撫でられた頬がまだ熱いアッシュが小さな寝息をたてている。
ほんのり開いた唇から、規則正しい呼吸がこぼれていた。
陽だまりに溶けたミルクティー色の髪が、その額にふわりとかかり、やわらかく揺れている。
彼の腕の中には、もふもふとした真っ白なうさぎ。
どちらも、木漏れ日の差す小さな部屋の片隅で、丸くなって眠っていた。
ノーランドは、通り過ぎるはずだった。
だが、背を向けかけたその瞬間——
「⋯⋯くしゅん」
軽い音が耳に届く。
まだ年若い少年のくしゃみは小さく、まるで甘えた動物の鳴き声のようだった。
ノーランドは足を止め、振り返る。
部屋の奥、陽の当たる板の床の上で、アッシュがうさぎを抱きしめたまま、寝言のように「うぅん⋯⋯」と声をもらしている。
鼻先には、ふわふわとしたうさぎの毛が舞っていた。
(⋯⋯毛が鼻に入ったのか? それとも寒いのか?)
ノーランドは軽く息を吸い込む。
「くしゅん」
今度は自分のくしゃみだった。
くすぐったさが残る鼻先を軽く拭って、彼は静かにアッシュのもとへ歩を進めた。
床に突っ伏すように眠るアッシュ。
まだ幼さを残すその腕で、うさぎを大切そうに抱えている。
うさぎもまた、安心しきった様子で、アッシュの胸元で丸まっていた。
なんと穏やかで、静かな光景だろう。
ノーランドの口元が、仮面の下でふっとゆるんだ。
「⋯⋯ふっ」
笑うつもりはなかった。
けれど自然と出たその微笑みに、自分でも少し驚く。
(⋯⋯まったく)
ふと我に返り、彼はその小さな肩のそばにしゃがみこんだ。
「⋯⋯こんな所で寝ていたら風邪を引くぞ」
アッシュの頬に、そっと手を伸ばす。
冷たくも熱くもない、やわらかな感触。驚かせないように、指先でそっと撫でる。
「んん⋯⋯ん⋯⋯ノーランド⋯⋯さま?」
声は小さく、どこかぼんやりしていた。
ゆっくりと瞼が開き、ミルクティーの髪の奥から金色の瞳が仮面を見上げてくる。
次の瞬間——
「ッ⋯申し訳、ございません⋯⋯うたた寝をしてしまったようです⋯⋯!」
アッシュはぴょこんと飛び起きた。
うさぎが小さく揺れて「ぴぴ」と鼻を鳴らす。
「⋯⋯のようだな。小屋も開いたままだ」
「ッ⋯⋯申し訳、ございません⋯⋯!」
何度も頭を下げるアッシュ。
その手に抱かれたうさぎも、きょとんと彼を見上げている。
ノーランドは静かに首を振った。
「⋯良い。次から気をつけろ。今日は非番なのだろう?」
「⋯⋯はい」
「明日に備えて、体を休めておけ」
そう言いながら、彼はもう一度アッシュの頬に手を伸ばす。
今度は少しだけ長く、そして、やさしく撫でた。
アッシュは肩を小さく震わせ、ぱちぱちと瞬きをする。
(怒られなかった⋯⋯?)
いつもなら、もっと厳しく言われてもおかしくない場面なのに。
それどころか、今日のノーランドは——
その手は、いつもよりもずっと、やさしかった。
ノーランドはそれ以上言葉を交わさず、仮面越しに視線を落とすと、すっと立ち上がる。
上着の裾がひらりと揺れ、静かに扉の向こうへ姿を消した。
「⋯⋯⋯⋯」
アッシュはその場に座ったまま、そっと自分の頬に手を当てた。
撫でられた場所が、じんわりと熱い。
胸の奥に、ふわりと甘いものが溶けていく。
「⋯ノーランド様に、撫でられちゃった⋯⋯」
小さな声でそう呟いて、アッシュは腕の中のうさぎをぎゅっと抱きしめる。
うさぎはきょとんとした顔で、彼を見上げていた。
「ふふ、いいでしょ。撫でてもらったんだよ?」
頬をすり寄せる。
ふわふわの毛並みが肌に触れて、くすぐったくて、でも心地よい。
「⋯なんか、へんな感じ。怒られると思ってたのに、優しくて⋯⋯」
アッシュはうさぎの頭にそっとキスを落とし、顔を毛並みに埋めた。
はぁぁ⋯と甘い息がこぼれる。
思い出すのは、あの仮面の奥の表情。
見えないはずなのに、ふと浮かぶ「ふっ」とした笑み。
——いつも冷たいように見えて、でも、本当はとても優しい人。
頬を撫でる手のぬくもり、落ち着いた声音、何気ない一言の柔らかさ。
それを知ってしまったら、もう、惹かれずにはいられなかった。
「⋯⋯また撫でてもらえたら、いいな」
ぽつりとこぼした声に、うさぎは小さく鼻を鳴らして反応する。
アッシュはうさぎを抱いたまま、そっと毛布を引き寄せた。
今度はちゃんと寝台の上にのぼり、小さく息をついて、うさぎを胸元に抱きしめる。
「⋯お家に帰るまでの間、もう少しだけ君のことを抱き締めてていい?」
囁くと、うさぎは小さな鼻をひくひく動かしながら、ふわりと身体を預けてきた。
羽毛のような香りが鼻をくすぐる。
ごろんと寝返りを打ち、毛布を首元までかけて目を閉じる。
うさぎのぬくもりが心地よくて、ゆっくりと身体の力が抜けていく。
⋯⋯でも、眠るにはまだ少し早かった。
思い返すのは、ついさっきの出来事。
優しい声。仮面越しのまなざし。ふとした微笑み。そして——
(⋯ノーランド様の、手⋯⋯)
頬に触れた、あの大きな手のぬくもり。
撫でられた瞬間の、胸の奥のあたたかさを、まだ忘れられない。
(怒られるかと思ったのに、むしろ⋯⋯ふふっ)
思わず笑ってしまう。
毛布に顔をうずめて、くすぐったくて転がりたくなる気持ちを必死におさえる。
「僕、撫でられちゃったんだよ⋯⋯?」
うさぎにそっと囁くと、小さな鼻がぴくぴく動いて返事をしてくれた。
まるで『よかったね』と言ってくれているみたいだった。
「なんか⋯⋯変な感じ。でも、すっごく嬉しくて⋯⋯ずっと、こうだったらいいのに」
仮面の奥の顔は見えなかったけれど、あのとき、きっと——
ほんの少しだけ、笑ってくれていた気がする。
(ノーランド様って、たぶん⋯本当はすごく優しいんだ)
うさぎを抱き直し、アッシュはまた毛布の中に身体を沈める。
「⋯好き、なのかな⋯⋯」
ふいにこぼれたその言葉に、自分で顔が熱くなる。
「僕、ノーランド様のこと⋯す、好き⋯かも⋯⋯⋯こんなの⋯⋯おかしいよね⋯⋯」
誰も聞いていないのをいいことに、毛布の中でそっともだえる。
頬は赤く、視線はとろりととろけていた。
(またあんな風にされたら⋯きっと、変になっちゃう)
ふふっと笑いながら、足をばたばたさせて、うさぎの背を撫でる。
それでも、やがてまぶたが重くなってくる。
うさぎの体温。毛布のやさしさ。そして、想い人の記憶。
夢と現のあわいに揺れながら、アッシュはそっと目を閉じた。
——次に目が覚める時も、できればまた、あの人の手に起こされますように——と、願いながら。
-end-