『はじめての自転車』「いいもん持ってんね」
「?」
ペダルを踏み込もうとした右足が止まる。赤ら顔の男はキョロキョロ四方を見渡して、誰の姿も見えないことに首を傾げた。校門前は休日らしくガランとしていて、朝の早さに鳥たちの気配もまばらである。
どこから聞こえたかも分からないのに、確かに自分へ向けられた言葉のように感じた。赤ら顔は魔法士見習いである。多少不思議なことには慣れきっていた。
「ハァイ」
「ッ、……なんだ。フロイドくんか」
「調子どう? モブシちゃん」
ポン。
肩に大きな手が置かれた。左斜め後ろからニヤニヤ顔がのぞき込む。身長と悪名がやたらと高い同級生だった。さっきまで何もなかった場所から突然現れても「ああこいつか」と納得してしまう、ほの暗い男である。
入学して三週間。モブシと同寮に配属されたフロイド・リーチは、既に悪い意味でとても目立っていた。
「それ自転車でしょ。いいなあ。かっこいいなあ」
馴れ馴れしく肩を組むと、フロイドは上から下までジロジロ車体を見定める。休日の足として、麓のリサイクルショップで見繕ったママチャリだった。ところどころ塗装は剝がれていて、かなりの年季が入っている。
「別に、ただの中古だけど」
「いい感じにシブいじゃん。自転車って意外とデカいんだね。こんな近くで見るの初めて」
「あ、地元珊瑚の海だっけ」
「そうそう。これ、走るより全然速いんでしょ」
「まあ、スピードは出るよ」
フロイドの笑みが深くなった。人好きのする甘い顔立ちに、ニコーッと大輪が咲く。
「オレ、急ぎで行かなきゃいけないとこあんだよね」
「そっか。頑張ってな」
「あは」
猫なで声をきっかけに、一気に暗雲が垂れ込めた。
踏み込み損ねたペダルがカラカラ回る。脱出を試みるも、モブシの体はとっくに車体ごと浮かされた後だった。
「街行くんだろ? ついでにオレも乗っけてってよ」
「無理」
「は?」
「ニケツ禁止だから」
「映画だとバリバリ乗ってんじゃん」
「あれはフィクション。見つかると普通に捕まる」
「……マジか〜」
冷たいヘテロクロミアと同じ高さまで持ちあげられながら、モブシは頑として断る。
「あと、荷物として重すぎ」
心ない追撃に舌打ちが鳴った。ブスくれたフロイドが自転車を地面に降ろす。持ち主の許可を待たずして、後方の荷台へ腰掛けた。
「じゃ貸して」
「はい?」
「急いでんの。何度も言わせんなよ、アズール待たせるとうるせえんだからさぁ」
モブシは背後へ首を回し、スマートフォンを操作しながら脅してくる大男を見やる。
あまりのワガママさに彼女かと思った。
念のためもう一度振り返る。相変わらず、座っているのは二メートル近い悪漢だった。初めてフロイドの横暴を突きつけられて、モブシの頭がクラクラする。
「彼女ならアリ……いや、ギリ許せないかも……」
「なんの話? さっさと降りろや」
「あ、ちょ、ちょっと! 貸したところで、練習しないと乗れないだろ!」
「乗れっし」
「絶対無理……おえ、…っ、わかった! ギブ! 貸してやるからやめ、」
「いーの? サンキュー」
フロイドが運転手の両肩からパッと手を離す。打ち上げられた魚みたいに全身をバウンドさせていたモブシは、前カゴに力なく倒れ込んだ。
「どうせ貸すなら、最初から渡しときゃいいのに。てかサドル低っ」
「……て」
「あ?」
「レンタル代、置いてって」
「うわオクタヴィネルっぽい」
ケラケラ笑いながら、フロイドがポケットを漁る。
「これしかねえや」
しばらくゴソゴソしたのち、モブシの後頭部に薄いものがペタリと貼り付けられた。
「なに、シール?」
「うん。サモエド」
「さもえど……」
「白くてフワフワの犬。モブシちゃん、人間なのに知らないの?……あ」
