■宇佐美視点で尾形不在の尾鶴
■宇→鶴の感情は敬愛
■宇→尾の感情は普通にギスギス
■特に何と言う事が起きるでもない、コメントし辛い短い話
入りなさい、と優しく響く許可の声を待ってから静かに扉を開けると、窓を背に座る篤四郎さんがにっこりと僕を迎え入れてくれた。
「失礼しまあす!」
「どうした?宇佐美二等卒」
いつ見ても麗しい篤四郎さんの温かい微笑みとは反対に、部屋の中へと足を進めた僕の肌を撫でる空気は酷く冷たい。
殆ど外気と変わらないぐらいの不自然に新鮮なその空気を受けて、僕はこの部屋でつい今し方まで何が起きていたのかを薄く察してしまう。
美しいこの人の元には軍の内外を問わず汚い下心を抱えた来訪者が多く、篤四郎さんのほうもまた、応える事が利になるならばそう言った人間の相手をあまり拒まないところがあった。
けれどそれは僕が口を出す領分の事ではないので、そこには気付かないない振りをしながら持ってきた封筒を篤四郎さんへ差し出す。
「先ほど配達人から、鶴見少尉殿宛にこちらが届いたんですが…」
「ああ…やっと届いたか。ありがとう」
篤四郎さんの表情から、それが重要で内密な手紙だと言う事が何となくわかった。
「悪いがすぐに返事を書くので、少し待っていてくれないか?」
「もちろんです!」
元からその申し出をするつもりだった僕は、篤四郎さんの言葉へ喜んで頷く。
重要で内密な書類を読む場に留まっていても構わないし、返事の配達も任せてくれると言う事は、やっぱり僕は篤四郎さんの一番なのだ。
あの日からずっと変わらない事ではあっても、実感出来れば当たり前に嬉しい。
そうやってにこにこと机のそばから数歩下がってみた僕は、ペンを持った篤四郎さんのそばに一つの包みが置かれている事へ気が付く。
「あれっ、お団子ですか?月島軍曹殿に叱られちゃいますよ」
篤四郎さんの目の前にちょこんと置かれている包み紙。それはこの辺りでは割と評判の良い団子屋のもので、篤四郎さんに頼まれた軍曹殿が何度かお使いしていたのを見た記憶もある。
でもあの人はこんな中途半端な時間に団子なんて持ってこないし、ここを訪ねたのがあの人だったならわざわざ部屋の空気を入れ換える必要などもない事を、僕は良く知っていた。
下らない詮索などではなく、あくまで普通の会話として机の包みへ水を向けると、篤四郎さんは小さく「うん」と頷いた。
「さっき百之助がくれたのだ。…月島には秘密だぞ、時重くん」
きちんと扉が閉まっている事を確認した篤四郎さんが片目を閉じてそう茶化すので、僕もわざと故郷の言葉で返事をする。
「もちろんですて」
篤四郎さんはこうやっていつも、さり気なく僕を共犯者にしてくれる。それだけこの人が僕と言う人間を信じてくれている事の喜びに明るく笑って頷きながら、僕はその傍らに頭の中で『百之助』と呼ばれた人間について思いを巡らす。
上官や外部の出資者であれば単身でこんな時間に篤四郎さんの執務室へは来ないだろうし、来たとしても近所の団子屋の包みなんてものは持ってこない。
そうなると僕の先客は、こんな安っぽくて見え透いた手土産がなければここへ入る口実も得られない者、つまり下士官や兵士の可能性が高い。
なら篤四郎さんが言った『百之助』とは、今年志願兵として入隊してきた尾形百之助の事だろうか。
別に師団全員の名前を覚えている訳じゃないけれど、このところの篤四郎さんの周囲を思い返せば多分あいつの事だろうなと目星がついた。
重く澱んだ目付きから受ける印象そのままの、見るからに鬱屈していそうな暗くて面白味のない男。志願兵としてやってきた割にはやる気も可愛げも深刻そうな事情も見当たらなくて、そのくせ自分の立場も弁えずに何くれと篤四郎さんのそばをうろちょろしている事が多かった。
僕はてっきり、あんなどこにでもいる新兵なんて相手にされる訳がないと思っていたのだが、もし先の訪問者が尾形であるならば篤四郎さんは意外にもあいつの事を気に掛けてやっていたみたいだ。念の為、本人にもきちんと確認してみる。
「…百之助って、新兵の尾形百之助ですか?」
「?、…ああ、そうだ。良くわかったな」
「可愛い後輩ですからね!」
もちろん尾形の事なんて欠片も可愛く思ってないしどうでも良い。だけどそう答えたほうが篤四郎さんの受けが良い気がしたので笑ってみたら、予想通り優しく微笑んで貰えた。
「うん、宇佐美は良い先輩だなあ」
「ありがとうございます!」
僕を良い子だと誉める篤四郎さんはきっと、最近お気に入りの猫ちゃんを僕に処分されてしまったら困るなあと心配しているのだろう。
大丈夫ですよ。僕が我慢出来ないのは篤四郎さんが僕以外の人間にも構ってやる事じゃなくて、篤四郎さんの一番が僕ではなくなる事なんですから。まあ、僕が篤四郎さんの一番じゃなくなる時なんて未来永劫来る訳ないのだけれど。
心の中で強く頷きつつ、僕は篤四郎さんからの評価にえへへと笑う。
対する篤四郎さんは紙にペンを走らせながら小さく呟いた。
「そうか…宇佐美は百之助の名前を知っているのか…」
