦い方に、コキは何度寿命が縮まりそうな思いをしたかわかりません。
だからこそ魔物の足を止める必要があります。クナイに塗った即効性の神経毒がうまく回れば数分だけ足が動かなくなるから。
「次こそ……」
小さく呟いた時でした。
トカゲが、目の前のワカバを無視しコキに目を向けたのです。
「は」
突然狙いを変えたかと思えば、四肢を激しく動かし突進してくるではありませんか。
素早い動きに対応できなくなったワカバが急いで振り向く顔が見えると同時に、トカゲの牙が迫ってきて、
「おっと」
これも後ろに飛んで回避。素早い魔物ではないため対処するのは非常に簡単です。俊敏さに特化したシノビにとっては。
攻撃を外した魔物の隙を突き、もう一度足を狙えばいいと考え背の高い草の上に着地して、
足が滑りました。
「はっ!?」
動揺の声が漏れました。かなりの声量でした。
この道はぬかるみなんてなかったはず。そもそもFOEに挑む際、不利な状況下で戦う馬鹿はいないのですから足場の良し悪しぐらいは判断していました。
しかし現に滑り足元を掬われた。
そして思い出しました。昨晩の雨を。
雨水のせいでぬかるみの範囲が広がったのか草に隠れて見えない土が泥に変わったかは分かりませんが。
一秒にも満たない時間の中で思考を巡らせている間にも、トカゲが牙の二撃目を繰り出そうと迫っているのが見えました。
「あ」
足を滑らせ体勢を崩したままでは回避できるはずもなく、文字通り目と鼻の先に、大人の頭なら簡単に飲み込めそうなほど巨大な口と鋭い牙が見え、
食われる。
一瞬で「死」を悟った刹那、トカゲの側頭部に蹴りが入りました。
ワカバでした。
武器を持ったまま、見事な飛び蹴りを炸裂させたのです。
ウォリアーの力を余すコトなく使われた強烈な蹴りはトカゲの頭蓋骨に確かなダメージを与え、横に軽く吹っ飛ばしました。
トカゲの体が一瞬だけ宙に浮いたものの、倒れる直前に足に力を入れて地面の上を滑ることで勢いにブレーキをかけ、止まりました。簡単に倒れないのはFOEと呼ばれる強者由縁でしょうか。
ただし、頭部へのダメージが深刻なのか脳震盪を起こしている様子で、うめき声を上げながら何度も頭を振っていました。
「よし」
綺麗に両足をついて着地したワカバは大きく頷いて、
「コキ、だいじょうぶ……」
すぐに振り向き、コキを見て固まりました。
彼女は左の肩を抑えたまま倒れていたのですから。
「コキ!?」
「だ、大丈夫、かすっただけ……」
傷口が熱く、視界がぼやけます。不安げな顔をしているであろうワカバがよく見えません。
ワカバがトカゲを蹴り倒したお陰で頭から食いちぎられることはなかったものの、あの魔物の牙はかすかに肩の肉を裂いていました。
傷は深くないというのに痛みが酷い。巨大な鳥のタックルをまともに喰らった時以来です。
「トカゲのキバ、どくある、かすってもあぶない」
――なるほど、いつも回避しているから気付かなかった。
なんて喋ろうにも言葉が出てきません。口を開こうとすると言葉よりも別のモノが先に出てきそうですが。
「そ……れ、は……」
心配するワカバをこれ以上不安にさせたくないと、なんとか喋ろうと口を動かし、肩を抑えたまま起きあがろうとして、
「ごぇぁ」
起き上がった直後、血と一緒に腹の中にあった汚いモノまで吐き出してしまい、意識が保てなくなってしまったのでした。
「はえっ!?」
コキは意識が覚醒すると同時に目を開けて再び世界と対峙しました。
間抜けな声が出たのは生きていることに驚いたのか、体に痛みがないからか、あるいは両方か。
「ここは」
彼女の視界に最初に飛び込んできた光景は、顔を覗き込んでいるワカバの今にも泣きそうな顔でした。
「…………ワカバ」
見慣れた人物が側にいることに安堵し、笑みが溢れました。
「コキ、よかった」
「……うん」
返事をしたところでふと気付きます、上半身に生じている違和感に。痛みが遅れてやってきたのではなく、姿勢に。
少し視線を動かして周りを見たことで気付きます。コキの頭は今、ワカバの膝上に置かれているということに。膝枕されていることに。
「ええと、ワカバ? 私……毒で気を失ってたのよね?」
「いきてる、よ」
「ええそうね、生きてるわね」
「よかった、よかった」
何度も何度も「よかった」を繰り返します。コキに向けての言葉と表現するよりもワカバ自身に言い聞かせているようにも聞こえました。
心から安心している筈ですが瞳を潤ませ、今にも大粒の涙を流しそう。
不安がる子にどう接すればいいのかコキはよく知っていました。
右手を伸ばし、少女の頬をそっと撫でて。
「ごめんね、心配かけて……不安だったのよね?」
「うん」
「私はもう大丈夫よ。体の痛みもないし気分も悪くないもの。またアナタに命を救ってもらっちゃった」
「うん」
手を触れて接し、生きている温もりを伝えればワカバの表情は少しずつ綻んでいき……不安と安心がないまぜになった感情から解放され「いつもの」ワカバに戻りました。
「コキが、しんじゃったらイヤだから、がんばった」
「えらいえらい」
ちゃんと褒めてから手を離し、膝枕から起き上がります。
改めて周囲を見ると非常に見慣れた光景だとハッキリわかります。
ここは垂水ノ樹海で何度も何度も利用したことのある、地下二階の野営地だったのですから。
しかも日は完全に落ちており近くにある焚き火が燃える音が静かに響いていました。串に刺され炎で炙られた獣の肉と魚の肉が焼ける音と匂いも漂っています。
「ここに戻ってきていたのね……」
そして、トカゲに少しだけ裂かれた左の肩を確認します。服は裂かれたままですがその下の肌には包帯が巻かれていて、きちんと手当がされていました。
「……縫い直さないとなあ」
「きず?」
「服をね。それにしても前は問答無用で全部脱がしてたのに、今回はちゃんと服を着せてくれたのね」
「はだかがダメって、コキがいった」
「言ったわね。覚えていて嬉しいわ」
「えへん」
たくさん褒められて喜ばないワカバではありません、得意げに胸を張りました。
微笑ましい気分になりつつもコキは状況確認を続けます。
「私が倒れた後はどうしたの? FOEは倒せた? それとも逃げた?」
「トカゲたおした」
断言して指した先にあるのは野営地点の隅、トカゲの死骸が置かれており異様な存在感を放っていました。
ほんの少しだけ解体した形跡もあります、削がれた肉の行き先は……わざわざ言葉にする必要もありません。
そして、
「……んんっ?」
見つけてしまいます。テントの側に転がっている薬瓶の数々を。既に中身は使われ役目を終えた薬の成れの果てを。
更に疑念を決定付けるワカバの言葉。
「あのね、コキ、おきないから、テリアカとかメディカとかたくさんつかった」
この言葉によりコキの顔がほんの少しだけ引きつります。
「そ、そう……がんばったのね……」
目を閉じれば想像できます。
コキが毒で倒れたのであればテリアカで解毒を行わなければならない、でも何度使ってもコキが起きる気配がなくてどんどん体温が下がってしまうから体力を回復するためにメディカを飲ませることにした。しかもトカゲと対峙している状況で、目の前にいる大切な人を失いたくなくて必死に努力している様を。
意識のない冒険者を覚醒させるためにネクタルを使うのは冒険者として当然の知識、ワカバが知らないハズはありません。
最善の選択がすぐ出ずに無駄に薬を消費してしまうほど追い詰められていたのでしょう。
「責められない……責められるわけがないわ……これはトカゲについて知識不足だった私の落ち度、ワカバは何も悪くないんだから……」
彼女に聞こえないよう小声でぼやきつつ、空の薬瓶を数えます。メディカが四個テリアカが六個。
「あれ、テリアカってあんなに持ってたかしら……?」
「テリアカとメディカがなくなったからネクタルつかった、そしたらコキおきた」
「そ、そっかあ!」
嬉しくて嬉しくて目を輝かせるワカバに余計なことは言わず、コキは笑顔で頷いておくだけに留めました。
出費のことについて考えるのはやめておきます、節約のための樹海籠り生活の前提が破綻した現実は忘れておこうと心に決めました。赤字にならなければそれでいいと、目標を少しだけ下げて。
すると、ワカバは立ち上がり、座ったままのコキを見て首を傾げ、
「コキ、おなかすいた?」
そう、尋ねました。
「少しだけかしら? ワカバは? トカゲ食べたのよね?」
「わたしはたべた、コキは? おなかすいた?」
「空いたわね〜ごはん欲しいわ〜」
「わかった」
ワカバは待ってましたと言わんばかりの得意げな顔で焚き火の元へ歩きます。
獣の肉と魚の肉を焚べていた串を地面から引っこ抜くと、すぐに戻ってきました。
「コキに、ナルメルのかばやき、あげる」
魚の肉が刺さった串を差し出してきました。
蒲焼きと言ってもウナギの料理で見るような開きでも何でもなく、適当な大きさに切った切り身に塩を振って焼いただけのものです。ワカバはこれを「かばやき」と言い張ります。
「ナルメルだったのこれ? 昨日全部食べてたんじゃないの?」
「たべてないよ。おいしいから、コキにもたべてほしい」
「……なるほど、優しいわねワカバは」
串を受け取り自称かばやきを確認。表面はちょうどいい焼き色になっており、十分な加熱が施されています。
食材の調理を「美味しいご飯をもっと美味しく食べる技術」として教え込んだ甲斐があったとコキは小さく息を吐きます。かつてワカバが主食として食べていた数秒炙った肉はもう影も形もないのですから。
