無為ガタリ、と音を立てる窓に自然と視線が向いた。指先が冷たいのは木枯らし痛さを思い出したからなのか、それとも、真っすぐにこちらを見つめる瞳に柄にもなく緊張をしているせいなのだろうか。
「命」
呼ばれる声に向き直さない理由もなく、大人しく隣に視線を戻すと、剛一郎は先とかわらない様子で俺の方をじっと見ていた。普段は白い手袋の下にしまわれている指先が、シーツの上でむき出しになり、俺に触れようとしているようだった。いや、食おうとしているといったほうがいいようにも思える。次、少しでも動いてしまえば、瞬きの間に俺の全てが彼の中へと飲み込まれていくのだという確信があった。
「……なぁ、命」
「どうした、剛一郎」
「本当に、いいんだな」
「あぁ」
この、何度目かになる確認に、いったい何の意味があるというのだろうか。捕食される側に、捕食する側が配慮をするなど、この世界ではそうそうないことだ。知恵の実を与えられてしまった動物はそれを、配慮だとか、保身だとか、愛だとか言うのだろうけれど。
無抵抗になった指先に、焼けるほどの熱が絡みつく。びくりと肩を震わせると、連動するように浸食していた指の動きが止まった。どういうことかと彼の瞳を覗くと、幼い瞳が僅かに揺れ動く。
「冷たい、な」
「そうか? お前の体温が高いんだろう」
そう口にすれば、体温を確かめているのか、剛一郎の指先がふたたび動き出す。人指し指と中指の間、中指と薬指の間、それから薬指と小指の間と、皮膚がぴったりとくっついてお互いの熱が行き来していく。大人らしさを帯び始めている手指にぐっと力が入ったのが分かる。それを俺はただ享受した。
「……命」
「もう聞くな。剛一郎」
「……」
世の男女がするように、自分のことを抱きたいのだと言われたとき、俺はすぐに頷いた。断る理由がなかったからだ。剛一郎とは長い付き合いになるし、一緒にいるのは不快ではなかった。それに、彼から向けられる好意についても、僅かではあるが気が付いていた。同胞というには無遠慮な、親友と呼ぶにはほのかに甘いその眼差しが、俺は嫌ではないと感じ、彼の望みを受け入れたのだ。
「するんだろう?」
こういうとき、どうするのが正解なのか分からない。命を受ければそのとおりにできるのに彼がするのは確認ばかりで、俺は指先一つ動かすことさえできないままだ。
触れた肌の境目が同じ体温になって、脈打つ鼓動がどちらの音なのかも次第に分からなくなっていく。ひとつになる、というのは確かに、種を保存し未来永劫に安寧をもたらすために本能に組み込まれたシステムなのだろうなと思った。でなければ、どうしてこんなにも泣きそうなくらいの安心が、俺の腹の中に満ち満ちていくのかに説明のつけようがないのだから。
「触れてもいいだろうか」
剛一郎がまた俺に聞く。もう互いの片手は繋がって既にふれあっているのに。けれど俺は返事をせずに、目を閉じた。ぎし、と小さく軋むベッドの音とともに近くなる彼の存在。熱を帯びた息が、喉の鳴る音。どちらかが少しでも動けば、いつか見せられた映画のワンシーンのように、唇がゆっくりと重なっていくのだろう。しかし、永遠にも感じる静寂の中、その熱はそれ以上近づく様子が無い。不思議に思い、ゆっくりと目を開けば、まんまるの瞳孔が静かに波打っていた。ぱちぱちと数度瞬きをしたかと思うと、ひとつ零れた水滴が剛一郎の頬を伝う。
「どうした?」
「あぁ、いや」
「泣くほどのことか?」
「正直、自分でもよく分かっていない。ただ」
「ただ?」
「本当にこれでいいのだろうか、と」
剛一郎は涙をぬぐうことも。俺から離れることもせずに、ただそう呟いた。好きだから手をつなぎたい、キスをしたい、セックスをしたいなんて、疑問を持つことではないだろうに。性的な行為にも関心が高まっていてもおかしくない年代の男が、何を心配しているのだろうか。
「……剛一郎、すまないが手を離してくれ」
言えば、繋がれたままだった手はあっけなく離れ、やはり自分たちは交わることのない個体同士なのだなと思う。あれは、そうあれれば如何に幸福だろうかと思考する脳の見せた錯覚なのだろう。ただ、俺はそれが無性に嬉しくも感じるのだ。
無言のまま目を伏せる彼の背に、解放された手を回しぐっと引き寄せた。剛一郎の体はこちらへといとも簡単に倒れこみ、彼の顔はそのまま俺の肩へと埋められる。
「剛一郎。何か迷いや遠慮がるなら、言ったほうがいい」
「……」
「もちろん言われなくても、俺はもうお前の希望を聞き入れた」
