「記憶喪失になったヒュンが強引に公開プロポーズをした」久しぶりにポップの元に帰ってきたヒュンケルは、一見何も変わらないように見えた。
パプニカ城の男性陣の中で、一番雅で美しいと噂された銀糸のように揺れる髪。その銀髪に縁取られた白磁の肌、奥底で深く光を湛える紫水晶の瞳。
ただ。
「ポップ」
久しぶりに自分を呼んだ声色が、心もとなげに揺れた気がする、以外は。
レオナ姫から騎士団帰還の報を貰ったポップは、午後の仕事を放り投げ足早に騎士団詰所を訪れた。入口から右手に設置されている休憩用の革張りの長椅子に座り、はぁっと一息つく。
「ヒュンケル、久しぶりだな!」
「………」
ヒュンケルは寡黙な男だ。
常に人を優先し、自信を律する人格者と言われて男女共に羨望の的と噂されている。
それも変わらない、はずだ。
ポップは傍に佇むヒュンケルをそっと盗み見た。長旅を物語るように武具は摩耗し、膝の部分のサポーターが露わになっている。
「……ああ」
満面の笑みで見上げるポップの顔を見つめ、僅かに口元を歪めたヒュンケル の姿に騎士団兵士達も応と湧き立つ。
ヒュンケルを尊敬していない者はこの城にはいない。
また、その様なヒュンケルが想いを寄せると噂の大魔道士ポップを羨ましがらない者は存在しないとさえ言えた。
「元気そうじゃねーか!」
「ポップ」
低く落ち着いたトーンを纏う声で、ポップの名を呼ぶヒュンケル 。ポップがするりとヒュンケルの腕に手を伸ばすと、彼は戸惑う事なくその手を掬いあげてくれる。
ただ。
触れる事を嫌がる素振りも見せないわりに、以前より思慮深くなった雰囲気を纏いより大人の男となった表情にポップの鼓動は自然と早くなった。
「ちゃんと食事は摂ってたか?」
自分を悩ませるその顔から目を反らせながらポップが問いかければ、ヒュンケルは不思議そうに首を傾げた。
「何故お前は…食事など気にするのだ」
サッと顔色が変わったポップの前に、様子を伺っていた副騎士団長がすまなそうに軽く頭を下げた。
「ポップ様。申し訳ありません。ヒュンケル様は…その…遠征時の戦闘の際に頭を打たれまして。少し記憶が曖昧になっているようなのです」
「……記憶が?」
「ええ。一時的な事とは思うのですが」
ポップは震える唇を噛み締めると、ゆっくりと俯く。
騎士団を統率する騎士団長のヒュンケルが記憶を失った。その事実だけでパプニカ国にとってかなりの痛手であろう事は理解できた。
「……別に気にしねーさ。誰だって頭を殴られれば記憶ぐらい飛ぶって」
手を振り明るい声でそう答えてやれば、ヒュンケルは伏し目がちにポップを見やった。
「すまない。お前の事や大戦の事は勿論憶えているのだが、断片的に物腰の記憶が抜けているようだから…」
ポップはその言葉に一瞬だけ体を固まらせると、それから無理矢理に笑って見せた。
「テメーのヘマの話なんか聞きたくねーな」
揶揄るつもりだった言葉にヒュンケルは短く謝ると、その気遣いに感謝したのだろう。微かに口元を歪めた。
「笑えるんなら大丈夫だな!よし」
ポップは眉根を寄せた副団長を振り返った。
「きっと暫く次の遠征任務までは間があるんだろ?取り敢えず今日このまま帰ってもいいよな」
「ポップ様?!」
「いいよな。副団長さんよ?」
まだ何か言いたげな副団長を上目遣いで見つめてやれば、彼は諦めたようにわざとらしく息を落とした。
不思議そうに首を傾げたヒュンケルの腕を、ポップは幾分無造作に引く。
「あのよ、ヒュンケル。一緒に帰ろうぜ」
「何故、お前と…」
