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    乾燥きくらげ

    @ririsuke000

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    乾燥きくらげ

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    ※六章前に書いたものになります
    イデアと、とある呪われた少女のお話です

    このお話は、ichico様(@sistpen)のイラストとツイートに大変感銘を受け、わがままを言って書かせていただいたものになります。ご快諾くださり、本当にありがとうございました。
    (再公開するにあたり、アカウント記載の御許可を頂いております)

    【含まれる成分】
    オリジナルキャラクター、not監督生、捏造その他もろもろ

    恋を患い猛毒を呑む 彼女となんて、出会わなければよかった。

     首元の煩わしいループタイを取り、それでも抜けない息苦しさからフリルブラウスのボタンも外す。
     ベッドに倒れ込んだ拍子に、握っていた水仙の花束が散らばった。
     青く燃える炎の髪に黄色い花弁が沈んでいるのを、彼は愛おしそうに目を細めて見つめる。

    「そのまま燃えちゃえばいいのに」

     鼻で笑いながら、まだ手に残る花の束をギュッと握った。

     大きな窓の外にはまだ日が差していて、彼はそれから顔を背ける。わざわざ陽当たりのいいこの場所を寝室にと選んだのは自分だというのに、いまはその眩しさが恨めしい。

     その気持ちを汲んでか、わずかに空が翳る。

     青白い腕が何かを探すようにシーツの上を滑った。そこにあるはずだった温もりはなく、手触りの良い冷たい布がただただ彼の指の熱を奪う。

     「君を人間になんてしてやらなければよかったよ」

     イデアは力なくベッドシーツを握った。皺になっても、もうどうだっていいのだ。

     彼女はもう、自分の元へは帰ってこない。


       ◇


     久しぶりに帰った実家は、酷く陰鬱とした雰囲気を纏っていた。もともとジメジメとした土地に建っているその屋敷では、大勢の使用人が足音も立てずに働いている。まるでそこにいることを知られたくないとでも言うように、気配を殺して。
     しかしそんな使用人たちはその日、ヒソヒソと口に手を当てて帰省した彼らの方を横目で見ていた。普段のあからさまなよそよそしさも腹立たしいが、視界に入るところで分かりやすく陰口を言われているのだと思うと気分が落ち込む。

     スッと、首にかけていたヘッドフォンをしてお気に入りの曲を流す。ギュッと弟の手を握りながら、イデアは早歩きで自室へと向かった。

     部屋に戻って鍵を閉め、オルトと一緒にゲームをする。そうすれば、このジクジクとした胸の痛みもすぐに和らぐだろう。階段を上り、人気のない一番端の扉を開ければそこは彼の、唯一の安息地帯だ。

     だがそこに、大きな人影がひとつ。もともと上背のあるイデアの、そのまた上を行く大柄な男の髪は青い炎で彩られていた。

     彼の帰りを待っていたとでも言うように、ゆらりとその人影が動く。

    「久しぶりだな。息災か?」
    「……父さん」

     舌打ちしたくなるのを堪えて、彼は曲を止めヘッドフォンを外す。同じ色の双眸が、お互いの心の内を探るように視線を交わらせた。

     親子の久しぶりの再会とは思えない、気まずい沈黙が腰を下ろす。

    「なんの用」

     沈黙を先に破ったのはイデアだった。あと少しでベッドにダイブして安らぎを得られたというのに、直前で邪魔されたことにより彼の苛立ちに拍車が掛かる。
     その様子をとくに気にするでもなく、彼の父はおもむろに小脇に挟んでいたクリップバインダーを彼へと差し出した。

     訝しげな視線を向けながらもそれを受け取ると、一番に目に入ってきたのは少女の微笑む写真だった。日差しを浴び、照れくさそうにつばの広い帽子で半分顔を隠す少女は、写真の中からイデアをじっと見つめたり微笑みかけたりと、映像のように動いている。

     赤毛でそばかすのある、どこにでも居そうな平凡な少女。

     イデアはそれを一瞥したのち、写真を捲ってその下にある資料に目を通した。

    『エステラ・モルガン(十八歳)』

     この写真の少女の名だろうか。イデアは首を傾げる。

     写真に写っている彼女はどう見てもまだミドルスクール程の年齢に思えた。

     イデアはそれから、彼女のプロフィールらしいその資料に目を通し終える。モルガンといえばシュラウドと同じように、名家に数えられるうちのひとつだ。そして近々シュラウド社に買収されることが決まった大企業の創設者もたしか、モルガン家の現当主だったはず。

    「これ、なに?」

     バインダーを突き返すイデアに、父親はそれを受け取りながら写真だけを再び彼に手渡した。

    「お前の結婚相手だ」
    「……は?」
    「お前がインターンに我が社に来ることは既に決まっているが、その間、お前は婚約者としてその子と共に別邸で暮らしてもらう」

     父親は目を丸くしている息子をよそに、葉巻を咥えて指先に出した炎で火をつけた。

    「……結婚?」

     なんの前触れもなく、目の前の男の口から飛び出たその言葉に彼は耳を疑った。世界で一番自分とは無関係だと思っていたその二文字が、彼の鼓膜を小さく、それでいて確かな絶望を以て震わせる。

    「明日、その子が来る。別邸に必要なものは用意しておいた。足りないものがあればその都度なんでも言いなさい」
    「は? いやいやいや急すぎでしょ話についていけてないんだが? 結婚? そんなのムリに決まってるだろ大体インターンは研究所で死体の解剖を」
    「いいや。ソレがお前の仕事だ、イデア」
    「……どういう意味?」

     イデアは眉根を潜めながら無表情の男の顔を睨みあげる。

    「その子はモルガン社創設者の孫娘でな。今回、我が社がモルガン社を買収するにあたってその子を婚約者として迎え入れる必要があった」

     紫煙を燻らせる父に、イデアは手に持っている写真に再び視線を落とす。

    「『ワケあり』だ。まぁ、見れば分かる。モルガン家はその子を我々にどうにかして欲しいと泣きついてきた。我々としては事業拡大の良い機会だ。お前にも悪い話では無いはずだぞ」
    「結婚とかムリ。ていうか、こういうのは事前に当事者である僕の意見も取り入れるべきでは? なんで勝手に決めるわけ?」
    「モルガン社を買収できればあのオリンポス社との提携も夢ではない」
    「えっ」

     イデアはそれまでのピリピリとした不機嫌さはどこへやら、憧れの企業の名前が出て目を見開く。

    「お前がアプリ開発やら宇宙開発技術やらに傾斜しているのは知っている。我々医療機器メーカーとしてもオリンポス社との事業提携は望ましい。
     そこでだ。お前がその子と婚約し、その子の『特異体質』をどうにか出来ればそれなりのポストをお前に用意しよう。オリンポス社と提携を結んだ暁には、我が社の一員としてかの社に赴くことを許可する」
    「特異体質……? いや待ってよ。だったら結婚なんて回りくどいことしないで僕らの所有する研究施設で……」
    「我々よりも大きい企業の、たった一人の孫娘。そんな人間をモルモットのように扱う真似が許されるとでも? イデア、これは提案じゃない」

     既に決まったことだ。と彼は言い残して去っていった。

     ボッ、と彼の青い頭髪が橙赤色に染まる。

    「兄さん、大丈夫?」
    「……ん、ごめん。大丈夫」

     イデアは苛立ちを抑えるように炎の髪を撫で付けた。彼の指が触れたところから、色が再び青へと戻る。

    「とりあえず今日はもう疲れた……早くベッドに横になりたい」

     フラフラと、彼は自室へと向かう。扉を開ければそこに、彼が学園で過ごした寮部屋と似通った雰囲気の空間が現れる。

    「最悪の展開だ……」

     ベッドに横になり、オルトにそばに来るよう言う。金属の硬い外装材に頬を擦り寄せながら、彼は弟を抱きしめた。

    「いつもこうだ。誰も僕を省みない。僕の気持ちなんてどうだっていいんだ。僕にはお前だけだよ、オルト……」

     彼は制服から着替えることもせず、しばらくの間そうしていた。
     明日から、インターンが始まる。
     医療機器を造る傍ら、シュラウド家は医薬品の開発にも携わっている。遺体の解剖や、必要な犠牲とはいえ小動物に毒物を与える日々が来るのかと鬱々とした気分だったが、まさかの新婚生活。いや、まだ婚約の段階だからそうとは呼べないのかもしれないが。

    「相手も相手だ。よく僕らみたいなのに大切な一人娘を預けようだなんて……」

     そこまで言って、イデアはぐったりと閉じていた瞼を開いた。

    (あぁ、そうか。『ソッチ』が目的か)

     シュラウド家は医療機器メーカーとしてそれなりに名が通っているが、それよりも、呪われた一族としての悪名の方が名高い。

     不老不死やネクロマンシー、その他死に関する不気味な研究をしているという噂は、シュラウドの名を聞けば必ずと言っていいほど付いて回る。

     事実、彼らはその研究をしていた。

    「不老不死なんて……」

     神にのみ許された特権だ。人間が手を出していい代物じゃない。

     ではなぜシュラウド家がそんなものに手を出したのかといえば。簡潔に言うならば『運が悪かった』。

     シュラウド社はもともと、あらゆる事業を幅広く展開していた。しかしほとほと運がなく、彼らが先陣を切って開発していたものは特許技術を横からかっ攫われ、あれよあれよと優秀な人材がヘッドハンティングされ、企業としての力が弱まっていってしまった。手を出す事業は必ず成功を収めるのに、その手柄は全て共同開発や事業提携をした企業に奪われる。

     さらにそれは、シュラウド家と懇意にしている人々にも影響を及ぼした。シュラウド家と親類になった名家は尽く事業が潰されていき、立ちいかなくなる。

     このことから、シュラウド家と関わると不幸が移る、なんていう汚名まで被る始末だ。数代前から徐々に力を取り戻してはいるものの、かつてシュラウド社が手がけていたものはいま、オリンポス社が台頭している。宇宙開発技術もそのうちの一つだ。

     そうなるともう、シュラウド社がやるべき事はひとつだけ。

     誰もやりたがらないような事業を立ち上げること。

     死者の研究はシュラウド家にとって唯一、未だに誰にもその研究成果を奪われていない分野であった。
     死者を冒涜する、禁忌とも呼べるようなその研究により開発された医薬品も多い。

     その研究をモルガン家は頼りたいのだろう。不幸が移るなんて噂される呪われた一族に与する程に、その可愛い孫娘とやらには一体どんな特異体質があるというのか。

    「明日なんか来なければいいのに。つらい。しんどい。帰りたい」
    「ここが家だよ、兄さん」
    「……うん、そうだね」

     イデアは頭の中にイグニハイド寮を思い浮かべていた。なんやかんやあったけれど、あの学園での生活は存外楽しかったのかもしれない。

     これからはシュラウド家のため、やりたくもない仕事と研究に生涯を捧げることになる。彼にそれを断ることは出来ない。

     イデアは弟の硬い身体を抱く腕にさらに力を込める。

     弟は一度死んだ。死んで、肉体は朽ち果てたがその魂だけは取り戻した。

     弟の魂を蘇らせたのは、父の研究の賜物だ。他に縋る術の無かった彼は父と契約を結んだ。

     弟の魂をこの世に繋ぎ止める、その対価として、類まれなる頭脳をシュラウド家のためだけに使うと。

    「……でも、その子をどうにか出来たら僕にも自由が……」

     どこまでも続くと思われていた一本道が枝分かれしていく。見知らぬ女と暮らすことは苦痛でしかないが、解決してしまえさえすれば全てはこっちのものだ。

    「エステラ・モルガン。どんな子だろう……オルト、検索して」
    「了解! エステラ・モルガンで検索を開始します。──ヒット件数、十三件。読み上げますか?」
    「うん」

     オルトの機械的な音声は、概ね資料通りの内容だった。そしてそのどれもが、いまから約三年ほど前の情報で止まっている。

    「妙だな」

     イデアは起き上がると、PCを起動した。カタカタと軽快な音を響かせながら、エステラ・モルガンが所属しているはずの学園について調べる。

    「エスカレーター式の女学院なのに高等部の名簿に彼女の名前が載ってない……不登校? 退学?」

     息をするように不正アクセスをして女学院のデータベースに忍び込む。しかし、そこで得られた情報は無かった。

     チェアを軋ませながら、ベッドに横になる際放り出した写真を手に取る。

     愛され、可愛がられ、蝶よ花よと育てられているのだろう。時々目が合うその少女を、イデアは睨みつける。

    「一体何者なの? 君」

     そう問いかければ、写真の中の少女は照れくさそうに笑った。


       ◇


     翌朝。イデアはあれから一睡も出来なかった。身体は疲れているのに妙に頭は冴え、ゲームをしても余り身が入らない。
     オルトがスリープモードに移行してからは主に女性との接し方について調べまくった。

    「やはりオタバレ回避は必須……! とりあえず一人で過ごせる空間を……そういえば父さん別邸がどうのこうのって言ってたけど……まさか二人っきりで過ごさせるわけじゃないよな。もしそうだったとしてもオルトは絶対に連れていくけど……」

     ボソボソと喋りながらタブレットをいじくっていたらいつの間にか朝になっていた。
     朝になったと頭が理解するとそれまで一向にやってこなかった眠気に襲われ、イデアは目を瞑ろうとする。しかしそこへ使用人が複数部屋を訪れ、嫌々出れば昨晩入りそびれた風呂に突っ込まれた。出れば堅苦しい装いに着替えさせられ、婚約者とやらの出迎えをするようエントランスホールまで背中を押される。

     そこには既に父と母、使用人が勢揃いしておりイデアは顔を引き攣らせた。

    「これをお待ちください」
    「うわ出たよ」

     使用人の一人がイデアに差し出してきたのは、水仙の花束。綺麗にラッピングされたそれを見た瞬間、イデアはあからさまに嫌な顔をした。

     シュラウド家には、古くから婚約者に水仙の花を贈るというしきたりがある。彼は花束を忌々しげに見下ろしながらも受け取ると、不愉快そうに鼻を鳴らした。

    「こんなの僕から貰って喜ぶヤツいるの?」

     イデアは過去、花を持っているというだけで女子たちから逃げられた苦い思い出があった。シュラウドから花を贈られることはすなわち婚約を意味するからだ。花は水仙と定められていたからそれ以外を持っていてもなんら意味はないというのに、花を贈るらしいという風習だけを知っていた周囲の子供たちは彼をからかいながら遠ざけた。さらに彼には他にも、花にまつわることで悲しい失恋の思い出がある。

     おかげで水仙だけでなく、彼は花全般が苦手だ。綺麗だなと思った瞬間に嫌な過去を思い出す。

     芋づる式に嫌な過去が脳内を駆け巡ってどんよりとした気持ちになっているところにトドメを指す形で、重厚な扉が開かれる。

     イデアは段々と丸まっていく背中を父親に叩かれて背筋を正した。緊張から両手で花束をぎゅっと握りしめ、開かれゆく扉を見つめる。

     そして現れたのは、たった一人の侍女と、車椅子に乗せられローブのフードを目深に被る少女だった。

     拍子抜けだった。大企業の箱入り娘を預けるのだというのに、親はおろか侍女の一人しか従えていないなんて。

     それに、とイデアは車椅子の少女にその双眸を向ける。

     予想外の出で立ちだった。令嬢といえば見目麗しいドレスを纏い、ふわふわとしたフリルをなびかせ、見ているこちらが息苦しくなるようなコルセットに絞められた細い腰に大きなリボンをつけているものではなかったろうか。それに加え、彼女は車椅子姿。足が不自由なのだろうか。

     不思議そうに見つめているイデアは気づかない。彼女が現れた瞬間に、周囲の人間たちの間にピリリとした緊張が走ったのを。

    「ようこそ、エステラ様」

     父がそう言葉を発すると、使用人たちが一斉に腰を曲げ恭しく傅く。ズラリと並んだその間を、車椅子が音もなく押し進められる。

     そうして、イデアの前でその車椅子が止まった。ぼんやりとしていると父に肘で小突かれ、慌てて彼は少女と視線を合わせるように膝を折り曲げた。

     「い、いいイデア・シュラウド……です。本日はよ、ようこそおいでくださいました。こ、ここ、これをどうぞ、お受け取りください」

     イデアが吃りながら花束を差し出す。少女はそれを、フードをしたままに受け取った。花束に伸ばされた手には、分厚い真っ黒なグローブが嵌められている。

    「お嬢様、フードを」

     車椅子を押す侍女がそう言うと、少女は花束を膝の上に置いてゆっくりとそのフードを外した。

    「……えっ」

     イデアは思わず、驚きの声を小さく漏らす。

    「お初にお目にかかります、イデア様。エステラ・モルガンでございます。素敵な花束、どうもありがとう」

     無表情で、なんの感情も乗せられていない声を放ったのは、世にも美しい女だった。

     真っ白な肌に長い漆黒の長髪がするりと滑る。筋の通った鼻は小ぶりで、唇はうっすらと血色が滲んでいた。
     そして何よりも、血のように真っ赤な瞳が印象的だった。強烈なまでの美しさに、イデアは蛇に睨まれたカエルのように固まってしまう。

     誰だ、この女。

     写真で見た少女とは対岸にいるような、冷たく恐ろしいビスクドールを思わせる少女。

     イデアは彼女を、まるで鉄のバラのようだと思った。


       ◇


    「早速ですが、エステラ様にはこれからイデアと共に別邸へと移動していただきます。あぁ、あなたとは少しお話が。イデア、ご案内してさしあげろ」

     彼の父は侍女を呼び止め応接室に通す。必然的に車椅子を押すのはイデアとなり、恐る恐るハンドルを握った。

    「べ、別邸は少し離れた場所にありますので、一度車に乗っていただくことになります」

     その言葉にエステラは軽く頷く。開かれた扉の先には彼女たちが乗ってきたのであろう高級車の隣に、イデアの愛車が停められていた。

     自分で運転しろということだろう。シュラウド家には専属の運転手が居るが、今回彼らの出番はないらしい。

     はぁ、とため息を吐いたイデアは慌てて口を塞ぐ。初対面の、それも婚約者である相手にため息を吐かれるようなことがあれば、イデアなら立ち直れない。
     チラリと彼女の方を見下ろせば、エステラは彼のことなどまるで気にしていないのか、無表情を貫いていた。

     ほっと安堵すると同時に、本当に人形のようだなと思った。

     スロープを設置して車椅子を車内に運び入れる。そこで初めて、彼女の瞳が微かに見開かれた。

    「慣れていらっしゃるのね」
    「あ、あぁ、はい。昔よくやってたので」

     会話はそれで終了した。もっとなにか言うべきことがあっただろうか。イデアが同じ年頃の女性とまともに話すのはエレメンタリースクール以来だ。何を話せばいいかなんて分からない。
     彼は口をモゴモゴしながら運転席へと乗り込んだ。

     車内はあるはずのキャラクターグッズが軒並み撤去されていた。本来であれば人のものを勝手に触るなと怒りをあらわにしたいところだが、今回ばかりは助かった。

    (あとで救出しにいかないとですな。ていうか、もう一台の方じゃなくて本当に良かった)

     彼には愛車が二台ある。ひとつはいままさに発進し始めた高級車。もうひとつは、彼があらゆる改造を施しおまけに好きなキャラクターの塗装をした、いわゆる『痛車』だった。

    (名家の令嬢にオタバレなんてしてみろ……後ろ指さされるだけでなく石が投げつけられるかもしれない。世の中はまだまだオタクへの偏見が蔓延ってるんだ)

     イデアは慣れた手つきで運転をしながら、バックミラー越しにチラチラと彼女の顔を盗み見る。たいして楽しくもない外の景色を眺めている少女の顔は、やはり人のものとは思えない造形をしていた。

     二人はそれから、一言も会話を交わすことなく別邸へと辿り着く。本邸よりかなりこぢんまりとしているが、イデアはそれを気に入っていた。気の滅入るような、どんよりとした雲と不気味な霧に覆われていることの多いこの島では珍しく、そこは暖かな日差しに優しく包まれている。
     ロートアイアンのフェンスにぐるりと取り囲まれたそこに入るには、申し訳程度に設けられた門扉を通る必要があった。

     キュッ、とその門のそばに車を停めると、イデアは車を降りる。

    「誰もいない……?」

     辺りは鳥のさえずり以外音がせず、門の前で待ち構えているとばかり思っていた使用人の姿もなくイデアは怪訝な表情を浮かべた。その面持ちのまま彼は無言でエステラを車から降ろすと、門の錠前に手を翳す。

     ポケットに忍ばせていたドローンが控えめに青い光を放てば、ガチャン、と大袈裟な音を立ててそれは外れた。
     門を押し開いてから車椅子をその先へと進める。人の手はそこそこに、自然美を主とした庭には様々なアンティークオーナメントが花の間から顔を出し、レンガの小道が彼らを入口まで導いた。

     本邸にはあらゆる研究施設が敷地内に隣接されているが、この別邸には地下研究所がある。彼は幼い頃、弟とそこでよく実験をして遊んでいた。

     ここには、生前のオルトの気配が色濃く残っている。

     庭に備え付けられたベンチに座りながらゲームをし、鬼ごっこをしているときは薔薇の蔦が絡みつくアーチをグルグルと回ってお互い目を回し笑いあった。

     いまにも弟の笑い声が聞こえてきそうな気がする。無意識に立ち止まり、イデアは耳をすませた。

    「イデア様?」

     玄関先で微動だにしなくなった彼を不審に思ったエステラが呼びかける。その声にハッと我に返ったイデアは、慌てて鍵に魔力を流し込んで扉を開いた。
     虹彩認証や指紋認証と同じように、魔力認証というものが存在する。最近ではめっきり減ったが、古めかしい屋敷には今もよく使われている解錠方法だ。

     軋みながら開いた扉の奥へと車椅子を進める。小ぶりなシャンデリアの下を通り、ひとまず応接室に向かった。

     やはり屋敷の中には誰もいないようで、イデアはどうすればいいのか分からなくなる。応接室を意味もなくうろうろし始めた彼を見兼ねてか、エステラが声を掛けた。

    「イデア様、どうされました?」

     彼はピタリとその長い足を止めると、おずおずといったように彼女の方へと視線を向けた。

    「し、使用人が居ないんです。何かの手違いなんだろうけど……いま本邸に連絡をとるから少し待っていてくれますか?」

     内ポケットからスマホを取り出した彼を、エステラが首を傾げて笑う。

    「使用人がいらっしゃらないのは恐らく、私のせいではなくて? だってほら、私こんな身体ですから」

     エステラはグローブを嵌めた両手をヒラヒラと振って見せる。イデアはそれに対し、「何を言ってるんだろう」という表情を浮かべた。

    「あ、あの、どういう意味……?」
    「あら、まさか貴方、私のことについてなにも聞いていらっしゃらないの?」
    「なにも聞いてない訳じゃないけど……君がその、特異体質っていうのだけ……」

     オドオドしながらか細い声で答えると、直後、それまで無表情を貫いていた彼女が短く小馬鹿にしたように「はっ」と鼻で笑った。

    「特異体質ね。随分とぼかされたものだわ。まぁ、そういう言い方で誤魔化さなければ私と婚約する男なんて存在しないのだろうけど。貴方も可哀想ね。呪われたシュラウドのお坊ちゃんには私みたいな女しか嫁いでくれないのかしら?」
    「……はい?」