「じゃあ一緒にご飯にしましょ」
「うん」
ワカバはコキの左隣に腰を下ろし「いただきます」と言ってから何度目かであろう夕食を始めます。早速、肉にかぶりつきました。
「おいしい」
満足げに言ったのを確認してからコキもナルメルの「かばやき」を一口。
「うーむ、クセはあるけど食べられないことはないとういか中々の大味……調理次第で化けるかも。塩だけじゃ物足りないというか勿体無い気もするけど、樹海で贅沢なんて言ってられないものねえ」
感想をぼやきながら故郷で使った調味料でナルメルに合う物はないか思案中。
「おいしい?」
「そうね。もっと違う味付けも試してみたくなるかも」
「あじつけ?」
「お塩以外にも何か欲しいなーってこと。これでも十分美味しいけどね」
「そっか」
満足げに納得したワカバは肉を口いっぱいに頬張るのでした。
そしてすぐに食べ終わりました。手元には串だけが残りました。
「ごちそうさま」
手を合わせて食べ物への感謝の意を表してから串を置いて、
「……ねえ、コキ」
「どうしたの?」
「コキはなんで、けがしてた?」
「んぇ?」
また突拍子もなく言い始めました。ナルメルの「かばやき」を食べる手が止まります。
「……えっと、いつの話?」
「さいしょ」
一ヶ月前、垂水ノ樹海でワカバに拾われた時のことを話題に挙げたようです。
ふと考えてみれば怪我をした経緯を話していません。あの時は状況把握に必死だった他に、今以上にワカバの奇行に振り回され、ついていくことがやっとだったのですから。
「どうして急に?」
「コキのケガ、みてるときにおもいだした、さいしょのこと、だからきになった」
「私が毒で気を失っているのを見て、最初にワカバに拾われた時に大怪我してたのを思い出して……気になったと」
「うん」
ワカバは頷きました。
大怪我をした理由も故郷から逃げ出した理由も今も命を狙われている理由も、隠すつもりはありません。
いつか命を奪われることになるというなら全て話すべきです。
コキに心を開き、親を慕う子のように甘えてくる彼女はもう無関係ではないのですから。
串を一旦下ろし、ワカバの目を見て語ります。
「私はね、同郷のシノビたちに……昔の仲間に命を狙われているの。それで逃げ回っていたんだけど油断しちゃって、渾身の一撃をモロに喰らって大怪我しちゃった。それでも必死に逃げ回って、気がついたら樹海にいたのよ。どこから入ったのかもう全然覚えてないわ」
「いのちねらう?」
「殺そうとしているってこと」
「なんでいのち、ねらわれてる?」
目の前にいる人間が殺されそうになっているだなんて信じられないような目で尋ね、首を傾げていました。
コキは目を伏せ、答えます。
「……悪いことをしたから」
「コキ、わるいひとじゃないよ、いいひとだよ」
「良い人でも悪いことはするものよ。前にもちょっと言ったでしょ? 私は人を殺したこともあるって」
「ひところしたから、ころされる?」
「確かに同族殺しは重罪だから国や地域によっては死罪だけど……私はちょっと違うかな? そもそも人殺しなんてシノビだったら誰でもやっていることだし珍しくもない。これだけで仲間から命を狙われることはない、少なくともシノビはね」
「じゃあ、なんで?」
ワカバが再び首を傾げます。さっきよりも角度があります。
しかしコキ、苦い顔。ワカバの目を見て。
「……どうしても聞きたい?」
「うん」
即答。未知への興味関心というよりも疑問を解決したいという純粋な願いがあるように見え、コキは天を仰ぎます。
「そっかあ、聞きたいかあ……あんまり思い出したくないけど仕方ないか……腹括るか……これ食べてから……」
「う?」
ワカバの疑問をよそに先に蒲焼きを食べ終わり、手を合わせてご馳走様をしてから串を置いて話し始めます。
「細かいことは省いておおまかなことだけ伝えるとね……私には仕えるべき主人がいたの」
「しゅじん?」
「そう主人。とってもえらい人。具体的にはアーモロードの元老院よりもちょっとだけ下ぐらいえらい人」
「それはとてもえらい」
関心するワカバを横目で見てから続けます。
「私はね、そのえらい人のことが……アイツが、好きだったの」
「すき? わたしとおなじ?」
「ワカバとは違うかな? ワカバは家族みたいな好きだけどアイツは結婚したいなって思うぐらい好きだった」
「けっこん」
「結婚の意味わかる?」
「ラブラブのやつ」
「それで良し」
今は細かい説明はせず、寧ろ結婚についての知識があることに安堵しました。
「本当はね、シノビと主人って結婚しちゃいけないし好きになってもダメなの。そういう掟が……決まりが大昔からあって、絶対に破ったら駄目だって子供の頃からずっと聞かされていたわ」
「わるいこと?」
「そう、悪いことね。でも……私は、悪いことだって分かっていてもアイツのことを好きになってしまったのよ。よくある甘言にコロッと騙されて」
「おー」
コキは膝を抱え、視線を落とし、焚き火の炎を見つめます。
「小さい頃からすっごいロマンチックな恋愛に憧れて、困難が多かったり乗り越えるべき壁がすっごく高い恋愛っていうのを経験してみたかったの。その先にはとても幸せな光景があるって馬鹿みたいに夢見てたから。だからアイツに夢中になったしアイツも私のことを愛してた……婚約者がいるって言うのにね」
口を閉じ、キョトンとするワカバに気付かないコキは止まりません。
「掟を破っていることに罪悪感はあったけど好きな気持ちって止まれないから構わなかった。絶対に成熟する愛だって信じていたから、周りが見えなくなっていた」
「……」
「結局、交際がバレて尋問されちゃった。私はね、あの時はどうかしてたから“彼はきっと庇ってくれる!”って信じてた。だって私たちの関係が露見したとしても守ってあげるからって言われたもの。自分の身を犠牲にしても、今の地位を全て捨てて私を助けてくれるって信じて疑ってなかった……でも、結局はただの都合のいいその場凌ぎの言葉でしかなかったのよ」
「……」
「アイツは私を切り捨てて自分が助かるためにぜーんぶ私が悪いって尋問の時にみんなの前でベラベラと嘘ばっかり並べて言い訳をしたの。私から言い寄って来ただの地位と権力を狙う女狐だのそんなつもりはなかったのに強か……ワカバに聞かせられないような暴言や侮蔑も色々ぶちまけられたら、百年の恋も一瞬で冷めるってものよ」
「……」
「掟を破ったシノビは例外なく処刑される。最初は殺されたとしても仕方ないかなって思っていたけど、あんな奴のために死ぬなんて嫌だったから脱獄して国を出た。すぐに終われる身になっちゃったけどね」
全て言い終え、一息吐いてもワカバは何も言いません。ずっと黙っていました。
「ってワカバ? 途中から相槌がなかったような気がするけど途中で分からないこととかあった? ごめん気付かなくて……」
慌てて謝罪してもワカバから返答はありません、今度はコキが首を傾げる番でした。
しかし疑問はすぐに解決します。ワカバは、コキに体を寄せて左腕にぴったりとくっついたのです。
ただし、俯いたままで表情は見えません。
「ワカバ……?」
「コキ、だいすきなひとにいじわるされた?」
小さな声で現れた疑問に、そっと答えます。
「……そうね。二人で一緒に悪いことをしたのに、私だけが悪いってことにされちゃった」
「どうして? なんで? コキだけきずついたの? なんで?」
「私に男を見る目がなかったってだけ。好きになっちゃいけない人を好きになった、私の甘さが」
「わるくない」
淡々と断言しました。
「ひとをすきになる、ふつうのこと、あたりまえのこと、わたしもコキのことすきだもん。コキがアイツのことすきになるのもふつうのこと、わるいことじゃない」
そこまで言いコキの腕を掴みます。
ほんの少しだけ強い力で。
大好きな人が傷付いていたというのに、何もできない悔しさともどかしさが腕から伝わってきて。
コキは空いている手でワカバの頭を撫でました。
「本当に、悪くないって思う?」
「わるくない」
「相手に婚約者が、将来結婚する人が決まっているってことを知っていても?」
「わるくない」
「唯一の身内が何度も止めてくれていたのにそれを聞かなかったとしても?」
「わるくない」
「一時の感情だけで仲間たちの信頼を全て裏切ったとしても?」
「コキわるくない」
「……」
理解しているのかしていないのかは定かではありません。
しかし、ワカバなりに一生懸命、これ以上コキを傷つけないようにしているのはわかりました。
仲間たちを裏切り、報いとして殺されそうになっている彼女に、同情しているのです。
「……本当なら、私は私の全てを否定され、大切なもの全てに唾をつけられても文句を言える立場じゃない。死にたくないから抗っているだけ、なのにね……」
「だってコキ、わるくないもん」
ひたすらに「悪くない」と言い続ける少女は、精神的な幼さゆえにコキが犯した罪の重さを理解していないのでしょう。
ならば、いっそのこと。
「この先長くないなら、この甘言に酔いしれるのも悪くないかもしれない……な」
ワカバの耳に届かないほど小さな声で呟いた後、いつもの声量で続けます。
「……ありがと、ちょっと元気でた」
「ホント?」
「ホントよ。なんか気分が軽くなっちゃった! ワカバのお陰ね」
「よかった!」
顔を上げた笑顔は、この世の罪と悪を知らない純粋さしかありません。
大好きな人が笑ってくれているだけで幸せだと心から言える、子供のような純粋さ。
