「なんだ、おいぼれ、貴様まで出張ってきたのか」
聞き覚えのある声にマトリフが目線を向けると、そこには元魔王が佇んでいた。
ハドラーはマトリフがただ一人座る卓にドカッと酒瓶を置き、制止する間もなく腰を下ろした。マトリフの、ちょうど空になった手元のグラスに酒瓶を傾ける。なんだ気味が悪いじゃねえか、と混ぜっ返すも、元魔王はふたたび不機嫌そうに問うだけだった。引退した初代大魔道士までひっぱり出すほどパプニカは危機的な状況だったのか、と。
「いいや、今日はタダ酒を呑みに、な」
マトリフは事が無事に終わったあと、せっかくだから師匠も一緒に、と弟子に呼ばれたのだった。それを聞いて心なしかハドラーから緊張感が解けたようだった。
ここはパプニカの目抜き通り、飲食店の集まる一角の路上だ。
アバンとハドラーたちが街を散策するうち、すっかり雪も止み、ほどなく元の南国のあたたかさを取り戻しつつあった。本来のパプニカは、日が傾いても野外でゆったり過ごせるほどの気候である。
さいわい雪による被害は大きくはなかった。凍った路面で転倒した怪我人が少々という程度で、都市機構も致命的な損害は避けられた。
一件落着となった今、今回の騒動で陣頭に立ったレオナからの慰労ということで、このあたり一帯の飲食店の一夜の稼ぎ分の食事が買い上げられて振舞われることになったのだった。
地域住民たちはこぞって野外にテーブルや子を並べ、どんどん運ばれてくる料理を、隣人との会話を、平穏を愉しんでいる。住民の家庭からも食料が持ち込まれ、さながら祭りのようであった。
羊や山羊のチーズ、樽いっぱいの葡萄酒、籠に盛られたフルーツ、レモンの酸味とオイルが効いた羊の肉の串焼き、中身をくり抜いたトマトに肉や米、ハーブなどの詰め物を入れて焼いた家庭料理など、目移りする品揃えだ。
マトリフは、自身を呼んだ弟子としばらく語らった後は、その喧騒の中で程よく人々と距離を取って飲んでいた。ハドラーはそれをめざとく見つけ出してわざわざやってきたのだった。
元は敵同士、行き違ったとしてもわざわざ挨拶をするような仲でもない。それが一体なんのつもりなのか、と思ったがマトリフにはすでに十中八、九は目星がついていた。
ハドラーはすっかりマトリフに興味がなくなったかのように、視線を動かした。つられてマトリフも同じようにハドラーの目線の先を眺める。
アバンが人々にとり囲まれている。
その一角は、元勇者の持つ魂の力が顕現したかのように、ひときわ明るくきらめきを放っているようにみえた。
アバンは世界の希望を託された勇者であり、類稀なる導き手としても力を発揮し、その弟子たちは世界を救った。
ハドラーがまさしく眩しいものでも観るように目を細めて眺めている。
ダイ、ポップだけでなく、ヒュンケルやマァムたちも再び合流している。数日前にも集まったばかりだと聞くのに、師との交流は格別のものらしい。
彼らの顔に浮かんだ笑みがそれを物語っている。
「平和ってのは良いもんだな」
別に返事を期待したわけではなかったが、マトリフの口からふとそんな言葉が溢れた。
マトリフは、常々アバンが心から平和な時代を生きている、楽しんでいる様子を見ては密かに安堵していた。
魔王を倒したのち、故郷を去り放浪を続けた友人を、そうせざるを得ない本人の性質や意思、大義を理解した上で、心底もっと好きに生きれば良いだろうにと思っていたからだ。
アバンは事あるごとに、自身のことよりも世界の未来を考え、未来を担う子どもたちを何よりも大事にしていた。が、マトリフにとっては、アバンもその子どもたちのひとりのようなものだ。
ハドラーを横目で見る。
忌々しいことだが、今のアバンの幸福にはこの元魔王の存在が必要不可欠なのだった。
「大魔道士よ、折り入って頼みがある」
前触れなく、ハドラーが身体ごと真っ直ぐにマトリフに向き直った。神妙な態度でマトリフを一瞬見つめたかと思ったら、なんと頭を下げた。