     突如豹変した彼女に、イデアは目を見開く。

    「見せた方が早いかしら。私のその、特異体質?」

     エステラは嵌めていたグローブを右手だけ外すと、あらわになった細く長い指で膝の上に乗せられた花束を握った。

     その瞬間、彼女が触れた部分から包装紙ごと花束が溶けだし、水仙はみるみるうちに色を失って枯れ果ててしまった。

    「何……は……?」

     目の前で起きた現象に頭が追いつかず、イデアはどしゃ、と床に投げ捨てられた花束を凝視する。

    「私呪われてるのよ。触れた物を全て溶かして腐らせる。簡単に言えば、毒人間なの」

     ニッコリと笑った彼女に、イデアは手にしていたスマホを強く握りしめた。

    「助けてオルト……」

     美しいバラには棘があるとはよく言うが、この美しい少女は猛毒を纏っていた。


       ◇


    「聞いてないんだがっ!? あんなの僕にどうしろって言うんだよっ」

     イデアは応接室を抜け出し、父親に通話をかけていた。

    『言ったろう、ワケありだと』
    「ワケありにも程があるだろっ! あんなのと一緒に生活出来るわけない!」
    『口を慎め。自由になりたいのならその子をどうにかしてただの人間に戻してみせろ。オリンポス社で働きたいのだろう?』
    「ぐっ……。じ、じゃあ使用人を何人か寄越してよ。なんで一人も居ないわけ?」
    『声はかけたがな。彼女の体質を話したら全員が拒否した。自身の身の安全が保証されないとなれば、仕方のないことだ』
    「僕は死んでもいいっていうの!?」
    『死なないよう努力しなさい。モルガン社を取り込めれば我々が返り咲く足掛かりになる。お前に拒否権はない』

     イデアはその言葉に堪らず舌打ちをした。

    「……じゃあせめてあの子についての詳しい資料を送っといてよ。モルガン社は僕らと同じ製薬会社だろ? それなりに調べ尽くしてるはずだ」
    『それも自分でやりなさい。地下に必要なものは揃えてある』
    「は……はァ!?」
    『話は終わりだ』
    「ちょっ……あぁもうっ!!」

     イデアは炎の髪を掻きむしるようにしながらその場に蹲る。

    「とりあえずオルトを呼ぼう……」

     彼は空中ディスプレイを展開し、バーチャルキーボードを叩いて遠隔操作で弟を起動した。しばらくすれば愛らしい声が聞こえてくることだろう。

    「……戻るか……」

     背筋を伸ばすことなどとっくに忘れて、猫背のまま彼は婚約者のもとへ戻る。するとそこに、立ち上がって自分の足で颯爽と歩く少女の姿がありイデアは驚きのあまり背筋がピンと伸びた。

    「な、んで歩いて……えっ? なんで歩いてるの?」

     二度見したのちイデアは声を裏返す。

    「呪われてから歩く度に何足も靴を溶かしてダメにしたの。家中を穴だらけにされたらたまったもんじゃないって、車椅子の生活を強制されたわ。三年もあればある程度この呪いをコントロール出来て靴をダメにすることもなくなったのだけれど、それでも車椅子で生活するよう言われた。でもここに歩くのを咎める人は居ないから」

     窓の外を見ながら言う彼女はどこか寂しそうな横顔をしていた。しかしすぐさま、無表情に戻る。

    「私のお部屋に案内してくださる? まさか寝室が一緒なんてことないわよね? 『こんなの』と一緒に寝るのはさぞ恐ろしいでしょうから」
    「……っ!」

     先程の通話を聞かれていたことにたじろぐ。

    「ご、ごめ」
    「お気になさらないで? 私も、あなたみたいな陰気で死人みたいな顔色の、おまけに髪が燃えてる男と暮らすのなんて苦痛でしかないから。お互い様ね?」

     そう言って口角だけを上げてみせる彼女に、イデアは身体が燃えるように熱くなるのを感じた。その熱を放出するように、彼は朽ちて投げ捨てられた水仙の花束目掛けて火を放つ。一瞬で灰と化したそれに目もくれず、金色の双眸は真っ赤な瞳を貫くように睨めつけた。

    「君さぁ、どうしてそうなったのか知ったこっちゃないけど、自分の立場分かってる? 君のそのおかしな呪いをどうにかして欲しくてここへ来たんだろ? それなのによくそんな口がきけるよね。僕だって君みたいなのと同じ屋根の下で暮らすのは苦痛でしかないよ。大体そんな呪いを受けるほどの何かを君がやらかしたってことだろ? 自業自得なんじゃないの? 他人を巻き込むなよ腹立たしい」

     チクチクと早口で捲し立てる。エステラの顔がみるみる歪んでいくのを見ると胸のすく思いがした。

    「何その顔。図星? さっきまでの澄ました顔してみなよヒヒッ」

     自業自得、という言葉に一際反応を見せた彼女にイデアはもっと何か言ってやろうと距離を詰める。しかしその直後、彼女の嵌めていたグローブが肉の焼けるような音と共に溶け落ちていくのを見て、その足を止めた。

    「それ以上何か言ったら貴方のその顔をこの手で引っ叩くわよ」

     ボトボトと、床に黒い液体が飛び散る。それは彼女の、可愛らしいエナメルのパンプスだった残骸と混じり合う。

     涙ぐむ彼女の足元の床は腐って穴が空き、グローブは既に跡形もない。

    「そ……そっちが僕を悪く言ったから言い返しただけだろっ。な、なんだよ急に……」

     イデアの赤く燃え盛っていた髪はしゅん、と青く弱火になった。

    「自業自得なんて、私が一番わかってるのよっ!」

     ボロボロと泣き出した彼女に、彼は自分がエステラの心の柔らかい場所を踏んでしまったことに気づく。

     滴った涙は彼女のローブをジュッと溶かした。

    「こ、こここれは拙者のせいっ? 違うよねだって拙者だって悪口言われたし大体元はと言えば君が」

     キュッと胸の前で両手を握りしめながら、睨み上げてくる彼女から視線を逸らし宙に漂わせる。ボソボソと言い訳を述べていると、そこへようやく彼の救世主が現れた。

    「兄さーん!」
    「おっ、おおオルトっ! 良いところにっ。兄ちゃんは何も悪くないよねっ? ねっ?」

     なんのこと? とオルトが彼の視線の先を辿れば、そこには兄を睨みつけながら泣く少女の姿。

    「兄さんが泣かせたの?」
    「ち、ちが……」
    「ごめんなさいして!」

     弟から可愛らしく窘められ、イデアは渋々彼女に謝罪の言葉を述べた。

    「す、すみませんね〜調子乗って。ほら、謝ったんだからさっさと泣き止んでくれません?」
    「兄さん!」
    「……ハイハイ僕が悪かったよ、もう。言い過ぎました!」

     つっけんどんに言えば、エステラも落ち着いてきたのか涙は止まったようだった。

    「はじめまして、あなたがエステラ・モルガンさんだね! 僕はオルト。よろしくね!」

     そう言って差し出された手を、エステラは申し訳なさそうに首を振って拒絶した。

    「オルト。その子は手を握れないんだ」
    「えっ、どうして?」
    「……それを解明して、解決するのが僕の役目。オルト、お前も協力してくれる?」

     オルトは大きな目を輝かせて、力強く頷いた。

     「任せてよ!」


       ◇


     エステラの部屋は一階の一番奥に宛てがわれていた。大きな天蓋付きのベッドに、クローゼットの中は服の他に夥しい数のグローブと靴が用意されている。

    「ここが君の部屋っぽいね。いかにもお嬢様って感じの……うわ壁紙まで張り替えてあるよりによってここにも水仙の花をチョイスします? 趣味が悪いないつから準備してたんだ? そんな余裕があったんならまず初めに僕に相談すべきだろ常識的に考えて。いっつもそうなんだ僕の意見なんて誰も聞いちゃいない」

     部屋の中を見渡しながらボソボソ呟いていると、靴を溶かして裸足のため車椅子に座らされたエステラが「ねぇ、ちょっと」とイデアに呼びかける。

    「なに?」
    「服を着替えたいのだけれど」
    「……あぁ」

     彼女の着ているローブは先程、彼女の涙に溶かされて穴だらけになってしまっていた。そのローブの下がどうなっているのかは分からないが、それなりに酷い有様になっているのだろう。

    「じゃあ、ごゆっくり」

     イデアが部屋から出ようとすると、再びエステラが呼び止める。

    「一人じゃ着替えられないわ。着替えさせて」
    「……ファッ!? な、ななな何を言ってるのっ? ぼ、ぼぼ僕らまだそういう関係じゃなくない!? 婚約者といえど今日顔を合わせたばかりの他人にも等しい相手になんでそんなっ、はっ、破廉恥なっ」

     顔を真っ赤にしながら狼狽える彼に、少女は不快そうに眉根をひそめる。

    「……この呪いのせいで服を溶かしてしまうのよ」
    「でっ、でもさっきはある程度コントロール出来るって」
    「手はどうしてもコントロールが出来ないの。呪いが強く現れているみたいで、これでも抑え込めているほうなのよ。前は手を近付けただけで色々なものを腐らせたり溶かしてしまっていたわ。防腐グローブは分厚いから少し折り曲げるので精一杯だし」
    「そ、そうなんだ。難儀だね、死んだ方がマシって感じフヒッ」
    「兄さん?」
    「……冗談だよ」

     イデアはチラチラと彼女の方を見ながらどうしようかと悩む。

    (オルトにお願いしたいところだけど、パーツを溶かされて壊されでもしたらたまったもんじゃない)

    「はぁ〜分かったよ。出来るだけちゃっちゃと着替えられるような服を選んでよね。紐が多いのとかムリですし」
    「頭から被るタイプのものがあったはずよ」

     クローゼットへと車椅子を進めると、彼女はまずグローブを取るようイデアに言った。

     決して肌が触れないようそれを手渡すと、彼女はそれにスッと指を通す。

     ギュ、ギュ、と革の擦れるような音をさせながらグローブを確かめる彼女の手は、確かにほんのわずかしか動かせていなかった。分厚すぎるそれは途中でつっかえて、可動域が狭い。

    「ね、ねぇそれ、なんの素材で出来てるの? 君のその呪いをある程度防げるなんてなかなかだよ」
    「あぁ、これは猛毒の果実を主食とする動物の皮をなめして作られたものよ。種の生存のために、誰も食べないものを主食として進化を遂げたその動物の皮には、強力な防毒作用があるの。まぁそれでも、力を抑えられなくなったときはさっきみたいに溶かしてしまうのだけれど」
    「力を抑えられない……フヒッ、リアルでそのセリフが聞けるとは思いませんでしたわ。拙者久しぶりに厨二心が疼きましたぞデュフフッ」
    「さっきから思っていたのだけれど、貴方って……珍妙な喋り方をするのね」
    「ヒッ、アッ、これはその……き、気にしないで。それよりも、え、選んでよ、服」

     サッと後ろに回ってハンドルを握る。広々としたウォークインクローゼットを一周し終える頃には、イデアの腕は服や靴やリボンでいっぱいになった。

    「……家の中なのに着飾る必要あります? もうこの際スウェットでいいじゃん」
    「あら。これでも一番シンプルなものを選んだつもりよ。さぁ、早く着替えさせて」
    「早くと言われましても……」

     イデアはとりあえずベッドの上に服や小物を並べると、その隣に彼女を座らせた。

    「お、オルト、少し席を外してくれる?」
    「わかった! 何か用事があったら呼んでね! 僕お庭をお散歩してるから!」
    「うん、行ってらっしゃい」

     自分が女性を脱がせているところを弟に見られるのはどうしても抵抗があった。
     オルトが部屋から出て、優しく扉を閉める。イデアはそれを見届けると、大人しく座っている少女と用意した服を交互に見つめた。そして、ダラダラと汗を流し始める。

    (いや、どう考えても無理だろこっちは童貞ですぞ! 頭の中では来たるべき日のために何度もそういうシミュレーションをしたことはあるけどいざ実践しろと言われてすぐに出来たら今ごろ彼女の一人や二人くらい出来てますしっ。陰キャを舐めないで頂きたいものですなっ)

     頭の中では嵐のように言葉が渦巻いているものの、実際は固まったまま動かないイデアにエステラはフン、と鼻を鳴らした。

    「みんなそうよ。私に触れるのが怖いの。これまで何人ものメイドの手をボロボロにしてきたわ。いまはほとんどそんなことはないけれど、絶対に起きないとも限らない。メイドたちは私の着替えをする当番を互いに押し付けあったり、汚いものを触るように指先だけで着替えさせたり。いいのよ、私が全て悪いのだもの。どうってことないわ、慣れているから」

     泣きそうな顔をした直後、またあの仮面のような無表情へと変わる。
     イデアはその顔が、泣くのを我慢している時の顔であることを理解した。

    「……初めて会った人間に素肌を晒すことは恥ずかしくないの?」
    「もうなんとも思わないわ。これから全部見せることになるんでしょう」

     ツン、とそっぽを向いて言う彼女に、イデアはまたしても顔を真っ赤にする。

    「これから全部見せっ……いやいやいや婚約者といえどそれはあまりにも早過ぎない!? 陽キャってみんなそうなの!? せ、拙者初めては大切にしたいんですがっ!?」
    「……? 身体を調べるのでしょう? 今更恥ずかしいも何もないけれど」
    「アッ……そ、そっちか、そうだね、ソウデスヨネ……」

     イデアは熱を帯びた頬が急速に冷めていくのが分かった。

     心労が凄まじい。気にしているこっちが馬鹿みたいだ、と彼はエステラのローブの留め具に手を伸ばした。

    (心を無にして……)

     イデアは無心で彼女の装いを解いていく。骨ばった指先が器用に自分の服を脱がせていくのを、エステラは肌から毒が漏れ出ないよう集中しながら見守る。

     美しい男だと思った。髪は燃えていて不気味だし、血色の悪い唇に具合の悪そうなクマは病人のようだが、それがかえって彼の端正な顔立ちを綺麗なだけでは留めず、惹き付けられる。

     まるで宗教画ね、とエステラは顔をしかめて目を逸らした。

     かの有名な魔法士養成学校ナイトレイブンカレッジに在籍しているという肩書きに、この美貌があれば向かうところ敵無しだろうと思うが、シュラウド家の人間であることを知れば誰も寄り付かないだろう。

     異端の天才、魔導工学の麒麟児などと彼の異質な才能を評価する一方、呪われた一族、不幸が移ると貶む輩も多い。

     そしてエステラもまたその例に漏れず、彼との婚約が決まったと聞いた時は大暴れした。おかげで彼女が隔離されていた邸宅は今も改修工事が進められている。

     それに何より、彼女には想い人が居た。何年も想い続けている、焦がれてやまない相手が。

     彼女は、どうにかしてこの婚約を破談にしようと画策していた。せっせと自分を着替えさせる男を見下ろしながら、先程の会話を思い出す。

     彼もこの婚約に乗り気ではない。ならば話し合いで解決できないだろうか。

     好きでもない男と結婚するくらいなら、いっそ呪われたままで居た方がマシだとさえ彼女は思う。

    「で、出来た……! キツくない?」

     彼は腰のリボンをキュッと締めながら、どこか達成感のある顔をして彼女を見上げた。

    「えぇ、ありがとう。靴も履かせてくださる?」
    「うん……。ねぇ、本当にこの靴履くの? 踵が凶暴すぎない? 歩く前提で作られているようには思えないんだが」
    「あら、歩いて良いの? 床を穴だらけにしてしまうかもしれないわよ?」
    「歩けるなら歩いた方が合理的だろ。それに身体にも悪い」

     その言葉に、少女は少しだけ表情を柔らかくする。

     「……そうね。じゃあ」

     エステラは踵のぺたんとした、つま先の丸い靴を持ってくるよう言う。イデアが何足か持ってくると「これじゃない」と言い往復をさせて、彼が悪態をつくのをどこか楽しそうに見つめた。


       ◇


     オルトを呼び戻し、彼らは地下研究所へと向かう。懐かしい気配を感じながら、イデアは予め用意されていた最新の機器に目を通す。

    「どれも自社製品……まぁ当たり前か」

     そのいくつかには彼の手がけたものもあった。

    「早速だけど、血液検査をさせてくれる? 僕君のその呪いに関して何も知らされてないからさ、一から検査する必要があるんだよね」
    「良いけれど、痛いことされると呪いをコントロール出来なくなるわよ。この身体になってから採血を出来た試しがないわ」
    「感情の起伏と外部からの刺激で制御が効かなくなるってこと? 君の詳しい検査資料がないのはそういう事か……」
    「怒ると凄いわよ。試してみる?」
    「遠慮しておきマス……」

     イデアはジャケットを脱ぐと白衣に着替え、エステラを近場の椅子に座らせた。

    「世界の三大猛毒と呼ばれるものは知ってる?」

     彼は棚から駆血帯や採血管など必要なものを取り出しながら彼女に問いかける。

    「……知らないわ」
    「エレメンタリースクールの教科書にも載ってる常識ですぞ?」
    「僕が答える!」

     オルトが元気よく手を挙げた。

    「女王の毒林檎、腐食の魔女、そしてヒュドラの血!」
    「ピンポーン! その三つの中でも特に猛毒とされるのがヒュドラの血だ。不死の神にも恐れられた最強の猛毒と言われてる」
    「それがなんだっていうの?」

     言いながらアームレストに肘を置く彼女の袖を、医療用の手袋をしたイデアがそっと捲った。

    「ここに用意してあるのは、ヒュドラの毒にも耐えうる採血キット。まだ世に出てない代物だよ。人間に使うのは君が初めてだ。この針さえ溶かすようだったらお手上げだね。人に戻るのは諦めた方がいい」
    「……もともと期待してないわ」

     駆血帯を巻きアルコールを染み込ませた脱脂綿を皮膚の上に滑らせる。イデアは「毒人間にアルコール消毒って必要?」とデリカシーの無い言葉を放って赤い瞳に睨みつけられた。

     念の為用意したアクリルパーティションに多重の防衛魔法をかけ、自身にも同じものをかける。

    「少しだけチクッとするからね」
    「ふふ、チクッとしますよー!」

     エステラは腕から顔を背けて身を強ばらせた。チクリと針が刺され、少しの圧迫感が訪れる。

    「はい終了。拙者も無事でござる〜」
    「お疲れ様!」

     ほっと安堵の息をついた彼女はガーゼをテープで止められ、数分押さえておくよう言われる。

    「検査結果が出るまで大体一時間くらいかな。好きにしてていいよ」
    「わーい! 何して遊ぶ?」

     オルトがふよふよとエステラの周囲を浮遊する。

    「……さっきから思っていたのだけれど、貴方ロボットよね?」
    「そうだよ! 僕のボディは兄さんの最高傑作なんだ! 凄いでしょ〜」

     誇らしげに言う彼に戸惑いつつ、エステラは久しぶりに「遊ぼう」と誘われてむず痒い気持ちになった。

    「私はこんな身体だから、遊ぶことなんて出来ないわよ」

     俯いた彼女に、血液が固まるのを待つイデアが振り返る。その顔は酷く不機嫌そうに歪んでいた。

    「手が使えないなら使えないなりに遊ぶ方法はいくらでもあるだろ。少しは頭使ったら? せっかくオルトが遊びに誘ってくれたのに申し訳ないと思わないの?」
    「兄さん、なんでそんなふうに意地悪な言い方するの?」
    「……嫌いなんだよ、そいつみたいに思考停止してる奴が」

     ふい、と顔を背けたイデアに何か反論してやろうと思ったエステラだったが、言葉が思い浮かばず彼の後頭部を睨みつけることしか出来なかった。

    「あ、じゃあしりとりしようよ! 兄さんもね!」
    「えっ、拙者もっ?」
    「時計回りで、僕、兄さん、エステラ・モルガンさんの順番ね! しりと『り』、はい次兄さんの番!」

     半ば強制的に始まったしりとりに、「申し訳ないと思わないの」とエステラに言った手前断ることが出来ず、彼は血液を遠心分離機にかけながら参加した。

    「りんご」
    「……ご、ゴリラ」
    「ランケーブル!」
    「ルテニウム」
    「……ムニエル」
    「類像現象!」
    「ウロキナーゼ」
    「……? ゼリー」
    「リボヌクレアーゼ!」

     そのしりとりは、始まってすぐエステラの知らない単語で埋め尽くされる。さらにイデアは、毎回彼女に同じ言葉から始まるように仕向ける陰湿な方法を取りエステラのグローブが再び溶けることとなった。

     意外にも白熱したしりとりは分析装置にかけた血液の検査結果が出るまで続き、座っているのに目が回り始めたエステラによってわざと「ん」のつく言葉で終わりを迎えた。

     しりとりで息を切らすことなどあったろうか。それほどまでに自分が夢中になっていたことに気づき、エステラはニヤける顔を慌ててしかめさせる。

    「変な顔」

     血液の検査結果を空中ディスプレイに表示させながら言ったイデアも、どこか清々しい顔をしていた。しかし、その表情は途端に曇ることとなる。

    「……はっ、冗談だろ? なんだよこれ……」

     画面に細かい文字で表示された成分に、彼は顔を引き攣らせ、ヒクヒクと笑った。

    「あの、なにか分かったの?」

     オルトにクローゼットから持ってきてもらったグローブをはめながら首を傾げるエステラに、イデアは鋭い眼光を向ける。

    「何か分かったかって? 全っ部だよ!! 君が何をやらかして、何になったのか!!」

     鋭い歯列を剥き出しにし、青い炎の髪を橙赤色に染め上げる。眉の色まで変わった彼は、エステラの元へ大股で詰め寄ると、その顔を近づけた。

    「神になった気分はどう? 君は二度と人間には戻れないよ。一生誰にも触れず、触れられず、死ねない身体で苦しめばいい」

     ガンッ! と苛立ちから近くの椅子を蹴り飛ばす。それは壁に並んだ棚にぶつかり、大きな音を立ててガラス扉を割った。

    「兄さんっ」

     慌てて駆け寄ったオルトを制し、彼は荒々しく椅子に腰かける。

    「なんで言わなかったの? 禁止魔法薬を作ったって。君が飲んだ魔法薬の名前を当ててやろうか。『不滅の霊薬』だろ?」
    「ち、ちが……私は」
    「何が違うんだよここに全部載ってるんだよっ! 君が手を出したのは僕らシュラウドでさえ研究を投げ出したものだ。なぜならそれを研究したところで何も得るものがないから。不老不死になった代わりに触れたものを腐らせる呪いを負うなんてハイリスクな魔法薬の研究したところで意味なんかないだろ?
     神の領域に手を出した業だよ。人間が神になろうとしたから呪われたんだ。哀れな女。そんな身体じゃ誰にも愛してもらえないね」
    「違うのよ、私は」
    「さっきから違うって何? まさかとは思うけど……あぁ、嫌だ当てたくない。もしかして君、素材を間違って調合した?」

     ギロリと睨まれ、エステラはビクッと肩を竦ませた。ジュウジュウと、グローブや靴、服がみるみるうちに溶かされていく。

    「図星かよ……最悪の展開だ。おおかた変身薬でも作ろうとしたんだろ。さっき三大猛毒について聞いたとき変な間があったのはそのせいか。飲んだあとに気付いたんだろ。不滅の霊薬と永続効果のある変身薬に使われる材料はほとんど同じで、唯一違うものは『腐食の魔女』と見た目がそっくりな植物だから……。変だと思ったんだ。写真で見た姿と全く違う女が来たから。不滅の霊薬には服用者に理想の姿を与える効果があるもんね。良かったじゃん、綺麗な化け物になれて。ほんっとに……とんだ問題児を寄越してくれたもんだよモルガン家はさぁ!!」

     一際彼が声を荒らげると、エステラは恐怖からかそれとも怒りからか、大粒の涙を零す。ぽたぽたとテーブルに落ちたそれは、小さな穴を穿った。

    「ハイハイ、何でも溶かす酸の涙ね。知ってる知ってる。泣いてどうにかなるわけ? ちなみに君の唾液はトリカブトの毒と同じ成分だよ。あぁ、古い言い伝えみたいな真実の愛のキスがあれば君も人間に戻れるんじゃない? 猛毒人間の君とキスしたい物好きが居ればの話だけどさぁ!!
     ……泣いたって、君の涙を拭ってくれる奴なんて居ないんだよ。無駄だからやめなよ見苦しいな」

     そう言えば言うほど、彼女の嗚咽は酷くなる一方だった。体から滲み出た呪いにより服の殆どは溶け、肌があらわになる。それをイデアはつまらなそうに見つめた。

    「君みたいなのと結婚させられる僕って可哀想だと思わない? 自業自得で他人を巻き込んでさ……死んだ方がマシって感じ。まぁ、死ねたらの話だけどね」

     イデアは吐き捨てるように言うと、白衣を脱ぎ捨てて地下研究所をあとにした。

    「……兄さんが酷いこと言ってごめんなさい。これ……」

     オルトが申し訳なさそうに白衣を彼女に掛けようとすると、エステラの身体がビクリと跳ねる。

    「わ、わたっ、私に近づくとあぶないわよ。何が起こるか分からないの。貴方もお兄さんの所へ行ってくださる。しばらく放っておいて」
    「……わかった。落ち着いたら部屋に戻ってきてね」

