三六六日分の福よ、来たれ(春メイ) 年明けからもう十日以上が過ぎている。
どう考えても遅い時分だったが、今年初めて訪れる以上はれっきとした初詣といえるだろう。
「ここが神様の通り道だと思うと、何だか気が引き締まる心地がしますね」
彼女は、射し込む朝の日差しを浴びながら、本殿へと続く砂利道を危なげなく進む。ともすれば転びやすい道で多少の心配はしていたが、七篠さんには杞憂だったらしい。日頃から身体を張る場面が多いから、必然的に体幹が鍛えられているのだろう。
「そうだな」
同行を快諾してくれた彼女を早朝から連れ出すのは忍びない気持ちもある。しかし、参拝の類は午前のうちに行うのが良いと聞く。習わしに従うことを優先したのは、他ならぬ彼女との関係性を適当に済ませたくない、という想いがあったからなのかもしれない。
正月を経てもなお混み合う人の流れと共に、俺たちは参拝の列に並び、順番を待つ。とはいえ初詣のピークはとうに過ぎてしまっていたので、本殿に辿り着くまでは思いの外早かった。
深々と二度の礼をした後に二回拍手を打ち、念じる直前にふと盗み見てしまった彼女の横顔は凛々しく、しかし慣れない所作にぎこちなさが入り混じっている様がどうにも愛らしくて仕方がない。
二礼二拍手一礼に神経を集中させなければならない最中に邪な考えをしてしまった非礼を御祭神へ丁重に詫びつつ、改めて願いたい事案を思い浮かべる。
今年一年の歌舞輝町の平和について。肩を並べる同僚たちの安全と健康について。とある探偵事務所を取り仕切る元バディの幸せ……を、願うのは烏滸がましい。代わりに、彼女が送る健やかな日々と、心の安寧についてを願ったところで丁度良い頃合いだった。
一礼をして端に移動しながらも、今もなお熱心に祈りをささげる彼女を見やる。
(……いや、結城さんの代わりとするのも甚だ失礼な話だな)
まさか己が特定の女性に対して、このような願いをする日が来るとは。
事件も何も関係なく、彼女と過ごす穏やかなひとときはあっという間に過ぎ去ってしまう。彼女と言葉を交わす時も、言葉もなく同じ時間を共有する時も、何もかもがあまりにも心地好く思えてならない。
しかし、この想いに名前を付けるには尚早だとも理解しているつもりだ。現を抜かす前に、すべきこと・果たさなければならない事案は山ほどあるのだから。
逡巡している間に、軽やかな足音が聞こえて顔を上げる。
「お待たせしてすみません」
「構わない」
小走りで駆けてきた七篠さんが気に病むことのないよう、俺は微笑を返した。心ゆくまで願掛けを行えたのなら、それだけで良い。
「随分と熱心だったな」
「はい。歌舞輝町の平和や、事務所の皆さんの安全を……あと、健康も」
「気が合うな。俺も似たようなものだ」
彼女の場合はもっと自分本位で良さそうなものだが、口にするのは憚られる。他者のことを優先したくなる気持ちは僭越ながら、身に覚えがあった。
ささやかながらも似ている気質も、彼女との居心地の良さを感じる理由のひとつなのかもしれない。
「この後は、どうしましょうか」
物思いに耽りかけたところで、七篠さんの問いが現実へと引き戻す。
参拝後の予定については決めきれていなかった。
吉凶がないことで有名なお神籤を引いたり、お守りを見繕ったりすることで多少なりとも時間は経つだろう。けれどそれも、長く見積もってせいぜい数十分程度。神社を後にしてもまだ早朝と呼べる時間帯に違いない。暖を取れる店などは限られているはずで、それ以前に歌舞輝町ほど地理には明るくないので気の利いた屋内に入れるかどうかすらも怪しいところだ。
本来ならば目的を果たしたことで、早々に新宿方面へ送り届けることが正なのだろう。たとえ心地良くあったとしても、彼女もまた同じ気持ちとは限らない。
頭では、わかっているつもりでいるのだ。
「そうだな……」
離れがたさに言葉を詰まらせる。駅方面へと促すべきだと言い聞かせようとしたが、帰りたくない子どもじみた本音が僅かばかりの抵抗をしてもいる。
「春野さんさえ良ければ」
軽やかに沈黙を破ったのは、やはり彼女だった。
「日差しも気持ち良いので、良かったらこの辺りを散歩しませんか」
「……まだ、一緒にいてくれるのか」
こちらの葛藤に気づいているのか否か、気負わない様相でなされた提案は俺にとって、願ってもみなかった申し出だ。
「……あ、もし、お疲れなら無理にとは」
「そんなことはない」
彼女とは似ているところもあるが、無論何もかもが同じであるわけではない。
度々感じる居心地の良さはひとえに、彼女が対面する相手と懸命に向き合おうとする証だろう。そうした姿勢も含めて、彼女のことを好ましいと思っている。
「疲れは、ない。一緒に過ごそう」
君さえ良ければ。誤解のなく伝わるようにと、七篠さんの瞳を見据える。礼儀からはおそらく外れているが、離れがたさが伝わるのなら……俺のささやかな願いが迷惑なものでさえなければ、何でも良かったのかもしれない。
こちらを見つめ返した彼女の頬は先ほどよりも血色が良い。それが寒さに起因するものか、それ以外の理由かはまだ、判別がつきそうになかった。