「あ・の・な!遠征前、お前とおれは色々約束してたの!!ほら、早く来いって」
戸惑うヒュンケルの腕を引き、他の兵士からひっきりなしにかかる声を遮るようにポップは颯爽と歩き出す。
「街の中心にある広場を抜けた先にさ、俺の屋敷があるんだよ。そこでよく仕事の後にメシを食った仲なんだって!!」
「……そうか」
ぱっと見表情は変わらない。
ただヒュンケルの背中から感じ取れる困惑の気配が消えたのに安心して、ポップはまた歩き始めた。
「懐かしいな。なぁおれさ、強くなったと思う?」
「…そうだな」
ヒュンケルはポップの横に並ぶと、ポップの目にじっと視線を射込んでくる。
不意に向けられた紫水晶の眼差しの強さに息を詰まらせ。探るような視線にポップは素早く目を伏せた。
「ほら、身長も伸びただろ?」
「…そうだな」
ポップの言葉を確かめる様にヒュンケルの手が肩に回され、その温もりにポップは顔を綻ばせる。
だが。
「記憶がなくても……お前は変わらなく接してくれるのか」
その声色の深さに、ポップは暫く喉を詰まらせた。
「当たり前だろ?」
「お前の屋敷は城から近いのか?」
「……あ、ああ。ここからだと……半刻くらいかな」
「では、そこまで歩きながら話を聞かせて貰おうか」
「いいぜ!!」
飛翔呪文で飛べばあっという間だが、とにかく話がしたい。
遠征に出る前、帰ってきた時に約束をした。今の彼は忘れてしまっているかもしれないが、この一言はポップの心を満たしていった。
ヒュンケルはポップと並び、王城を出てすぐの大通りに歩を進めていく。
歩く度にふわふわと揺れる癖のある豊かな黒髪と、同じ色の長い睫毛。
先程から時折魂を震わせる声がどんな言葉を紡ぎ歌うのかを、ヒュンケルは覚えていない。
遠征に出て間もなく。
とある戦いで頭部を強く打ってから、記憶の断片が途切れ途切れになってきているのはヒュンケルにも薄々わかってはいた。
ポップが何故こんな顔で笑いかけるのか。考えれば考えるほど、彼にとって自分がどんな存在であるのかも定かではなくなっていく。
「ポップ、お前は……」
「ん?何?」
何故だろう、とヒュンケルは思う。
どうしてポップは自分に親身になってくれるのだろうか、と。
「ポップ」
「だから、何?なんか変なもんでも食ったのか?」
怪訝そうに見上げてくる少年のヘーゼル色の瞳を覗き込めば、胸がざわめいて仕方がない。
「……お前と一緒にいた微かな記憶はあるのだ。だが、オレはそれを詳細に思い出せない。しかし、お前を守りたい気持ちは以前からあり変わっていないのだと思う」
そう言うと、ポップが弾かれたように顔を上げた。
「べ……別に守られなくたって大丈夫だぜ……おれは大魔道士なんだ」
ヒュンケルはそんなポップを見下ろしながら、声を抑えて笑った。
「そうだったな」
ヒュンケルはポップと歩きながら他愛の無い話をしつつ、そっと彼の表情を垣間見た。
先程からこの大魔道士の少年の笑顔が、ちくりとヒュンケルの胸の奥底を掠めていく。
「な、腹減ってるだろ?メシ作ってやるからな!」
この道から一本裏にある民家を指差すとポップは小走りに駆け出していく。
「早く来いよ」
「ああ」
揺れる黒い癖毛を追いかけながら、ヒュンケルは思う。
思い詰めたような横顔に手を伸ばしたくなるのは、未だはっきりと思い出せない彼を守りたいという気持ちなのだろうか。
それとも。
ヒュンケルはひとつ、かぶりを振った。
「綺麗に片付けてあるな」
案内された家の中。
ぐるりと見回しながら、ヒュンケルの口から思わず感嘆の声が漏れた。