そよ風に吹かれて、サモエドがヘラリと飛んでいく。粘着力の弱まっていたシールは、あっさりどこかへ消えた。
「同じ紙ならマドルにしてよ」
「財布持ってない」
「……なら体で払って。キスしてくれたら貸す」
カゴに頭を突っ込んだまま、モブシが弱々しく無茶振りする。フロイドに変態と思われてもいいから、さっさとこの場から立ち去ってほしかった。「キモ」「ダル」「意味わかんない」──。反抗期の娘が発するようなあらゆる罵倒を想定し、だらしない姿勢で身構える。肉を切って骨を断つ覚悟だった。
「いいけど、そのカッコじゃできないよ」
「オエ……?」
「こっち向いて」
脇の下に手を差し込まれる。脱力した体が難なく持ち上がり、地面へ降り立った。
「ん」
「イヤイヤイヤ! うぷ」
「オラ、お望みの対価だっつーの」
小憎たらしい顔が近づく。
フロイドに揺さぶられた後遺症と闘いながら、モブシは精一杯の抵抗でそっぽを向いた。込み上げる嘔吐感に、ギュッと目をつぶる。
「馬鹿野郎、冗談に決まってるだろ、……?」
衝撃はいつまでたっても訪れなかった。代わりに一陣の風がモブシの頰を撫でる。街へ繫がる道の向こう、はるか先に爆走する立ち漕ぎ自転車があった。
「本屋に置いとく!」
振り返ったフロイドが、ニヤリと笑ってキスを投げる。自転車との距離はグングン開き、広い背中は豆粒ほどに小さくなっていた。
「……後から取りに来いと?」
死んだ魚の目で疾走を見届け、モブシがムッスリ呟く。ティーンのわりに重たい溜め息が出た。歩く災害のような男に絡まれて、早朝だというのに疲労が凄まじい。こうなってしまえば、モブシにできるのは相棒の無事を祈ることだけだった。
ずり落ちたボディーバッグをかけ直し、フロイドが消えた方角へ足を動かす。
「てか、マジで普通に乗ってたな。絶対初めてじゃないだろ」
「……あなた、自転車なんて持っていましたっけ」
「いや? 親切な小魚に借りた」
「おやおや。お優しい方もいたものですね」
待ち合わせ時刻から三分。許容内の遅刻に留めたフロイドが、店の脇へ停車する。
「焦った〜、起きたらジェイドいねえんだもん。慌てたせいで財布忘れるし」
「ぐっすりでしたね。僕は何度も声をかけましたのに」
「飽きずに最後まで手伝ってくれたら、ランチぐらいはご馳走しますよ。……さて。店も開きましたし、お目当ての本たちを探しましょう。ふたりとも、リストは手元にありますね?」
「はい」
「はぁい……。あ、そうだ」
ちゅ、ちゅ、と軽やかなリップ音がフロイドから鳴った。それぞれの片頰にキスが贈られて、同郷の人魚たちはキョトンと顔を見合わせる。表情には〝無〟が張り付いていた。
「遅れてごめーんね♡」
「なんだ急に。気持ち悪い」
「あっ、拭くなよ。対価に欲しがるやつもいるんだから。オレのチューは高くつくんだよ」
「奇特な価値観を押しつけないでください。少なくとも僕にとって、味のなくなったガムのほうがまだありがたいでね」
「アズールのおっしゃる通り、あれはあれで中々嚙みごたえがあります」
「ひどーい」
恨み言とは裏腹に、フロイドがゲラゲラ笑う。ひとしきり愉快な気持ちからさめると、連れたちは既に書店へ入ったあとだった。
重厚な木扉を開け、陸独特の匂いが漂う空間に足を踏み入れる。くぅ、と空きっ腹が静謐な場に響いた。アズールが呆れた視線をチラリと寄越し、すぐさま作業に戻る。育ち盛りの頭の中は、奢ってもらう予定の昼食でいっぱいなのであった。
はじめての自転車(大噓)
人魚意味わかんないとこでカマトトぶりそう。
この話に限って、フロイドくんと接するモブはモブであるほど好きです。ただの点Aであってほしい。フロイドくんの今後の人生に何の影響も与えないモブ、性癖です。
お読みいただきありがとうございました。