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    ほやたろう

    @hyhyoaoa

    ほや〜…

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    ほやたろう

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    チョコリウム!助けてください

    きみはレモングラス「そんな不機嫌にならないでよね!綺麗なカトラリーを探しにきたんだもの」
    「チッ……潮くせぇし、折角の今日のデザートが台無しだ」
    「爽やかで生臭い街には、苦くてすっきりなレモンの香りがピッタリだよ!レンくんもかけてみる?カノンとお揃いだよ」
    「いらねェし!」
     少年は手に持った香水瓶を左右に揺らす。小さいガラス瓶は街灯を受けてその美しい彫りを輝かせた。青年と少年は歩く。不思議な会話だが、忙しそうな街の人たちは気にする素振りも見せずにすれ違っていた。
    「そうそう、そのカトラリー、なんだかすっごく綺麗らしいよ」
    「綺麗なものを探しにきてるんだからそりゃそうだろ」
    「海から出てきたとは思えないほど、白くてツヤツヤで……やわらかい、んだって」
    「やわらかい?」
    「うん。カノンも聞いただけなんだけどね」
    「そんなんでうまく使えるのかよ。素材は最高なのに、それを扱うものがダッセーんじゃ意味がねぇだろ」
    「だからカノンも聞いただけなんだってば!」
     少年は頬を膨らませる。可愛いその表情に青年は全く動じなかった。同僚に可愛こぶられても困る、とため息をこぼす。
    「実際に見つからないとわからないんだろうなぁ。ね、レンくん」
    「オレ様が見つけたらきっちりお代はもらうからな」
    「それはカノンのせりふ!」
     少年と青年は足を止めた。波止場には誰もいない。今回の標的は海の中に。さて、どうやって盗んでやろうか。
    「……じゃあ、レンくん。次は、3日後に隣町で合流だからね」
    「わーってるよ」
     軽やかな足取りで人混みに消えた少年を見ることもなく青年は再び歩き始めた。