「いいぜ」
あっさりした返答に、元魔王はパッと顔を上げた。
「おい、まだ何も言っておらんわ」
「オレは天才だから、言わずともわかるんだよ。凍れる時間の呪法だろう?」
ハドラーが呻いた。
勇者と魔王が氷漬けになった時、勇者の魔法使いは解呪の法を必死に追い求めた。この呪法に関して地上で最も精通しているのは自分だ、という自負がマトリフにはあった。
元魔王は自身の不調について語った。不調と予測し得なかった事態との関係と今後も起こりうる可能性について。対症療法でそのまま抑え込める可能性もあるが、悪化する可能性がないとは言い難い。できるならば根本的に不調を解消する方法を探りたい。
アバンと二人で解決するべきだが、こういう場合、アバンはひとりで根を詰めることになりかねず、誰かに助力を頼むべきだと思った。アバンから聞いたが、アバン以外でこの呪法について見識が深いのは貴様だと。だから、頼む、と。
マトリフは魔王の紡ぐ言葉を聞きながら、顎をなでる。
自分ひとりのことしか考えられないような脳筋魔王が、アバンのためにオレに頭を下げるとはねえ。なんとも奇妙で、なんとも感慨深かった。
どのみち請け負うつもりだったが、改めて諾と口を開こうとしたその時、
「楽しそうですね、私もお邪魔しても?」
いつ間にやらアバンが二人の背後から現れたのだった。アバンは南国の料理がたっぷり載った大皿を、卓に置く。
「いやあ、パプニカの料理は美味ですね。厨房にお邪魔してレシピをたくさん教えて頂きましたよ」
マトリフはアバンに向き直った。
「うまそうじゃねえか。ああ、そうだ、おめえさんに頼まれた件、喜んで引き受けるぜ」
「良かった……助かります。でも、まさかハドラー、あなたもマトリフを頼るとは……嬉しいです」
アバンがハドラーに向かって片目を瞑ってみせた。
「なんだと、アバン、お前もか? いつの間に?」
「温泉に入っているときに、ね」ハドラーの不調を知るや否や、自身の力だけでは手に負えぬと判断したアバンは事の経緯を書き留めた文をポップに言付けて、マトリフに助力を願っていたのだった。
「もっと頼っていいんだせ。……ああ、引き受けるとは言ったが、根本的な解決法を探るとなると、一朝一夕でどうにかなるもんじゃねえ。しばらくは何か仮の方法で凌ぐ必要があるぞ。アバン、何か考えてるんだろうな」
「ええ、これです」
アバンは懐から、雫型をした宝玉を取り出した。長いチェーンに結び付けられている。
「これは……アバンのしるし、か?」と元魔王。
「この石は、魔力を蓄積することができるんです。この中にメラゾーマの力を込めました。その熱があなたを常に暖めることでしょう」
「アバン……」
ハドラーは輝聖石ごとアバンの手に自身のを重ね、しっかりと握りしめた。魔力の光の揺らぎがマトリフにも見える。ハドラーは心身ともに暖まっているはずだ。
「あーあ、見てらんねえ」
初代大魔道士は明後日の方向にひとりごちる。
「それでしばらくは安心だな。まあ、あとはオレに任せておけ。なんとかしてやらあ」
マトリフは、じゃあまたな、と席を立った。
小柄な魔法使いの背を二人で見送りながら、ハドラーとアバンは、その頼りになる言葉で立ち込めた暗雲にひとすじ光が差し込んだような心持ちになった。
もちろん、マトリフだけに任せきりにはできない。すぐに解決するとも思わない。他にも打てる手立てがないか、彼ら自身も調査を始めるつもりだ。それでも今は重荷を共に背負ってくれる仲間の存在に確かに助けられていた。
「ハドラー」
アバンはハドラーの後ろに周り、首に輝聖石のペンダントをかけた。
「これでよし、と。どうです?」
「気に入った。火傷しそうに熱いくらいだが、オレにはちょうど良い。気力が湧いてくるわ」
「それは良かった……私たちも、そろそろお暇しませんか」
夕闇に寄り添った二人の影が長く伸びていた。