世界を知らない子供心と精神を死ぬまで失うことがない少女。
「私が世界中の人間から追われるようなことになってもワカバだけは私の味方をしてくれるのね、きっと」
「うん、だってコキ、だいすきだもん」
迷うことなく答えた少女。コキの目にはとても愛おしく、同時に危うくも見えました。
「ワカバ」
「ん?」
「私、ワカバと出会えてよかった」
「ほんと?」
「本当よ。今が人生で一番楽しくて幸せなのよ、私は」
「そっか、そっか」
「そう……ね」
コキはふと、顔を上げて周囲を見ました。
「わたしも、コキがいてよかった、コキはやさしいから、うれしい」
「……ええ」
「わたし、もうひとりぼっちじゃない、コキがずっといるから、いつもたのしい、おなかはすくけど、たのしい」
「……そうね」
「わたしも、しあわせ」
「…………」
「う?」
コキはもうワカバを見ていません。
正面、夜の暗闇に隠れる木々を睨んでいました。
ワカバが今まで見たことのない険しい顔で。
「コキ?」
呼びかけに答えないままワカバをそっと剥がすと、木々を睨んだまま立ち上がります。
「ワカバ」
視線を一切動かさないまま、淡々と少女の名を呼びました。
今まで一度も少女に聞かせたことのない冷たい声色にワカバは何かしらの異常を感じ取ったらしく、不安気に見上げます。
「どうし、たの?」
「次に私が動いたら扉に向かって走って。そして、扉の外に出て街に帰りなさい」
強い口調で言った後、短剣を取り出しました。
突然の命令にワカバは意味が分からず、コキのズボンを引っ張って、
「なんで? なんで? コキは?」
「私は後で糸を使って帰るから心配しないで」
安心させる優しい声色ではなくただ言っているだけの声に、ワカバの不安は増えていくばかり。
「なんで? どうしたの? なんで?」
「説明している暇はないの。後で……教えてあげるから」
「う? ん? なんで、なんでなんで?」
「それは」
「なんで、いっぱい、いるの?」
少女を今すぐ納得させる言葉が欲しいと切に願った時。
野営地を囲む草むらから細く小さな針が飛び出し、ワカバの首筋に刺さりました。
「あう」
途端にワカバは全身の力を全て失ったようにその場に崩れ落ちてしまったではありませんか。
「ワカバ!?」
少女の異変に気を取られた一瞬。
自身の背後から強烈な気配。
「はっ」
振り向こうとした時は既に遅く、次の瞬間には羽交締めにされてしまったのです。
拍子に短剣が手から落ち、串の上に着地して金属音を奏でました。
「捕まえた!!」
同時に響くのはハツラツとした声でして、それはコキを羽交締めにする大男から発せられました。頭巾をして口元も隠しているため、目元しか露出していません。
「ようやく追いつきましたぞ、姉上」
「シタン……」
男の名らしき言葉をぼやき見上げるコキは、恨めしそうにも悲しげにも見える表情を浮かべるだけ。
「……う?」
体の頂点から足の先まで一寸も動かすことができないワカバは地に伏したまま、疑問を声に出すことしかできなくなっていました。
「なんで、なんで? いっぱい、いる」
「そりゃあそうだよ〜だって俺たちが来たんだも〜ん」
陽気で緊張感の欠片もない声が野営地に響きます。
夜の闇から音もなく現れたのはくすんだ金色の髪を後頭部で結った小柄な青年。口元はマスクで隠しています。
その後ろから付き従うように姿を現したのは銀髪に短く切り揃えた髪に、花柄の忍装束を来た少女。青年よりも小柄です。
少女はワカバを見るなり目を丸くして、
「ありゃ? 意識があるとは驚き。普通の人なら半日以上はぐっすりなのに。やっぱり冒険者ってヤツは普通の人間よりも毒への耐性が強いってことかな」
「睡眠針じゃなくて麻痺針を使ったからじゃないのか〜?」
「あ」
ここで固まる少女。それなりにドジなようです。
青年は首を横に振って小さなため息をこぼしてから、コキの方へと軽い足取りで歩み寄りまして、
「は〜いちょっとゴメンネ?」
「うぎゅ」
その道中でワカバを蹴って転がし少し離れた位置に乱暴に移動させてから、改めてコキに向き直ります。
「久しぶりだね〜後輩。ちょっと見ない間に痩せた? 髪切った?」
「どうも、キツルバミ先輩……」
苦虫を噛み潰したような顔をするだけのコキは青年の名を呼んでから、ガックリと項垂れたのでした。
キツルバミと呼ばれた青年は目を丸くし、両手を後ろで組んでから可愛らしく首を傾げまして。
「随分大人しくなったね〜どしたの? いつもなら持てる手段を全部使って抵抗するって言うのに」
項垂れたままのコキは答えます。
「……もう逃げられっこないって分かっているもの。ここで逃げられたとしても、先輩たちはあの子を使って私を捕えようとするでしょ? それは絶対に嫌」
「よくご存知で〜」
キツルバミは笑顔のまま、コキの首筋に細い針を刺します。
頭巾のシノビが手を離してコキを解放しますが彼女もワカバ同様、全身の力を失ったように地面に倒れたのでした。
「ただの麻痺針……か……」
毒に耐えるシノビ修行の成果か、呂律は回り体も若干ですが動かせます。ただし、ここからワカバを連れて逃げ出す力はありません。
鈍く動く体に無理を言い首を動かし、いつの間にやらしゃがんでコキを見下すキツルバミを恨めしく睨みます。
「一思いに殺さないの……? それとも、国に連れ戻して公衆の面前で首を跳ね飛ばすつもり……?」
「いや〜そ〜ゆ〜ワケにもいかないんだよね〜これが。こっちの複雑な事情ってやつ」
「事情って何よ……まあ、これから死ぬだけの私には関係のない話かあ……」
「いやいや〜これってばね? コキにもメチャクチャ関係のある話で」
「しぬってなに」
コキとキツルバミの話に強引に割り込んだ声がひとつ。
伏したまま動かないワカバでした。
ここにいるシノビたち全員が、動かない少女に目を向けます。
「コキ、しぬ、なに、なん、で、そん、なことい、うの、なんで」
体が動かない中でも口を一生懸命動かし、言葉を発します。
感情表現の乏しく精神が幼い彼女でも、今が大切な人の命が奪われようとしているという状況だということは、理解できてしまいます。
言葉の中には恐怖がありました。
記憶のない過去の中で経験した「大切な人の死」という無情な現実が、目の前まで迫っている恐怖が。
「えっとねえ、君にはどこから説明しよっかなあ〜?」
キツルバミが緊張感もなく頬をかくと、足元のコキが彼を呼びます。
「先輩」
「なに〜?」
「私はこれから殺されることを受け入れる、二度と抵抗しないし逃亡を図ったりもしない。でも、せめてどうか、あの子の……ワカバの前では殺さないで」
「あ〜うん。それはちょっと無理な相談かな〜?」
呑気に首を振るキツルバミ。話を聞く気はないのでしょう。
諦めきれないコキは手を伸ばし、彼の足を掴んで、懇願します。
「お願い……裏切り者の言うことなんて聞きたくもないのは分かってる……だけど、ワカバに大切な人の死を見せたくないの……追われている身なのにこの子に深く関わってしまった私の身勝手な行いが招いた結果だってことは、分かってる……全部、私が悪いわ……でも、せめて、最期は……」
懇願が無駄だということはコキ本人が一番よく理解しています。「許されたい」と訴えるだけの言葉を今までいくつも踏みにじってきた張本人なのですから。
死が常に隣り合う厳しい世界において「言葉」ほど無意味なモノはありません。
コキは、無意味と評価されたモノに縋ってしまうほど、追い詰められていました。
全てはワカバのために。
「コキが優しいのは知ってるけども、まずさあ〜……」
ため息まじりに頭をかきつつキツルバミは言葉を一旦止め、次に何を伝えるか選択していると、
「せっ、先輩せんぱい! キツルバミ先輩!」
花柄装束の少女が突然声を上げ、キツルバミは面倒臭そうに振り向きます。
「ちょっとコンネズ〜? 俺が仕切ってる時は口出ししないって言っただろ〜?」
「でもでもだって! あのワカバって子、動いたような」
顔を青くしてワカバを指す少女に対しキツルバミは鼻で笑い、
「コキみたいな毒耐性のあるシノビでも十分弱は動けなくなる痺れ薬なんだぞ〜? 冒険者とはいえ俺たちと比べると完璧に一般人の女の子が口以外を動かせるわけが」
と言いつつも視線を向けると、
「ぎ、ぎ、ぎ」
歯を食いしばって動かないはずの筋肉を無理に動かし、起きあがろうとしているワカバを目にしたではありませんか。
「ウソォ!? どういう身体能力してんのぉ!?」
「ぎ」
驚愕するキツルバミを意に介さず、なんとか顔を上げることに成功したワカバが見た光景はシノビたちの姿。
そして、地面に伏しながらもキツルバミの足首を掴み、今までに見たこともないほど苦しい表情を浮かべるコキで。
「え」
硬直している最中にコキはキツルバミから手を離し、ワカバに目を向けると、
「……ワカバ」
弱々しく微笑みかけ、いつもの優しい声をかけます。
「……ごめんね、もう私、ダメみたい」
「なんで」
「私は殺されるから。もっとあなたのことを見ておきたかったけど時間切れ、これからはひとりで……頑張って」
「やだ」
「私はいなくなってしまうけどワカバならもう大丈夫。街での暮らしにもちょっとは順応したし色々な人と仲良くなれた、これからはそういった人たちを頼っていきなさい。私がやっちゃいけないって言ったことは必ず守って……」
「いやだ!」
ワカバが叫びました。
感情を激しく動かすことが滅多にない少女が、心の底から溢れ出る想いを叫び、叶えられることのないワガママを樹海の中に響かせたのです。