     ちょろい、ちょろすぎる。
     "伝説のかくしもの"という胡散臭いタイトルの本に書いてあった方法を何となく試しただけだ。最強大天才の怪盗サマにとってなんてことはない。他の方法だって沢山調べたのに、一番適当そうなやり方がビンゴだった。なんてことない何となくで、それは呆気なく引き寄せられた。
    「カトラリーって、フォークとかじゃねぇの?」
    「なんだ、オマエ。私はかとらりーなんて名前じゃない。ニンゲンってみんなそうやって失礼なのか」
    「呼んでねェよ!」
     適当に拝借した網に絡まったそれは喋った。動いた。目を合わせてきた。青かった。
    「じゃあ名前、なんて言うんだよ」
    「……教えない」
    「めんどくせー……」
     お姉様に教えるなって言われてるんだ、とゴニョゴニョ呟いているのが聞こえる。お姉様の存在だってバラさない方が良いんじゃないのか。
    「網の中っていう立場わかってないんじゃねーだろうな」
    「ここから出してくれるんじゃないのか?」
     なんだコイツ。何もわかっていないじゃないか。自分の立場も、巷で噂のオレ様のことも。ココントーザイどこでも参上、甘いモノだけを狙う不思議な誰か。都市伝説のように語られる"チョコレート怪盗"とは、正にこの青年のこと。チョコレート色の正装を纏うことなんて余程のことがなければなくて、今だって洗いざらしの白いシャツと灰色のパンツをラフに纏っているだけ。まるで平凡。この青年と対峙したとき、著名な絵画や豪華な宝石ではなく甘いモノだけを頂戴するような素っ頓狂な存在だとは誰も思わないだろう。
    「イマドキこの最強大天才の怪盗であるオレ様のこと知らねーとか、遅れてんな」
    「ニンゲンの世界では有名かもしれないが、こっちではオマエのことなんか聞いたことない」
    「まあ知られてちゃ今頃オマエの命はどーなってたかわかんねえけど」
    「……?」
    「怪盗が有名だったら困るだろ、バァーカ」
    「有名なのか有名じゃないのか、結局どっちが良いんだ」
    「うるせー」
     網の中の人魚は何もかもを知らない顔をしていた。さっきまで一緒に行動していた先輩とは正反対だと思う。小さいのに経験豊富な先輩怪盗。自分と同じくらいのサイズに見えるのに何も知らない人魚。それになにか感情を抱きそうになった瞬間、青年は無知であることすら知らない瞳に射抜かれた。
    「出してくれないのか」
    「何様だよ」
     吸い込まれそうな青。海の青を煮詰めてゼラチンと混ぜ合わせたような瞳。それはどんな味なのだろうか。甘かったらどうしよう。
    「……チッ、髪……絡まってやがる」
    「別に、切ったって構わない」
    「ここまで伸びてんだからもったいないだろ。伸ばすの面倒なのはオレ様と同じじゃねェの」
    「面倒……。そう思ったことは、ないかもしれない」
     初めて柔らかい空気になった。きっとその網の下、さっきまでとは違う顔をしている。見えない。手でひとつひとつ解いていくにはもどかしくて、取り出したナイフで網を手早く切っていく。
    「……今、何をしたんだ」
    「網を切った。少しくらい待ちやがれ」
    「切る、ってどうやって?」
     そんなのも知らねえのか、とツッコミたいところをグッと堪えて青年は自分に言い聞かせる。コイツは人魚、コイツは人魚!
    「……今度見せてやるよ」
    「そうか。楽しみにしてる」
     約束なんてしたって仕方がない。恐らくコイツがこの街に来た目的なのだ。海の中に眠ると言われている最上のカトラリー。コイツならばきっとその在処を知っている。あとは3日以内に吐かせるだけなのだ。暴力でも、等価交換でも、色仕掛けでも何でも。何も知らないような顔をしているコイツから、全て聞き出すのだ。