     オルトはふわりと白衣をかけてやると、静かに兄の後を追いかけた。

    「う……っ、ぐすっ、分かってるのよ……言われなくたって……あんな言い方することないじゃない……何も知らないくせに……」

     エステラは椅子の上で膝を抱えて縮こまりながら、溢れる酸の涙が落ちて床を溶かす音を聞いていた。


       ◇


     一方イデアは、二階にあてがわれた自室らしいその部屋で、新品の匂いがするベッドシーツの上に横たわっていた。その部屋にはゲームも漫画も無く、あとで持って来なければと考える。

    「あーしんど……」

     もぞもぞと布団にくるまりながら、自分の将来に僅かに差し込んだ希望が潰えたことに泣きそうになる。

    「せ、せっしゃ悪くないもん。不滅の霊薬を煎じたあいつが悪いんでござる。泣きたいのはこっちだよ」

     涙ぐみながら、彼はタブレットに手を伸ばした。そして検索エンジンに『蛹薬』と入力する。

     エステラが作りたかった魔法薬は十中八九、この変身薬だろう、とイデアは画面を眺めた。

     ──蛹薬。別名、完全変態(メタモルフォシス)薬と呼ばれるそれは、不滅の霊薬より取り締まりは緩いものの、同じように作ることを禁止されている魔法薬だ。

     この変身薬には、服用した者を理想の美しい姿に変えるといった効果がある。その際、蛹のようなものに包まれて不活動期が訪れるという特徴があるためそう名付けられた。蛹の中がどうなっているのかは想像に難くない。この魔法薬を服用すれば、通常の変身薬が数日しか効果が無いのに比べ蛹薬は永続する。全身を作り変えられるのと同義だからだ。

     そして、問題は不滅の霊薬。蛹薬と作り方はほぼ一緒だが、使う素材がひとつだけ異なる。

     世界三大猛毒に指定される花、『腐食の魔女』。見た目が魔女のローブに似た真っ黒な花を咲かせるのが特徴で、貴族の間で主に鑑賞用として楽しまれることが多い。希少価値の高い植物のため、それを飾っている家が裕福であることを示すマウントのような役割も果たしている。

     さて、この花の名前だが、とある魔女に由来している。
     世にも美しいその魔女は男どもを虜にし、数多の女性から羨望や嫉妬の眼差しを向けられる。その美貌は人間だけでなく神をも手玉に取り、彼女は永遠の命をその神に強請って手に入れた。
     しかし神には妻の女神がおり、夫を奪われ怒り狂った女神が魔女を、誰にも愛されないよう毒を放つ身体へと変えてしまう。触れたものを腐らせ、溶かし、殺してしまうこともあった彼女は腐食の魔女として遠ざけられた。
     神にも見放された魔女を哀れんだ一人の大魔法士が、そんな彼女を可憐な花へと変える。せめて、道行く人々からは綺麗な花だと愛でられるように。

     この話は、花が発見されてから生み出された創作だという声もあれば、実在した魔女だという声もある。
     しかしどっちにしろ、強力な毒草であることに変わりはない。

     腐食の魔女にそっくりな花が存在するのは、その花をより楽しむために人々が手を加えて、毒性の無いものを生み出したからだ。本来蛹薬に使われるのはその毒性の無い花の方である。

    「そもそも、禁止薬を作ろうとしたから罰が当たったんだよ……不死を願った魔女みたいに」

     呪われて当然だ、とイデアはタブレットから顔を背ける。

    「蛹薬のレシピは素材集めだけでも難易度が高いのに、そこまでして見た目を変えたい理由ってなに? 拙者なんてこんな見た目でも強く逞しく健気に生きているというのに……」

     言っていて悲しくなってきたのか、彼は布団を頭まで被った。小さく呪文を呟いてお気に入りのヘッドフォンを召喚すると、大きな背中を丸めて現実逃避に勤しむ。

     そこへ、オルトが部屋に入ってきた。ベッドからはみ出ている青い炎が弱々しくて、そっと布団の上から背中をさすってやる。それにビクリとイデアの身体が跳ねた。

    「オルト……」
    「兄さん、大丈夫?」
    「……大丈夫、と言いたいところだけど……。彼女にかけられた呪い──副作用は、解く術がないと言われてるんだ。してやられたよ。父さんはモルガン社を買収、僕は彼女を人間に戻せないからこのまま父さんのもとで社畜ルートまっしぐら。父さんだけが得をした。アイツは知ってたんだよ、彼女がどういうものなのか」

     オルトを抱きしめながら、ほくそ笑む父親の顔を思い浮かべて顔をしかめる。

    「兄さん、とりあえずエステラ・モルガンさんに着替えを持って行ってあげよう? あのままだと風邪ひいちゃうよ」
    「あの子いま不老不死だし、彼女の身体にウイルスが侵入したとしても体内の呪いに返り討ちに遭うだけだし風邪なんてひかないよ」
    「……裸の女の子をほっといてもいいの?」
    「……」

     無垢な瞳に見つめられて、イデアはため息をつくとベッドから降りた。

    「オルト、そこにある布団持ってついてきてくれる?」
    「了解!」

     ごっそりと羽毛布団を腕に抱えたオルトを確認し、彼は再び地下へと赴いた。

     研究所の扉を開けば、そこにはオルトがかけてやった白衣さえも溶かしてしまった彼女が、冷たいテーブルに頭を乗せて眠っている姿があった。

     イデアは浮遊魔法で彼女の体を浮かせると、オルトに持たせた布団をその身体に巻き付ける。エステラを浮かせたまま地下から出て彼女の部屋に戻ると、彼はそっと少女をベッドに寝かせた。手の部分だけ布団に穴が空くのを見て、彼はクローゼットからグローブを取り出すと浮遊魔法で慎重に彼女の手にそれを嵌めた。

    「ま、こんなもんですわ」

     小さくつぶやくと、遮光カーテンを閉めてナイトライトを点す。

    「この子が起きるまでに着替えと、ある程度のものを揃えておこう」

     イデアはスマホを取り出しながら、彼女の部屋の扉を静かに閉めた。


       ◇


    「ん……?」

     薄暗い部屋の中で、赤い瞳が開かれる。周囲を見渡して、そこが研究所ではなく彼女の部屋であることに気が付き、エステラはムクリと起き上がった。

    「あ……」

     いつの間にか嵌めてあったグローブに驚くと共に、自分を包み込む大きなブカブカの服からは嗅ぎ慣れない匂いがする。

     ベッドから降りようとしたところにはスリッパが用意されており、彼女はそれを履いて部屋を出た。

     すっかり寝こけてしまっていたのか、屋敷の中は暗く、小さなシャンデリアの暖かな光が淡く廊下を照らしている。

     スリッパを引きずりながら、彼女は応接室の向かいにある部屋を覗き込んだ。扉が開かれていたそこはダイニングルームだったようで、奥の方にはキッチンが併設されている。

     ダイニングテーブルの四角い天板にはテーブルクロスがかけられ、可愛らしい花瓶にはローズアーチから摘んできたのであろうピンク色の薔薇が活けられていた。

     部屋の大きな窓からは庭の景色が良く見えて、所々ライトアップされているそれは昼間とは違う顔を見せている。

     彼女が隔離され過ごしていた邸宅は、それはそれは広々としたものであった。そして、物が無かった。彼女の体質を考えればそれは当たり前のことなのだが、無機質なその生活は、可愛いものを愛でることに全力を傾けていた少女にとって全てを奪われたも同然だった。

     だからなのか、このこぢんまりとしたダイニングルームから感じられるほのかな生活感に、少女は思わず涙を流しそうになってしまう。

     慌てて感情を押し殺し、酸の涙が溢れてしまわないよう目に力を入れる。スっと表情を無くせば、次第に心も落ち着いていくのだ。
     薄暗い部屋の中、四脚用意されたうちのひとつに座り、ライトアップされた庭を眺める。

    「貰った花束には、悪いことをしてしまったわね」

     彼女は、自分の庭を持つほどに花を愛でることが好きだった。モルガン家の広大な敷地の一角には、彼女が丹精込めて育ててきた草花がいまも彼女の帰りを待っていることだろう。

     そして、その庭で出会った男に、彼女は恋をしたのだ。

    「……うわ、びっくりした。電気くらい付けなよ」

     パチッと音がして、部屋が明るくなる。扉の方を見れば、スーツ姿ではない、青と黒のボーダーを纏った男がそこにいた。

    「イデア様……」

     彼は彼女の隣を通り過ぎてキッチンへと向かった。そのときにふわりと、彼の香りがエステラの鼻腔をくすぐる。それはまさにいま彼女が纏っているスウェットとおなじ香りで、その服の持ち主がイデアであることに複雑な心境になった。

     彼は冷蔵庫からなにやら取り出すと、それを手に持って戻ってくる。

    「はい、喉乾いてるでしょ」

     とん、と目の前に置かれたのは、オレンジジュースの缶。開けられたプルタブにはストローが無造作に突っ込んであり、彼も同じように、オレンジジュースとはまた違う毒々しい色の缶ジュースをストローでちゅうちゅうと飲んでいた。

    「……飲まないの? まさかお嬢様は缶ジュースをお飲みにならない?」
    「い、いえ……いただくわ」

     グローブを嵌めた手で缶を固定し、ストローに口をつける。ちゅう、と吸えば甘ったるい人工甘味料の味がしてエステラは顔をしかめた。

    「デュフッ、使用人に搾らせて飲む百パーセントオレンジジュースとは違いますからな。お口に合わなかったらサーセンwww」
    「……いえ」

     初めは想像と全く違う味に舌がびっくりしたものの、ここへ来てから一滴も水分を摂っていなかったせいかあっという間に飲み終わってしまう。まだ足りないと思い向かいに座ったイデアの方をチラりと見ると、タブレットを操作しながら下品な音を立てて彼も飲み干したようだった。カジカジとストローを噛み、飲み終わるなりベコッと片手で缶を潰す。

    「……なに?」

     エステラの視線に気づいたイデアがタブレットから少女の方へと黄色い瞳を向ける。

    「足りないの。もう一杯くださる?」
    「……いいよ。他にも色々あるから選びなよ」

     そう言って立ち上がると、彼は彼女に手招きをする。冷蔵庫を開ければそこには、ずらりと缶ジュースや目に痛い色のパッケージが並んでいた。彼はまたしても毒々しい色のエナジードリンクを手に取り、エステラはグレープジュースを選んだ。

    「あ、君が使ったストローとかはこっちに捨ててね。缶はそっち」
    「……」
    「何その顔。当たり前でしょ。君は存在そのものが致死性の猛毒なんだからきちんと分別しないと」
    「……そうね」

     遠慮のない言葉に傷ついたのだとイデアは思ったのだろう。しかし、エステラはその逆の感情を抱いていた。

     彼がいまペダルを踏んづけて開いているゴミ箱には、蓋の部分に彼女の名前のラベルが貼ってあった。エステラはなぜだかそれが無性に嬉しく感じたのだ。

     席に戻りちゅうちゅうとジュースを口に含む。普段は天然水を特別製の吸い飲みで与えられている彼女は、缶ジュースのチープな味わいに夢中になった。

     乾きを潤した彼女はきちんと定められたゴミ箱に空き缶とストローを捨てて戻ってくる。足を組んでタブレットに忙しなく指を這わせるイデアに、彼女はこれからのことについてどう話を切り出そうか悩んだ。

    「……あの」
    「謝らないよ」
    「……えっ?」
    「昼間、君を泣かせたこと。僕はなにも間違ったことは言ってないから」

     少女の方を一切見ずに言う彼に、エステラはコクンと頷く。

    「えぇ。貴方が仰ったことはなにも間違っていませんから。言い方は腹立たしいけれど。取り乱して色々と溶かしたりダメにしてごめんなさいね。祖父に言って弁償させるわ」
    「別にいいよ。あんなの直ぐに元に戻せるから」
    「そう……」
    「それに君はもうシュラウドの人間になるんだ。実家に頼るとかそういう考えは早めに捨てた方がいい。これからは僕に……」
    「そのことだけれど」

     イデアの言葉を遮るように、彼女が声を重ねる。

    「今回の婚約の話、白紙にして欲しいの」
    「……は?」
    「貴方も乗り気ではないでしょう。それは私も同じなの。貴方が嫌いとかそういう以前の問題。私には好きな人が居るのよ」
    「……」
    「分かるでしょう? 貴方も、こんな毒人間と結婚することは不本意なはずよ。それにモルガン社がシュラウド社に買収されるのも、私が人間に戻ることが条件のはずよね? ならもうこの婚約は無効でしょう」

     じっと彼を見つめるその瞳には決意を感じさせる光が滲んでいて、イデアはぽかんと口を開けたのち至極怠そうにその長い睫毛を伏せた。目を閉じて長いため息を吐く。そしてゆっくりと開かれた鋭い眼差しで彼女を正面から見据える。

    「君さぁ、なにか勘違いしてるようだからこの際全部ゲロっちゃうけど、今回の婚約、君が人間に戻れるかどうかなんてのは『どうだっていい』んだ」
    「……どういうこと?」
    「シュラウド家はモルガン社を買収出来さえすればいい。君がこの家に来た時点でシュラウドの目標は達成されてる。つまり君がこれからどうなろうと知ったこっちゃないって話しさ」
    「そんな……お、おかしいわ! 不当よ!! いますぐおじいさまに連絡して! 家に帰らせて!」

     ヒステリックな声を出し立ち上がった少女に、イデアは面倒くさそうにポケットからドローンを取り出す。空中に投影されたバーチャルキーボードを叩くとドローンからスルスルと黒煙が現れ、それはエステラに絡みついて自由を奪った。煙の縄は彼女を無理やり椅子に座らせると、霧散する。

    「まぁ落ち着きなよ。よく考えてみて、君がいまどういう立場なのか。
     禁止魔法薬の生成は拘禁刑だ。それを意図的に服用すれば無期刑。君の場合は無期刑に当たるわけだけど、ぶっちゃけ最後には結局このシュラウド家に行きつく。僕らが行ってる不老不死の研究に国が投資してるのは知ってる? さらには被検体まで融通されてるんだ。わかる? 君はどっちみち僕らにたどり着くんだよ。それが婚約者としてか被検体、または実験体としてかはそっちの自由だけど」
    「な……」
    「君の祖父が僕らに泣きついてきたって聞いたときは最初、なにかの病気かと思ったんだけど……。優しいおじいさまじゃん。大切な孫娘を犯罪者にしたくない、実験体にさせたくない、その一心でせっかく大きくした会社までドブに捨てるような真似をしたんだから。
     全部君のせいだよ。もうわかるよね? 君は僕の妻になる以外に道は残されてない」
    「そ、んな……」
    「言っとくけど、今回の縁談を白紙に戻して一番損するのは君だよ。君が不滅の霊薬を作ったことはもう僕らの耳に入ってしまった。この情報だけでいくらでも揺すれる。
     それでも君が婚約を破棄したいって言うなら、いいよ、僕が掛け合ってあげる。父は会社のためなら手段を選ばない人だから、モルガン家が報復されるのは間違いないだろうけどね」

     淡々と言葉を紡ぐ彼の目に生気は無かった。絶望を突きつけられているのはエステラの方だというのに、まるでイデアも苦しんでいるような、そんな表情。

    「どこにも行けないんだよ。君も、僕も」


       ◇


     エステラの夢は、素敵な王子様と結婚して幸せな家庭を築くことだった。いつ読んだか覚えていない子供向けの絵本に描かれていた物語に憧れて、彼女はいつか自分の元にも運命の相手が訪れるのだと思っていた。

     多くの少女は少なからずそんな夢を描いて通るし、その夢が現実にならない絵空事であることを知るのもまた、通る道である。

     しかし、エステラは出会ってしまった。運命の王子様に。

     なまじっか家が裕福であるために、客人として招かれた異国の王子に少女は一目で恋に落ちてしまった。

     幼い頃から花が好きで、与えられた土地で様々な植物を育てていた。その日も、彼女は花の水やりに精を出していた。
     そこへひょこっと現れたのが、同じ年頃の男の子。日に焼けた小麦色の肌に金色の髪が青い空に映え、エステラは初めて花以外に『美しい』という感情を抱いた。
     絵に描いたような素敵な男の子だった。彼は遠い異国の第四王子で、その日は父の視察に同伴しモルガン社を来訪したのだという。
     しかし幼い子供に難しい話はつまらなかったのか、彼は招かれた昼食の席を抜け出して庭を探検し始めた。そのとき、庭で土だらけになっている女の子を見つけて話しかけたのだった。

     異国の言葉ではうまくコミュニケーションが取れなかったものの、お互い同い年であったためかすぐに仲良くなった。

     国に滞在していたのは短かったが、二人の仲は急接近し、木陰に隠れてキスをしたり、将来結婚しようなんていう可愛い約束を交わしたりもした。

     その後も定期的に連絡を取り合うなど、二人は順調に愛を育んでいた。

     写真を送り合うこともあった。エステラは主に花の写真が多かったが、エステラの姿が見たいと彼にせびられ恥ずかしいながらも可愛いドレスで撮った写真は、魔法をかけて映像のように動く。あまり容姿に自信のなかったエステラは常に帽子で顔を隠すような仕草をしていたが、それも愛らしいねなんて言われればその日はベッドのうえで延々と飛び跳ねていた。

     しかし、彼女にも夢の終わりが訪れてしまった。

     第四王子の婚約が発表されたのだ。

     美しい女性だった。白磁の肌にはシミひとつなく、腰まで伸ばされた艶やかな髪は夜の闇のように厳かで、なによりもその真っ赤な瞳が強烈な輝きを放っていた。

     愛しい男よりもまずそちらに目がいってしまうほどに、彼女の恋敵は絶世の美女であった。

     王子様の隣には、それに相応しいお姫様がいるものなのだ。

     エステラはたまらず彼に手紙を送った。私と結婚する約束はどうなってしまったのとか、その女は誰なのとか、そういうものではない。ただただ、迎えに来てくれるのを待っていると。

     返ってきたのは、いつものように甘い言葉だった。君を愛してるよだとか、いつか会いに行くからねだとか。

     少女はその言葉を信じていた。信じて信じて、ある日かの王子が特集されるのだという番組を見て絶望した。
     彼は結婚していた。あの日見た黒髪の女と。

     しかし、彼の国では一夫多妻制というものがあるらしい。少女は月に一度ある手紙のやり取りでそれを知り、彼が自分を迎えに来るのを待った。

     彼の第二夫人が発表されたのはそのわずか数週間後。第一夫人とおなじ、黒髪で美しい肌を持つ女だった。

     エステラは悟った。ああいう女性でなければならないのだと。少女は日に日に自分の顔を見るのが嫌になっていった。くすんだ赤毛も、低い鼻の上に散るそばかすも、何もかもが醜く思えた。

     そしてついに、彼女は禁忌とされる魔法薬に手を出す。祖父は自分を可愛がっていたから何でも買い与えてくれたし、全て集めることが至難とされている蛹薬の素材は簡単に手に入ってしまった。

     ただひとつだけ手に入らなかったのが、『貴婦人の夜』と呼ばれる花だった。その花は特定の団体が管理しているらしく、まず野生に自生していない。少女は手に入らないと知り嘆くものの、家の中で同じものが観賞用として飾られていることに気づいた。

     奇しくもそれは貴婦人の夜などではなく、品種改良を施される前の腐食の魔女と呼ばれる毒草であったのだが。

     蛹薬を作るつもりでいた彼女は、誰にも見つからない場所で魔法薬を煎じそれを飲んだ。

     そうして、世にも美しい毒人間が生まれたのだった。

     全ては、かの王子に愛でられるために。幼い日の約束を守るために。

     しかし彼女の夫となるのは、想い人とはまるで正反対の、幽鬼のような男だった。

     まだそこに、ほんの僅かにでも愛があれば耐えられたかもしれない。しかし彼は彼女に欠片の愛も持たないし、彼女の心もかの王子に奪われたまま。

    「……愛のない結婚なんて意味が無いのに」

     天蓋付きのベッドに沈みながら、彼女はぼんやりとこれからのことを考える。

    「愛する努力はすべきかしら」

     自業自得で招いたこの自体に、巻き込んだことは確かなのだ。

     少女は明日から自分の身の振り方を変えてみようと思い至る。もしかしたら、そこに愛が芽吹くかもしれない。

     朝起きて彼に会ったら、まずはこう言ってみよう。


       ◇


    「おはよう、ダーリン」

     朝。イデアは開いた扉をゆっくりと閉めた。そして何事も無かったかのようにもう一度ダイニングルームの扉を開ける。

    「どうしたの、顔色が優れないわね? ダーリン」

     徹夜明けの頭が見せた幻覚だと思ったが、どうやらそうではないらしい。顔色が優れないのは元々だよ、とツッコミを入れる気力も湧かず、イデアはよたよたと席に着く。

    「どういう風の吹き回し? 鳥肌が立つからやめてくれない?」
    「夫婦は特別な名前で呼び合うものよ」
    「いや、それどこのバカップル? 拙者そういうノリ無理なんで。キャッキャウフフとか出来ないんで」
    「呼んでみて、ダーリン。私のこと」
    「君って形から入ってすぐに飽きるタイプだろ。……エステラ氏でいい? 僕のことはその、ダーリン以外なら好きに呼んでよ」
    「エステラ氏? 却下よ却下。他には?」
    「はぁ……? ほんと君って厚顔無恥だよね。友達いないでしょフヒヒッ。……エステラさんでいいだろ」
    「よそよそしくて他人みたい」
    「昨日会ったばかりの他人だろ……エステラ様でどう?」
    「ありきたりだわ」

     その後も彼女の名前をもじった呼び方を並べてみたもののことごとく却下され、イデアは頭にきて叫んだ。

    「じゃあ他になんて呼べばいいんだよっ! シュガー? ハニー? ベイビー? あぁ、こんな言葉を口にしてるだけで胸焼けしそうだ」

     不快感からオェ、と舌を出してみせる彼に、エステラは目をぱちくりさせたあと頷いた。

    「良いわね、採用よ」
    「……は? いやいやいまのはただの冗談っていうか」
    「採用よ。それ以外で呼ばれたら無視するから」
    「いや待ってよ、無理だって」
    「……」
    「だ、大体なんで勝手に決めるんだよ。僕らそういうんじゃないだろ。君には好きな人がいるし、ぼ、ぼぼ僕だって君が好きじゃない。むしろ嫌い。婚約だって親が決めた事だし君は人間に戻れないんだからもうお互い深く関わらずに、仮面夫婦で居れば良くない?」
    「……」
    「あーもう無視が始まってますって? くだらない、君と同じ土俵に立ってると頭が悪くなりそうだ」

     苛立たしげに立ち上がる。そもそも彼がここへ来たのは缶ジュースと駄菓子を取りに来るためであって、彼女と駄弁を貪るためではないのだ。

     ブツブツと小さく早口で文句を垂れながらキッチンへ向かおうとした彼の行く手を、エステラが阻む。

    「……退けよ」
    「……」
    「耳に硫黄の欠片でも詰まっちゃった? 退いてくれます? 通れないんですが」
    「……」

     エステラは窓の外を眺めつつ、彼が身体を動かせばそれに合わせて彼女も動く。細身とはいえ長身の彼に頭上から鋭い目付きで見下ろされればそれなりの迫力があるのだが、彼女はそんなものものともせずといった表情をしていた。