「いやだ、いやだ……いやだ! いや! やだ、やだ!」
何度も何度も繰り返しても現実は変わりません。
その姿を見てられなくなったコキは、ワカバから目を背けてしまいました。
「ワカバ……ワガママを言っても、もう……」
「やだ! いやだいやだいやだ! そんなの、いや! わたし、はいや!」
「……」
「おいて、おいていかないで! もうひとりはいや、いやだ! おいてかないで、おいてかないで、よ、おいていかないで! わたしをひとりにしないで!」
「…………」
「ひとりぼっちは、いやだ!」
「………………」
ああ、私は、最低だ。
こんな、死に際にあの子のこんな、酷く泣いている顔を見ることになるぐらいなら、ひとりで惨めに死んだほうがマシだった。
ギルドを作ってすぐにアーモロードから離れていればこんなことには、ならなかったのに。
ワカバを自分の庇護下に置きたい、そんな欲求に負けた結果がこの有様だ。
あの子も私も傷付いて終わる。
私のエゴがあの子に永遠に癒えない傷を与えてしまう。
最低だ、なんて最低で、醜い人間なんだ、私は。
自分で自分を殺してやりたい。
「コキがしぬの、いやだ、いやだ、いやだ、コキがいないなんて、わたし、いやだ、なんでしぬの、ころされるの、そんなの、だめ、いや、いや……」
泣きながら想いを吐露し続けるワカバの元に、頭巾のシノビが音もなく歩み寄ります。
「…………」
一言も言葉を発することなく、ワカバの正面で立ち止まり、腰を落としました。
「……う?」
動きにくい首を無理矢理に動かし、男の顔を見上げた次の瞬間、
男はワカバの肩を掴むと、
「わかりますぞワカバ殿ぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!」
樹海の底まで響きそうな声量の大声が響き渡り、睡眠中だった鳥たちが一斉に飛び立ちました。
「う、う?」
目の前でそんな大声を出されてしまったのですから耳が痛くてたまりません。目を回すワカバなど気にせず男は興奮気味に続けます。
「ワカバ殿のお気持ちは痛いほど分かりますぞぉ!! 姉上がこの世界からいなくなるなどあってはならぬこと!! たかだか禁断の愛程度のことで姉上をこの世から抹消する行為こそが蛮行!! 世に対する圧倒的侮辱かつ損失!! あのような野郎のために姉上のこれからの人生を全て消し去ってしまうという理そものもが間違っていると声を大にして訴える所存!!」
「う、う? うう?」
「拙者は愛に狂った姉上を止めることができなかった!! 無力!! 雑魚!! ゴミ!! 姉上のためなら命を賭して何でもやると誓った拙者の命は肝心な時になれば完璧な役立たず!! 今日まで己で己を責め続ける日々でありました!! 己の罪は常に隣にあることを象徴するために顔を斬ったのも逃亡して恐怖と孤独に震えている姉上の痛みを少しでも理解するため!!」
「ううー?」
「しかし姉上にはワカバ殿がおられた!! 姉上は孤独ではなかった!! 人に尽くし尽くされることが好きな姉上はもうおひとりではない!! 涙を流し姉上の生を願うほどお優しく姉上を想い慕うお方がおられた!! 拙者はもう安心して安心して!! ワカバ殿であれば姉上を任せられると痛感いたしました!!」
「う、うー?」
至近距離から大声を浴びせられるものですからワカバは全然聞いちゃいません。抵抗しようにも体は思うように動かないのでどうしようもなく。
すると、コキが男を呼びます。
「シタン」
「はいなんでしょうか姉上!!」
「うるさい」
「申し訳ありません!!」
今まで一番大きな声で謝罪をした後、手を離して下がると同時にワカバは再び地面と顔を引っ付けてしまったのでした。
「あうう」
目を回してしまったワカバは呻き声を上げてしまい、しばらく意識が戻ることはないだろうと予想できます。
コキは大きくため息を吐き、
「全く……って、姉上を任せられるってどういう?」
シタンと呼んだ男に向かっての問いの答えは、黙って状況を眺めていたキツルバミから発せられます。
「コキ、キミは死ななくてもいいんだよ」
時が、止まりました。
実際に時が止まることなどありえません。風は流れていますし焚き火は音を立てて燃え続けていますし木々の向こうからシタンの大声に怯えた獣たちの鳴き声が微かに聞こえます。
キツルバミの言葉をすぐ受け入れることができなくなったコキが、まるで時が止まったような錯覚に襲われただけです。
「…………………………………………は?」
長い時間をかけて溜めた言葉は短く、あっさりとしたものでした。
彼女とは対照的にキツルバミは両手を広げてそれはそれは陽気に言います。
「信じられないよね〜すぐに受け入れてもらえないよね〜? 盛大に勘違いしてたみたいだし〜まあ勘違いさせたのは俺らもといコンネズのせいだからな〜」
「はう」
シノビの少女が顔を覆いました。
「順を追って話そっか。ようやくキミを“捕らえた”ことだしね〜」
キツルバミたちが持参した解毒剤を服用すれば、五分と経たないうちにコキとワカバの体の痺れが取れました。
「事情」を説明するため、椅子代わりに使われる石の上に腰を下ろしたキツルバミは草地に正座するコキと対面し、話し始めるのです。
「若様いたじゃん? キミの元カレ」
「ああ、忌まわしき過去ね」
吐き捨てるように言ったコキを見て安心したのかキツルバミは笑顔で続けます。
「そうそう、ソイツがめちゃくちゃ女癖が悪いことはキミも知ってただろ〜? 泣かした女は数知れず……ってやつだ、キミもそれに含まれているわけだけど」
「泣く気にもなれなかったわよ」
「だろうね〜そんな女泣かせの若様、許嫁がいるにも関わらず女遊びばかりしてた訳だがキミみたいに奴に本気になる娘はそこそこいた。大半はすぐ捨てられてけどね、キミも同様に」
「…………」
当時の光景がフラッシュバックしたのか、苦虫を噛み潰したような顔をするしかできませんでした。
「でもコキ、キミの場合はま――――――酷かった。酷すぎた。歴代最悪の捨て様だったって側近の奴が言ってたよ。シノビとその主人の恋愛関係が駄目だってことは双方周知の事実だったにも関わらず、奴はキミに全責任を擦りつけようとしたからね〜あの口からでまかせを誰も信じてなかったのが唯一の救いではあったけど……その時の捨て台詞も酷かったなあ」
「あんまり思い出したくないんだけど」
「我慢しなさい。掟を破ったキミは斬首刑、若様は兄弟に自分の次期領主の地位を譲ることになっているけど若様は色々あって一人っ子だったし親戚は体の弱い子ばかりってことで、代わりに領主様がお考えになった“二十年の間、アラクサ家の敷地内から外に出ることを禁ずる”という代案が採用された」
「それが嫌だから私を売ろうとしたんでしょ。自由を奪われたくないから」
「失敗してたけどね〜」
キツルバミの後ろで待機している二人のシノビが大きく頷いているのが見えました。
「そもそもあの時の尋問は全ての証拠を押さえた上での尋問で、キミを口説いた若様も悪いしそれに応えたキミも悪い〜ってことで掟通り処分することで話は進んでいたんだ。あの尋問は罪を裏付け刑を定める場じゃなくて罪を認めさせるひとつの儀式だったんだ〜言わば領民たちやアラクサ家関係者への見せしめさ」
「見せしめって……」
「キミたちの関係が露見した時点でケジメとしてやる必要はあったからね〜若様だってそれは理解していたって言うのにあの場で嘘でたらめをでっち上げちゃうから現場は軽くパニックだったよ〜。最初から決まっていた処分に変更はなかった……けど、若様の酷すぎた言動のお陰で話がちょ〜っと変わったんだよね〜」
「というと?」
「斬首刑を控えたキミが投獄された後、領主様のお声がけがあって若様以外のアラクサ家一族と、一部のシノビたちが呼ばれて緊急会議が開かれたんだ〜俺は長と一緒にその会議に参加させてもらったんだけど……」
一度言葉を止めたキツルバミは天を仰ぎ大きく息を吸い込み、がっくりと項垂れてしまい、
「……息子のあまりにも情けない姿に領主様、泣いちゃって……」
「えぇ……?」
コキ、顔を引き攣らせました。それしかできませんでした。
「今までの若様の言動だけでも情けなくって辛くって泣きたい時とかたくさんあっただろうに、領主であり一族の長だから我慢してきたし、若様の汚名返上のためにも努力してたんだよあの方……でも、努力は報われずに今回の事件でしょ〜? とうとう限界が来たっぽい、あれは本当に可哀想だったよ……」
コキ、ノーコメント。自分が原因なので。
「あんな息子のために里でも特に優秀なシノビだったキミを殺すのはあまりにも可哀想だし、国のために影ながら命を掛けて戦っているシノビたちに対してあまりにも不誠実だって言い出してね〜色々と話し合いを重ねた結果、キミをこっそり生かすことにしたんだ〜」
「同情で生かされたの……? 私……?」
「そうよ〜」
顔の引き攣りが収まらないコキですがキツルバミはニコニコしていて楽しそうです。後で控えている二人のシノビもどこか満足そう。
「キミをこっそり生かすことを決めた領主様の提案、最初はもちろん反対されまくってたんだよ。領主自らが掟を破るのか〜ってね? そんな人たちを黙らせたのはキミもご存知、若様の許嫁様だ」
「彼女が!? 普通に恨まれてると思ってたんだけど!?」