    「代わりに海の話聞かせろよ。なんかおもしれーもんがあんじゃねえの」
    「……色々喋りすぎてしまいそうだ」
    「助けてやっただろ」
    「……」
     考える時間をくれ、と言わんばかりにこちらを見てくる。目を合わせたくないと思った。首に視線を落とす。金色の首飾りは頑丈に首を覆っている。それは分厚くて、嫌でも首の華奢さを想起させた。
    「今はいーや」
    「そ、うか」
     首から視線を上げた青年は息をひとつ大きく吐いた。意識的に瞬きをすると乾きを自覚させられる。ひりつく目でもう一度瞬き。視線を横にスライドさせると岩場が暖色で溢れていたことに気がついた。夕陽が今日の命を終えようとして大きく輝いている。光線が海に溶けたとき、ちゃぽんと音がした。あ、と思った時には青いヒレが海に隠れていた。顔に飛沫が飛ぶ。
    「なっ、オマエ」
    「また来るのか?」
    「……来るけど」
    「そうか」
     ざあ、と風の音が大きく聞こえた。足にかかる海水は冷たい。
    「楽しみだ」
    「……あっ、そ」
    「じゃあな、ニンゲン。また、日が昇ったら」
     それって明日じゃねーの、と言おうとした瞬間にはその姿がなくなっていた。おもしれー。時間を決めていないことだけ気掛かりだが、何とかなるだろう。寝床を探すために岩場を離れる。船の往来が止まらないこの町は他所者に対して奇怪な視線を向けることがない。例えその青年の髪が世にも珍しい透けるような銀色だったとしても。そして、船乗りが多いということはこの町に家を持たぬ者も多いということ。夜更けまで時間を潰すために適当な酒場に入る。それを誰も何も咎めない街だった。飲めねーんだよねおれ、なんか適当に水でもくんねえ?とウェイターに声をかけ、輪から外れすぎない席に着く。情報収集は常に。
    「あんちゃん、レモンは?」
    「嫌いじゃないぜ」
    「ならよかったわ」
     ごとりとレモン水が置かれる。今年はレモンが獲れすぎちゃってね、とウェイターは笑った。ありがとなとチップを手渡し船乗りの方に耳を傾ける。ジョッキを口に運ぶ。甘くない。美味いんだかよく分からない。盗むべきものではない。脳はそう判断して緊張を緩めた。そういえばレモンの香りはカノンが持っていたな、と思い出す。甘い香りに飽きたのか、擬態用なのか。仕事のためならそういう甘くないものも用意しないとまずいかとため息をつく。甘いものだけに囲まれて生きていければ楽なのに、と思ったところでレモンの香りが頭に切り替えを促した。なるほど、苦くてすっきりとはこういうことなのか。改めて耳を澄ませる。今年は風が強いよなぁ。流されちまうから困ったもんだ。……立ち寄った東の国でよ、今何だか素っ頓狂な音楽が流行っててさァ!聞いたら踊りたくなるのなんの。……西のあそこじゃ王権争い。ゴタゴタしてて立ち寄るのも面倒になってたから気をつけろよ。……どうやらあの国の海軍は幽霊船と遭遇したとか。いや、あれは幽霊じゃなくて人魚だって噂だぜ。
     ビンゴ。周りも何となく話を止めて人魚の話をした男に目を向ける。
    「あそこの海軍連中はみんな練度が高いのはわかるだろ」
    「波さえ思うがままだってあの髭面のだよな」
     大きく頷いた荒くれは葡萄酒を煽る。
    「海軍サマご自慢の船に何か当たったらしいんだよ、こうやって音を立ててな」
     そいつはごとん!と音を立ててジョッキをテーブルに置いた。
    「なんだあ、ってんでみんな確認したらしいんだよ。そうしたら下を確認しに行った奴らが顔を真っ青にして戻ってきて、人魚がいた、奴は自分たちにこう言ったんだ、って言うんだ、」