ポップはリビングにある台所に立つと、料理をする為のエプロンの紐をよるりと結びながら顔を赤らめた。
「……まぁ……すぐ使うから……それに誰かとご飯を食べる事もよくあったし」
「?」
「と、とにかく座ってろって!!」
リビングに並べられた椅子の一つに腰掛けると、ヒュンケルはその手際良い手つきを背後から黙って見つめた。
「へっへー!ヒュンケル 、お前ラッキーだったな?今日はハーブ鶏と新玉ねぎのソテーと、かぼちゃのポタージュだぜ。この時期のかぼちゃは甘味が最高なんだ」
遠征時は基本味気ない保存用のパンと塩辛い干し肉、水が主な食料となる。
得意そうに流行りの鼻歌が漏れ、ヒュンケルは思わずごくりと喉を鳴らした。
「うまそうだ」
「だろ?パンも買ってきたんだ。ポタージュにつけて食べりゃいい」
次々調理する食材に、ポップは説明を加えながら手早く仕上げていく。
やがて食欲をそそる香りが台所に立ち込め、ポップがぱんっと手を打った。
「よし!完成だぜ!」
大皿に綺麗に盛り付けられたソテー、綺麗な色をしたポタージュをテーブルに置いたポップは、「ワインもあるぜ」とヒュンケル のグラスに琥珀色の葡萄酒を注いだ。
ヒュンケルは軽く頭を下げて受け取ると、ポップが席に着くのを待ってから彼のグラスにワインを注いでやる。
「じゃ……乾杯な」
2人でグラスを鳴らして乾杯し、互いにゆっくりと一口嗜む。
ポップが腕によりをかけた一品は、香ばしいハーブの香りと口の中にぱりっとした音と共に広がる肉の旨味と皮の食感が堪らなく美味しく、ヒュンケルは思わず感嘆の声を上げた。
「ああ、本当に美味いな」
「だろ?……あのさ……」
ポップはそう言うと躊躇いがちにヒュンケルを見つめる。
「なんだ?」
「いや……良かったなって思ってさ」
ポップは視線を逸らしながら微笑む。
目の淵に大きく透明な粒。
それでも笑う彼に、ヒュンケルは強く胸を掴まれたような気がした。
「本当にお前と一緒にいたんだな、オレは」
ポップの笑い声が止まる。
そして食卓を見つめながら、ぐっと喉を鳴らし声を詰まらせた。
「……ああ」
「記憶の無いオレが言うのも変だが、きっとお前の料理をまた食べたいと強く願っていたんだろうな」
そうヒュンケルが呟いた瞬間ポップの目が潤んだように見えた。
「……ッ。そう……そうだったら…」
「料理だけじゃない。もっと沢山お前と色んな話をしたかっただろう」
「ヒュンケル……」
大魔道の少年の目にみるみる涙が溢れ落ちるのを見て、ヒュンケルは席を立つとポップの隣に移動し、その手を握った。
「泣いているのか……?」
「なんでだろ……わかんねーよ……」
泣きながらも必死で笑おうとするポップの肩を抱き、ヒュンケルはその涙を指で拭った。
「お前を見ていると……何故か懐かしい気持ちになる」
「へへ、おれの料理、美味かっただろ?たくさん、たくさん練習したんだよ……」
ポップは泣きながら笑いながらヒュンケルを見上げる。
「ポップ」
「ヒュンケル、次の遠征任務まではまだ間があるんだろ?明日も食いに来いよ。腕によりをかけちゃうぜ」
「そうか、それなら明日も来よう」
ポップはそっとヒュンケルの手を握り返した。
「じゃあ、今晩は泊って行けよ!まだ話したりないんだろ?」
その言葉に頷きかけたヒュンケルだが、一つ間を置きかぶりを振った。
「……いや、今日は帰る」
「あ……そ、そうだな……あ……おれ、何言ってるんだろな!じゃ、また明日な」
ポップはヒュンケルの背を見送ると、玄関に蹲った。
「ごめん……ヒュンケル……」
ヒュンケルはすっかり暗くなった夜道を走り抜ける。