「……」
「出来ないことや同意しかねることは、俺はしっかり断る。それも分ってるだろう?」
「それは……」
そうなのだが、と剛一郎が言ったような気がする。
さっきよりも近いところにいるはずなのに、触れている場所も多いはずなのに、彼の全てが分からない。遠くにいるような感覚。それが泥のようにこみあげて、心臓を冷たく埋めていく。それに俺の全てが飲み込まれてしわまぬように、彼がここにまだいるのだと確かめるために、何度も何度も小さな背中をさすってやる。過去、自分も誰かにこうされた記憶があるし、そうでなくとも今はきっと結弦やいろはがそうしてくれる。けれど、今ここにいるのは俺と剛一郎の二人だけで、妙に大人びている青年に、根拠などなくとも大丈夫だと伝えられるのは、きっと自分だけなのだ。
「落ち着いたか?」
「あぁ、もう平気だ」
「そうか」
そういっても、まだ自分から離れようとしない剛一郎の背を静かに抱きしめる。いつのまにか、またお互いの体温が行き来していたようで、じわりとした温かさに包まれていく。
「……少し、恐ろしいんだ」
ぽつりと、剛一郎の低い声が落とされる。それから、俺がしたように、彼の両手が俺の背に回される。しかし、指先に込められた力が、俺とは異なる理由をもってそうしているのだとうことを物語っていた。
「あの時は、偶然にも選ばれたというだけだった。だから拒絶をした」
何をといわずとも、鮮明に思い出せる事柄が、顔がある。彼が、彼になっていく誰かが自分たちのすぐ側にいるということも。
「いや……最終的には、考えることすらも」
また涙を零したのかとも思ったが、言葉を詰まらせているのではなく、その先に続く言葉を紡ごうとしているのだろうと思った。
「剛一郎……それでも、お前も俺もここに帰ることを選んだんだ」
「その通りだな」
「それは間違いではないし、今こうしていることも同じことじゃないのか?」
俺の問いに、剛一郎が顔を上げる。予想通り泣いてなどはいなかったが、分からないと言いたげな両目が俺をじっと見つめていた。
「触れたいと思ったんだ。命に」
「そうだな」
「命はそれを受け入れた」
「あぁ、そうだ」
「それは、その……だな」
「何だ?」
「まず先に、嬉しいという気持ちが。それから少し遅れて、俺がしたいと思っていることは、本当に必要なことなのだろうか、と」
剛一郎の唇が、きゅっと結ばれる。それと共に、何かを深く考えるときによる眉間の皺が濃くなった。気づいたら俺はそこに手を伸ばしていた。彼の表情は思惑のものから、困惑へと変わっていく。そのまま、指先を目元、頬へと滑らせていく。滑らかな肌をなぞって、目の前にいる愛しい男の輪郭を確かめていく。それは最後には、硬く閉じられた唇の上へと。
「キスをすることも、その先も、絶対的に必要なことじゃないだろう」
「……」
「お前が、そういった行為の先に何を思い出すのかも、それとも、ただ義務感にからて希望を述べたのかは知らないが」
唇からぱっと手を離し、そのまま、トンと彼の左胸のあたりを軽く押す。剛一郎は呆けた顔つきで俺の指先を追っていた。かとおもえば、その手を上から握りみ、自身の胸へと強く押し付けた。俺の手のひらは彼の胸元におかれ、そこから逃がさないと言いたげ剛一郎の体温が伝わってくる。
「何をしても、しなくてもいい。俺がお前に命を出してまですることではないとも思っているよ」
ゆっくりと脈打つ鼓動の音を感じながら、剛一郎へと告げる。
きっとこれは、遠い未来のために選ばれてしまった俺たちだから思いを巡らせてしまうのだろう。そして、消えることのない葛藤が呪いのように付きまとってしまうのかもしれない。
「……それでも、どうしようもなく」
彼の手の甲に、額を寄せる。薄い皮膚の下にある骨が、肌と肌の擦れあう感覚が、耳に届く衣擦れの音が、俺たちが別の生き物であることを突きつける。それでいて奇跡的にも、人生という長い時間の中で、こと瞬間に交差し、深く絡み合おうと藻掻いているということも。
「お前とひとつになれたらなんて」
皮肉にも神にこうべを垂れるような姿で祈るようにつぶやいてしまったその口を、こいつが無遠慮に塞いでくれたらいいのにと思う。
そうすれば、大人の振りをして隠している醜い欲も、いつか抱いたあの畏れも、二人の熱で混ざり溶けていく。
そうして最後に残る純然たる愛を優しく抱きしめていたい。
青に染まった朝が来るまで、ずっと二人で。