    「……お願いします、通らせてください」
    「……」
    「……っ、だぁーーーもうっ!! 僕のシュガー、そこを退いてくれ」

     イデアが髪を振り乱しながらそう言うと、彼女はニッコリと笑って道を明け渡した。

    「最っ悪の気分。二度と言わない」
    「またここを塞がれたい?」
    「……なぁ、僕をおちょくって何が楽しいの?」
    「おちょくってなんかないわ。夫婦になるのだもの、いまは愛がなくたって、一緒にいるうちに絆が芽生えるかもしれないでしょう?」
    「それ本気で言ってる? だとしたら救いようの無い馬鹿だな。誰が君みたいなのを愛すると思う? 言っとくけど、僕はよそに好きなひとが出来たらそっちにいくからね」

     エナジードリンクを煽りながら、棚からごっそりと駄菓子を抱きかかえる。

    「貴方にも好きな人がいるの?」
    「……いまは居ないけど、そのうち出来るかもしれないだろ」
    「そう。そうね。そうなったら私は一人ぼっちなの?」
    「そうなんじゃない? てか、君は自分の身体が不老不死だってこと忘れてない? そのうち知り合いはみんな死んで居なくなる。気の遠くなるような時間を君は一人ぼっちで過ごすんだ。ヒヒッ、良い気味」

     長い足で彼女が道を妨げる隙を与えずに彼は部屋を出ようとした。しかしそれを、懲りずに「ダーリン」とエステラは呼び止める。

    「だから、その呼び方やめろって言ってるだろ」

     ギロリと、青い炎を僅かに赤く染めながら振り返った彼に、少女は申し訳なさそうに顔を伏せながら言った。

    「私お腹が空いてしまったわ。何か食べさせて」
    「……あ〜、忘れてましたわ。じゃあ、はいコレ」

     ぽん、と彼は腕の中から四角い箱を選んで投げる。慌ててグローブでキャッチした彼女はそれを見て首を傾げた。

    「なに? これ」
    「来月ウチから発売予定の完全栄養食だよ。ブロックタイプだから食器も要らないし片手で食べられるから作業もしやすい。じゃあもういい?」

     早口で言い、答えを聞く前に出ていこうとする彼をまたしても彼女は呼び止める。

    「ダーリン」
    「──っ、いい加減に」
    「開けてくださる?」

     か細い声で言った彼女に、イデアの視線が少女の手元へ向けられた。華奢な少女に似合わない武骨なグローブに、彼はバツの悪そうな顔をする。

    「……はぁ」

     彼はダイニングテーブルに抱えていた駄菓子をドサッと置き、彼女から箱をひったくると雑にそれを開けた。

    「座れば?」
    「っ、えぇ!」

     嬉しそうに微笑むと、彼女は初めて見る食べ物に興味津々といった様子で彼の手元を見つめた。箱から取り出した銀色の包みを縦に裂いて、彼はエステラに向ける。

    「ん」
    「いただきます」

     小さい口がクッキーのようなそれをパクリと咥え、サクサクと音を立てて齧っていく。

    「……モソモソする。それに……変な味ね、美味しくないわ」
    「そういうもんだよ」

     一本食べ終わる頃にはすっかり口の中の水分が奪われて、彼女は昨日の缶ジュースを欲しがった。面倒くさそうにしながらも彼は取り出した缶にストローを挿してやり、エステラの前に置く。美味しそうにそれを吸う彼女を、イデアはテーブルに肘を付いて見つめた。その視線に気づいた少女が眉をひそめる。

    「なにかしら」
    「黙って。いま君の面倒を見るロボットの設計図を考えてるから」
    「……そう」

     少女は少し寂しそうに目を伏せると、また静かに甘ったるい液体を吸い始めた。


       ◇


     大人しく部屋に戻れば、彼女に出来ることは眠ることだけだ。こういうとき、彼女は魔法が使えれば良いのにと痛感する。

     エステラは魔法が使えない。厳密に言えば、魔法を使おうとすると呪いが制御出来ない。

     手を封じられ、魔法も封じられた彼女に出来ることといえば、物思いにふけってそのまま眠ることだけ。

    「あの人に会いたいわ……」

     エステラは、頭の中に愛しい男を思い浮かべる。三年前、彼女が毒人間になってから一切連絡を取っていない。彼からも手紙が来ることはなく、忘れられてしまったのではないかと不安になる。

     この身体になって以来、彼女はかの人に愛されることを諦めた。諦めたが、想うことは止められなかった。

    「まるで病気ね」

     恋患いとはよく言ったものだと少女は自虐的に笑う。

     エステラは目を閉じて、せめて夢の中で彼に会うことができるように強く姿を思い描く。夢の中だけは、彼女は普通の人間でいられるのだ。

     昼前だが、彼女は静かに眠りに落ちる。願わくばそのまま、二度と目覚めることのないようにと祈りながら。


       ◇


    「ねぇ、起きて。起きてってば。よく寝られるよねこんな時間から」

     そう、不機嫌な声がして、エステラの意識が覚醒する。しかしまだ睡魔を引きずっており、なかなか瞼を開くことが出来ない。それに、とても良い夢を見ていたような気がするのだ。

     しばらく重い瞼と格闘していると、舌打ちの後に少女の耳朶に息がかけられた。

    「僕のシュガー、ハニー、ベイビー。起きて」

     その言葉に、少女の瞼がパチッと開く。

    「面倒くさ……僕にそう言わせるために狸寝入りしてたわけ?」

     左を向けば金色の瞳がすぐ側にあり、エステラは慌てて身体を起こした。

    「まぁいいや。起きたなら着いてきてよ。君に良いもの作ってあげたんだ」

     そう言ったイデアは白衣を纏っていた。少しだけ頭の痛くなるような独特な、工場を思わせる臭いがして少女は息を止める。

     さっさと部屋を出ていった彼を、スリッパを引き摺って追いかけた。

     地下研究所に向かった彼に追いつくと、そこにはちょうどエステラと同じ身長のロボットが椅子に座っていた。彼の弟のような人間に近い外見ではなく、あくまでロボット然としたそれはあらゆる配線や骨格が剥き出しになっている。さぞぎこちない動きをするのだろうと彼女がそれを眺めていると、イデアがバーチャルキーボードでコマンドを入力し、それは動き出した。

     予想外に滑らかに動いたそれに、少女は思わず「まぁ」と感嘆の声を漏らす。

    「フヒヒッ、本邸の拙者の部屋に眠っていたパーツを組み合わせて即興で作ってみたんだけど、なかなか良い動きするだろ? アームには前オルトに使ってたパーツを引っ張り出してきたからかなり高性能だよ」

     そう言って、彼は楽しそうにロボットの腕を持った。

    「これが今日から君の手になる。ナイフやフォークだって使いこなせるし、音声コマンドでも動くからわざわざボタンやコントローラーで動かす必要も無い。これがあれば君は自分で身の回りの事が出来るようになる。つまり! 拙者が君の面倒を見なくても良くなる!! どう、君も嬉しいだろっ?」
    「……」
    「あー……頑なだな。嬉しいだろ? ハニー」
    「えぇ、とても便利そうね」
    「フヒッ、きっと君よりも手先が器用だよ。じゃあ、さっそくなにかお願いしてみてよ」

     得意気に鼻を鳴らす彼に、エステラは少し考え込んでからロボットに声をかけた。

    「お風呂にいれてくださる?」


       ◇


    「どっ、どど、どこか痒いところは……な、ないでござるか〜……」
    「ふふ、ないでーす」

     イデアとエステラはバスルームに居た。湯を張ったバスタブには身体にタオルを巻いた少女が気持ちよさそうに浸かり、そんな彼女の長い髪をイデアの指がわしゃわしゃと洗っている。

    (なんで拙者がこんなことを……)

     少女の髪の生え際を優しく泡立てながら、イデアは顔を真っ赤にして涙ぐんでいた。

     彼がエステラの身の回りの世話にと作ったロボットは、防水加工はしてあるものの流石に入浴の付き添いまでは考えて作られていなかった。そのため、彼女のお願いはイデアが叶える運びとなってしまったのだ。

    「な、流しますぞ〜……」
    「はぁーい」

     二人の声はそこまで広くない浴室の中で反響する。

     イデアはシャワーの温度を確かめてから、慎重に彼女の髪にお湯をかけた。耳に入らないようにそっと耳輪を押さえながら、彼は泡を落としていく。裾と袖を捲って挑んだものの、既に彼の服には至る所にお湯や泡が飛び散っていた。

    「えーと……これか?」

     湯気が立ちのぼるなか、見慣れない可愛らしいボトルを裏っ返して成分表示を確かめる。ポンプをちゅこちゅこと押し、ぎこちない手つきで彼は少女の髪にトリートメントを馴染ませていった。

    「……ねぇ、なんでこんな髪伸ばしてるの? 洗う人の立場になって考えたことある? 切った方が良くない?」

     文句を垂れながら髪に指を通すイデアに、エステラはつむっていた瞳を薄く開いた。

    「あの人、長い髪が好きなんですって。だから伸ばしてるの」
    「あ〜、ナルホド……。なら尚更切っちゃえばいいじゃん、もう関係ないんだから」
    「酷いことを言うのね。別に触れてもらおうだなんて思ってないわよ。……そうね、いつか観賞用としてでもそばに置いてくれたなら、私はそれで十分幸せだわ」
    「へぇ〜。相手はいまの君がどうなってるか知ってるわけ?」
    「知らないわ。連絡を取っていないの」
    「ふーん。まぁ、相手がどんな奴かは知らないけど、不滅の霊薬に手を出したなんて知られれば縁を切られるのは目に見えてると思いますが。
     それに君はシュラウドの人間になるんだ。その願いが叶うことはないよ」

     水圧を少し強めに、イデアは彼女の髪を洗い流す。

     少女の手にはグローブの上からビニールを被せてゴムで止め、完全に水が入らないようにしてあるため何も出来ない。

    「次は身体を洗ってもらえるかしら?」

     その言葉に、イデアはドローンを構える。ボディタオルを泡立てるとそれに手をかざして呪文を唱えた。

     それは実践魔法のひとつで、自動で身体を洗う効果を付与するもの。パァ、と光の粒がボディタオルに集まると、それは自我を持ったようにピョンピョン跳ね始め、エステラの身体を優しく洗い始める。

    「あとはヨロシク」

     ボディタオルにあとを託すと、イデアはひとまず浴室を出た。

     濡れた服を一瞬で乾かし、脱衣所で待機しているロボットを眺めながら早くも二号機の図面を頭の中で引き始める。

    「もうこれ完全介護用ロボットを作ってしまった方が早いのでは……?」

     ロボットのスペックや制作コストを考えていると、サッパリとした面持ちで浴室から出てきたエステラと目が合う。

    「そこに着替え置いてあるから。タオルはそっちのカゴに居れておいて。じゃあ拙者は部屋に戻るから、ロボットに何か問題があれば二階の一番手前の部屋に来てくだされ。間違ってもノックなしに入ってこないでくれよ」
    「えぇ、どうもありがとう。おかげでスッキリしたわ」

     ソウデスカ、と彼はげっそりとしながら脱衣所を出る。部屋に戻るなりベッドに横になると、枕に顔面を沈めた。

    「疲れた……」

     そんな彼の言葉は薄暗い部屋の中へと溶けて消える。モニターの目に悪い光と、その傍らで眠るオルトを包む青白い光が、ぼんやりと室内を照らしていた。それにぼうっと浮かび上がったのは、壁を埋め尽くす勢いで貼り付けられた資料の数々に積み上げられた古書や魔導書。不滅の霊薬のレシピを生み出したとされる魔法士の自叙伝から、あらゆる毒物の図鑑、中にはシュラウドの呪われた研究資料のコピーまでもが床に散乱していた。

     彼は昨日から、寝ずに不滅の霊薬について調べていた。どれもこれも、その魔法薬の危険性について語るばかりで解呪方法については言及されておらず、むしろ人間に戻ることは出来ないと言い切っているものばかりであった。

     イデアは諦めの悪い男だった。目の前にチラつかされた自由が決して手の届かないものだとしても、絶望するまでは足掻き続けなければ気が済まない質であった。

     足の踏み場もない程に散らばったそれらを横目で睨みつけながら、彼はようやく巡ってきた運をその手に手繰り寄せたくて必死だった。

    「自由になったら、やりたいことが沢山あるんだ……」

     頭の中で、諦めていた夢が次々と膨らんでは弾けていく。届きそうもない理想の未来に思いを馳せながら、彼は数日ぶりの眠りへと意識を沈めていった。


       ◇


     それから、数日間、イデアとエステラは顔を一切合わせることがなかった。

     彼が作ったロボットは本当に優秀で、彼女の痒いところに手が届く。一番ありがたいなと思ったことは、ふとした時に痒くなった背中を掻いてもらえることだろうか。

     それにしても、エステラは暇を持て余していた。そして、毎食が完全栄養食だと言われたあのブロック菓子。

     そろそろきちんとした食事をしないと頭がおかしくなりそうだった。

     そこで、エステラはイデアの部屋を訪れた。ロボットに部屋をノックさせる。しかし中から反応は無い。
     もう一度ノックをして、耳を済ませる。やはり反応は無い。

    「ノックはしたから良いでしょう。ロボットさん、開けてくださる」

     それに応えるように、ロボットは滑らかな動きでドアノブを回した。

    「お邪魔するわよ、ダーリ……ん……?」

     エステラが一歩部屋へ足を踏み入れたとき、彼女の鼻先を何かが掠めた。

    「……っふ、……っ!!」

     そこには、ワイヤレスイヤホンからシャカシャカと音を漏らしながら一心不乱に蛍光色のペンライトを振り回す、不気味な男の姿があった。

     普段の彼からは想像も出来ないその機敏でキレのある姿に、エステラは呆気に取られる。イデアの見開かれた視線の先には、三人組の、決して若くはない女性たちが歌って踊る映像がモニターに映し出されており、少女はイデアのそのアイドルグループとを交互に見つめながら、彼の踊りが終わるのを待った。

    「っふぅ〜!! 良い汗かいたでござる!!」

     『がけっぷちもいらす』とでかでかと印字されたティーシャツをパタパタと暑そうに扇ぎながら、イデアはワイヤレスイヤホンを外す。そして、満面の笑みで振り返るとそこにちょこんと座っているエステラの姿を認めて、彼は甲高い、女性のような悲鳴を上げた。

    「なっ、なななっ、なな……なっ、んで……いっ、いつからそこに!?」
    「十分ほど前から。ノックはしたのだけれど反応がないし、入ってみたらその、お取り込み中? だったみたいだからこちらで待たせてもらっていたわ。その、意外だわ。あなたにダンスの趣味があったなんて」
    「だ……ダンスね。そ、そう、ダンス。それより、なんの用?」

     先程の満面の笑みは一瞬で消え失せ、口角をひくつかせながら彼女を見る。

    「お食事の件でお話が。メニューを変えて欲しいのよ。もう、あのパサパサの栄養食は飽きてしまって」
    「えぇ、面倒くさいな」
    「せっかくロボットにナイフとフォークが使える機能があるのに、宝の持ち腐れだわ」
    「まぁ……。家のシェフに言って作らせたものを転移魔法で君の部屋に送るよ。それでいい?」
    「一緒には食べてくださらないの?」
    「僕は忙しいんだ。用が済んだならもう部屋に帰れよ」

     シッシッ、とイデアは手を振って退室を促す。

    「えぇ、お邪魔しました」

     すんなりと出ていった少女に、彼はため息をついてタブレットを操作した。

    「あー、ちょっといい? 食事の件なんだけど。……そう、うん。座標は……」


       ◇



     それから数刻して、イデアはエステラの部屋に訪れていた。アンティーク調の丸テーブルには魔法陣の描かれたテーブルクロスが敷かれ、エステラはソワソワと時計とクロスの上を交互に見つめる。

    「そろそろだよ」

     イデアが言うなり、テーブルクロスの魔法陣が淡く輝く。そして現れたのは、香草サラダ。

    「うん、問題ないみたいだね。このあとスープ、メイン、デザートってくるから、まぁゆっくり楽しみなよ。ちなみに朝は七時半、昼は十二時、夜は十八時にきっちり送られてくるから」

     それじゃあ、とイデアは白衣を翻して部屋を出ていく。

    「良い香りね。さっそくいただこうかしら。ロボットさん、食べさせてくださる」

     少女が言うと、ロボットは器用に使い捨てのフォークを手に持って彼女の口に料理を運んだ。嫌々彼女に食事を運んでいた使用人と違い、ロボットは規則的な動きで彼女の食事の世話をする。 
     とても気分が良かった。使用人の、エステラの口がフォークに近づくだけで身を強ばらせたり、緊張した息遣いなどをいちいち気にしなくてもよい食事は、快適だった。

     食事が快適になれば、次は暇つぶしになるものが欲しかった。

     イデアに言えば「図々しい」「厚かましい」「鉄面皮」と文句を言いつつ渋々彼女の部屋に薄型テレビを取り付けタブレット端末を少女に与えた。ロボットの手でも操作できるというそのタブレットで、彼女は久しぶりに音楽や小説を楽しんで過ごし、時間を忘れることが出来た。

     部屋の中にいれば全てロボットが解決してくれた。食事も、歯磨きも、湯浴みさえイデアが新しく作ったという介助用ロボットが全てを完璧にこなしてくれる。

     便利で、負担が一切なくて、無機質。

     寂しいが、それでも以前のように汚いものを見るような視線を感じないだけマシだった。汚いものを触るような手つきで世話をされるよりマシだった。

    「次は何の音楽を聴こうかしらね。貴方、オススメある?」
    「……」
    「ロボットだもの、分からないわよね。ごめんなさいね」

     彼らは命令は聞くが、話し相手にはならなかった。

     音楽も映画も読書も、最初はとても楽しかったのに最近はどこか、自分とはなにもかも関係の無いもののように思えて楽しめなくなっていた。

     まるで感情が無くなってしまっていくかのよう。

    「むしろ願ったりだわ。感情が無ければ苦しむこともないのだから」

     そう、ベッドのうえでゴロゴロとタブレットでネットの海をさ迷うのにも飽きて、彼女はテレビをつけるようロボットに言う。

     パッとテレビの画面が明るくなったのと同時に、エステラは思わず硬直した。

     大きな画面に映し出されていたのは、愛しい彼の姿だった。そしてその隣に寄り添うのは、エステラとそっくりの見た目をした──否、エステラが『理想』とした、女の姿。

     仲睦まじく、民族衣装に身を包む彼らの姿に、少女は絶句する。

     彼の妻の腹が、大きく膨らんでいたからだ。

     テロップには、『第一夫人ご懐妊』という、おめでたい文字が並んでいた。

     真っ赤な瞳がその映像を焼き付ける。悲鳴にも似た呻き声が喉から絞り出され、少女は見開かれたそこから熱い涙を流した。

     久しぶりに目にした愛しい男は、より洗練された美しさに輝いている。以前はやや粗暴な、やんちゃな雰囲気を纏っていたが、妻の腹を見るその眼差しには、大人びて優しい、父としての自覚のようなものが感じられた。

     フラフラと、少女はベッドを降りてテレビの方へと歩む。手を伸ばし、画面いっぱいに映し出された彼の頬へとその指を這わせると──

     じゅう、と画面が溶け落ちた。

     彼の姿を認めた瞬間、彼女の手を包むグローブは嫌な匂いを発して崩れベッドの上に変わり果てた姿を晒している。

     なにも覆う物のなくなった彼女の素手に触れられた男は、頬を抉られ皮膚を溶かされ、それでも画面の奥で微笑んでいた。

     しかしその微笑みも、消える。

     破壊した薄型テレビから顔を背けて、エステラはその場にうずくまった。

     感情が無くなっていくなどと思っていた数分前の自分を嘲笑ってやりたい。

     煮え滾るような嫉妬と、絶望と、将来への悲観に苛まれながら彼女は嗚咽を漏らした。


       ◇


    「いやぁ、最初はどうなることかと思いましたが快適な生活ですなぁ!! もはや一人暮らしも同然ですわ!! あ、いやオルトも含めれば二人暮しですが!! デュフ、研究もそこそこにゲームに勤しみ、好きなものを食べ、好きな時間に寝起きする……。ハッ!! もしや寮に居た頃より自由なのでは!?」
    「兄さん、規則正しい生活しないと身体がおかしくなっちゃうよ〜?」
    「大丈夫でござる! 拙者そこらのパンピとは鍛え方が違いますゆえ!! 積みゲーも消化して、二期が始まるアニメの一期を復習して、それからそれから……あー忙しい!! 忙しいでござる!!」

     ニッコニッコと携帯ゲーム機を操作しながら、イデアは時おり駄菓子をつまむ。彼の口から喋る度にポロポロと零れた食べかすは円形の小型自動掃除機がその都度回収していった。

    「兄さん、そろそろエステラ・モルガンさんの様子を見に行ってあげた方が良いんじゃないの? 何か困ってるかも」
    「えぇ〜……。困ったことがあれば遠慮なしに言ってくるでしょアイツ。それに拙者が作ったロボットは優秀ですからなっ! やはり科学は世界を救うんでござる! 彼女の不便な生活はいまや誰もが羨む全自動! 声をかけるだけで食事から風呂の世話まで全てが叶う!! きっと怠惰な生活を楽しんでるず。気にしなくていいよ、ほっといても死なないし」

     いいのいいの、と彼はゲーム画面に目を向けたまま、エステラの存在を頭から追い出した。

     そして、朝。彼は寝ずにゲームや作業をしていたことによって足りなくなった駄菓子とジュースを調達しにキッチンへと向かった。わっさと両腕にお目当てのものを抱えながら、ダイニングルームを出る。

     そのまま部屋に戻ろうとした彼だったが、そういえば最近、本当に彼女の姿を見ていないなぁと廊下の奥に視線をやった。

    「……まぁ、少しだけ様子を見るくらいなら」

     イデアは怠そうに、少女に宛てがわれた部屋へと足を進めた。

    (……ん? なんだ、このニオイ)

     扉に近づく度に、少しの異臭が鼻をつく。それは少女の部屋から漏れているようで、扉の前に立つ頃には生ゴミの腐ったような臭いでイデアは思わず嘔吐いた。

    (おえっ、な、なに……?)