ポップともっと話がしたかった。
もっと彼と一緒にいたかった。
だが、今はこれが限界だ。
小高い丘を登ったところで、ヒュンケルはようやく足を緩める。
「明日はおれも食材を買っていくか」
己を温かな食事で笑顔にした彼のように、自分もポップを笑顔にしてやりたい。彼の喜ぶ顔を思い、ヒュンケルは目を細めた。
「今まで食べたどんな料理よりも美味かった」
胸が軋むほどに。
その痛みが彼と自分を繋いでいると、頭に靄がかかる状態でヒュンケルは何故か確信したのだった。
「ポップ」
翌日ポップが食事の支度をしていると、からんと来訪者を告げる玄関の音と共にヒュンケルの声。
振り返ると、きっちりと騎士団の鎧に身を包んだヒュンケルがそこにいた。
「おはよ!あ、もうそんな時間か……」
窓から差し込む傾いた陽の光が、ポップの染まる頬を柔らかく照らした。だが、ヒュンケルはそんなポップを見て小首を傾げた。
「どうした?」
「なんでもねーよ。ちょっと待っててくれよ、もうすぐ朝ご飯出来るからさ」
ポップが鍋をかき混ぜる手元を覗き込む間、ヒュンケルはテーブルの上に昨日のハーブ鶏の残りが置かれている事に気がついた。
「そうか……入ったらハーブのいい香りがしていたから、実はもう食べてしまったんじゃないかと思っていた」
「へへ、心配しなくてもちゃんとお前の好物は残しておくって!」
慌てて皿に盛り付けを始めたポップの小さな背中を見つめ、ヒュンケルはゆっくりと瞬きをすると食卓に付いた。
温かな料理、笑顔のポップを見つめていると胸にグッと言葉にならない想いが込み上げ、何故か泣き出したくなる。
「美味い」
胸から瞳へ押し上げられた溢れそうになる涙を誤魔化したくてそう呟けば、ポップも唇を噛み締めて泣きそうな顔で笑った。
「……へへ!そっか!」
そんな笑顔にまた泣きたいような心地になりながらヒュンケルが料理を口に運べば、ポップは嬉しそうに話を始めた。
「さっき朝市の人が来てくれてさ、キノコ買ったんだ」
「そうか」
「近くの森で採れたのは、焼くと本当香ばしい香りがしてさ、昨夜のハーブ鶏にもぴったりなんだよ、お前絶対好きだから」
「そうだな…遠征任務までまだ時間があるから、今日もお前の夕飯を食いたい。食材は…この通り買ってきた」
ポップはヒュンケルを見、彼が手にした紙袋を覗き込み、きらきらと目を輝かせた。
「わ、凄え!これってめちゃくちゃ高級な肉じゃねえか…。おれ財布感覚庶民だからさ、鹿肉で作ろうと思っていたんだ」
「もしかして」
ヒュンケルは自分が抱えている食材の紙袋を覗く。
朧げな記憶の底を漁り浮かんだ食材がそこには在った。
綺麗に育ったビーツと玉ねぎ、それに上質な牛肉ロースが一塊り。
2人で顔を見合わせ、ポップがぱちんと指を鳴らした。
「そういうこと!やはり勘がいいなお前!今夜は異国風ボルシチ赤ワイン煮込みにするぜ。あとキノコのバターソテーを添えてな」
ポップはいそいそとヒュンケルから紙袋を受け取ると、また台所に戻っていく。
「昨日感じたのだが….お前と一緒に食べると、美味い料理がさらに美味くなるな」
台所に立った背中に向かってそう声を掛けると、ポップはふと手を止める。
「いつも……一緒にメシ食ってただろ?」
「そう……なのか?」
「……うん」
ポップの頬が赤らんだように見え、ヒュンケルは目を細めた。
「ポップ……オレは」
「お、おれ、これから早速仕込みするからさ。驚かせたいから、話しかけんなよっ」
それっきりヒュンケルが何を言ってもポップは振り返りもせず、出来上がった料理をテーブルに置くと、また台所に戻るを繰り返した。