「一般的にはそうだよね〜でも、あの方は若様を本当に愛していた。浮気性なところも含めて全部愛してた。若様が数多の女の子を泣かしても側を離れようとしない入れ込みっぷりだ。若様を見限らなかったどころか奴に捨てられた女の子たちに同情していたよ。一部の子にはこっそり支援もしていたね〜」
「……」
「それほど慈悲深いあの方でも今回の事件に関しては若様を軽蔑しかけたって零してたよ。だからってことでもないかもしれないけどキミを生かすという領主様の提案に一番強く賛同していた。お陰で反対していた連中はすぐに引き下がってくれたんだ……そこまではよかったんだけどなぁ〜?」
わざとらしく伸ばす語尾に責められている錯覚に襲われ、コキはとっさに俯いてしまいました。
「だって、殺されるって、思ってたもの」
「そうだろうね〜ま、こっちとしては都合が良かったよ。逃亡先で死んだことにしてそれっぽい証拠を持ち帰れば良いからね」
「……」
「でも、逃げ出したキミが変なことをしたら困るからこちらの事情を伝える必要ってのはあった、俺たちに命を狙われているって誤解し続けるのも可哀想だった。だから一旦キミを“捕える”必要があったんだ〜」
「だから……追いかけて、た……?」
「誤解させたことは認める。ごめんね」
淡々と言い切ったキツルバミはここで話を終わらせました。
「…………」
事の顛末と同胞たちの事情に呆然として、絶句するしかできないコキでしたが。
「いや、いやいやいやちょっと待って? あれ?」
と、頭を抱えまして。
「私、一度本当に死にかけたっていうか殺されかけたのよ? それでいつの間にかアーモロードの世界樹の迷宮に迷い込んでワカバに拾って貰ったのよ? そうでなければ今頃……」
「うううう……本当にごめんなさい、コキ姉様……」
突然顔を覆ってめそめそと泣き始めてしまったのはコンネズと呼ばれているシノビの少女です。
彼女の言動だけで何が起こってしまったのか察したコキ、すぐ顔を上げて少女を見据え、
「あの攻撃、コンネズだったの?」
「はい……私は、てっきりあれは、姉様の分身だと思って攻撃したんです……まさか、まさか本物だとは夢にも思わず渾身の一撃を喰らわせてしまったんです……だからだから、姉様が死んじゃったらどうしようかと……」
「ああ……私が分身が得意なばかりに悲劇が……」
コキ、天を仰ぎます。それしかできませんでした。
「まあまあ、無駄に火力だけはあるのにすんごいドジっ子なコンネズとはいえ、修行を終えたシノビが本物だと誤認してしまうぐらいには精巧な分身だったんだから、誇ってもバチは当たらないって〜」
彼女たちとは相対的にどこまでも呑気なキツルバミはそう言った後、
「最終的にはその子のお陰で助かったんだからさ〜」
と言い、コキに背中から抱きついたまま動かないワカバに目を向けたのでした。
「……」
体の痺れが取れてから一言も喋っていません。顔も伏せているため表情も見えません。
「……ところでその子、どうしてずっと子泣き爺みたいにキミの背中に張り付いてるの?」
「私が死なないように守ってるんだと思う」
「え〜? 俺たちはコキを殺したりとかしないからさ〜警戒解いてよ〜? 一応さ、キミは同胞の命の恩人なんだからそれなりに敬意は払いたいんだけどな〜?」
キツルバミが声をかけてもワカバは動きません。お腹の虫が鳴っても何も言いません。
「嫌われちゃったかな〜? どうしたらいいと思う?」
「この子の好きにさせておいて。というか先輩たち、いつからアーモロードに来ていたの?」
「先週からですぞ!」
「ついこの前です姉様!」
答えたのはシタンとコンネズでした。コンネズに至ってはいつの間にやらすっかり笑顔に戻りとても生き生きしています、切り替えが早いですね。
「姉上たちの現状は調査にてすぐに把握できました! ワカバ殿と共に冒険者をしていることもギルド非推奨の二人パーティで樹海に挑まれていることもお金に困っていることも! 情報を整理し作戦を練った結果、樹海内での奇襲が最も姉上たちを捕えやすいとの結論が出され! 今回の作戦を実行した次第!」
「本当は昨日しようと思ったんです! でも姉様たちは地下四階の野営地点で野宿されてたでしょう? あそこは近くが川で見晴らしが良くて目撃者が出るかもしれなかったから作戦を中断したんです! 一応は極秘任務ですから!」
生き生きと、まるで水を得た魚のように元気よく大声で話す二人を前にコキは引き気味。
「……二人とも元気すぎて本当に極秘任務なのかなって思っているけど」
「極秘任務だよ〜だから少人数編成で来てるんじゃ〜ん」
声のトーンも変えずに答えたキツルバミは石から立ち上がりました。
「でも今日はちょっと大変だったよね〜キミがトカゲの魔物の毒で死にかけてたからさ」
「見てたの!? 私のあの失態を!?」
「勿論、シタンが慌てて薬を投げるわコンネズが飛び出して治療しようとするわで本当に大変だったよ」
「そっちかーなんか逆に安心したわ」
「何の逆?」
首を傾げるキツルバミにコキは言いません。所持していたテリアカが増えていた原因が判明して安心したと。出本が分からない薬品ほど怖いものはありませんからね。
「ところで、死を偽装するっていうのは、具体的にどういうプランで行くつもり?」
ひとりで納得したのも束の間、コキはすぐに話を切り替えたのでキツルバミは苦言を呈することなく答えるのです。
「魔物に襲われて死んだことにしようってね。国外には獣とは違う“魔物”って生き物がうじゃうじゃいるからね〜あり得ない話じゃあないでしょ?」
「なるほど。でも、口伝だけで何も知らない連中や領民が納得するかしら」
「毛束とか持ち物とか持ち帰ろうと思ってるよ。物的証拠品として〜」
「それだけじゃ弱そうね」
コキは立ち上がります、背中にワカバを引っ付けたまま。
シノビたちがきょとんとしつつ次の言葉を待つ中、コキは言います。
「私の指を使いましょ」
と。言ってしまえば当然、
「は?」
「はい?」
「はえ?」
シノビたちが口々に間抜けな言葉を発してしまい言葉を失ってしまいました。誰も考えてもなかった提案、軽々しく口にできることでも実行できることでもない話に。
一同の気持ちは承知の上でコキは続けます。
「私が他国で魔物に襲われて死んだっていう話に信憑性を持たせるなら、毛束と所持品だけじゃ証拠として弱すぎるもの。指を斬り落として持ち替えればみんなは私が死んだって思うでしょ? 使いましょ。左手薬指とかいいわね」
まるで日常会話のようなトーンで恐ろしい提案を口にしたので、キツルバミはマスクの裏側にある開いた口が塞がらない状態になってしまいました。コンネズは今にも卒倒しそうなほど青ざめていますし。
「いやあの、姉上……?」
シタンも体を震わせ動揺しつつ、最愛の姉に向かって意見します。
「そんな、“代用品を用意しました”みたいな淡々と当たり前のように言わなくても……良いのでは、ないでしょうか? そこまでする必要は」
「あるわよ。そうでしょ先輩」
「おっけ〜わかった、そのプランで行こう」
「キツルバミ殿ぉ!?」
シタン絶叫。もはや悲鳴のような声でキツルバミは耳を塞いでしまいました。
「うるさ〜」
「姉上は生を許された身なのですぞ!! 死ぬ必要も傷付く必要も一切ありませぬ!! 自らを犠牲にする理由などどこにもないではありませぬか!! 何故!!」
「そ、そうですそうです! シタンの言う通り!」
ここぞとばかりにコンネズも便乗して手を大きく振りつつ抗議しますが、
「シタン、コンネズ」
「はいなんでしょうか!!」
コキに名前を呼ばれ反射的に振り向きました。声がぴったり重なりました。
弟と後輩の眼差しを受けたコキは一旦深呼吸をしてから、
「少し黙れ」
低いトーンで静かに叱りつけました。
更には視線だけで人を殺せそうな瞳を向けられ、弟と後輩の二人は体を震わした後に一切喋らなくなりました。
「怖いね〜」
キツルバミが他人事のようにぼやくのを無視し、コキは言います。
「あのね、私は確かに許されたかもしれないけど、シノビの禁忌を犯したのは紛れもない事実。ケジメを付けるのが道理でしょ? だから指一本を犠牲にするのよ」
黙ったままのシタンとコンネズ、今にも泣きそうな表情で最愛の人を見つめています。
「あんな奴のために指を犠牲にするんじゃなくてあくまでも自分のためにやる。指を切って、ついでに微かに残っているかもしれないこの縁も切って今度こそサッパリ別れるわ、アイツにも国にもね。これで、胸を張ってワカバと一緒にいられるんだから」
「ふえ」
名前を呼ばれて声が漏れ、ようやく顔を上げたワカバは目を丸くしてコキを見ています。
「だから心配しなくていいのよワカバ。私はもうどこにも行かないから」
「…………うん、うん」
何度も頷く少女の頭をそっと撫でて更に安心させてあげるのでした。
「ちぇっ、いいないいな、どうして姉様はあんなのがいいのかしら」
手を後ろに組んで石ころを蹴りいじけモードに入ったコンネズのぼやきに応える人はいなかったとか。
「んじゃま、方針は決まったことだし準備しましょーか。コンネズ〜いつまでもいじけてないで手当ての用意をしなさ〜い」
「ふぁ〜い」
やる気のかけらも無い返答の後、コンネズは音もなく森の中へ消えました。
あっという間に消えていったシノビをぼんやり見上げていたワカバは目を丸くさせています。
「いっちゃった、はやいね」
「森の奥にある荷物を取りに行っただけですぞ! すぐに戻られます故!」
途端にシタンが真横で静寂を破壊するほどの声量で言いますが、ワカバは嫌な顔ひとつせずに彼を見ます。
「……」