     イデアは駄菓子を落とさないようにしつつ扉をノックする。しかし反応は無く、どうしようか悩みつつもその異臭は流石に看過できなかった。

    「はっ、入りますぞっ」

     一応声をかけてから、扉を開く。

     するとそこには、薄暗い部屋の中でロボットのアームに首を絞められているエステラの姿があり、イデアはドサドサと床に飲み物や駄菓子を落とした。

    「なっ、何してるんだよっ!! 今すぐ手を離せ!!」

     慌てて少女に駆け寄る。ロボットは大人しく手を離して、エステラから離れた。

    「一体何が……」

     イデアが部屋を見渡すと、床には腐った食べ物がぶちまけられ、穴が空いて傾いた薄型テレビはひしゃげ、床板は所々腐って穴が空いていた。ベッドはスプリングが剥き出しになっていて、眠れたものではない。なによりも、この惨状を生み出したであろう少女は一糸まとわぬ姿で虚ろな目をロボットに向けていた。

    「おい、お前なにして──」
    「ロボットさん、首を絞めてくださる?」
    「……はっ?」

     イデアの存在に気づいていないのか、彼女はロボットの前に膝をつくと、首を差し出すように上を向く。その細い首筋に、ロボットの指が添えられた。

     イデアはアームが彼女の首を絞めるより早く、その活動を停止させるコマンドを入力する。

    「……何を考えてるんだよ」

     そう声をかけられてようやく気づいたのか、少女は虚ろな瞳をイデアに向けた。

    「……何って……どうすれば死ねるのかを試していたのよ。本当に死ねないのね。苦しいだけで」

     ゴミ溜まりのようなその部屋でさえ、少女の異様な美しさは損なわれていなかった。それが恐ろしくて、イデアは数歩後ずさる。その拍子に、落ちていたスナック菓子がぐしゃ、と踏み潰された。

    「死んだ方がマシって言われたときは傷ついたけれど……貴方の言う通りだわ。こんな身体、死んだ方がマシよ。切り刻んだら死ねるかしら? ご存知?」
    「……シュラウドに寄越された不死の身体を持つ囚人、そいつは切り刻んでも死ななかったよ。ゆっくり時間をかけて再生した」
    「……そう。残念ね」

     エステラはイデアから視線を逸らすと、そっとロボットの頭部に指を這わせた。

     じゅう、と金属が溶けていく。

    「死ねないのなら、せめてあの人をこの手で腐らせてしまいたいわ」

     妖艶に笑う彼女は、ロボットにそっと抱きつく。力を抑えていないのか、彼女の肌に触れたところから金属はたちどころに錆び付いてボロボロと崩れ落ちた。

    「こんな風に、私の腕の中で死んでいけば良い。……あら、ごめんなさい。壊しちゃったわね」

     冷ややかに笑う少女の腕の中で、ロボットはボコボコと泡をたてながら朽ち果てていく。

     イデアはその様子をどこか他人事のように見つめながら、呟いた。

    「拙者陰キャでよかったといま心の底から思ったでござる。女って怖い」


       ◇


    「どこか痒いところはござらんか〜」
    「ふふ、ないでーす」

     イデアはわしゃわしゃと、少女の生ゴミだらけになった長い髪を洗っていた。

     彼はとりあえず、部屋の惨状と少女の身体を綺麗にしなければと彼女を風呂に突っ込んだ。しかし彼女のためにこしらえた介助用ロボットはイデアが部屋に入る前に既に破壊されてしまっていたようで使い物にならず、やはりイデアが彼女の風呂に付き合う形となってしまった。いまごろ部屋ではオルトが指揮を執り、実践魔法により自動化した雑巾やブラシがせっせと部屋を掃除していることだろう。

    「うへぇ、臭いが取れないでござる……もっかいシャンプーするからね」
    「はぁーい」
    「……ねぇ君、なんであんなことしたの? あれ作るの結構苦労したんですが」

     まぁどうせ、好きな男とやらが絡んでるんだろうけど、と彼は予想する。

    「申し訳ないと思っているわ。ごめんなさい。でも、衝動が抑えられなくて……。好きな男が女を孕ませていたら、誰だって殺意を抱くものよ」
    「孕っ……」

     予想以上の返答に、ピシリとイデアは固まった。

    「……えっ、君の好きな相手って既婚者でござるか? 横恋慕? あー、だから変身薬作ろうとしたの? 相手の奥さんに成り代わろうとした?」
    「あの人と出会ったのは、まだエレメンタリースクールに通っていた頃よ。結婚の約束もしていたし、定期的に連絡も取りあっていた。愛してるって言ってくれていたのよ。勝手に結婚したのはあっちの方。彼の妻より、私の方が出会いは早いの」
    「君ちっちゃいころの結婚の約束を反故にされて怒ってるわけ? そんなの子供の口約束じゃん」
    「……そうね。あの人からしてみればそうなのかもしれないわ。でも私にとっては人生で一番大切な約束だったの。あの人と出会ってから、彼が私の全てだった」
    「ふーん。そこまで言われると相手がどんなやつなのか気になりますな」
    「……王子様よ」
    「あーハイハイ。運命の王子サマってやつね」
    「第四王子なの」
    「まさかの本物……」

     泡を流し、クンクンと髪の匂いを嗅ぐ。ようやく生ゴミの臭いが落ちて、イデアはトリートメントに手を伸ばしそれを長い髪に塗布していく。

    「なら尚更手は出せないんじゃないの? 愛人枠狙ってたとか?」
    「一夫多妻制なの、彼の国。確かいま、第三夫人まで居るはずよ」
    「ッハ!! 陽キャパリピの頂点みたいな男でござるな!! 二次元以外でハーレムなぞ羨ま……許せませんな! やめとけやめとけそんな男」
    「想うことをやめられたらこんなに苦しんでいないのよ。忘れられないの。まぁ、恋愛経験がなさそうなあなたには分からないかもしれないけれど」
    「は、はァ!? 拙者だってそれなりに恋愛経験ありますが!?」
    「あら、聞かせてくださる?」

     しゃわしゃわと滑らかな髪をお湯で流しながら、イデアは余計なことを口走ったと後悔した。

    「え、エレメンタリースクールのときに好きな子が出来て、す、すす凄く可愛い子だったんだ。その子にどうしても振り向いてもらいたくて、その子が好きなものをたくさんプレゼントした。でも直接渡すのは怖くて、その子のロッカーに忍ばせたりしたんだ。毎回花を添えてね、その、自分で告白するのはアレだったから、花言葉を調べてさ……。そしたら、す、すごく喜んでくれて。ぼっ、僕がそれをプレゼントしたんだよって言おうとしたら、他の男が嘘ついて自分が入れたって……。次の日には二人はリア充になってましたな。拙者、抗議しようとしたのですが誰も信じてくれなくて……。それからも何かにつけて好きになった子は尽く拙者とは正反対の男に取られて、頑張って告白しても『髪燃えてるし全体的に青くてキモイからムリ』って言われたし……。それからは拙者、二次元以外に恋はしないことにしたんでござる」

     フン、と鼻を鳴らしたイデアに、エステラは微笑んだ。

     「私よりよっぽど恋愛経験が豊富なのね。私はずっと、初恋を引きずっているから」
    「そうでござろうっ、拙者だってそれなりの経験はあるでござる」
    「じゃあ、失恋から立ち直る方法みたいなのはあるのかしら」
    「……そうですなぁ、失恋を忘れるほど夢中になれる趣味をつくることですかな! エステラ氏はなにか趣味がおありで?」
    「……あっ! 忘れてたわ、ダーリン。きちんと呼んでくださる?」
    「……それいつまでやるの?」
    「……」
    「あーもう分かったよしつこいな。僕のシュガーはどんな趣味がおありで?」

     ギュッギュッと髪から水を絞りながら刺々しく言うイデアに、エステラは満足そうに微笑んだ。

    「花を愛でるのが趣味だったわ。実家には私の庭もあるのよ。だれかがきちんと面倒を見てくれていればいいのだけど」
    「……いまの君とはだいぶ相性の悪い趣味だね。他にないの?」
    「他に……そうね、小説を読んだり、映画を観たりするわね。でも、趣味と言えるものかどうかは分からないわ」
    「つまり読書や映画鑑賞ということですな? オッケー把握。それなら拙者にもオススメがありますわ。君のその失恋、拙者がどうにかして進ぜよう」

     イデアはボディタオルを泡立てると、自動化魔法をかけて彼女の身体を念入りに洗うよう指示する。

    「しかしその前に、まず君の部屋をどうにかしなければなりませんな。直すよりも場所を移した方が早い」
    「迷惑をかけてごめんなさい」
    「はぁ、なにを今更って感じですが。お風呂から出て着替えたら二階へおいで。どの部屋にするか一緒に考えよう」
    「待ってダーリン」
    「……慣れないなその呼び方。なに?」
    「お風呂から出たら着替えさせて」
    「……あ」

     イデアはロボットが破壊されていたことをすっかりと忘れていた。彼女が風呂から上がるまで、どうにか裸を見ずに済む方法を頭の中で考える。

     しかしタオルを巻かずに素っ裸で出てきた彼女に「身体を拭いてくださる?」と当たり前のように言われ、イデアは卒倒した。数秒後蘇り一瞬で彼女を乾かしてやったものの、ハッキリと全てをその目に捉えてしまい、なにか大切なものを失ってしまったような気がした。

    「拙者もうお婿に行けないでござる……」
    「あら、私が居るのに?」
    「テンプレでござる……ほら、着替え浮かしておくからさっさと着て」

     そう言うと下着からだぼだぼのスウェットまで、彼女が履きやすいように空中へと浮かせる。

    「ホックを留めてくれないかしら」
    「ほっ、ほほほホックですと!? さらば拙者の純潔……」
    「そうやっていちいち気にしている方が恥ずかしいと思わないの?」

     早くしてくださる? と言って背中を向けるエステラに、イデアは顔をしかめるとパッと裾から手を入れてブラのホックを留める。

    「はい、これで良い?」
    「えぇ、ありがとうダーリン」
    「……ちょっといい加減その呼び方はやめてよ。イデアって呼んで」
    「なによ、つまらないわね」
    「僕はだいぶ譲歩してるけどね。あっ、ボスでもいいよ?」
    「……イデア」
    「最初からそうすればいいんだよ。じゃあついてきて」
    「……」
    「ついてきて、ベイビー」
    「えぇ、わかったわ」
    「めんっっっどくさ!!」


       ◇


     イデアとエステラは、二階の部屋をひとつひとつ見て回った。

    「ここ、陽当たりが良くて気持ちよさそうじゃない? 窓から庭も見えるし」
    「えぇ。でも、いいの? こんなに広い部屋をいただいてしまって」
    「べつに、他に住んでる人居ないんだから気にしなくていいよ。ベッドは……ホコリかぶってるけどシーツ新しいのにすれば使えそう。お姫様みたいなベッドじゃなくて申し訳ござらんが、その分広いし良いよね? クローゼットに後で君の着替えを移動しておこう。
     あとは家具の配置だけど、ここにソファ、こっちに食事用のテーブルと椅子、そこに大型モニター用意して、最高音質のワイヤレススピーカーも設置しよう。
     小説を読むって言ってたけど、君の場合手が塞がってるから電子書籍ね。ハンズフリーの……あー、視線だけで操作できる端末があるからそれあげる。
     さ、では始めましょうぞ!」

     イデアはオルトを呼び出すと、あれこれ指示を出し始める。エステラの部屋もだいぶ掃除が進んできたらしく、二人は忙しなく部屋作りを始めた。
     一方、自分の部屋を作ってもらっているのに何もできることがない少女は、早々に部屋から追い出された。天気がいいから花でも見てきたら? と言われて、少女は久しぶりに屋敷の外へ出る。

     庭の花は見ているだけで十分心が安らぐが、同時にどうしても彼のことを思い出してしまう。

     いまごろ、女の腹に耳でも当てて、胎児の音でも聞いているのだろうか。

     エステラはグローブを嵌めた手で自分の腹をそっと撫でた。

     そこに命を宿すことはない。好きな男を迎えることも出来ない。彼女の胎に宿るのは、全てを溶かし腐らせる猛毒。

    「あの人と出会ってなければ、こんなことにはならなかったのかしら」

     膝を曲げ、足元に咲く小さな花に問いかけると、風に揺られて僅かに頷いた気がした。

    「なんのために出会ったのかしらね」

     エステラは答えのない問いを呟く。それはそよ風に包まれて、何処かへと攫われてしまった。

    「エステラ・モルガンさーん!」
    「……あら?」

     地面から顔を上げると、屋敷の二階からオルトが身を乗り出して彼女に手を振っていた。少女も微笑んで手を振ると、オルトが後ろに居るイデアにも手を振るよう背中を押す。彼は渋々といった様子で控えめに手を上げ、エステラもそれに応えるよう高く手を挙げて振った。


       ◇


    「これがオンラインゲームのハウジングコンテンツで鍛え上げられた拙者の実力でござる! 写真撮ってタグ付けしたいくらいの出来栄え!!」
    「張り切ってたね、兄さん!」
    「こういうのって始めるまでが億劫だけど、やり始めると楽しくてついつい凝っちゃうよね。どう、気に入ったでござろう!」

     ふぃー、と額の汗を拭う仕草をしながら、イデアがエステラの方を振り返る。そこには、目を輝かせて新しい部屋を見る少女の姿があった。

    「す……素敵だわっ!!」

     部屋の中をくるくると見渡して、すごい、すごいと繰り返す。

     その部屋は、シャビーシックなインテリアや家具で纏められた、意外にも女性らしい上品な内装をしていた。

    「本邸の方で使ってないやつ寄越せって言ったら全部古い家具ばっかり転移させてきてさ。まぁどうせなら素材を活かしてしまえということで少し手を加えて、じ、女子が好きそうな色合いにしてみた。こういうくすんだ色味? が好きなんデショ、いまどきの女の子って」
    「兄さんいっぱい検索したんだよ! 普段滅多にマジカメ映えとかのワードは使わないのにね!」

     そう言ったオルトにイデアが慌てふためく様子を見て、少女はくすくすと笑う。

    「本当にありがとう。貴方って多才なのね。オルトくんも、たくさん重いものを持ったり、私が汚したお部屋の掃除をしてくれてありがとう。どうお礼を言ったらいいか分からないわ。
     ……どうしましょう、嬉しくて泣いてしまいそうよ!! 嫌だわ、こんな素敵なお部屋に傷をつけたくなんてないのに」

     部屋を眺めながら感極まって瞳を潤ませる彼女に、イデアとオルトは目を合わせて、フヒヒと笑いグータッチをした。

    「まぁ、下の部屋みたいに酷い荒れようだったら直すのに時間かかるけど、ちょっとした穴とかなら修繕魔法でどうにでもなるよ。拙者は魔法も科学もカンストしてますからな!」
    「兄さんは凄いでしょー!」

     二人の言葉に、エステラは何度も何度も頷いた。

     窓の外はすっかり夕焼け色に染め上げられ、次第に闇が迫ってくる。イデアはブラケットライトを点けるとカーテンを閉め、どさりとソファに身体を沈めた。

    「あー……働いたでござる……」
    「本当にありがとう。今日はもうゆっくりお休みになって。オルトくんも、本当にありがとう」
    「どういたしまして!」

     未だに内装に目を奪われながらエステラがそう言うと、イデアは閉じていた瞳をかっぴらいて少女を睨みつけた。

    「何を言ってるんでござるかっ!? 拙者がなんのためにここまで身を粉にして働いたと!?」
    「えっ……? わ、私のため……?」
    「シュガー、冗談はよしてくれよ。君にはこれからやるべきことがある。そのために最高の環境を作ったんだ。はい、まずはこれね」

     パチンっ! と彼が指を鳴らす。すると、ソファの前のローテーブルにパッと小箱が現れる。それにはなにやら、美少女が銃器を持ったイラストが描かれていた。

    「あとこれ」

     イデアは彼女に、タブレット端末を手渡す。

    「それがハンズフリーのタブレット。三回素早く瞬きしてみて」

     エステラが言う通りにぱちぱちと長いまつ毛を瞬かせると、暗い画面がパッと明るくなる。

    「そこに拙者オススメのラノベを全てぶち込んである。そしてこれはなかでもイチオシのラノベ原作アニメのブルーレイボックス。今夜は寝かせないよハニー」

     ヒヒッ、と鋭い歯を覗かせながら、彼はとても邪悪な笑みを浮かべた。


       ◇


     エステラはソファに座りながら、イデアが読んで欲しいと騒ぎ立てたタイトルを黙々と読み進めていた。普段は推理小説を好んで読んでいる彼女だったが、初めて読むライトノベルというものに彼女はのめり込んだ。瞬きと視線で操作ができるということもあり、ストレスなくおおいに世界観に没頭し、気づけば夜も更けていた。エステラの隣に座るイデアもまた、タブレットで同タイトルの小説を静かに読んでいる。

    「イデア、邪魔してごめんなさいね、喉が乾いてしまったわ」
    「……ん、わかった。いま持ってくる。ちなみにどこまで読み終わった?」

     ずいっと身を寄せて彼女の端末を覗き込んでくる彼に、エステラはビクッと身体を強ばらせた。

    「おぉっ! ついに敵部隊との決戦編でござるな! ここからがムネアツ展開のオンパレードなんでござるよ〜! この先は集中して一気読みして欲しいし、いまのうちに休憩挟んどく? あっ、夜ご飯どうしよう、本邸の方に料理作るの一回止めてもらってるんだ。魔法陣のクロスが駄目になっちゃったからさ。
     あっ、ねぇねぇピザ食べようよ!! この時間帯ならまだ配達やってると思うしっ。オルト、注文して! 拙者ディアボラねっ! シュガーは何にする?」
    「そっ、そうね、マルゲリータがいいわ」
    「了解! 注文するね! ……うん、一時間以内に来るって!」
    「じゃあピザが来るまで各々休憩ということで! そうだ、飲み物なにがいいでごさるか?」
    「グレープジュースがいいわ」
    「おっけ」

     すっくと立ち上がると、イデアはオルトを引き連れて部屋を出ていった。その後ろ姿を見送りながら、エステラはぽす、とソファのクッションに背中を預ける。

    「……不思議な人。私が毒人間だということを忘れてるのかしら」

     ふぅ、と息を吐きながら、タブレットに視線を落とした。

    「そういえば、これを読んでいる時はあの人のことをちっとも考えなかったわね。すごい力だわ」

     ふふ、と少女は微笑むと、部屋の中を改めて見渡す。家具や小物などの細部に至るまでを彼らが自分のためにと考えて作ってくれた空間なのだと思うと、途端に涙が溢れそうになる。

     好きでもない男との婚約、そして同棲生活などあれほど嫌だったのに、それに癒されている自分に驚く。

    「……なにもお返しが出来ないのが、心苦しいわね」

     タブレットを膝の上に置き、彼女はグローブを見つめて申し訳なさそうにため息をついた。

     一方その頃、イデアはどうせならとたくさん飲み物と駄菓子を抱えていた。

    「兄さん、嬉しそう!」

     どこかニヤケ顔をする彼に、オルトも嬉しそうに微笑む。

    「弟よ……拙者、気づいたんでござる。彼女はまだ何も吸収していないスポンジなのだと。どうせこれから嫌でもずっと一緒にいるんだから、この際拙者好みのオタクに育て上げてみせるっ!」

     キリッと眉に力を入れる彼は、この上なくイキイキとしていた。

     その後無事ピザが届き、イデアがそれをエステラに食べさせてやった。伸びるチーズに悪戦苦闘しながらも終始和やかなムードで食事を終え、日を跨ぐ前にとオルトをスリープモードにしてからも、二人は楽しく小説を読み耽った。

     流石に徹夜に慣れていないエステラは朝日が昇る前に寝落ちしてしまったので、イデアはドローンで彼女をベッドに運んでやる。そっと布団をかけ、彼は照明を暗くすると静かに部屋を出た。


       ◇


     翌日、エステラがついにシリーズを読破し、三人はアニメ鑑賞へとステージを移した。全くと言っていいほどにアニメを見たことがなかった少女は、文章の物語が映像として動くことにはしゃぎまくる。その隣では布教に成功した男が気味の悪い笑みを浮かべ、そんな二人をオルトは聖母の眼差しで見守っていた。

     そして、半強制的に始まった三人の奇妙な同棲生活は、およそ三ヶ月を過ぎる頃にはかなり慣れたものになっていった。

     はじめこそ嫌々といった顔で少女のことを愛称で呼んでいたイデアだったが、いまではもう、それが当たり前の生活になっていた。

    「僕のシュガー、次はこれを! 推理小説が好きだと小耳に挟みましてな。絶対気に入るから!」
    「ハニー? いまの解釈はまちがってる。この作品の何たるかを叩き込んでやるからそこに座って」
    「ねぇベイビー。面白かったろ? 劇場版はifルートなんだ。そっちも観よう。え? 眠い? やだやだやだもうちょっとだけ! まだ夜中の三時でござる!!」

     などと、日に日に彼はエステラとの距離が近くなり、それに少女はむしろ戸惑っていた。

     以前はロボットに任せ切りだった彼女の着替えや風呂も、当たり前のようにイデアが面倒を見ている。

    「気持ちいいでごさるか〜?」
    「えぇ」
    「フヒヒッ、ゴッドハンドと呼んでもいいでござるよ〜。あっ、着替えにはこのあいだ一緒に見たアニメのパーカーを用意したからねっ!」
    「あ、ありがとう」
    「どういたしまして!! デュフッ」

     髪を洗いながら至極楽しそうにする彼に、エステラは戸惑いつつも惹かれてしまう自分に気づいていた。

    「はい、あーん。なんつってwww」
    「……そのフォークの向き刺さらない? 怖いわ。貴方よくそんな食べ方で──むぐっ」
    「美味しい?」
    「……えぇ」

     なぜそんな持ち方で綺麗に食べられるのか、逆に器用とも言える食器の持ち方で甲斐甲斐しく少女に食事を運ぶ彼が、酷く愛おしい存在に思えてしまう。

     さらに。

    「ベイビー、歯磨きの時間でござるよ〜」
    「……おねがいするわ」

     マスクをし、ゴーグルをかけ、手袋をした彼がシャコシャコと丁寧に彼女の歯にブラシをかけていく。

    「電動歯ブラシだと歯茎を傷つける恐れがありますからな……フヒッ、拙者と歯の形が全然違うでござる〜。こんな平べったい歯でよく物が噛み切れるよね」
    「あなひゃのほうほそふるほふへひゃいへんほう(貴方の方こそ鋭くて大変そう)」
    「何言ってるかわかんないでござる。悪口? まぁいいや、はい、噛んでくだされ〜」

     そうして歯磨きが終われば彼は当たり前のように彼女の隣でベッドに寝転び、同じ小説を別々の端末で読みあかすのだ。

    「ねぇ、このラノベの敵キャラと君って似てるよね。ちょっとこの髪型やってみてもいい?」
    「出来るの?」
    「たぶん。オルト、櫛と髪ゴム持ってきて」

     そう言って持ってこさせたもので、イデアは少女の黒髪を優しく梳かす。そして動画を参考にしながら彼女の髪をアレンジし始めた。

    「え、まってこれどうなってるの? ちょ、オルト、三十秒巻き戻して。……ほぉーん。なるほどわからん」
    「兄さん、ここにこっちの髪を通して、あっ、ここからもう間違えてるよ。ここは根元から掬って……」
    「おっ、こう? こうだろ! ほら出来た! ねぇオルトあれ取って壁にあるやつ! ……トンクス! これをこうして……完璧でござる!! 見てっ! 見てくだされ!!」

     イデアはパシャパシャと写真を撮ると、興奮した面持ちで彼女に見せる。

    「わぁ……!!」

     そこには、ハーフアップに編み込まれた髪に、飾られていたドライフラワーの花が挿しこまれていた。

    「お姫様みたいだね!」

     オルトが言うと、エステラは頬を赤らめてふわりと笑った。

    「せっかく綺麗に結ってもらったのに、寝たら崩してしまうわね」

     少女はベッドから立ち上がって、姿見の前で髪を眺めながら苦笑する。

    「き、気に入ったなら明日もやってあげるけど?」
    「まぁ、本当に?」
    「うん。君が良ければだけど」
    「嬉しいわ、是非!」

     エステラが蕩けるような笑顔を見せると、イデアは照れくさそうに顔を背けた。

     そんな表情をされると、胸の当たりがキュッと締まる心地がして、なんだか落ち着かない気分になる。

     少女はその感覚に覚えがあった。

    「違うわよね。私が好きなのは……」

     夜中。エステラは与えられたタブレット端末で、殺したいほど焦がれていた想い人の名前を検索する。すると、ズラリと並ぶ王子と、麗しい妻たちの顔。

    「……おかしいわ。なんでこんな……」

     少女の心臓は、恋心を忘れてしまったかのように酷く平穏に脈打っていた。


       ◇


     奇妙な同棲生活が始まってから、約五ヶ月。イデアは彼女と仲良くヲタ活をする傍らで、不滅の霊薬の研究も並行して進めていた。
     地下研究所の一角、鍵付きの小部屋でイデアは資料と睨み合う。

     数少ない、不滅の霊薬を服用した被検体のあらゆる写真がまとめられたその資料に、イデアは徹夜で目を通した。

    「……はぁ」

     パタン、とバインダーを閉じながら、イデアは顔を上げる。すぐ正面には壁があり、それはエステラの様々な写真で埋め尽くされていた。とくに多いのは後頭部と、口内の写真。
     後頭部の写真を撮るためだけに、彼は毎日彼女のヘアアレンジをしている。そして、光学迷彩を施した小型カメラで、歯磨きをしている時に口内の撮影もしていた。