恐らくただの独り言だし、篤四郎さんは今手紙の返事を書いている途中なのだからあまり話しかけて邪魔をしてはいけない。
そう頭では思うものの、正直そこはちょっと聞き流せないのでつい口を挟んでしまう。
「鶴見少尉殿は尾形の事を名前で呼ばれるんですね」
「ん…まあ、他の兵の前ではあまり言わんようにしているがな」
僕の言葉を受けた篤四郎さんが手を止めて、こちらを見ながら穏やかに尋ねる。
「宇佐美も尾形の事を知っているならば、あれについての噂を一つ二つは耳にした事があるんじゃないか?」
「はい、聞いた事があります」
確かに、あいつについて他の連中がひそひそと聞こえよがしに話しているのを聞いた記憶はあった。
曰く、尾形百之助は花沢中将殿の隠し子だとか何とか。そして母親は田舎の芸者だとか何とか。
娯楽に乏しい軍隊の中では良くない噂は真偽を問わずにすぐ広まる。僕にとっては心底どうでもいい話なので大して気にせず聞き流していたが、わざわざ篤四郎さんがその話を口にすると言う事は、あの噂のおおよその部分は真実なのだろう。
思い返して頷いた僕へ、篤四郎さんが「やっぱりなあ」と少し困ったように溜め息を吐く。憂いを帯びたその顔もとても美しかった。
陰の落ちた篤四郎さんの顔へ見とれる僕をよそに、篤四郎さんは不意に机へ頬杖をついて部屋の隅へと視線を流す。
「…そう言う噂が出回るほど、あれの生まれは少々複雑だ。恐らく本人にも自らの出自について思うところはあるだろう。それならば、上官である私ぐらいは一人の人間としてお前の事を見ているのだと…示してやるのも良いかと思ってな」
なるほど!つまり月島軍曹殿へしてあげたのと同じような事と言う訳ですね。
篤四郎さんの説明を聞き、僕は内心でまた大きく頷いて納得した。
尾形の父親が花沢閣下と言う噂が真実であるのなら、篤四郎さんが尾形に目を掛けてやる事も下の名前で呼んでやる事も、それを真に受けた尾形が良い気になって篤四郎さんの周りをうろちょろとしているのも、どれもみんな説明がつく。
聡明な篤四郎さんは目の前の尾形百之助ではなく、その後ろにある花沢閣下や更にもっと奥の事を見据えて動いているのだ。
そのからくりを教えられ、僕はあの陰気な男が篤四郎さんに纏わりつくのも許してやろうと言う気持ちになる。
あいつが長い目で見て使える駒なら今のうちに可愛がって手懐けておくのはきっと正解だし、僕としても賛成だ。
「ふふっ、鶴見少尉殿はお優しいんですね」
色々な事が腑に落ちて、僕だけに手の内を明かしてくれた篤四郎さんへ『わかりましたよ』の気持ちを込めてにっこりと笑う。
すると篤四郎さんは一瞬不思議そうな顔でこちらを見て、次に何かを言おうとしてやめる様子を見せてから、止めていたペンをまた紙の上に走らせる。
なので僕はそんな篤四郎さんの姿をうっとりと眺める事にしたのだが、残念ながら手紙の返信はそう長くなるものでもなかったらしい。
篤四郎さんはすぐに返事を書き終えてしまうと、長くて綺麗な指先で封筒を綴じて僕の事を手招きした。
「待たせたな。これを出してきてくれ」
もっと二人だけの時間を過ごしたかったが、手紙が書き上がってしまったのなら仕方がない。呼び声に元気良く返事をして机へと近付く。
「わかりました!……あ、」
差し出された封筒を僕が受け取るほんの一瞬、篤四郎さんの身体の動きでかすかに浮いた肋骨服の襟元から『何か』の紅い噛み痕が覗き見えて、思わず声を零してしまった。
「どうした?宇佐美」
僕の声を拾った篤四郎さんが首を傾げる。自分が噛まれた事に気付いてないのか、それとも忘れてしまうぐらい日常的な事なのか。
何だとしても、それが篤四郎さんの意識にない事ならば僕が口に出して知らせる必要はない。
「いいえ?何でもありません」
「そうか…?」
「鶴見少尉殿からお預かりしました大切なお手紙は、僕が責任を持って出してきますね」
ちょっと強引な気もするけれど笑ってごまかして、僕は封筒を懐へしまいながら篤四郎さんへ一礼する。
そうして部屋を出ていく間際、篤四郎さんが僕に言った。
「ああ、よろしく頼む。…それと宇佐美」
「何でしょうか?」
「……尾形とはなるべく仲良くしてやってくれ」
その言い方がまるで子供を心配する父親のような声色だったものだから、僕は危うく吹き出してしまいそうになる。
どうやら可哀想な生い立ちの野良猫を変に構ってやるうちに、うっかり情が芽生えてしまったみたいだ。
篤四郎さんは多分、本当に僕へ尾形と仲良くして欲しいと考えている。大人しく可愛がられているだけで満足していればいいものを、これ見よがしに噛み痕なんて付けるような人間が、篤四郎さんへそんな事を求めている訳がないのに。
あんまり面白いお願いをされてしまったので、僕は笑ったまま言葉を続ける。
「だったら僕も、あいつの事を百之助って呼んであげますかね」
「ああ、それは良い。あれは射撃の腕は優秀だが人付き合いは不得手のようだし、宇佐美がそうやって気に掛けてくれるなら喜ぶだろう」
「だと良いんですが」
まあそんな訳ないでしょうね。
思ったけれど声には出さず、僕はお行儀良い返事と笑顔で篤四郎さんの執務室を後にした。