「おや、どうかされましたかな? ワカバ殿?」
「コキのこと、あねうえって」
「はい! 拙者はこの方の弟にして唯一無二の肉親! シタンと申します! 以後お見知り置きを!」
「おしりおき?」
首を傾げてしまうワカバの発言にキツルバミが吹き出しましたが、彼以外に笑う者はいません。
コキはワカバの頭を撫で、優しく語り掛けます。
「よろしくねってことよ。シタンはワカバと仲良くしたいから」
「姉上の仰る通りですぞ!」
「そっか、よろしく、よろしく」
シタンとワカバは握手を交わしたのを見届け、不意に笑顔が溢れました。
「……こんな結果になるなんてね」
「けっか?」
「ワカバが私の身内と仲良くなれてよかったなーってこと。なんだか安心しちゃった」
「よかった、よかった」
「っと、とりあえずそろそろ離れてほしいな? 密着されていると指を斬りにくいから」
そう言って撫でる手を止めると同時にワカバの言葉も止まり、無言のままコキの顔を覗き込みました。
「ワカバ?」
「きるの?」
短い疑問の言葉に頷いて返します。
「とってもいたいよ? いいの?」
もう一度頷いて、
「いい。痛くてもね、死んでしまうよりは、アナタと離れ離れになってしまうよりは全然マシだから」
「……そっか」
納得したように答えたワカバの手が離れます。
少女は少しだけ下がるとコキの右手を両手で包み込むように握り。
「ゆびきるの、いたくてこわい、だから、こわくないように、するね」
「ワカバ……!」
歓喜余りつつ少女の名を呼びます。この場に人がいなければそのまま泣いてしまっていたかもしれません。
すぐ横でシタンが涙を流して何度も頷いていますが姉は無視を決めました。
「よかったね〜色々な意味で〜ある意味、キミにとっては最善の結果じゃ〜ん」
後頭部で手を組んで本心なのか社交辞令なのか分からないトーンで言ったキツルバミを、コキは睨みつけ、
「……分かってて言われると腹立つわね」
吐き捨てるようにぼやきますがキツルバミは気にも留めません。
「そんなことよりもさあ、左手薬指を切り落とすのはどうしてだ〜い?」
のんびりと尋ねらたことで呆れてため息が出てしまいますが、先輩からの質問にはちゃんと答えます。
「私の左手薬指には小さいホクロがあるの。親密な関係の人なら誰でも知ってるから“コキという女シノビが魔物に喰われた残骸”っていう証拠に信憑性が出せるわ」
「ああ! そう言えばそうだったね〜なるほど〜」
「……それと」
コキは視線を落とし、続けます。
「こっちの地域ではね、婚約するときに左手の薬指に指輪をはめる風習があるんですって。婚約する時に使う指を送って“お前のせいで私は跡形も無くなったけど執念と未練だけで大切な指だけ残してやったぞ、ここに婚約の証を着けられなかったことに未練感じてんだぞ、後悔しやがれクソ野郎”って意味の呪詛を送りたいなって。未練なんてないけど」
「絶対に伝わらないと思うけど凄まじい恨みがあるのはすんごい分かったよ〜」
「呪詛が届くことを祈るしかないわね……そうそう、他にもうひとつあるわ」
「なに?」
「男なんて二度と作らないっていう意思表示」
翌日、アーモロードの街は朝から快晴でした。
太陽が真上に登った頃に占い屋を開店させたスオウ。彼女はいつも通り街道にある街頭の麓にテーブルを広げ、面白い運命を持っている客を待っていました。
当然すぐに客が捕まるハズあなく、呑気にあくびをして暇を潰していましたがふらりとやってきた常連によって「暇」の文字は消え去るわけで。
「で、左手薬指を斬り落としてきたってことね」
「そう」
スオウに自己報告を済ませたコキは薬指だけ無くなっている左手を見せて、長い話を終えました。
「てかグロッ、あんまり見せないでくれる? 気持ち悪いわねえ」
「冒険者業もしてるならこういうのぐらい見たことあるでしょ」
「誰がこんなグロいの好き好んで見るのよ。アタシはアンタと違って血生臭い経歴なんてない一般人なのよ? 耐性あるとか思わないでくれる?」
「自分から言い出したクセに……」
不満しかない顔でぼやきつつ、コキは包帯をしている左手を下ろして後ろに隠しました。
「てゆーか斬り落としてよかったの? アンタみたいな奴にとって手は大事な商売道具なんじゃないの?」
「慣れていくしかないわよ。仕事中に指どころか腕やら足やら目やらを潰してしまう話を飽きるぐらい聞いてきた中で。指一本だけで済んだ私はまだ運が良かったのよ、まだ」
「アタシとしては指一本“が”無くなっただけでも大問題だと思うけど。やっぱアンタとは住む世界が違うから価値観が違うってことね、一般人でよかったわアタシ」
他人の未来が見える占い師を一般人という括りにしてしまっていいのか悩んだコキでしたが、人を殺していないだけマシだと思うことにしました。
「……ま、失ったのは利き手じゃない左手の薬指だし大丈夫でしょ。リハビリして様子を見つつ冒険者に復帰するわ」
「楽観的ねぇ」
「指を切る選択をしたのは自分、自分で決めたことで落ち込んでいられない。それに、治療費は同胞たちが立て替えてくれたし!」
「落ち込んでない最大の要因それじゃないの!」
「否定はしないわ!」
笑顔で肯定。
トカゲの毒による薬品の大量消費と自身の問題解決のため指を切り落としたことにより早々に樹海から撤退したため稼ぎはほぼなく、今回の樹海籠りの結果が赤字となってしまっている現状。一エンでも多く出費を抑えらていることは彼女にとって幸せなことなのでした。
「守銭奴め」
吐き捨てるように言ったスオウは呆れてため息を吐き、テーブルに頬杖を付きます。
「で? 晴れて命を狙われない自由の身になったけど、これからどうするつもりなのよ」
「どうするも何もここで冒険者を続けるわよ。私には帰る場所も行く場所もないんだから当然でしょ? ワカバもいることだし」
「相変わらずワカバワカバねえ……ま、いいんじゃないのそれでも。てかそのワカバは?」
「宿で寝てる。腹減り防止のために……」
「コキ」
「どわっ!」
コキの背後から音も気配もなくワカバが突如現れ、コキは悲鳴を上げスオウは吹き出しました。
「シノビのクセに背後取られてるじゃない」
「う、うるさい。ワカバは妙に気配がないから仕方ないの」
「うー?」
コキが慌てる理由も驚く理由も理解できてない少女は首を傾げるだけ。
よく分からない話は無視したワカバ、スオウと目が合うと小さく手を振りまして、
「スオウ、やっほやっほ」
「やっほワカバ。アンタは今日もぼんやりしてるわね、アメ食べる?」
「たべる」
スオウがポケットから包みに入ったキャンディを出して渡すと、ワカバは早速中身を取り出して口の中に放り込みました。コケイチゴの味がいっぱいに広がります。
「おいしい」
あまりの美味しさについ頬を抑えて幸せそうでした。
「一袋百エンぐらいのアメなんだけどね、それ」
余計な一言は無視するとして。
幸せそうなワカバを笑顔で見守っているコキは、幼子に語りかけるような口調で尋ねます。
「ひとりでここまで来ちゃってどうしたの? 寝てないとお腹空くでしょ?」
この声で我に返ったワカバは振り向いてコキを見ると何度か頷きまして、
「おなかすくけど、コキといきたいところ、ある」
「行きたいところ?」
「とてもたいせつ」
「大切?」
そんな場所なんてあったかと首を傾げますが思い当たる節はありません。
考えている最中にワカバは再びスオウを見まして、
「スオウもいく?」
「アタシは遠慮しておくわ。重いのはゴメンだから」
「早くどっか行け」と言わんばかりに手を振って言い捨てたのでした。
ワカバに連れて来られた先はアーモロードの街外れ。以前コキが処分した人身売買組織の連中が寝ぐらにしていた場所とは逆方向にある地です。
そこはまるで……と比喩することもなく、墓地でした。
土地は鉄の柵に囲われ、一定の間隔で墓石が並べられているだけの、とっても簡素な墓地。
日当たりはよく、近くの崖からは海が見えるためか墓地特有の不気味さは皆無でした。
「……なんで?」
墓地にやってきたコキは開口一番に疑問を口にしましたが、入り口にある看板の文字を見ることでその疑問も終わります。
「“かつて世界樹に挑んだ勇敢なる冒険者たちの鎮魂を祈る”……」
「おはか」
ワカバはそれだけ言うとさっさと墓地に入ってしまうのでコキも慌てて後を追います。
「えっとワカバ? どうしてここに」
「ここにリーダーがいる」
「りぃだぁ?」
思わず気の抜けたトーンで復唱してしまいますがワカバは答えません。
言葉はありませんが、ある墓石の前で足は止まりました。
墓石には人名らしき文字が三つ。
更にその上には「ギルド・キャンバス」と掘られていました。
「ん?」
コキが目を丸くさせている間にワカバはポケットから小さな花を三本取り出しており、
「リーダー、きたよ」
短く言ってから墓石の前でしゃがむと花を供えます。
悲しみもなければ喜びも感じられない「いつもの」ワカバの表情のまま、墓石をじっと見つめていました。
「……ワカバ、このお墓って」
「キャンバスのリーダー」
淡々と答え、続けます。
「わたしをひろってくれたひと、せかいじゅにつれていってくれたひと、ぼうけんしゃをおしえてくれたひと」
「覚えてるの?」
「あんまり」
ワカバは首を横に振りました。
「うみのなか、だいにかいそうのなか、リーダーたちがわたしのなまえを“ワカバ”ってよんだあと、いなくなってた、よくわからなくてすごくこわかったから、おもいださないようにしてる」
「……それは」