    「やっぱり、見間違いじゃない……」

     イデアは写真の中の、花に彩られた髪の毛を辿り──ハーフアップにした際発見した、彼女の『名残』を撫でる。

    「君はまだ、人間に戻れる」

     彼の骨ばった青白い指先が、艶やかな黒髪の奥に隠れたくすんだ赤毛を引っ掻いた。

    「……僕の知識とシュラウドの研究資料だけじゃ圧倒的に情報不足だ。もっと、毒物に詳しい人間に話を──あ」

     居るじゃないか。一人、凄まじい知識量を持つ男が。


       ◇


    「──それで? アタシをわざわざこんなところに呼び出して何の用かしら」

     イデアは、ナイトレイブンカレッジの図書館に居た。奥まった人気のないところで相対するは、思わずひれ伏したくなるような圧倒的美を放つ男。

    「ちょっと……ヴィル氏に聞きたいことがありまして」

     そう、タブレット越しに言う。

    「聞きたいこと? それならお得意のSNSなりメールなりで済ませたら良かったじゃない。対面会話が苦手なアンタがわざわざ呼び出してきたから、大事だと思って忙しいスケジュールの合間にこんなところまで来たのに」

     はぁ、とヴィルは背を丸めて縮こまっている彼を見下ろす。そんなイデアの腕には、銀に艷めく小ぶりのアタッシュケースが抱かれていた。

    「それで、聞きたいことっていうのは何?」

     まるで幼子のようにケースを抱きしめる彼に、ヴィルはやれやれと優しい口調で問いかける。

    「……あの、絶対誰にも言わないって誓ってくれる? もちろんお礼はするでござる」
    「他言無用ってことね。いいわ」

     その言葉に、緊張で強ばらせていた身体を僅かに緩めて、彼はタブレットにとある魔法薬の画像を表示した。

    「ヴィル氏なら知ってると思うんだけど……不滅の霊薬について、いま少し調べてて」
    「……それはシュラウドの呪われた研究の一環? なら話は聞けないわ。アタシ、イメージダウンやスキャンダルに繋がるようなことは極力避けたいの」
    「アッ、ちがっ、その……いや違くないんだけど、なんて言うか……あっ、これ先に」

     オロオロとし始めた彼はその場にうずくまると、カーペットの上にアタッシュケースを広げた。

     中にはウレタンの緩衝材が敷き詰められ、その真ん中に、黄緑色の液体の入った小瓶がひとつだけ、くり抜かれた型にはめこまれる形で鎮座していた。

    「『ヒュドラの血』でござる。ヴィル氏、魔法薬学のときにこれ欲しいって呟いてたでしょ。これあげるから、拙者の話を──」

     聞いてくだされ。そう続けようとした彼の肩を、ヴィルがガシッと掴む。

    「待っ!! アンタこれっ!! 本物なのっ!?」
    「ほ、本物というのには少し語弊があるかもだけど、ヒュドラの血であることには変わりないでござるよ。あともう少し声を抑えて……防音魔法のせいで声が反響して耳が痛い」
    「あら、ごめんなさい。取り乱したわ」

     イデアは話の内容を聞かれたくないと念入りに防音の結界を張っていた。そのせいで、声は結界内で反響してしまう。未だにキンキンと、二人の周囲でヴィルの声が木霊していた。

    「こんな代物、何処で手に入れたのよ」

     イデアと同じように、長い足を折り曲げてしゃがみアタッシュケースの小瓶を凝視する。その顔つきは一瞬のうちに、俳優としてでは無い、毒物のスペシャリストとしての面持ちになる。

    「ヒュドラの幼体を飼ってるんだ。子供の頃、父親に連れられたオークションで卵を手に入れて。孵化器で孵すところから餌やりまで全部一人でやった。あの子、拙者をママだと思ってるんでござるよデュフフ。あ、写真見る? 首を切り落として増やすのは可哀想だからまだ頭は一つしかないんだけど、なかなか可愛い顔してるでしょ」

     タブレットに映し出された蛇にもトカゲにも似た怪物は、人間を簡単に、丸呑みにしてしまえるように巨大だった。
     パーカーの袖で口元を押さえながらグフグフ笑う彼に、ヴィルは目を丸くする。

    「伝説の魔法生物なのに、よく手に入ったわね」
    「クローンなんだ。『クーネー』っていう魔法の卵に細胞を入れて生み出された。この子を生み出した魔法士はあらゆる魔法生物に精通してて、個体数の少ない種や絶滅危惧種の保全活動をしてる。ただやっぱりそういう活動にはお金が必要でさ、そこでこの子の卵がオークションにかけられたんだ。僕はべつに欲しいわけじゃなかったんだけど、値段がどんどん釣りあがっていくのを見て、父親に強請った。困った顔が見たくてさ。まぁ結局、涼しい顔で落札してたけど……」
    「流石は名家ね」
    「シュラウドが名家だったのは昔の話だよ。あの金だって、出処はどうせろくなもんじゃないんだ。
     それで、どう。話聞いてくれる気になった?」
    「……良いわ。手短にね」

     腕時計を確認しつつ、ヴィルはパッと立ち上がる。イデアはケースを閉じると、それを彼に差し出しながら再びタブレットに魔法薬の画像を映した。

    「不滅の霊薬について、ヴィル氏はどれくらい知ってる?」
    「レシピから効果まで、全て知っているわ。副作用の腐食の呪いもね」
    「じゃあ、その呪いを解く術は?」
    「……無いわ。不滅の霊薬を扱った映画があるのは知ってる? ダッドがそれに出演したとき、監督と共に不滅の霊薬を作った魔法士から直接話を聞いたらしいわ。レシピを作った彼は断言した。解呪方法は無いとね」
    「……そう。まぁ、そうだろうね。じゃあさ、不滅の霊薬を飲んだのに、まだ身体の一部に服用前の身体的特徴が残っていることについて、どう思う?」
    「? そんなことは有り得ないわ。レシピは完璧よ」
    「これを見て」

     イデアはタブレットに、二人の少女の写真を表示する。片方は赤毛で垢抜けない少女。もう一人は、夜闇の髪に紅玉の瞳を持つ美しい少女。ヴィルはその、黒髪の少女を見て「あら」と声を出す。

    「テネエラじゃない。知り合いだったの?」
    「テネエラ? 誰でござるか」
    「有名な女優よ。何度か共演したことがあるわ。この子、確かどこかの国の王室に嫁いだはずよ。少し前に子供が出来たってニュースでやっていたわ」
    「あー……そういうこと。いや、拙者の知り合いはこっち」

     イデアは、赤毛の少女を指さす。

    「この子はエステラ。不滅の霊薬を飲んで、その姿になったんだ」

     彼は画像を切り替え、彼女の髪を初めてアレンジしてやった日の写真を拡大する。

    「黒髪に、一束だけ赤毛が混じってる。それに、これ」

     画面をスワイプすると、次に現れたのは口内の写真。奥歯に、微かだが他の歯と色味の違うものが一本混じっていた。

    「歯の色が一本だけ違う。不死だから神経が切れてるとかそういう理由じゃない。二つとも、服用前の彼女の色だ。
     聞きたいことって言うのは、この不滅の霊薬、もし完全に飲み干していなかったらその効果はどうなるのかってことなんだ。例えば、もし一滴だけフラスコの中身が残っていたら? ほんのわずかに、水滴が瓶の内側に残っていたら?」
    「……通常の魔法薬なら規定量を服用しなければ効果が半減、あるいは持続性にムラが出る。それはどんな魔法薬にも言えることよ。
     そのエステラっていう子がまだ人間に戻れる可能性があると、アンタはそう考えているのね」

     コクリと頷いたイデアに、ヴィルはおもむろに制服の内ポケットからスマホを取り出す。聞きなれない言葉で、誰かと連絡を取っているようだった。

    「『──はい、ありがとうございます。父もまたお会いしたいと……えぇ、また近いうちにお伺いします。では、失礼いたします』」

     いつもより数段低い声で喋る彼は、終始難しい顔をしていた。通話を切りイデアの方を見ると、先程受け取ったばかりのアタッシュケースを彼に突き返した。

    「えっ、なっ、なんで」
    「不滅の霊薬を生み出した魔法士と話したわ。もし規定量を飲まなかったらどうなるか。アンタの予想通り、その子はまだ人間に戻れる」

     彼の言葉に、イデアはパァッと目を輝かせる。クマに縁取られた黄色い瞳が、見たこともないほどに生気に満ち溢れる。その様子を見て、ヴィルの表情はさらに険しくなった。

    「人間に戻る代わりに、その子は死ぬわ」
    「……へ?」

     イデアは生き生きとした顔のまま、小首を傾げる。

    「不滅の霊薬は、規定量を下回る量であったとしてもある程度はその効果が保証される。不完全といえど不死と腐食の呪いは延々と続くそうよ。
     ただ、それを打ち消すことの出来る物質が存在する」

     ヴィルは、彼に突き返したアタッシュケースを見下ろす。その瞳には燐憫の色が滲んでいた。

    「ヒュドラの血よ。不滅の霊薬が不完全であれば、その効果を打ち消すことができる。でも……アンタなら、分かるわよね。ヒュドラの血には解毒方法が無い。人間に戻った瞬間にその子は死ぬ。
     選ばせてあげなさい。アンタに出来るのは、それくらいよ」

     そう告げたヴィルが、いつ目の前から去ったのか分からない。しかし、固まってしまった彼の肩を慰めるように数回軽く叩いたことだけは、微かに覚えている。

     まだ明るかったはずの外は既に暗くなっていて、放心していたイデアは自分がどうやって家まで帰ったのか、玄関を開けて自分を迎えた少女の、心配そうな顔にどんな表情を返したのか、上手く思い出せない。

     しかしきっと、酷い顔をしていたことには違いなかった。


       ◇


     彼女のことをどう思っているのかと問われれば、それがある種の友情なのか、あるいは面倒をみてやっていることから来る父性のようなものなのかは、よく分からない。

     共に過ごしていくうちに絆されてしまったのだと、イデアは彼女の髪に指先を絡ませながら考える。

    「あら、ねぇイデア。私の考察通りの展開よ。ふふ、だからあのとき貴方変な顔していたのね。展開を読まれて悔しかったのかしら? でもごめんなさいね、伊達に推理小説を読んできていないのよ。私はちゃんとここの伏線に気づいて……あら? 待ってちょうだい。おかしいわ。嘘よ!! 主人公が真犯人!?」

     ガタン!! とエステラがソファから立ち上がった拍子に髪がするりと指から逃げて、イデアは顔をしかめる。彼女の、青と黒のボーダーに包まれた身体を腕を掴んで引き寄せると、自分の足の間に座らせた。

    「フヒヒッ、あのときは拙者、君がまんまと罠に嵌った考察を得意げに話すもんだから笑いを堪えるので精一杯でしたわwww」
    「してやられたわね……。最高よ! 続きも見ましょう」

     モニターに視線を向けたまま自分に背中を預けてくる彼女の温もりと重みが、こんなに愛おしいと思うのはきっと家族愛のようなものなのだ。

     イデアは少女に気づかれないように、彼女の髪にそっと唇を寄せる。

     この感情は、決して恋じゃない。そうであってはならないのだ。

     なぜなら彼女には、殺したいほどに焦がれている男がいるのだから。

     好きだと告げれば、きっと彼女は距離を取る。

    「イデア、なんだかこの体勢近すぎる気がするわ。少し離れましょう。この間の最終回で興奮のあまり服を溶かしてしまったのを忘れたのかしら? あぶないわよ」

     ぎゅう、と抱きしめるイデアの腕を、グローブの先で控えめにちょんちょんとつつく。そんな彼女を見て、彼は青い唇を尖らせた。

    「こ、婚約者なんだからこれくらい当然では? それにこの服にはしっかり防御魔法をかけてあるから、少しなら君の呪いにも耐えられるよ」
    「そうなの。そう言われると逆に溶かしたくなるわね」
    「君だいぶ自分の呪いに対してポジティブになってきてない?」
    「貴方のせいよ。たまに自分が呪われていることを忘れるときもあるくらいだわ」
    「……良いことだよ。そのまま、全部忘れちゃえばいいんだ」

     君の王子様ってやつのことも。とは、言えない。

    「そうね、忘れたいけれど……忘れたらだめなのよ」

     そう苦笑するエステラに、彼は酷い虚しさ感じた。

     お互いに不本意な形で始まった婚約者としての同棲生活。
     気持ちの伴わないその生活が続くことが、イデアにとっては苦痛でしかなかった。
     しかしいまは、苦痛といっても種類が違う。

    「ねぇ、ハニー」
    「なにかしら」
    「もし君が人間に戻ったら、一番最初に何がしたい?」
    「……そうね、あの人に会って、あの綺麗な横顔にこの手で一発食らわせてやることかしらね」
    「いまの方が威力が高いんじゃない?」
    「恐ろしいことを言わないでちょうだい。さぁ、続きを再生してくれる?」
    「……ん」

     腕の中にいる少女が、決して自分を愛さないこと。一方的な愛を抱いて生きていくことが、彼には苦痛で苦痛で仕方がなかった。


       ◇


     少女は最近、イデアから目が離せない。

     出会った時から美しい男だとは思っていた。自分の容姿が気に入らなくて、禁止魔法薬にまで手を出してしまったエステラからすれば彼の美しさはただただ腹立たしいだけだったのだが、最近はどうもおかしい。

     いつも通りベッドに横になり小説を読む。しかし隣に彼が居るとそちらにばかり目が行って全く集中できなかった。

     金色の瞳が文字を追う。青い睫毛は長く、触れたら気持ちいいに違いない。病的なまでに青白いその肌はきめ細かく、しっとりと手に吸い付くだろう。青い唇は少しかさついていて、対象的な赤い舌がペロリとそれを舐めるのが酷く扇情的だった。そこに口付けたら、きっと温かくて柔らかいのだ。

     そしてその行為は全て、彼を凄惨な死へ導く。

     エステラは無意識に涙を流していたのか、ジュウ、とシーツの溶ける音がしてハッと我に返った。慌てて彼から目を逸らし、少女は涙を抑えようと頭を振って余計なことを考えないようにする。

     それにイデアが気づいて顔を上げる。「なにかあったの?」と彼女の涙を拭おうと手を伸ばすが、少女の涙が酸であることを思い出し、やり場のなくなった手を彼女の頭の上に置いた。優しく、宥めるように撫でてやるものの、彼女の涙は酷くなる一方だった。

    「嫌なことでも思い出した?」

     つとめて優しい声音で問いかけるも、彼女は弱々しく首を振って彼の手を払い除ける。

    「ちがう。ちがうのよ」

     少女はうわ言のように呟く。

     その恋心は、誰も幸せにしない。気づくなと、それは恋なんかじゃないと自分に言い聞かせる。

     イデアの、いまにも泣きそうな顔に気づくことなく少女は枕に顔を埋める。しばらくカバーに穴を開けながら、彼女はそのまま眠りについた。

    「……違うって、なに? 拙者なにかしました?」

     イデアは少女が息苦しくならないよう、ふわりと浮かせて仰向けに寝かせる。

     開かれたままのタブレット見て、ふと、邪な考えが頭をよぎった。彼女が静かに寝息を立てているのを確認して、イデアは検索欄を漁る。

    「は、はは……なにこれ……」

     そこには、少女の想い人に関する検索履歴がズラリと並んでいた。イデアは初めて目にするその男に、顔をひきつらせる。

    「これが君のワンダーボーイってわけね。僕とは本当に、正反対の……。イイ趣味してるよ」

     サラサラの金髪に、褐色の肌。爽やかな笑顔は男のイデアも唸るほど端正な顔立ちをしていた。

    「検索履歴は消しといてくれ……常識だろ」

     彼は履歴をまっさらにしてからスリープボタンを押した。ぽす、とベッドにタブレットを放り投げ、視線を隣に向ける。

     ぞっとするほど美しいその寝顔には、未だに慣れない。

    「ねぇ、シュガー。君はまだ、死にたいって思ってる?」

     イデアは彼女に、まだ『あのこと』を伝えられていなかった。

     言ってしまえば、彼女はきっと嬉々としてヒュドラの血を飲むだろうから。

    「呪われた君でも、僕が愛してあげる。手を繋げなくても、キスが出来なくても、これまでみたいに楽しく過ごそう。仕事が始まれば忙しくなるけれど、つまんない上休みのない仕事も、君が居れば耐えられそうな気がするんだ。
     ……まぁどっちみち、君に選択肢はないよ」

     ヒヒッ、と力なく笑う彼は、彼女の左手のグローブに触れる。

     「僕なら君に、呪いに負けない指輪を作ってあげられる。……嬉しいだろ」

     言いながら、イデアはあまりの虚しさに涙がこぼれた。


       ◇


     エステラが目覚めると、そこにイデアの姿は無かった。うつ伏せで寝たはずが、きちんと仰向けになって布団も被っており、彼の優しさにため息が出る。

    「それにしても、嫌な夢だったわ」

     彼女は、寝ている最中に溶けてしまったグローブを睨みつける。

    「シーツを替えてもらわないとね……」

     苦い顔をしながら、少女はベッドから降りた。行儀は悪いが仕方なく足でクローゼットを開き、吊り下がっているグローブのひとつを手に取る。キチンと嵌ったのを確認すると、エステラは部屋を出た。
     イデアの部屋に向かい、扉を叩く。中からは反応が無く、少女は階段を降りた。

     ダイニングルームを覗けば、そこには燃える炎の髪を持つ男が椅子に背を預けて眠っていた。テーブルの上にはまだ湯気を放っているコーヒーと、タブレット。

     エステラは彼の向かいの席にゆっくりと腰を下ろしながら、窓の外を見る。朝日の柔らかな日差しが庭に注がれていて、少女は「綺麗ね」と小さくこぼした。

     その声に、ぱちりとイデアの瞳が開かれる。しぱしぱと瞬きを繰り返してから、目の前の少女に微笑んだ。

    「おはよう、シュガー」
    「おはよう、イデア」

     くぁ、と大きな欠伸をした彼は、少しだけカップに口をつけてから、タブレットに視線を落とす。

    「あの、イデア。忙しいところ悪いのだけれど、あとでベッドのシーツを変えて欲しいの。寝ている間にグローブを溶かしてしまって」
    「あぁ、うん、やっとく。……悪い夢でも見たの?」

     寝起きだからか、掠れた低い声に優しく問いかけられ、エステラはそれだけで泣きそうになってしまう。

    「……そうね、酷い悪夢だったわ。迷惑かけてごめんなさいね」

     申し訳なさそうに彼を見るエステラに、イデアは「いいよ、気にしないで」と、これまた優しく答える。

    「君もなにか飲む? 甘ったるい缶ジュースばっかりじゃ飽きたろうから、たまには趣向を変えて果汁百パーセントのものも用意させたんだ。オレンジでいい?」
    「えぇ、ありがとう」

     イデアは立ち上がって、紙コップにそれを注ぐ。ストローを挿して差し出せば、彼女は小さな口をさらに小さくすぼめて控えめに吸い付く。自分が居なければ生きていけない彼女が愛おしくて、形の良い頭をそっと撫でた。

     その手を、エステラが避けるように頭を動かす。

    「……え」
    「おかわりくださる?」
    「……ぁ、あぁ、うん。待ってて」

     差し出された紙コップを手に、妙な違和感を抱きながらも彼はオレンジジュースを注ぐ。

    (……いま、嫌がられた?)

     ショックだった。彼女は自分を愛していなくても、それなりに仲良くはしているはずだったのだ。

     イデアは、次はなみなみとコップにジュースを注いでから、もう一度彼女に触れる。しかしやはり、彼女はそれを避けるように座りながら身体を遠ざけた。

    「は……なんで」
    「あまり私に触らない方がいいわ。最近距離が近いと思うの。ほら、私毒人間だから……あぶないわよ」
    「な、何をいまさら……」
    「またあのロボットを作って欲しいわ、イデア。私の面倒はロボットに頼みたいの。貴方なら作れるわよね」

     大きな赤い瞳がイデアを見上げる。それに、彼は首を横に振った。

    「き、君の面倒は僕が見るよ。いまはその、パーツを切らしてて……」
    「なら、揃ったらすぐに作ってくださる?」
    「なんでそんな、いきなり……。そ、そんなに僕に触られるのがイヤなの?」

     自分でも声が震えているのが分かった。そんな彼から少女は目を逸らして、グローブを見つめる。

    「そういうわけじゃないのよ。ただほら、私……こういう身体だから」
    「ぼっ、僕は気にしないよ」
    「私が気にするのよ、イデア」

     どこか咎めるような鋭い視線で、エステラが彼を射抜いた。その顔からは、表情が読み取れない。出会ったばかりの頃のような、人形と見紛う無表情。

    「……そのうち作るよ」

     彼はそう、絞り出すように言った。

    「ありがとう」

     少女は微笑んで、ストローに口をつける。

     イデアはその場にいる自分がいたたまれなくなって、タブレットを持ちダイニングルームを出た。

    「毒人間だからなんて……いまさらだろっ。体のいい言い訳だ。そんなに僕が嫌なのか? もしかして、これまでずっと我慢してた?」

     研究室に向かい、荒々しく扉を開く。

    「好きでもない男に触られるのは気色悪い? ならなんで最初っから言わないんだよ。う、嬉しそうにしてたろ!! なんで……クソッ!!」

     苛立つ感情を抑えきれずに、彼はコンクリートの壁を蹴った。

     ──ガコッ

    「……?」

     イデアの白い靴が蹴り飛ばしたその壁から、何かの外れる音がする。
     不審に思って触れてみれば、少しの力でそれはすんなりと動いた。

    「隠し扉……?」

     開いた扉から、顔だけで中を探る。そこには小さな空間があり、階段が下へと続いているようだった。

    「こんな場所があるなんて聞いてないけど」

     イデアはそろそろと、壁伝いに階段をおりる。人感センサーの青白いライトがぼんやりと足元だけを照らす。

     そうしてたどり着いたのは、鉄柵のついた狭い独房だった。

    「なんだここ……」

     鉄柵の向こうには、何かを繋いでおくための手枷と足枷が、太く分厚い金属の鎖で壁に繋がっている。しかしそこには何もなく、空っぽであった。

     そして一際目を引いたのが、そこかしこに刻まれた魔法陣。洗脳や催眠術といった相手の思考を根こそぎ奪うような、決して気持ちのいい魔法ではない。

     魔法史の授業でも、その魔法陣は度々取り上げられる。かつて奴隷制度があった時代、奴隷に押された烙印にこの魔法陣が用いられることもあった。あまりに言うことをきかない奴隷に使われたらしいが、一度これを身体に刻まれればその奴隷はたちどころに大人しくなる。
     ヨダレを垂らしながら、所有者の言いなりになるのだ。

     イデアは父親に通話をかける。こんな趣味の悪いものが、一体何故この別邸の地下にあるのか。

    『あぁ、そこはかつてのシュラウドの当主が、妻を逃がさないために作った監禁部屋だな』
    「監禁……? な、なんのために」
    『そもそもお前がいま住んでいる別邸は、代々当主とその妻が愛し合うためだけに建てられたものだ。愛し合うとはまぁ、表向きの言葉だが。我々のような一族に望んで嫁いでくる女はまず居ない。代々の当主たちはそこで妻を甘やかし、時に洗脳し、時に暴力を以て従わせ、意志を奪った。その独房は、特に妻への執着が酷かった五代前の当主が拵えたものだ。私もそれには世話になったよ』
    「……時代錯誤も甚だしい。女性をなんだと思ってるんだよ」
    『血を途絶えさせない為には必要なことだ。ときにイデア、モルガンの一人娘はどうだ、人間に戻せそうか?』
    「ふざけるなよ。父さんは彼女が人間に戻れないことを知ったうえであの子を寄越したんだろ。不滅の霊薬を飲んだことさえ僕に黙って……」
    『お前ならどうにか出来ると踏んだからだ。お前は天才だ、イデア。お前を息子に持てて私は誇らしく思う。その才能は世界に羽ばたくべきだ。シュラウドだけで使い潰すのは胸が痛む』
    「──っ!! どの口がっ」
    『期待している。
     あぁそれと、私からもちょうどお前に話がある。これは先日決定したことなのだが、お前のインターンが終わり次第エステラ様のパゴノ監獄への収容が決まった」
    「……は? 待って、いま、え? 監獄?」