    「先に来たと思ったのに」
     不服そうな人魚は日が傾いてから静かに浮上してきた。適当に持ってきていた布切れを身体に巻き付けて岩場の隅に座らせる。
    「何をするんだ」
    「見つかったらまずいならオマエが人間の姿になればいい」
     適当にはぐらかして自分も隣に腰掛ける。できる限り誰の目にも触れないように、死角に人魚を押し込む。なんで?その気持ちに触れるのが怖い。半ば八つ当たりのように何で夕方なんだ、オレ様の一日を返せとどつけばだってお姉様が……と口にした後にすぐあ、という顔をした。昨日も漏らしかけてただろと笑えばえっ、と驚く。表情が小さく、でも確実に変わる面白い奴だと思った。少しだけ。
    「普段どの辺りにいんの」
    「私は、そんなに深いところには行かないかもしれない」
    「深さじゃなくてどこかって……地図とかねェか……」
     海の中のことは全く知らない。コイツが地上のことを知りたがるように、自分も海の中のことを知りたいのかもしれない。動機が不純だとしても。
    「地図って何だ?」
    「どこに何かあるかって書いてある紙」
    「紙か、海じゃ使えないな」
     残念そうにするその顔を揺れる髪が隠した。瞳がゼリーならばこの髪は何なのだろう。揺れる癖っ毛に目が持っていかれる。
    「ジャム?」
    「何だ急に」
    「何でもねー」
     甘いもののことになるとダメだ。どうにも夢中になってしまう。青年は咳払いをして向き直る。
    「じゃあ海の奴はどこに何があるか、どーやって知るんだよ」
    「それは、もちろん自分で探すんだ。私も自分でお気に入りの場所を見つけた」
    「へぇ、どんなトコ」
    「難破船だ」
     昨晩の酒場での会話が耳奥でこだまする。
    「でけーの?」
    「大きいと思う。姉さんが入れるから」
     基準がよく分からない。
    「なんかあったりすんの?人間の物」
    「いっぱいある。でも、何に使うかはさっぱり」
    「へぇ」
     良い兆候かもしれない。きっと最上のそれはそこにあるかも、なんて心は少し浮かれた。
    「あぁ、あれはわかった」
    「あれ?」
    「スガタミ、ってやつ」
    「スガタミ……あぁ」
    「あれ、最初はなんだか全く分からなくてびっくりしたんだが……姉さんと一緒にスガタミの前に行ったらスガタミに姉さんがいたんだ。そこで、ようやくわかった」
    「ふぅん」
    「……おかしいか?」
    「いいや、そんなことは?」
    「なんで疑問なんだ」
     大きな目で見られると、苦しい。地上にいるはずなのに息が詰まる心地がして青年は目を逸らした。
    「初めてならそりゃそうかって思ったんだよ、悪いか」
    「……子どもじゃないんだからな」
    「そんなガキみたいなこと言う奴、本当にいるのかよ」
    「…………」
     じっとりとした瞳は童顔によく似合っていた。
    「……なんだよ」
    「……本当に、子どもじゃない。私はもう立派な成魚だ」
    「セイギョ」
    「これ以上大きな変化はない。じわじわ変わることはあるとしても」
     布の下でヒレが蠢く。ちらりと見えたそれは、どんな飴細工よりも煌めいていた。はしゃぐなと布を被せようとした。初めて触れた鱗に覆われたそこは、どうにも硬いようで柔らかく、魚にしては嫌にふわりとした心地がした。青年はそう感じた自分が嫌だと思って、平然としているふりをする。
    「……大きくなりたくないっていうのは、また違うけど」
    「大きくなりてーの?」
    「なりたいに決まってる。姉さんみたいに大きくなって、お姉様たちの力になりたい」
    「姉さんとお姉様たちって別人なんだな」
     迂闊すぎる。この立場でも心配になるくらいに。
    「……言ってしまっても、別になんともないと思う」
    「は?」
    「だって、私とずっと仲良くしてくれるわけじゃないんだろ」
     嘘をつけ。誤魔化せ。何も明かすな。いつかの教えが頭の中で響く。目を見るな。吸い込まれる、冷や汗が垂れる、なにを、言おう。
    「……そういう街だろ、ここは」
     演ずるべきは名前のない銀髪の青年だ。
    「本当は」
     意味深に伏せられた瞳の意味はきっと正体を見抜いたからではない。でも、でも。怖い、何を思っているのかわからない。こんな時だけ、人ならざる生き物に都合よく怯えてしまう自分が嫌だった。
    「あ?」
    「昔、ニンゲンと仲良くなったことがあるんだ」
     日はとっくに沈んでいた。漁火が彼方に見える。月は歪にこちらを眺めていた。その視線が人魚の横顔を薄く照らす。顔に差す影になっているのは青年だった。ぽつぽつと人魚は話す。波音に乗るそのテンポが心地良く、青年は自覚しないうちに調子を乱している。
    「優しい人だった。……オマエより」
    「うるせー」
    「ははっ」
     弾む声が耳障りだ。どうすればいい。
    「……本当に、優しかった。地上の色んなことを教えてくれたんだ」
    「たとえば?」
    「おいしい食べもの」
    「どんな?」
    「そうだな……色んなものを教えてくれたけど、チョコレートが一番好きだ」