「リーダーたちのことだいすきだった、コキとおなじぐらいだいすきだったのはおぼえてるから、しんじゃったってわかって、かなしかった、いたかった、ずっとこわかった、なんでかわからないけど」
「……」
「リーダーたちのほねはないけど、おはかだけでもたててあげようって、いわれて、たてた、ここにリーダーたちはいないけど、たましいだけはここにいるから、おいのりしてる」
ワカバは顔を上げて振り向き、コキを見ます。
「あのね、わたし、もうひとりじゃないよって、リーダーにおしえてあげたい、コキがいるって、ずっとずっとコキがいるって」
優しく微笑みました。コキがいつもワカバに向けている表情にそっくりでした。
一度全てを失って心を壊してしまった女の子は、少しだけですが笑えるようになっていました。
今は孤独ではない毎日が楽しくて楽しくて、仕方がないのでしょうから。
「……そっか」
短く答えたコキはワカバの横で膝をつき。
「じゃあ、私もそのリーダーさんにご挨拶しなきゃいけないわね。ワカバのお世話してますって」
「うん」
ワカバは頷き、二人で手を合わせて祈りました。
墓石の下には何もありません、骨も肉も何もかもが樹海に喰われ、土に還ったことでしょう。
何もない墓があるのは樹海の外に残された人のため、樹海に散った人たちの安寧を祈るため、生きている人たちのため。
この祈りに意味があるのかは分かりませんが、こうして残された人たちの心は救われるのですから、無意味ではないのでしょう。
「……」
祈りを終え、顔を上げたコキは墓地の中にある一本の木を見ます。
背後にある墓と墓の間に植えられた景観用の木、植物に詳しくないため何の木かは分かりませんが青々とした葉を枝に着け、風に煽られ音を立てて揺れていました。
その木を敵意を向けるように睨みつけていると、
「コキ、どうしたの?」
異変に気付いたワカバが声をかけつつ服を引っ張ると、コキはすぐに穏やかな表情に戻ります。
「ううん、なんでもない」
と、淡々と嘘をついてから立ち上がりました。
「ワカバはこれからどうする? 宿に帰る?」
「かえる。おなかすいた」
「じゃあ先に戻ってて、私はちょっと用事があるからそれを済ませてから戻るわ」
「わかった、はやくかえってきてね」
ワカバも立ち上がるとすぐ、墓地の入り口に向かって歩いて行ってしまいました。
その背中が見えなくなると同時にコキは自身の隣に分身を出現させて。
「後はよろしく」
分身は陽気に敬礼してから音もなく駆けてワカバの尾行を開始、もう見えなくなりました。
墓地内でひとりになったコキは少しだけ深呼吸をして、
「さーて、と」
わざとらしく声を出してからクナイを投げます。
睨んでいた先、一本の木に向かって。
「ヒィッ!!」
クナイが木に刺さると同時に悲鳴が生まれ、何かが地面に倒れる音もしました。
「尾行するならもう少しうまく気配を消してからすることだな」
氷のように冷たい口調と声色で言い、短剣を持つとゆっくりとした足取りで木に向かって歩いて行き、木の影に隠れていた人物を見ました。
金色の髪に灰色の瞳を持った精悍な顔をしている男、服装はシャツに長ズボンと一般的なアーモロード住民と代わりのないもので、地元民だと伺えます。
尻餅をついたまま、コキを上げる青年は顔面蒼白。
「ま、まままって! 覗き見したことは認めるし謝る! でも命は! 命だけは取らないで! 卑しい気持ちで見ていたとかじゃないんです! 事実無根! 妻を未亡人にしたくないんです! お願いします! なんでもするから!」
今にも泣きそうな顔で命乞いを繰り返していました。
青年の前で足を止めたコキは短剣を持ったまま、
「なら、目的は何だ? どうしてこんなところからコソコソと様子を伺うような真似を」
「え、ええと……その、まずはとりあえず自己紹介をしてもいい、ですか? この体勢のままだと失礼ですし……」
「はあ」
どこか緊張感のない男を呆れるような眼差しで眺めつつ、彼が立ち上がって服についた汚れを払う姿を見届けます。警戒心は一切解かないまま。
青年はコキに向き直ると、
「始めまして、僕はコガネ。ギルド“キャンパス”のギルドマスターです。元だけど」
「きゃんぱす?」
似てるなあと思いましたが口にはしません。
きょとんとする反応が予想外だったのか、コガネと名乗った青年は目を丸くして首を傾げます。
「あ、あれ? 知らない……? 君、アーモロードの冒険者じゃ、ない?」
「冒険者だが。アーモロードの」
「あ、あっれー? おかしいなあ……本当に知らないんですか? アーモロードの世界樹を踏破したギルドとして有名なんだけどなあ……キャンパスの名前って……」
「お前が!?」
この情けない青年にそんな名誉があるとは思えずコキ驚愕。思わず大声が出ました。
すると、青年はがっくりと肩を落とし。
「信じられないってリアクション……まあ、そうですよね、信じられないですよね……うん……」
言葉で表すなら「しょんぼり」というリアクションそのものでした。
落ち込む青年が嘘をついているとは思えず、コキは顔を引きつらせます。
「……」
「信じてもらえないのは今に始まった話じゃないからいいですよ……ところでお姉さん、ええと」
「……コキだ」
「コキさんですね。ではコキさん、君はさっきの子と、ワカバと一緒でしたよね? あの子とはどういう関係で?」
ワカバの名が出た瞬間短剣を持つ手が少しだけ動きましたが、まだ事を起こす時ではないと言い聞かせ、妙に緊張感と敵意のない青年の問いに答えることにします。
「同じギルドのギルドメンバーだ。キャンバスという名前のギルドのな」
「ああ、やっぱり……」
力なく言った青年は顔を覆います。
「噂は本当だったんだ……あの子がようやくギルドを作ったって話は……僕がいない間に……もっと早く動いておけば……」
更に繰り返される独り言、敵意はなさそうですが不信感だけは拭えずコキの目つきはますます鋭くなります。
「ワカバとはどういう関係なんだ」
強い口調で言うと我に返った青年の肩が少し震えました。
「す、すみませんつい自責の念で……関係性を説明しないと誤解されたままになりそうですからね……うん、でもその前に少しだけ」
「何だ」
「リーダーのお墓参りを先に済ませてからでもいいですか?」
木の麓に落ちている花束を指し、尋ねるのでした。
ワカバとコガネが「リーダー」と呼称した人物の墓の前には小さな花三つと、花束が備えられていました。
墓の前で膝をつき、手を合わせ祈りを捧げた青年は振り返らないまま、背後で警戒心を解かないシノビに向けて言葉を発します。
「十年ほど前の話です。僕は自分のギルドを立ち上げる前“キャンバス”のメンバーとして雇われていました」
「……」
「行く宛も無く帰る故郷もなかった僕をリーダーは二つ返事で拾い上げてくれて、とても良くしてくれました。生粋のお人好しで冒険が大好きで優しく勇敢だったあの人のことが、僕もワカバも大好きでした。“世界樹の迷宮の踏破”というあの人の夢を叶えてあげることが、僕とワカバの夢にもなっていました」
「……」
「ワカバは“キャンバス”にいました。僕よりも少し前にギルドに入っていた身寄りのない子供、どこから来たのか、親はどうしているのかは話してくれなかったので僕にも分かりません……結局、聞けずじまいで終わってしまいました」
「……」
「あの子は、子供ながらに第一線で戦っていたすごい戦士でした。大人顔負けの強さを持っている文字通りの天才、本当にすごい子だったんです、神童ってああいう子を指すんだろうなって思っていました」
「……」
「リーダーとワカバと僕と……他二人のメンバーの五人で探索して、垂水ノ樹海を踏破して第二階層、海嶺ノ水林まで進みましたが……魚の魔物に不意を打たれ、リーダーと他二人のメンバーは殺されてしまいました。あの子の、目の前で」
「……」
「あんなことが起こる前から“もしものことがあったら全力でワカバを守ろう。命に代えても絶対に”ってみんなで決めていたこともあって、僕は重傷を負ったワカバを連れて迷宮から脱出しました。そうするしか、なかった……から」
「……その出来事が原因で、ワカバは」
コキがようやく口を開くと、コガネはそっと立ち上がって振り返ります。
ただし、目は合わせず、後悔を滲ませた複雑な顔をして。
「……大怪我から目を覚ましたワカバは当時の記憶の大半を失っていただけでなく、目の前で大切な人たちを失ったショックとストレスが原因で精神に大きな障害を残してしまった。心が壊れ精神が大きく退化した結果、赤子のような言動を繰り返すようになってしまったんです。自分の身に何が起こったのか理解できず、自分自身のことも忘れてしまっていて……とても、冒険者を続けることなんてできなかったから“キャンバス”はその日を境に事実上の解散を余儀なくされました」
「……」
「僕は考えて、考えて考えて考えて考えて……リーダーが夢みた景色を見たい、あの人の夢を代わりに叶えたい、それが遺された者の責任と使命だという結論に達し、一からギルドを作って世界樹に挑むことにしたんです。ワカバの入院費と治療費も稼がないといけませんでしたからね」
「……そのワカバは、どうしたんだ」
「みんなが命をかけて守った子をあんな危険な目に遭わせたくないし、そもそもあんな状態のワカバを迷宮に連れ出すなんて不可能でしたから、置いていくしかありませんでした。二度と樹海に近付けない方が良いとも思ったので、あの子のためにも」
「ワカバのため……?」