「そうか……オレはいつもこうしてお前と一緒に食事をとっていたんだな」
胸が裂けるほどの痛みを感じながら、ヒュンケルは目の前に並べられた食事を見つめそう言った。
「ああ……一緒に食ってたぜ」
小さな声のままポップはそう答え、葡萄酒をグラスに注ぐとヒュンケルの前に置いた。
「いい香りだ」
昨日見たそのグラスも、思えば見覚えのあるものだった。
まだ確信は出来ない。
だがヒュンケルの口は言葉を紡ぎ出していた。
「ポップ、明日は何を食べたい?」
ヒュンケルの言葉にポップは一瞬目を丸くしたが、「うーん」と思案してリクエストを口にした。
「あ……久しぶりにターキーが食いたいなあ……なんて」
テーブルに頬杖を付いたままヒュンケルを見つめると、ポップは俯き表情を隠した。
「ああ、いいぞ」
「やったー!!ターキーはおれにとって特別な料理なんだ。それが食えるなんて最高だ」
翌朝。
戸を叩いても何故かなかなか起きてこないポップを起こしに行ったヒュンケルは、自室で熱い吐息を漏らし悶えるポップを発見したのだった。
「寝てろ。何か消化の良いものを作ってやる。お前はゆっくり休んでいろ」
「いいよ……いつものことだし」
ベッドの中のポップはそう言うとへらりと微笑んだ。
「それよりさ、折角のわターキーの日に熱出しちまうなんて……おれってついてないよなぁ」
ポップはそう呟き、寂しそうに笑った。ヒュンケルはその横顔を見つめながら眉を寄せる。
「オレにとっては良かったが」
「え?」
熱にとろりと溶けたポップの目がヒュンケルを捕らえる。
「お前は時たま体調を崩しているだろう?そんなお前の看病が出来ることが……オレは嬉しい」
「ヒュ……ヒュンケル」
ポップの頰が真っ赤に染まる。
「いや、すまん……変なことを言って」
ヒュンケルも思わず口を押さえポップの顔から目を逸らせた。
「……と、とりあえず休んでいろ!」
台所に駆け込んできたヒュンケルは、頬を赤らめたままターキーの仕込みを始めたのだった。
その日はヒュンケルが食事を作った。
まず体調が優れないポップの為に、買ってきた穀物を食べやすく煮込む。レシピはいつかアバンから教わったメモ書きを漁り発見した。
「あいつのことだ。魔力が回復すればすぐ復活するだろう」
夜の為にターキーを丁寧に下処理し、オーブンで香ばしく焼いた。キャベツやキノコ、人参に玉ねぎ。つかう食材何もかもが新鮮で、一つ一つが輝いていた。
「ほら……出来たぞ」
大きなパン籠からバゲットを取り出せば、香ばしい匂いが広がりポップの食欲を刺激する。
「やったぁ!今日は豪華だな!」
ベッドから飛び出すと、ポップはヒュンケルの肩に飛び乗った。
「ヒュンケルも一緒に食おうぜ」
目を輝かせてそう言うと、ヒュンケルは少し困った顔をする。だがポップは構わず、ヒュンケルの腕を引っ張ってテーブルまで連れて行くと椅子に座らせた。
「へへ!いただきまーす!」
手を合わせると、ポップはバゲットに手を伸ばして豪快に肉に齧り付いた。
香ばしい香辛料の香りに混じって、鶏の旨味と汁が口内を満たす。
「……美味い」
ひと噛みする度、ポップの瞳に涙が溜まっていく。
「ヒュンケル……美味いよ……」
向かいに座るヒュンケルは黙ってポップを見つめ、微笑みながら頷いた。
「やっぱ、おまえの作ったこれ毎日食いてえなあ…また食えたなんてめちゃくちゃ嬉しい…っ」
ああ、やはりそうだったのだ。
ヒュンケルは胸に熱いものが込み上げるのを感じた。間違いなくポップという少年と、自分は長く一緒にいたのだ。