     まるで世間話でもするかのように飛び出てきたその言葉に、イデアは自分の耳がおかしくなったのかと思った。

    『モルガン家の当主が代替わりしてな。エステラ様の父上がその跡を継いだのだが、彼から今回の買収の件を白紙にしてくれと書簡が届いた。前当主である彼女の祖父はエステラ様を猫可愛がりしていたから、会社を犠牲にしてでもどうにか彼女を救ってやりたいという考えだった。が、父親は違うみたいでな。もともと我々と親類になるのにも、会社を買収されるのにも最後まで難色を示していたらしい。
     まぁ我々としては当然、そのようなことは許せない。エステラ様を監獄送りにしたいのかと問えば、その方向で話を進めているときた。そこまで言われれば、我々としては引き下がるしかあるまい』
    「そんな、勝手に」
    『勝手も何も、本来彼女は無期刑に相当する罪を犯している。我々に口を挟む余地は無い。ただ、まぁ今回はあちらの都合ばかりに振り回されているからな、時間はもらった。お前のインターンが終わるまで残り約半年はある。その間もし我々が彼女を元に戻せたなら、予定通り買収の話は受けるそうだ』
    「……半年」
    『では、話はこれで終わりだ。なにかあればまた連絡しなさい』

     そうして、彼の返事を待たずに通話は切れた。

    「なんでよりによってパゴノ監獄なんだよ……実験体としての所有申請さえ通らない完全な死刑囚扱いじゃないかっ!!」

     スマホを地面に叩きつけて、その場に踞る。

    「あの子はただ、好きな人に愛されたかっただけなんだよ……」

     今なら彼にも、その気持ちが痛いほどによく分かる。

     初めはなんて厚かましく、図々しい奴だろうと思った。無表情で、世間知らずで、人に迷惑ばかりかける奴だと。

     でも過ごしていくうちに、彼女の色々な顔を知ってしまった。

     酸の涙を流して、申し訳なさそうな顔をするのが好き。
     小説を読んでいるときに、コロコロ変わる表情が好き。
     ジュースを飲む時の、すぼめた小さな口が好き。

     他にも色々、数えればキリがない。

    「……検証が大事」

     イデアは叩きつけたスマホを手に取り、立ち上がる。

    「ヒュドラの血はいくらでも手に入るんだ」

     そう言うと、階段を駆け上がった。白衣を纏い、研究所に目張りの代わりに結界を張る。

     ヒュドラはその呼気にさえ猛毒を孕んでいる。防毒マスクを身につけ、多重に防御魔法で自分を覆った。

     テーブルや椅子を端に寄せて、研究所の中心に立ち召喚陣を描く。

     彼が手をかざして呪文を唱えれば、毒々しい艶やかな鱗を敷き詰めた頭が召喚陣から現れる。

    「こんな狭いところに呼び出してごめんね」

     そう言ったイデアに甘えるように鼻先を寄せると、ヒュドラは低く唸って大人しく頭を横たえた。


       ◇


     エステラが彼に触らないで欲しいと言ったのは、酷い悪夢を見たせいだった。
     
     彼女は夢の中で、青い炎の髪を持つ男に愛を囁く。それに彼は、優しい瞳で応えてくれる。

     なんて幸せなのだろうと思った。近づいてくる彼の美しい顔に、ゆったりと瞼を閉じる。少しすれば柔らかい感触が唇に触れて、彼の大きな手が優しく頭を撫でた。

     二人の小さな息遣いが聞こえる。そして次第に、荒く、大きく、息苦しい、聞くに絶えない呼吸音に支配される。

     目を開ければ、そこには唇が焼け爛れた男が、服の胸元を掴んで苦しそうに浅い息を繰り返す。どうにかしてあげようと彼に手を伸ばすと、触れたそばから彼の服が熔け、肉が腐り落ちた。

     触れたらダメなのに、苦しそうに手を伸ばして救いを求める彼の手を握ってしまう。そこからたちまちに、彼は崩れていく。

     ごめんなさい、ごめんなさい。酸の涙を流しながら、うわ言のように言い続けていたところで少女は目を覚ました。

     普段の夢なら、彼女は普通の人間なのだ。それなのに、その日見た夢は異様な現実味を帯びていた。

     それが夢だと分かるのは、彼が自分の愛に応えてくれていたからだろう。

     そんなこと、現実には起こりえないのだ。毒にまみれた自分を、一体誰が愛するだろう。

     そして自分もまた、誰かを愛してはならないのだ。その愛は、猛毒しか生み出さない。


       ◇


    「ねぇ、僕の可愛いベイビーちゃん」

     低い声が、エステラを追い詰めていた。

    「ご飯食べないつもり?」

     そう言う彼の左手には、彼女の一口分にピッタリな量のパスタが巻かれている。

    「い、いつまでこうして食べさせるつもり? 私ロボットを作ってって言ったわよね」

     子供のように食事用エプロンをされ、髪をひとつに括られながら差し出されたフォークから顔を背けるエステラに、イデアはため息をつく。

    「拙者いま忙しいので。ロボットを作ってる暇なんてないんでござる」
    「前は一日で作ってくれたじゃない」
    「前は前、今は今。分かったら駄々こねてないでお口開けてくだされ」

     ぱか、と口を開けてみせる彼に釣られて少女が口を開ける。

    「美味しいね?」
    「……えぇ。でも、忙しいなら尚更ロボットを作った方が合理的ではなくて?」
    「そんなの拙者の自由ですし。はい、あーん」
    「……」

     エステラは顔をしかめつつ口を開ける。

     イデアは確かに最近忙しそうにしているが、彼女の面倒は自分で見たがった。少女はそれが、どうしようもなく嫌だった。

     優しくされればされるほど胸が痛くなる。これ以上好きだと思わせないで欲しかった。殺してしまいたくなるほど愛してしまう前に、この男から逃げなければという思いが募っていく。

    『誰が君みたいなのを愛すると思う? 言っとくけど、僕はよそに好きなひとが出来たらそっちにいくからね』

     という言葉を、少女は鮮明に覚えていた。

     その時が来たら、自分がどうなるか想像がつかない。が、だいたいの予想はつく。

     絶対に殺してしまう確信があった。イデアがどれほど強く才能のある魔法士であったとしても、不老不死を殺すことは出来ないのだ。

     だからせめて、自分にこれ以上優しくしないで欲しい。微笑まないで欲しい。触らないで欲しい。

    「はい、ご馳走様。食休みしたらお風呂に入るでござるよ〜。今日のバスボムはなんと、ちっちゃいフィギュア入りでござる! 君の最推しが出るか楽しみでござるなー!」

     楽しそうに笑う彼を、いつかこの手で腐らせてしまうのではという恐怖が頭にこびりついて離れない。

     あの日、あんな夢を見たせいだろうか。それともあれは、予知夢なのか。

    「ハニー? どうしたの、怖い顔して」

     心配そうに顔を覗き込んで手を伸ばしてくる彼を慌てて振り払う。

    「触らないでっ!!」
    「……ご、ごめん」
    「あ……」

     酷く傷ついた顔をした彼に、エステラの顔もまた歪む。

    「……ごめんなさい、なんだか気が立っているの。お風呂は明日で構わないわ。今日はもう眠りたい」
    「は、歯磨きだけはしようよ。虫歯になっちゃうかも」
    「不老不死って虫歯になるのかしら」
    「……それは、ならない。ならないというより、なっても再生するから問題は無い……」
    「なら必要ないわね」

     ガタン、と彼女が席を立つと、その後ろをイデアがくっついて歩く。ドアの前に立てば彼が開け、ベッドに向かえば布団を潜り込みやすいように持ち上げてくれる。彼女の世話をするこの半年で染み付いた彼の動きに、いちいち動揺してしまう。

     少女がベッドに潜り込むと、イデアもまたその隣に横になる。彼女が悪夢を見たと言ったあの日から、イデアは毎日そうして彼女の入眠を見守るのだ。

    「いつものおまじないをしようね」

     そう言って彼は彼女の瞼に唇を落とす。悪夢を遠ざけるまじないだと彼は言う。それをされるとエステラはすぐに眠気に襲われて、幸せな夢ばかり見るのだ。そこには必ず、イデアがいた。

    「君の悪夢だって、どうせアイツ絡みなんだろ。……せめて夢の中では、僕のことを考えて」

     そんな言葉は、眠ってしまった彼女には届かない。


       ◇


     それからまた月日は過ぎて、インターン終了まで一ヶ月を切ろうとした、夏の夜。

     イデアはもう随分寝ていなかった。

     研究所のテーブルの上には薬研や、粉末を入れた白い陶器の小鉢がずらりと並び、独特な臭いを放っている。その隣のテーブルにはゴポゴポと沸騰する蛍光色の液体に、数字の振ってある試験管が整列していた。
     さらに、毒物しか食べない偏食家で有名だった長命種の腎臓までそこにはあった。それが闇オークションで競売にかけられるという情報を手に入れたとき、イデアは既に万策尽きて頭を抱えているときであった。
     藁にもすがる思いで高額で落札したそれも、今ではヒュドラの毒に汚染されて使い物にならない。

     毒々しい色に変色したその臓器を、イデアは爪をかじりながら澱んだ瞳で睨みつける。痙攣にも似た貧乏揺すりをする彼の爪は、ボロボロになっていた。

    「兄さん、そろそろ休んだ方がいいよ」
    「時間が無いんだ、寝てる暇なんて……。どうにかしてヒュドラの血を解毒しなくちゃならない。じゃないとあの子は一生檻の中だ。パゴノ監獄は悪趣味な看守が居ることで有名だし投獄されてるヤツらも国賊やテロリスト、連続殺人鬼ばかり。そんな所に愛娘を放り込もうなんてあの子の父親は頭がイカれてる。僕らに揺すられないよう先手を打ったつもりだろうけど、報復方法なんて他にいくらでもあるんだ。父親の目の前にヒュドラを召喚してやってもいいんだぞこっちは」

     ガチガチと鋭い歯を鳴らすイデアは、頭の中で彼女の父親を殺す算段をたてはじめる。しかしその考えを、髪を掻き毟って追い出した。

    「だめだ、そんなことしたらあの子に嫌われちゃう……。ああ、殺すならあの男にしよう。僕のエステラをコケにしやがって……お前のせいであの子がどれだけ辛い思いをしてると思ってるんだよ」

     爽やかな笑顔を湛えた男を殺し、その死体をエステラの目の前に転がしてやる。あの子は喜ぶだろうか。

    「だめだ、そんなことしたら軽蔑される……あの子が好きなのはアイツなんだ。
     ……どうして僕じゃないの? 僕はこんなに……あ、愛してるのに」

     少女は、以前のようにイデアと楽しく過ごすことをしてくれなくなった。塞ぎ込むように部屋の中へ閉じこもり、イデアが部屋に入ろうとすると呪いを以てそれを拒絶する。

    「なんで僕の愛に応えてくれないの。……なんで……なんで僕がこんなに辛い思いをしなきゃならないんだよっ!!」

     ボッ、と彼の炎が赤く弾ける。椅子の上で膝を抱え、苛立ちが治まるのを待っていたが、身体は熱くなる一方だった。

    「オルト、スプリンクラーのバルブ閉めて」

     その言葉にオルトは頷いて研究所の外にある制御弁へと向かい、すぐに戻ってきた。

    「閉めてきたよ、兄さん」
    「ん、ありがと。危ないから、外に出てて」
    「はーい!」

     オルトが静かに研究所から出ていくと、彼は短いため息をついた直後、弾けるように椅子から立ち上がった。そして、腕を大きく振って無差別に炎の塊を放っていく。

     オルトはその様子を、扉越しにじっと見守っていた。彼のその行為は、平静を保つための儀式のようなものなのだ。止めることは容易だが、中途半端に止めてしまえばかえって彼に負担をかける。
     しかしここまで酷いのを見るのは久しぶりだった。

    「はぁっ……はぁっ……」

     辺り一面が火の海と化したところで、イデアは正気に戻った。彼の髪が青い炎へと変わるのと同時に、彼の放った火炎が黒煙に変わる。

    「ふー……」

     苛立ちを落ち着けるように、テーブルに手を付き深く息を吐く。その目の前には、黒焦げになった臓物がプスプスと煙をあげ嫌な臭いを放っていた。

    「オルト、入ってきていいよ。悪いけど片付け手伝ってくれる?」
    「了解!」

     手分けして、割れたガラス片や飛び散った粉末や魔法薬の回収を行っていく。

    「兄さん、ヒュドラの血の保管庫は無事?」
    「うん。競り落としたときに魔法卵(クーネー)が入ってたケースを改良した保管庫だから、どれだけ衝撃を与えても炎に炙られても大丈夫。卵よりむしろそっちのケースの方が高くついたって話だから……。
     ……ん、ちょっとまって? 僕、ずっとヒュドラの毒を解毒することばっかりに夢中で忘れてた。この子クローンじゃないか。生みの親の魔法士に話が聞ければ、なにか手がかりがあるかもしれない!!」

     イデアは研究所の掃除を放り出し、バーチャルキーボードを叩く。そうして空中ディスプレイに映し出されたのは、魔法生物の保全活動を行うドワーフ族の魔法士。イデアは早速、彼の連絡先へと通話をかけた。

    『はぁい、ガリオンだよ。ふぁあ、こんな夜更けに電話をかけてくるなんて、きみは夜行性だね』

     幼い少女のような声が、至極眠たそうに欠伸をする。

    「ヒッ、アッ、すみっ、すみません、あの」

     イデアはしまった、と思った。つい勢いで通話をかけたものの、なんと切り出せば良いか分からない。

    『なぁに、まぁゆっくり話しなよ』

     電話口の彼の声はとても安心するもので、イデアはゆっくりと、どもりつつもヒュドラの解毒方法がないかを尋ねた。

    『へぇ、きみが卵を競り落としたシュラウドさんとこの息子さん。可愛がってくれてありがとうね。
     質問の答えだけど、ヒュドラの毒に解毒方法はないよ。ただ』

     ガリオンはおっとりとした口調で淡々と言葉を紡ぐ。

    『ボクのクーネーから生まれたヒュドラなら、その限りじゃない。クーネーを孵化させたのがきみなら、ヒュドラの血を解毒することが出来るのもきみだよ』
    「解毒方法があるのっ!? アッ、ごめ、ごめんなさい大きい声出して」
    『いいよぉ。ボクの鼓膜は強靭だから、どんな咆哮もへっちゃらさ。さて、解毒方法だけどね、何もしなくていい。もうきみ自身に抗体ができてるはずだよ』
    「……え?」」
    『クーネーを孵化させて、ヒュドラが最初に視界に入れた人間は母親だと認識される。刷り込みや刻印というやつだね。ボクの魔法の卵から生まれた子たちは、養育者を傷つけられないようにしてるんだ。ボクが扱う魔法生物にはやんちゃだったり力の強い子たちが多いからね。ただ、ヒュドラに関してはオリジナルが世界最強の猛毒だ。養育者であるきみにもちょっと悪さをしてしまうだろうね。経験則だけど、ボクはだいたい二十四時間で解毒したよ。その間は死んだ方がマシだと思う苦痛に晒されることになったから気をつけてね
     他になにか聞きたいことはある?』
    「……っ、解毒ができるということが分かれば、十分です。あ、あり、ありがとうございましたッ」
    『はぁい。ボクのヒュドラ、これからもよろしくね。ふぁあ』

     そうして、ガリオンとの通話は終わった。

     イデアはいまにも、叫び出したい気分だった。オルトの方を振り返り、彼は小さくガッツポーズをした。


       ◇


    「シュガー、少し話があるんだけど」

     次の日の朝、彼は早速彼女の部屋を訪れた。しかし、中から返答は無い。

     ここのところ、イデアはずっと拒否をされていた。彼にその理由は分からない。彼なりに、彼女には良くしてあげていたつもりだった。仲良くなっていたと思っていた。そこに恋愛感情は無くとも、絆は芽生えていたのだと。

    「は、入ってもいい?」

     いままでは、入ってもいつも腐食の呪いで脅されて彼女には近づけなかった。もちろん殺されるのは嫌だし痛いのも嫌だった。しかしイデアにそんな脅しは本来通用しない。その気になれば防護服を着て防御魔法を多重に掛けて突撃すればいいからだ。
     ならなぜ彼女の脅しに屈してこれまですごすごと退散してきたのか。
     その理由は、彼女が嫌がるから。その一点に尽きる。好きな女から嫌がられれば、イデアのちっぽけな自尊心など部屋の隅にたまったホコリより軽く吹き飛んでしまう。そして部屋に戻ってジメジメと、「嫌われた」「髪が燃えてるのがいけないのかな。そりゃそうだ」「顔かもしれない。死人みたいって前言ってたし」などと頭にキノコを生やすのだ。

     だが今回ばかりはそうはいかなかった。イデアは意を決して中に入ると、そこには、彼から身を隠すように部屋の隅で膝を抱えて縮こまるエステラの姿。

    「入ってこないでっ」

     キン、と耳を貫くような声が飛んでくる。イデアは眉を下げながら、それでも彼女の方へ進む。

    「腐らせるわよっ」

     彼女は立ち上がると、グローブを取る。その目にはたっぷりの涙が浮かんでいて、イデアは歯ぎしりをした。

    「な、なにがそんなに気に食わないんだよ」
    「私、もうここに居たくないの」
    「……は? なんで。僕は君に良くしてやってただろ。この部屋だって、気に入ってたじゃないか。何が不満なんだよ」
    「貴方といるのがもうウンザリなのよっ!」
    「……っ、そ、そんなこと言われたって、君に選択肢はない。シュラウドに頼った時点で君はもう僕の妻になるしかないんだ」
    「……こんな生活、もう嫌なの」

     彼女は弱々しくへたり込むと、顔を覆って泣き始めた。

    「僕が何したっていうんだよ。言ってみろよ。僕は君のために毎日ご飯も食べさせてやったし、お風呂にも入れてやったし、たくさん面倒見てやったろ。ラノベだってアニメだって、あ、あんなに楽しそうにしてたじゃないか」
    「楽しかったわよ。だから嫌なの。もう無理なの。これ以上私を惨めにさせないで」
    「いっ、言ってることが分からない。楽しいことの何が悪いわけ?」
    「……家に帰りたいわ。おじいさまに連絡してちょうだい。もうこんな暮らしには耐えられないの」
    「──っ、僕だって、嫌だよ……こんな生活」

     自分の気持ちに気づいた瞬間に失恋して、それなのに取り返しのつかないほどに愛してしまった。
     彼女となら、たとえ一生、キスができずとも、触れて貰えずとも、良いと思った。
     それなのに、少女は彼に愛を返さない。その心は、海の向こう、遠い異国の男に囚われ続けている。
     出来ることなら、彼女は呪われた化け物のままでいてくれたならと思う。引き取り手がいなければ、彼女は一生自分のものだと。
     そして、自分を拒否するくらいならヒュドラの毒を飲んで苦しみながら死んでしまえとさえ思ってしまう。

     そんなふうに考える自分に嫌気がさす。

     でもそれと同じくらい、彼女には健やかで、幸せでいて欲しいと願ってしまうのだ。
     きっとそれは、恋愛感情とはまた違う、彼女の世話をしてきたからこそ生じてしまった感情。

     彼女が笑うと彼は、涙が出るほどに嬉しい。

     情欲も執着も嫉妬も独占欲も人並み以上に持ち合わせている彼の心には、それをねじ伏せてしまえるほどの、母が子に与えるような純粋な愛情が芽生えていた。

    「……ねぇ、シュガー。もし君が人間に戻る方法を見つけたって言ったらどうする?」
    「……えっ?」
    「もし君が人間に戻れたら、あの王子サマと結ばれたい?」
    「無理よ。あの人はどうせ美しい人間しか娶らないんだわ」
    「君の気持ちは?」
    「人に戻れるなら、戻りたいわ。それで……まぁ、愛してもらえるなら、それは喜ばしいことだと思うけれど、でも、私は──」
    「そ」

     短く言葉を吐いたイデアは、彼女の言葉を遮るように少女の額に手を伸ばした。

    「じゃあいまから、サクッと人間に戻りますか」

     彼の、長く節ばった指の先がツン、と少女の肌に触れた瞬間、彼女は意識を失った。


       ◇


     不死性の返上、もしくは譲渡というものがある。古来より神は不老不死であるとされるが、死を望んだ神が不死を天に返上しその命を終えることが出来る。

    「僕って、射手座なんだけどさ。射手座って、不死を手放し死んだ神を惜しんで作られた星座なんだって」

     イデアは、魔法で眠らせたエステラをベッドに横たわらせていた。彼は彼女の額に自分の額をくっつけながら、囁く。

    「さて、ここでクイズです。その神はなぜ、不死を手放して死を選んだのでしょうか。……正解は、『ヒュドラの毒の苦しみから逃れるため』。しかもその神はさ、とばっちりでヒュドラの毒矢を受けたんだ。……なんだかどこかで聞いたような話じゃない? 君の自業自得に巻き込まれた僕は、いまからヒュドラの毒によって苦しむんだから。まァ、僕が苦しむことになるのは二十四時間くらいらしいけど」

     じんわりと、お互いに触れている額から熱が生まれる。そこには、イデアの血で描かれた魔法陣があった。

    「君が呪いをコントロールできるなら、移せるはずだよ。身体の内側は血と水だけだと思って、液体が流れるのをイメージして。それを全部、僕に流し込んで」

     それは地下の独房に描かれていた魔法陣と同じ、催眠や洗脳といった、相手の思考力を奪う魔法。そして同時に、自分の意のままに相手を動かすことの出来る魔法。
     眠っている相手ならば、それは尚更容易い。

    「本来こういうのって、キスとかセックスとかの方が効率がイイんだけどさ……まぁムリなんでね……。そろそろかな──っぐ」

     イデアは額をくっつけたまま、彼女に覆いかぶさったその身体を強ばらせる。

     耳鳴りがする。ゾワゾワと背筋を悪寒が駆け上がり、全身からどっと汗が吹き出す。

     エステラの肌に、植物の根を思わせる光の脈が浮かび上がった。ドクドクと血管のように脈打つそれは、次第にイデアの額に流れ込んでいく。

    (思ってたよりだいぶキツいな……。まるで熱した金属を流し込まれてるみたいだ)

     痛みや圧迫感から止まらない汗が、彼の顎を伝ってエステラの頬に落ちる。歯が砕けてしまうのではと思うほどに食いしばりながら、イデアは彼女の不死と呪いが身体に流れ込んでくるのを必死で耐え抜いた。

     どのくらい時間が経っただろうか。恐ろしく長い間、そうしていたような気がする。彼女の呪いが彼に全て流れ込んだ瞬間、イデアはその場を飛び退いた。あと一瞬でも遅ければ、エステラはイデアに移った腐食の呪いにより腐った肉片と化していただろう。

    「──っはぁ、はぁ」

     ジュウジュウと、床板が腐り始める。イデアは足元に意識を集中させると、魔力コントロールの要領で呪いをなんとか身体の内側に押し留めた。

    「こ、こんなことずっとやり続けてたの……? はは、そりゃ魔法使おうとすると呪いが抑えられなくなるってもんですわ……。無意識下でもこの状態を保ち続けるのは流石の拙者でも至難の業ですぞ。……相当、努力したんだね」

     霞む視界のなかで、イデアは足元からベッドの上へと視線を移す。そこには、見慣れない赤毛の少女がいた。
     彼は彼女にそっと近づくと、その顔を覗き込む。

    「……なんだよ、こっちのほうがずっと可愛いじゃん」

     そう言って彼女の頬に触れようとし、慌てて腕を引っ込めた。

    「危な……殺すところだった。不便な身体だね。……そうか。好きな人に触れないのって、こういう気持ちか」

     すぴすぴと、可愛らしい寝息を立てる彼女の寝顔をその目に焼き付けるように、イデアはしばらくエステラを見下ろしていた。

    「……もう、好きな人にいくらでも触れるし、触ってもらえる。君を手放すのは惜しいけど、君の嫌がる顔を見るのはもう、凄く辛いんだ。
     父さんには僕から言っておくよ。モルガン社は貰うけど、君のことは自由にしてやってくれって。
     ……ねぇ、僕のシュガー。せめて最後に、僕に好きって、言ってみてよ」

     イデアがそう言うと、彼女の額に描かれた魔法陣がポゥ、と輝く。

    「い、であ……すき」

     それは初めて聞く、彼女の本当の声だった。

    「……うん。僕にはそれで、十分だよ」

     彼は微笑むと、一筋、頬を濡らす。その雫がポタリと落ちれば、ジュウ、と音を立てて床に小さな穴を開けた。

     イデアは涙を振り切るようにエステラから顔を背け、扉へと向かう。その時ふと、姿見に映った自分の姿を見て、彼はその瞳を見開いた。

    「……ハハッ。ほんと、どうかしてるよ……ここまでくると病気だな」

     恋患いとはよく言ったものだと、イデアは苦笑する。

     その鏡には、青い炎の髪がひと房だけ混じった金髪と、褐色の肌を持つ男が映っていた。


       ◇


    「兄さん、本当に柵に電流を流すの?」

     オルトとイデアは、地下の独房の中に居た。
     短い間隔で連なる鉄の柵には、夜のうちにイデアが細工を施し触れようとすれば途端に電流が流れる仕組みになっている。
     さらに、イデアの手足にはもともと備え付けられていた分厚い枷が嵌められていた。身動きをする度に、ジャラジャラと大きな音が独房に反響する。そのうえ彼は前もって服を全て脱ぎ去っており、鎖が皮膚に触れる度に冷たい感触がし、ビクリと身体が跳ねた。

    「うん。僕は痛みに強いほうじゃないからね。我慢強くもないからきっと、すごく暴れると思うんだ。自我を忘れてこの独房から出て、万が一オルトやエステラに危害を加えないように、念の為ね。
     それと、あそこにある定点カメラで僕の様子を監視して。二十四時間経過して、僕のバイタルがある程度安定してきたら迎えに来てくれる?」
    「了解! じゃあ、コレつけるね」
    「うん」

     オルトが手に持っていたのは、猿轡。痛みのあまり舌を噛み切らないように用意したものだが、簡単に溶かされては意味が無いので、イデアが明け方近くまで魔力を込め続け防御魔法でコーティングした特別性だ。

     ベルトを後頭部で固定し、イデアは閉じられなくなった口を上に向けて、オルトに目配せをする。頷いた弟が手にしたのは、黄緑色の液体の入った小瓶だった。

    「じゃあ、流し込むね」

     その言葉に、イデアは瞬きだけで返事をした。

     口元に寄せられた小瓶が、傾けられる。

     トロリと少し粘ついたその液体が舌に触れた瞬間、ビリビリと痺れる感覚がする。オルトが独房を出ていったのを確認してから、イデアはそれを飲み下した。

    「──っ、が、ぁ」

     喉を通り過ぎた瞬間に、皮膚が全て溶け落ちる錯覚に襲われる。見れば、皮膚がボコボコと泡立っていた。

     そして、次第に体の輪郭に変化が訪れる。イデアの肉体がみるみる元の姿に変わっていき、霊薬の効果を打ち消し始めているのが分かった。

    (痛いっ、辛いっ、苦しい……!!)