言葉を滲ませると、コガネの肩が震えます。後めたい事実を指摘された時のように。
「ワカバのためを想って樹海に近づけさせないようにしていたのなら、どうしてあの子は今も樹海にいるんだ、あの場所に囚われているんだ」
冷たく吐き捨て問い詰めます。ここが「リーダー」の墓前でなければ多少は暴力的な手段に出ていたのかもしれませんが、その衝動を理性で抑え付け、耐えます。
コガネは目を伏せ、
「……恐らく、ですけど、なんとなく、ワカバはリーダーのことを覚えているかもしれません。あの子はリーダーに懐いていたしリーダーも娘のように可愛がっていたから、本当の親子のようにお互いを愛し合っていたから……過去のことは忘れても記憶の奥底に眠っていた思い出に引っ張られて、リーダーとの思い出が多い樹海に惹かれているのかもしれません。でも、それが何なのかハッキリとは思い出せないから樹海を彷徨っているだけかもしれません」
「……止めなかったのか、命をかけて守ったあの子が樹海に入ることを」
「僕の言葉はあの子にはもう届きません。直接言葉にされたことはありませんが、あの子を置き去りにして樹海を踏破した僕のことを心のどこかで嫌悪しているんだと思うんです……だから」
「育児放棄したと」
「ぐはっ」
心のナイフはコガネの心にしっかり刺さり、彼はその場で崩れ落ちてしまいました。
コキはそんな男を心底軽蔑した目で見下し、更に冷たいトーンで追い打ちをかけます。
「中途半端で軟弱者な男だなお前は。ワカバのことを守ると誓っておきながら放置して……本気であの子のことを想っているならちゃんと会話をするべきだ、心を壊したからと言っても言葉が通じない生き物じゃないんだぞあの子は」
「ううう……反論もできません……」
「されてたまるか。お前が中途半端なせいであの子は人間社会でまともに生活できないぐらい情操教育が遅れているんだぞ。アーモロードに世界樹がなければ生きていけないぐらいだ。その責任の重さは理解しているのか」
「だ、大丈夫って本人が言ってたから大丈夫だとばかり」
慌てて顔を上げたコガネですが直後に視界に飛び込んできたのはコキの、鬼のような恐ろしい形相でした。
「大丈夫なわけあるか! 子供の“大丈夫”は本人の口だけじゃなくて大人が見て判断するものだろう! あの子は自分のこともまともに理解できていない節があるんだから注意深く観察しないと判断を誤って当然だろうが!!」
「ヒィィッ! ごめんなさいごめんなさいごめんなさい!」
悲鳴を上げて青冷め泣きそうな顔になるコガネのなんと情けないことか。見れば見るほど世界樹の迷宮を踏破した冒険者には見えなくなり、コキは額を抑えてため息を吐くのでした。
「もういい……あの木に隠れていたのは、リーダーとやらの墓参りに来たら私たちが先に来ていたせいで出てこれなかったからだろう。ワカバに会うのが気まずいから」
「はい……最近は顔を合わせも声をかけてもらえなくって……僕の責任だとはわかっているんですけど、あの子に何をすればいいのか分からなくてずっと途方にくれているんです……僕は、どうすればいいのか」
「お前は何もするな」
「へ?」
心底気の抜けた声を出したコガネは目を丸くさせてキョトンとするばかり。
腕を組み、自分より背の低い男を文字通り見下し、コキは続けます。
「ワカバのことは私が面倒を見るしある程度自立もさせる。というか一生面倒を見るつもりでいる、中途半端なお前と違ってな」
「い、一生!?」
「そうだ。既にその誓いは立てた」
薬指のない左手を見せるとコガネの表情は強張りました。
「お前はもうワカバに関わらなくていい、変に責任を感じて馬鹿な真似もするな。全て私に託せ、私があの子の責任を取る、全てな」
「……」
コガネ、口を大きく開けて唖然。完全に言葉を失い唖然としていました。
その様子にコキはあからさまに機嫌を悪くして、
「何だ」
短くそれだけ言えばまた彼の肩が震えますが、すぐに首を横に振ると立ち上がります。
「その……君は、どうしてワカバにそこまで入れ込むのかと、不思議に思ったんです。あの子はとても優しいけど、優しいだけでは人に好かれませんから、それも一生面倒を見るだなんてとても……」
「そうだろうな」
短く答え、少しだけ思案してから言葉を続けます。
「あんなに危なっかしくて世間知らずで優しいあの子を放っておけば、いつか必ず一生かけても治らない傷を再び負うことになるのは明白だ」
「た、確か、に……」
「それに、あの子がいないと私は生きていけない……同様に、私がいないとあの子は生きていけない。そういう関係だから“一生”という言葉が使えるんだ」
「…………そうですか」
「不満でもあるのか」
この後に及んで文句があるなら目の前の小綺麗な顔に少しぐらい傷を入れてもいいかと思ったコキでしたが、コガネから返ってきたのは否定の言葉ではなく、
「安心しました」
微笑んでの、肯定でした。
「君がワカバのことをこんなにも思ってくれる人だって分かったので。キャンバスが再建された上にワカバとずっと行動を共にしている人がいるって噂を聞いた時から不安でたまらなかったんです。大切な仲間、でしたから」
「……」
無言で返答するとコガネは深々と頭を下げます。
「コキさん、改めて……どうか、どうかワカバのことをよろしくお願いします。僕はもうあの子に触れられなくなってしまった。優しさという中途半端な慈悲のせいで拒絶されてしまった……あの子に何もすることができなくなってしまったから……みんなが守ったあの子のことを、託します」
かつてひとりの少女を守り、全ての責任を負うことができなかった青年の願いと想い。
彼は、既にこの世にはいない、かつての仲間たちの想いも背負っていることでしょう。自分たちのことはどうなってもいいから、あの少女を守りたい……その想いを実現し、この世を去った者たちが。
“彼ら”の想いを受けたコキは、表情を一切変えることなく、こう答えます。
「当たり前だ」
墓地でコガネと別れたコキはひとり、帰路についていました。
舗装され手入れもされているであろう寂しい道を音もなく踏み締め、アーモロードを目指していました。
「……ずっと一緒にいるって決めた。あの子が私を必要としなくなる時まで、あの子と……」
小さく独り言をぼやき、そんな日が来ないで欲しいと同時に願いました。
子はいつか自立し大人の手から離れることを誰よりも知っているからこその、願いを。
しばらく歩き、見慣れたアーモロードの街が見えたところで、
「あれ。ワカバ?」
街の入り口、道から外れた草地の上に座り込んでいるワカバを見つけました。
声を上げると同時にワカバも気付いたのか顔を上げ、
「コキ」
彼女の名を呼び、腰を上げるとすぐに歩いて来ました。
「どうしたの? 宿に帰ったんじゃなかったの?」
そう尋ねますがワカバからは否定も肯定も返ってきません。
「コガネとおはなししてたの?」
代わりに出てきたのは別の疑問でした。
「……気付いてたの」
「においしたから」
「なるほどねえ」
淡々と答えるワカバの嗅覚の鋭さにも慣れてきたので、小さく息を吐くだけに留まります。
「世間話とキャンバスとかワカバのことを少し、ね? 大した話はしてないわ」
「……」
ワカバの視線は下がっていき、俯いてしまいます。
気落ちする理由が分からずほんの少しだけ首を傾げたコキは続けて、
「彼のこと嫌い?」
そう尋ねてみるとワカバは首を振ります。
「きらいじゃ、ないよ」
想定外の返答に目を丸くしていると、ワカバは言葉を続けます。
「コガネはきらいじゃない、けど、いっしょにいるとざわざわする、へんなきもちになる、おちつかなくなる、コガネはやさしいけど、いやなことおもいだしそうで、こわくなる」
「……だから避けてたの?」
ワカバは頷きます。
「きらいじゃない、でもちょっといや、わからないけど」
顔を上げないままのワカバの言葉はそこで終わりました。
精神的なショックで失った記憶を取り戻すきっかけになると本能で悟っているのだと予想できますが、医者でもないコキにその判断はできません。
でも、不安なことに変わりのない少女を慰めることはできるので、
「うん……そう、そっか」
いつものように頭を優しく撫で、安心させてあげます。
「分からなくてもね、その気持ちはちゃんと彼に伝えておいた方が良いと思う。ワカバに嫌われた〜って落ち込んでたから」
「どうして?」
「ワカバがお話してくれなくなったから誤解してるのよ」
「ごかい?」
「間違えてるってこと」
「おー」
ワカバは顔を上げ、感心したような声を上げました。どこまで理解できているのかは定かではありません。
コキはワカバの頭から手を離すと、
「……まあいっか。さーてしばらく探索できないしどうしたものかしら……収入がないのも困るから街で短期アルバイトでもするか」
「コキ、おなかすいた」
「そうなの? じゃあご飯にしましょうか」
「うん」
二人で一緒に歩いて行く。
私はこの子と共に生きることを許された。
この子が私を必要としなくなる時まで共にいることを許された。
私は庇護欲を満たすため。
あの子は孤独にならないため。
どちらも自分勝手なワガママな欲望を満たすためで、褒められたものではないかもしれないけど。
あの子は分からないけど、私はもう、これしか残されていないから。
だからお願い、大人にならないで、誰のモノにもならないで、ずっと必要として。
私の欲のためにアナタを利用している事実に気付かないで。
私の可愛くて大切な、愛し子。