きっとこうして彼の為にターキーを焼き、彼が美味しいと笑うのを見てきたに違いない。
自分が作った食事を、嬉しそうに頬張る彼を見て、自分も幸福を感じている。
「ポップ」
このポップという少年が愛しい。
そう思うのにヒュンケルは心に浮かんできた言葉をそっと飲み込み、別のことを口にしていた。
「明日は何を食べたい?」
何故かまた泣きそうな顔をしてポップが笑う。
「へへ……なんかさ、おれたち結婚してるみたいだな?」
「ポップ」
「なーに?って、冗談だよ!間に受けるなって」
幸せそうに自分の作った料理を口に運ぶポップを見つめながら、ヒュンケルはそっと微笑んだ。
「明日の献立は決まったか?」
「いいや、まだ…」
言い淀んだポップを安心させるように、ヒュンケルはぎこちなく片目を瞑って見せた。
「オレにまかせてくれないか?作ってみたい物がある」
ヒュンケルのその言葉と笑顔に、ポップは頰を赤らめる。そして、まるで「期待しています!」と言わんばかりに真剣な目で見つめ、大きく頷いた。
「分かった……楽しみにしてるぜ!」
翌日、まだ薄暗く町中が活動を始めた頃。ヒュンケルは騎士団訓練の前に城下町にある市場に足を運んでいた。
遠征から帰って、早一週間。思えばポップが様々な料理を振舞ってくれた。だが、ヒュンケルはポップと料理をしたことが殆ど無かった。だから。
「ああ……楽しみだな」
ヒュンケルは思わず呟くと、また昨夜のことを考える。
幸福そうに自分の作った料理を食べるポップの顔。
ターキーにかぶりつく彼の口に付いたソースを、何度も指で拭った事。その指をぺろりと舐めたポップが子供のような顔で笑った際に掠めた思い。
もっと共にいたい。彼の笑う顔が見たい。そう思えば思うほど、胸に穴が空いたような痛みを感じたが、ヒュンケルはそれに気づかない振りをした。
この一週間ポップと過ごして、自分に変化が起きたと思う。
いや、実は変わってはいないのかもしれない。ただポップを深く見つめるヒュンケルという新しい自分が生まれたのだ。
彼のことを考えているだけで胸の奥が温かくなり、幸福を感じる。だが彼が自分以外の誰かと楽しそうに会話していると胸が騒めき、泣きたいような気持ちになってしまう。
今まで感じたことがないその感情を、ヒュンケルは上手く捉えられずにいた。
それが何なのか、分からないふりをしたまま、ヒュンケルは料理の材料を次々と買っていく。
少しでも早くポップに会いたかった。
自分の知らない顔を、他の誰かに向けないで欲しくて。
そして夜。
テーブルの上に並べられた大皿料理を前に、ポップは嬉しそうにヒュンケルの顔を見上げた。
「美味そうな匂い!お前、すげえな……何を作ってくれたんだ?」
いつものように向かいに座ったポップの瞳の輝きを見て、ヒュンケルも目を細めた。
「パエリアだ」
香ばしく焼けた大きな貝を皿に盛り、新鮮なエビやイカと一緒に煮込んだパエリアからは旨味たっぷりの湯気が立ち上っていた。
ポップは席に着くと早速匙を取り、米粒が大きくほつれたパエリアを口に運ぶ。
「美味い!」
満面の笑みで、ポップはヒュンケルを見つめて叫んだ。
「めちゃくちゃ美味いよ!おれの好物……覚えてくれて…っ!」
ヒュンケルは優しくポップの頬を撫でた。
「…パエリア。お前と最初に外食した時に注文していた。だから覚えていたんだ」
「へへ……うん!」
「……他に、何を食べたいんだ?」
自分の言葉で彼が喜ぶのならば、どんな料理だって作ってやりたいと思った。