     チョコレート怪盗は、心臓が沸騰する心地がした。

    「海にはあんなに甘い食べ物がないから……忘れられないな、あの味」
     うっとりとした様子の人魚。咄嗟に溢れた感情を取り繕えるほど青年は大人ではなかった。手は白い首を捉えることができず、金の首飾りを掠めた指が行き場を無くして宙を彷徨う。ゼリーは指で頂くものではない。艶めく青に映り込んだ自分の指を必死に誤魔化そうとして、髪に触れてみる。不思議そうな顔をした人魚が口を開くよりも先に話を進めようとして、掠れた声が出た。
    「食いてえ、の?」
    「え?」
    「チョコレート」
    「そうだな。またいつか、食べてみたい」
    「……ッ」
     オレ様を誰だと、と喉まで迫り上がってくる台詞を必死に飲み込む。今バレてしまってはいけない。いけない、けれど。
    「……怪盗だから、盗んでくるのか?それは……良くないと思う」
     まつ毛に縁取られた夜の海は昏く、奥に秘められた星の光に縋るしかなかった。
    「……生きるために、盗むのか?」
     ニンゲンの世界もなんだか大変なんだな、と勝手に納得している人魚に青年は我慢ができなくなった。両の手で肩を掴む。勝手に薄いと思っていたがそんなことはなく、しなやかな筋肉が、その脈動が、神秘の存在を現実なのだと思い知らせてくる。
    「…‥教えろ」
    「は?」
    「どこに、隠してやがる」
    「なにを」
    「チョコレートと、等価交換だ」
     意を決した。意を決さなければ、溺れるしか道がなくなる。教えろ、カトラリーがどこにあるかを。早く、早く。早くしないと、酸素がなくなってしまう。糖分を失った身体は、甘くもなんともないはずの海に溺れてしまう!焦りが口を動かすよりも先に、軽やかな足音がした。
    「あぁ!カトラリーって、そういうことなんだ」
     レモンの香りに脳を殴られる。苦くて、すっきり。
    「カノンね、白くてツヤツヤ、やわらかいってなんのことだかわからなかったんだ。でも、今わかっちゃった。人魚の骨を使うってことなんだね」
     チョコレート色の正装。赤いリボンがはためく。やわいミルクティーの髪は潮風に揺れ、エメラルドの瞳は楽しそうに輝いている。青年の同僚。別行動で、同じ獲物を探していて、それで?人魚の骨を使う、だと?人魚を見ると、大きな瞳がより大きく見開かれていた。頼む、何も聞いているな、という願いも虚しく人魚は口を開いた。
    「骨……?」
    「人魚、魚のところは骨がいーっぱいなんでしょう?」
    「おい、カノン!」
     どうすればいい。少年は香水瓶を持つのと同じくらい軽やかにナイフをぶらぶらと揺らした。幼い顔が楽しそうに笑う。
    「これ、お魚さんを捌くには十分すぎるくらいよ〜く切れるんだよっ」
    「何言ってんだ、」
    「試してみる?ほら、見てて!」
     少年はすぐ目の前に来ていた。人魚を岩場に押し込むようにじり、と迫ってくる。二人の間に立つことしかできない。レモンの香りと海の香りが混ざった時、人魚を誤魔化していた布は呆気なく裂けた。
    「なんでぼーっとしてるの?早く捕まえなきゃ!ほらレンくん、手伝って!取り分はレンくんが多くていいから、早く!」
    「カノン!」
     こうなればこのガキは何も見えていない。獲物を狩り、チョコレートとカワイイで身の回りを満たすことだけを考えている無邪気な子供。早くどうにかしないと、人魚が死ぬ。わかっている、こうなったらもうこうするしかないんだよ!青年は人魚から布を剥ぎ取った。隙になろうがなるまいが構わない。同僚に投げつけ、人魚を抱える。
    「いいか、二度と人間と仲良くなるみたいな迂闊なマネなんてするんじゃねーぞ」
    「なんでだ?」
    「なんもわかんないフリばっかしやがって」
    「ねえ、邪魔しないでよ」
     ひゅ、と空気を切り裂く音がした。逃がしたいのに、腕を掴む手がそれを許してくれない。畜生、泳いだこと、ないのに!

    「……あはは、レンくん、らしくなぁい」
     髪を括っていたひもが波に揺られている。




     例えば、魔法の力で海の中でも呼吸ができるようになるみたいな奇跡は起こるはずもなく。青年は波に打ちつけた身体の痛みを感じていた。腕に抱えていたはずの重みは浮力を纏って揺れる。人魚も同じように痛みに顔を歪めていた。否、笑っていた。
    「痛いな?」
     答えられるはずがなかった。青年は人間だから。人魚は自由になって泳ぐ。長い髪が揺れる。
    「早く、帰してやるから」
     海の中を声はこう響くのかと青年は思った。自分を包む全てが細胞に語りかけているような心地がした。
    「死なれちゃ、困るな」
     悲しんでいるのか、憐んでいるのかわからなかった。悲しむなよ、と思った気がした。意識と最後の空気、どちらを先に手放したのだろう。
    「チョコレート、また食べたいんだ」
     青が溶けて、何も見えなかった。