     しかし呪いはまだまだ健在のようで、イデアの手足を拘束していた枷は溶け落ち、数分ともたなかった。拘束が解け自由になった身体で、イデアはのたうち回る。

    (あんな、あんな、僕のものにならない女のためにこんな思いをしなきゃならないのか)

     あまりの痛みに意識が飛びそうになりながら、イデアは心の中でエステラを呪う。酸の涙と毒の唾液を垂れ流しながら、首を掻きむしる。

     さらに口枷を外そうとするも、自分が根気強く防御魔法を重ねたそれはバックルの部分すら石のように固く、外れそうもない。

     毒と毒が、体内で殺しあっているのが分かる。芋虫のように地面を這いずりながら、時折救いを求めるように鉄柵に手を伸ばす。その瞬間、意識が飛ばない程度の電流が大きい音を立てて指先に激痛をもたらす。

    「がっ、あぅ」

     独房に取り付けたデジタル時計を確認するも、まだ一時間も経っていなかった。

     イデアは、自分はなんと愚かな選択をしたのだろうと後悔をした。

     クソ女、死ね、愛してる、消えろ、許さない、僕のものになって、ここから出たら殺してやる。

     心の中では憎しみと愛情がミキサーにかけられたように入り交じり、呪詛と愛の告白が暴風雨のように彼の中で暴れ回っていた。

     そうして、彼の人生で最も長い二十四時間は悲鳴と呻き声に埋め尽くされながら、終わりを迎える頃にはほとんど虫の息で独房の隅に横たわっていた。

    「──兄さん、おつかれさま」
    「……ォ……」

     弟の名を呼ぼうとするも、絶えず悲鳴を放っていた喉は掠れ、上手く声が出ない。

    「爪が剥がれちゃってるね。治療しないと」

     独房の壁にはそこからどうにかして逃げようとしたのか、所々赤い線の跡があった。

     静かにオルトがイデアの身体を抱き起こし、既にボロボロになっていた猿轡を外して独房の外へと連れていく。

     げっそりとやつれたイデアは、弟の硬い腕の中でゆっくりとその瞳を閉じた。


       ◇


    「──うそ」

     エステラは姿見の前で、ぺたぺたと顔を触ったり髪を引っ張ったり、かと思えば部屋の色々なものを素手で触ったりと忙しなくした後、その場に力なく座り込んだ。

    「の、呪いが……わ、私、人間に戻れたの……?」
    「ま、拙者の手に掛かればこんなもんですわ」

     エステラの後ろで、少しだけやつれた顔をしたイデアが慈愛の目で彼女を見つめる。壁に寄りかかりながら腕を組む、その彼の指先には包帯が巻かれていた。

     エステラが目を覚ましたのは、イデアに呪いを譲渡してから二日後のことだった。イデアは爪以外ほとんど無傷で、あれほど激しい痛みに悶えていたというのにも関わらず、身体の内側にも異常は見られなかった。
     あのあと一日をかけて精神を安定させ、イデアは彼女を目覚めさせた。

    「わ、私、触れるのね、触れるわ!!」

     床をぺたぺた触る彼女に、イデアは「汚いからやめなよ」と顔をしかめる。彼が床に空けた穴はきちんと塞がれ、痕跡は無い。

     イデアは彼女に、ヒュドラの毒のことを伝えていなかった。恩着せがましく自分がどれほど辛い思いをしたのか、どれだけの痛みに耐え抜いたのか、言ってしまいたかった。しかし、彼女を手放すと決めた以上、彼は余計なことを言わないよう自分を律した。

    「そうね、汚いものを触ったら手を洗わないといけないわね! イデア、私手を洗いたいわ!!」

     そう言って彼女は部屋を出て、洗面所へ向かう。はしゃぐ彼女を追いかければ、手をモコモコに泡立てながら、目を輝かせていた。

    「……っ、泡だわ!! とても気持ちいいわね!!」

     気が済むまで泡を堪能すると、水でそれを洗い流す。柔らかいタオルにさえ感動しながら手を拭くと、イデアの方を振り返る。

    「触れるわよ!!」
    「そうだね。嬉しい?」
    「嬉しいに決まってるじゃない!! ねぇほら、イデア!!」

     彼女はそう言って、彼の頬に手を伸ばした。

    「貴方にだって触れるのよ!!」
    「──っ!」

     愛おしい笑顔で自分に触れる彼女を見て、イデアは「あぁ、黙っていて良かった」と心の底から思った。彼女の、手を洗ったばかりで少し冷たいそれに、イデアの温かい手が重ねられる。

    「あら、イデア。貴方怪我をしてるの?」
    「あ……これは、その、ちょっとね。魔法薬飲めばすぐ治るよ」

     心配そうに自分を見上げる彼女の頭を優しく撫でてやる。その腕が振り払われることがなくて、そんな些細なことにも、イデアは泣きそうなほど胸が締め付けられた。

    「あっ、そうだわ! イデア、そろそろお昼ご飯よね!! 私が食べさせてあげるわ!! 人間に戻してくれたことと、これまでのお礼をさせてちょうだい! もちろん、他にして欲しいことがあればなんだって言ってくれて構わないわ!! 貴方は私の恩人だもの!!」
    「……ありがとう」
    「ふふ、いいのよ!! お礼したいのは私の方なんだから!!」

     イデアが彼女に望むことは、二つある。共に生きて欲しいということと、残りの人生をどうか幸せに過ごして欲しいということだ。

     彼女の幸せがどこにあるかなんて、分かりきっていた。

     イデアはダイニングルームへとエステラに手を引かれながら、苦笑する。

     彼女と居られるのは、インターンが終わりを迎えるまでの残り半月。およそ二週間で、イデアの、恐らく人生で最も苦しい恋が終わるのだ。

     彼は既に、父親に話はつけてあった。通話越しの父の声色には驚きもなにもなく、ただ淡々と『よくやった。モルガン家にはインターンが終わるその日に迎えを寄越すよう伝えておく』とだけ言われて通話は終わった。

    「ほらイデア、これが正しいシルバーの持ち方よ。よく見ていて?」
    「別に、ご飯なんて食べられればそれでいいじゃん。食器の持ち方なんてどうだって──むぐ」
    「美味しい?」
    「……うん」

     使い捨てではない、きちんとした銀食器で食事をイデアの口へと運んでいく。

    「君も食べなよ、僕はもうおなかいっぱい」
    「あら、そう? じゃあいただきます」

     彼女が自分で食事をするのは見ていて新鮮で、どこか寂しかった。もう自分が彼女の面倒を見る必要がなくなってしまったことが、悲しかった。

     エステラが食事を終え、食後のアイスコーヒーをストローなしに楽しんでいるところで、イデアはいよいよ話を切り出した。

    「二週間後、君のお祖父さんが迎えに来るよ。君はもう、僕の婚約者じゃない」
    「……へ?」
    「僕のシュガー……いや、エステラ。君はもう、自由なんだ」

     そう言った彼の表情は清々しく、酷く悲しそうだった。


       ◇


    「あっ、ちょっとお待ちになって? イデア様、お待ちになってったら。この甲羅をプレゼント致しますわ」
    「いやいやいやエステラ氏。甲羅持ってる奴に近づく馬鹿はこの世に存在しませんのでwww」
    「言ったわね、このっ……!」
    「うっわノーコンwww誰一人に当てられずwwwそのうえ周回遅れときては拙者可哀想すぎて涙が……アッアッ、ゴールしてしまいましたわ! 拙者強スギぃ!?」
    「……」
    「……あっ、あれ、怒った?」

     二人はゲームをしていた。エステラはイデアと暮らし始めてから、ずっと気になっていたそうだ。手が自由になったことによってゲームが解禁されると、寝る間も惜しんで二人でゲームに勤しんでいた。

    「私が勝つまでやめないわよ。もう一回!」
    「フヒッ、かしこまり」

     イデアが彼女に婚約の解消を伝えてから、一週間。二人は仲良くしていたが、以前のようにくっついたり、親しげに名前を呼び合うことはなかった。

     残り一週間ほどで、この二人の関係も終わる。

     二人はそのことを口に出さず、ただ、楽しいことだけをして過ごした。


       ◇


    「おはよう、イデア様。……あら、素敵なお花ね」

     朝、遅めに起きたエステラがダイニングルームに向かうと、そこには青い花が花瓶に活けられていた。小さい鮮やかな花弁に顔を近づけて、じっと見つめる。

    「おはよ。これね、コーンフラワー。こないだ苗が手に入ったから育ててみたんだ。ちょっとばかしチート使って成長させたけど。乾燥させて魔法薬に使おうと思ってさ。ハーブティーにしても良いらしいよ」
    「そうなの。ふふ、貴方の髪の毛の色に少し似てるわね」

     つんつんと、少女が花びらに触れる。彼女は手が自由になってから、何かと物に触れたがる。そんな彼女を眺めながら、イデアは少しだけ、縋るように彼女を見つめた。

    「……この花の花言葉、知ってる?」
    「いいえ、見たのも初めて。花言葉もあまり詳しくないのよ。それにしても、綺麗な色ね。家に帰ったら育ててみようかしら。苗はまだ余ってるの?」
    「……いや、ここので全部使い切ったから」

     そう、残念だわ。と、少女は花弁を眺めながら席に着いた。

    「花が好きなら花言葉くらい……」

     と言いかけて、イデアは口を噤んだ。不思議そうに彼を見る彼女の瞳から顔を背けて、はぁ、とため息を着く。

     しばらく沈黙が訪れて、イデアは花瓶を弄りながら、ポツリと言葉をこぼした。

    「……明日だね、君がここを出ていくの」
    「……そうね」
    「荷造りは済んだ?」
    「大体。でも、ここにはもともと私のものは服と靴と、消耗品くらいしかなかったから」

     手提げ鞄ひとつで事足りるわ、と彼女は寂しそうに笑う。

    「そっか」

     約一年。長いようで短かった同棲生活は、いよいよ明日、幕を下ろす。

    「今日の夜はまた、アニメ鑑賞でもしますか。ピザとか頼んでさ……。君の家じゃ、あんまりそういうの許してくれなさそうだから」
    「良いわね。ピザを頼むならコーラも、それにお菓子も必要ね。今夜はオールかしら?」
    「おっ。君もなかなか染まってきましたなぁ。家に帰ったらオタバレしないよう気をつけるんですぞ」
    「隠す必要あるかしら? 立派な趣味だと思うけれど」
    「いやいやいや。世の中にはまだまだオタクへの偏見が蔓延ってますからな」

     そんな他愛もない話をしていると、彼女と出会った頃のことを思い出した。

     無表情で、作り物みたいな女。渡した花束を腐らせた、毒人間。

     しかし目の前で花を愛でる少女に、その面影は微塵もない。

    「寝起きだからかしら、喉が渇いたわね。イデア様もなにか飲む?」
    「エナドリ」
    「貴方そればっかりね」

     いつか身体壊すわよ、と言いながら立ち上がった拍子に、ガタン、とテーブルが揺れる。花瓶のいくつかが倒れ、そのひとつがパリンと割れた。

    「あっ、ご、ごめんなさい。いま──痛っ」

     エステラが慌てて花瓶に手を伸ばすと、割れた破片で指先を切った。

    「あ、危ない、血が……は、離れて!」

     バッと手を引こうとした彼女の腕を掴んで、イデアは血の滴る指に唇を寄せる。

    「もう、危なくないでしょ」
    「あ……」

     青い唇から伸ばされた舌が指に這い、血を舐めとる。熱いその感触に、エステラは目を見開いて首まで顔を赤くした。

    「君の呪いは解けたんだから。……ほら、なんともない」

     そう言って、彼は彼女の手首を離した。

    「オルトなら僕の部屋にいるから、言って治療してもらって」
    「え、えぇ」

     エステラは頷くと、足早に部屋を出ていった。

     「──クソッ」

     イデアは苛立たしげに、倒れた花瓶から水とともに飛び出した花の茎を握りしめる。

     「そんな顔するなよ……」

     明日、彼女は彼の手を離れる。


       ◇


    「エステラ、準備はいい?」
    「ええ、出来てるわ」

     別れの朝。エステラはふんわりとした可愛らしい、ワンピースを纏っていた。前日のうちにある程度の荷物は彼女の実家に郵送してあるため、ほんとうに彼女は荷物が少なかった。

     彼女の姿をその目に焼き付けようとイデアがじっと彼女のことを見ていると、少女は顔を赤らめながら彼を見上げた。

    「……今日、なんだかとっても素敵ね。王子様みたいよ」

     彼女との別れの日、モルガン家の前当主直々に迎えに来るというのだから、普段の緩い格好は出来ない。

     スッキリとした黒のハイウエストパンツに、フリルブラウスは首元までしっかりボタンがしめられている。そこに、ループタイが微かに揺れていた。

    「うわ、皮肉。やめてくれよそういうの腹立つ」
    「あら、褒めたつもりだったのに」

     微笑むエステラに、イデアは唇を尖らせる。彼にとっては本当に嫌味に聞こえたのだ。彼女の想い人と比べられているように思えて、ほんとうに、腹が立つ。

    「そろそろ時間かな」

     イデアが言えば、タイミングよくベルが鳴った。

    「私が出てもいい? お祖父さま、どんな顔するかしらっ」

     パッと笑顔になった彼女の髪は、イデアがヘアアレンジをした。以前のような黒髪のストレートではない、癖のある赤毛になかなか手こずらせられたが、器用なイデアの指は魔法のように彼女の髪を可愛らしく結い上げた。

     扉を開ける彼女の後ろ姿を見ながら、イデアは右腕を後ろに回し、そっと呪文を唱える。現れたのは、黄色い水仙の花束。

     アニメのブルーレイボックス、漫画全巻、タブレット、そのほか色々、彼女の喜びそうなプレゼントを考えていた。

     でもやはり、別れを彩るのはこの花束だろうなと、彼は漠然と思っていた。

     彼女と初めて言葉を交わした時も水仙の花束を渡す時だった。

     彼女が玄関を出て自分を振り返ったら、これを渡そう。どんな顔をするだろうか。

     もしも、彼女がその花の意味を知っていたなら。少しの可能性がまだ、残されてはいないだろうか。

     エステラが、ゆっくりと扉を開く。それに合わせて、イデアが足を踏み出したとき。

     眼前に、目を疑いたくなる光景が広がっていた。

    「久しぶり、エステラ!!」

     扉を開いた先、色とりどりの花が咲き誇るその花束の向こうに、眩しいほどに美しい金髪をなびかせた、褐色の肌を持つ男が立っていた。

    「お、王子……?」

     エステラの瞳が、長年焦がれていた相手を目の前に輝きを増す。それはイデアに向けるものとは全く温度の違う、見たことのないものだった。

    「君が大変なんだって話を聞いて、いてもたってもいられなくてね! わがままを言って君のお祖父様と一緒に来てしまったよ! ずっと会いに来られなくてごめんよ」
    「な、なにを言って……」

     エステラが戸惑っていると、彼女の背中を、イデアがそっと押した。

    「バイバイ、エステラ。もう魔法薬になんか頼っちゃダメだよ」

     そう囁きながら、イデアは彼女の髪にひとつ、水仙の花を挿しこんだ。それは彼の、最後の悪あがき。

    「待って、イデ──」

     イデアはもう一度強く彼女の背中を押し、扉を閉めた。

     渡せなかった花束の包装を破り捨て、むき出しの水仙の束を手に、彼女の部屋へと向かう。

     あぁ、やっぱりこうなるんじゃないか。

     僕の未来はいつだってバッドエンドで終わるんだ。

     彼女となんて、出会わなければよかった。

     首元の煩わしいループタイを取り、それでも抜けない息苦しさからフリルブラウスのボタンも外す。
     ベッドに倒れ込んだ拍子に、握っていた水仙の花束が散らばった。
     青く燃える炎の髪に黄色い花弁が沈んでいるのを、彼は愛おしそうに目を細めて見つめる。

    「そのまま燃えちゃえばいいのに」

     鼻で笑いながら、まだ手に残る花の束をギュッと握る。

     大きな窓の外にはまだ日が差していて、彼はそれから顔を背けた。わざわざ陽当たりのいいこの場所を寝室にと選んだのは自分だと言うのに、いまはその眩しさが恨めしい。

     その気持ちを汲んでか、わずかに空が翳る。

     青白い腕が何かを探すようにシーツの上を滑った。そこにあるはずだった温もりはなく、手触りの良い冷たい布がただただ彼の指の熱を奪う。

    「君を人間になんてしてやらなければよかったよ」

     イデアは力なくベッドシーツを握った。皺になっても、もうどうだっていいのだ。

     彼女はもう、自分の元へは帰ってこない。

     体を丸めて、彼は縋るように水仙を握った。この部屋で過ごした思い出は、全てを思い出すのがあまりに容易いほど短過ぎた。

    「僕のシュガー、ハニー、ベイビー……クソッタレ」

     そう、悪態をついた時。

     ドタドタとうるさい足音が部屋めがけて近づいてきた。

    「イデアっ!!」 」
    「……えっ?」

     ビクッと体を強ばらせながら扉の方を向けば、そこには先程見送ったはずの彼女が、髪を振り乱してそこにいた。

    「なんで、それ、くれなかったのっ」

     息を切らしているのか、肩で息をしながら指をさしたのは彼が握り込みすぎてくたびれた水仙の花束。

    「それは私のものでしょう?」
    「ち、ちがっ……これはっ」
    「じゃあなんでこれ、私の髪に挿したの」

     彼女の手には、握られていたせいか花弁が少し寄れてしまった水仙。

    「……そ、れは……」

     イデアが視線を宙に漂わせていると、エステラはボスン、とベッドに飛び乗った。

    「帰ってきたらダメだった?」
    「──っ! そ、んな、どうして」
    「シュラウドの人がこの花束を贈るのは、婚約者にだけって聞いていたけれど……違った? 私まだ、貴方の婚約者でいたいわ」

     不安そうにイデアの顔を覗き込む彼女を、彼は思わず、花束を手放して抱きしめた。

    「もう、離してやれないよ。さっきのが最後のチャンスだったのに」
    「ふふ、望むところよ」

     エステラも、彼の体を抱きしめ返す。

    「ぼ、僕と結婚して」
    「えぇ、もちろん。喜んでお受けするわ」
    「……キスしていい?」
    「怖いもの知らず。私とキスしたら死んじゃうかもしれないわよ?」

     意地悪そうに笑う彼女を優しくベッドに押し倒すと、イデアはその唇にそっと青い唇を押し当てた。

    「……た、たしかに……死んじゃいそうかも……」

     青白い頬に、赤みがさす。

    「でも、死なない。君はもう、猛毒の花なんかじゃないから」

     そう言って、彼は再び彼女に唇を重ねる。

     エステラが目を瞑った拍子に目じりからこぼれた雫は肌を伝い、シーツに、ただの染みとなって消えた。
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    乾燥きくらげ

    PAST※六章前に書いたものになります
    イデアと、とある呪われた少女のお話です

    このお話は、ichico様(@sistpen)のイラストとツイートに大変感銘を受け、わがままを言って書かせていただいたものになります。ご快諾くださり、本当にありがとうございました。
    (再公開するにあたり、アカウント記載の御許可を頂いております)

    【含まれる成分】
    オリジナルキャラクター、not監督生、捏造その他もろもろ
    恋を患い猛毒を呑む 彼女となんて、出会わなければよかった。

     首元の煩わしいループタイを取り、それでも抜けない息苦しさからフリルブラウスのボタンも外す。
     ベッドに倒れ込んだ拍子に、握っていた水仙の花束が散らばった。
     青く燃える炎の髪に黄色い花弁が沈んでいるのを、彼は愛おしそうに目を細めて見つめる。

    「そのまま燃えちゃえばいいのに」

     鼻で笑いながら、まだ手に残る花の束をギュッと握った。

     大きな窓の外にはまだ日が差していて、彼はそれから顔を背ける。わざわざ陽当たりのいいこの場所を寝室にと選んだのは自分だというのに、いまはその眩しさが恨めしい。

     その気持ちを汲んでか、わずかに空が翳る。

     青白い腕が何かを探すようにシーツの上を滑った。そこにあるはずだった温もりはなく、手触りの良い冷たい布がただただ彼の指の熱を奪う。
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    kinoko12069

    MOURNING・好きな曲から連想して書いた当社比重めなイデ監。何の縁もない田舎の駅で会話する二人の話。この二人は付き合ってはいないです。
    ・人を選ぶ内容なので気をつけてください。卒業後設定、セフレ的な関係と妊娠の描写があります。
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    There will never be another you「外はやっぱり寒いね」

    何もない駅のベンチでうずくまっていると、頭上から声が降って来た。今もっとも聞きたくなかったような、それなのに聞きたくて仕方がなかったような声だ。

    けれど顔を上げる気にはなれず、俯いたままそれに答える。

    「……出てこなければ良かったのでは?」

    もともと出不精な人だから、輪をかけて寒い今日などは世界が終わっても部屋を出てこないと思っていた。そういえば今朝はこの冬一番の冷え込みになるとラジオでは言っていたっけ。
    それも含めて皮肉を言うと、その人は困ったようにため息をついた。

    「君ねぇ……」

    彼は何か言いかけて、しかし止めた。そして着ていた外套を脱ぐと、私の肩に掛けて羽織らせた。冷えた身体に、そのあたたかさは染み入っていくようだ。
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