パエリアは決して簡単な料理ではない。最初アバンに相談し、心配したアバンが仕事をこっそり休んだヒュンケルの元を訪れ、丸一日かけて特訓したのだ。
それだけ彼は自分にとって『特別』な存在なのだ。今までこんなに誰かを気になったことはなかったし、これからも出逢えるかどうか分からない。
それだけにこのポップという少年を大切にしたいと、ただそう願うのだった。
「ポップ、何が好きだ?言ってみろ」
夢中で匙を動かしていたポップだったが、ふと動きを止めるとヒュンケルを見つめ恥ずかしそうに微笑んだ。
「何でもいいよ。本当に。全部好きだし……。お前と一緒に食べられるなら」
『好き』
その単語がヒュンケルの胸にすとんと落ちてきた。
『お前と一緒なら』ではなく、己の気持ちが『好き』だったことに、何故か安心した自分がいることに気づく。
ポップにだけは嫌われたくないと。自分を見て欲しいと思う気持ちが、ヒュンケルの中に生まれていたからだった。
「ポップ」
名を呼んだ後ヒュンケルは言葉を探すように思案するが、上手く言葉が見つからなかった。
それでも何かを彼に伝えたくて、ヒュンケルはそっと彼の頭に手を乗せると柔らかい髪の毛を何度も撫でた。
「……これからも、一緒に食事をしような」
そう言うと、ポップは顔を真っ赤にして俯き小さく頷いた。
「う、うん……」
俯いたポップの耳が赤い。ヒュンケルは思わず笑みを浮かべると、ポップの頭を撫で続けたのだった。
「旨かった!」
深夜の厨房で後片付けを手伝いながら、ポップが叫んだ。
「もう全部食べたのか?」
信じられないとばかりにヒュンケルが言うと、ポップは子供のように唇を突き出して文句を言う。
「だってさ!お前の作る料理ってホントに美味くてさ……パエリアおかわりしちゃったしさあ。もう、毎日食いたい、食わせてくれっ。あー、お袋にも食わせてやりたい」
ランカークスの人々にとって、魚介類は高級品だ。
それを聞いて、ヒュンケルは目を丸くした後ふっと口元を緩めた。
「そうか」
「あ、そうだ!明日おやじがパプニカ城に武具を数種類納めるんだ。明日もう一回作ってくれないかな」
「分かった、明日また材料を買ってこよう」
翌朝。
ヒュンケルの意識は、朝の様に澄み切っていた。まだポップについて朧げなところもある。
もうそんな事はどうでもいい。
ただただ、彼の笑顔が見たかった。
大切な人のために早起きし、彼の笑顔思い浮かべながら、市場で新鮮な食材を購入する。市場で時折店主からお薦めの食材を聞き、誰に作るのかと楽しげに聞かれる。些細な一つ一つの出来事が、ヒュンケル の不安を払拭していった。
ヒュンケル は今日休暇を貰っていた。
たった一つ、思い出した事。
彼がたまに見せる表情に関わることたと持ち前の洞察力で察した。
次の遠征が決まっている今を、逃してはならない。
それがポップへの最大の気持ちだと確信していた。
「お、ヒュンケル君か。久しぶりだな。元気だったか?」
ポップの父ジャンク。彼は一見無愛想でぶっきらぼう、息子のポップには手厳しく見える。しかしその行動もポップを思ってのことなのは、記憶の薄れたヒュンケルにも明確に伝わってきた。
ならば、とっておきの料理を振る舞うしかないとヒュンケルはひとりごちて、エプロンの紐を結んだ。
「うっわー!!2日連日パエリアなんて…最高じゃん」
「ポップ、それと…」
ヒュンケル はポップとジャンクの前に、綺麗に盛られた小皿を一枚置いた。
「お前が鶏肉が好きだったのを思い出してな。下手なりにもう一度作ってみた」
鶏肉を下処理し、もも肉をトマトソースで柔らかくほろほろに煮込んだ料理。
「ヒュンケル 、これは…!」
「お前が好きだと言った料理を、思い出したんだ」
ポップは目を見開いた。
「なん…これ…!」
何気ない家庭料理だが、ポップには一番大切な料理。
「ポップ…?」
「ふっ…何で…」
「お前はこれを食べた時、とても幸せそうにしていただろう?」
そして、とヒュンケル は一呼吸置き。
「これも…思い出した。恐らくこの料理と一緒に渡したのを」
ヒュンケルはどうにもならなくなって、副騎士団長に相談した昨日。
思慮深いヒュンケルに相談された事に目を丸くしつつ、副騎士団長は悪戯っぽく片目を瞑った。
「そう言った相手には、これを渡すんです!前回もお教えしたはずですよ…」
ヒュンケルの無骨な手のひらに載る、二つの銀の輪。その光は、一気に2人を遠征前に引き戻した。
「なんだ…お前のそんなところ、全然変わらねえな」
遠征前。
ヒュンケルはポップの為に慣れない料理を作り、手先に細かな傷を沢山刻みながら、トマトソースで味付けされた鶏肉料理を作った。
初めての料理であることは、残された傷の多さで見て取れて。
ポップはその傷を見て、料理を食べ泣きじゃくった。
密かに恋焦がれていたヒュンケルが、料理といえど、自分に少しでも『好きな』思いを寄せてくれたのだから。
みっともない位の涙を拭う過程で、頬に唇を寄せられ、涙に口付けられたのだと思っていた。
「帰ってきたら、今度はお前がもう一度、いや毎夜…オレに食べさせてくれないか」
「うん、おれ練習して美味しく食わせてやるさ」
遠征を挟んだ今、ヒュンケルの言葉の真意をようやく理解したポップは顔を赤らめる。
顔色がコロコロかわる息子を見て、ジャンクはばかやろ、と軽く一蹴した。
「お前、ヒュンケル君にここまでさせてわかっていなかったのか?」
「はぁ?ばか親父!外野から突っ込むなよ」
「ばかはお前だ。遠征前も同じように言われてキスされたんだろ?待たせていたのはどっちだ」
ヒュンケルはこのホロホロ崩れる、柔らかな鶏肉料理が好きなのだと思って
いた。あの一言が柔らかさとは程遠い、ヒュンケルらしい…遠回しなプロポーズだったなんて。
柔らかくホロホロの鶏肉料理が、自分と重ね合わされていたこと気づき、一気に身体中の血液が頭を駆け巡る。
「ちゃんと責任取って食わせてやれ…ってか、もう食わせてやったみてえだけどなぁ…?うちの息子は柔らかかったか?」
「このような感じで、髪の毛の先も、頬は変わらず柔らかく…ポップ、次は何処を喰ませてくれるんだ」
手に載った物を一瞥し、ジャンクはニヤリと笑った。
「まずは薬指からみたいだな」
その言葉にヒュンケルはぐいっとポップの手を引き寄せ。
銀の指輪と共に、ヒュンケルは柔らかく指に歯を立て証を残す。
「…柔らかい」
「ほう、そんなに柔らかいのか」
どれどれ、とジャンクの指が頬に食い込んだ際、ポップの熱が一気に爆発した。
「な、な、な…親父ーっ!ヒュンケルっ!」
ジタバタするポップをいとも簡単に手中に収め。ヒュンケルは新たな柔らかさを堪能しようと、ポップの頸に顔を埋めた。
数日後。
2人の指を彩った指輪を垣間見た副騎士団長と、ジャンクより報告を受けたレオナにより「大魔道士様はとても触り心地がよい」「ポップはあの騎士団長ヒュンケルに、壁ドンならぬ頬突きでプロポーズされた(誤り)」という噂がパプニカ全土に広まり。
ヒュンケルの頬突きはたちまち流行のプロポーズ一位となり、当のポップは行く先々で頬を突かれるという柔らかい祝福を受けたのだった。