     ここは港町。来るもの拒まず去るもの追わず、袖擦り合うも他生の縁だが無駄に馴れ合わず。他人に干渉しすぎないここは、多少の異変など気にしなかった。
    「カノン、ルール違反は褒められたことじゃあない」
    「えーっ、だって目の前に獲物があったんだよ?もったいないってば!」
     チョコレート色の正装をした人間が二人。エメラルドの瞳の少年と、赤毛で髭を生やした大人。
    「あのとき、レンは怪盗ではなかった。一般人として生きていた。そうだろ?」
    「それは、騙すためじゃないの?」
    「騙すためだろうがそうじゃなかろうが、あのときのレンは一般人だ。この正装を身に纏っていなかったの、カノンも覚えてるだろ?」
    「それはそうだけどぉ…」
    「なら、だめだ。……ちゃんと謝ること」
     大人はハットを脱いだ。その華麗な仕草が終わる頃には、もう一般人の格好に変化している。
    「ありがとう、コイツのこと助けてくれて」
    「……」
    「あぁ、そりゃそうだよな……。怯えさせちまうよな、悪い」
     人魚は青年のそばから離れなかった。砂浜を必死に這って、口に波が入らないようなところまで連れてきたところで自分も傷を負っていたことを自覚した。自覚するとどっと疲れるのは人魚も人間も同じ。人魚の傷の治りは早い。だからといって、痛みに強いわけではなかった。ひりひりと痛む感覚に奥歯を噛み締めた人魚は、人間を仰向けに直し自分はうつ伏せになる。月の光は海岸を静かに照らしている。人間がいようが青年を傷つけた張本人がいようが、人魚は青年のそばを離れようとしなかった。鼓動を確認するわけでも、歌を歌うわけでもない。黙って隣にいるだけだった。大人の後ろから、少年が顔を覗かせる。人魚は彼のことを可愛い顔をしていると思った。しかしそれ以上何も相手にするつもりはなかった。
    「……ごめんなさい」
     自分の命を奪おうとしたニンゲン。昔に仲良くなったあの人とも、目の前で横たわるコイツとも違う恐怖の存在に、人魚は目を向けることはなかった。
    「誰に、謝ってんだ」
     声が響いた。驚いた人魚が青年を見る。突然声を出したものだから青年はむせこんでいた。呼吸を立て直した青年は立ち上がり、少年に掴み掛かる。
    「オレ様にもっとしっかり謝りやがれ」
    「そっちか?」
     大人は笑う。相変わらずだなあ、と楽しそうにしていた。人魚は一連の出来事とその勢いに、ただ上半身を起こすことしかできなかった。
    「まあまあ、こっちであとでしっかり絞っておくからさ。レンは早くそっちの子。ずっと側にいてくれてたんだぜ?」
     青年は、どうってことないような顔で人魚を見た。人魚も、なんてことない顔で見返した。
    「これ」
     濡れて色が一つ深くなった赤いリボン。差し出されたそれを見て、青年は自分の髪が乱れていることに気がついた。
    「やるよ」
    「いらない」
    「ハァ?」
    「チョコレートがいい」
    「なんだオマエ、折角オレ様がやるって言ってんのに」
     人魚は笑ってリボンを握り締めた。揺れるそれに向ける視線が無邪気だ。
    「じゃあ、そろそろさようならだ」
     腕を使って海にずりずりと進んでいく。
    「死ななくて、よかった」
    「そんな簡単に死ぬワケねーだろ」
    「死にそうだったくせに」
     青年は焦る。違う。言いたいのはこんなことじゃあなくて!
    「チョコレートはどうすんだよ」
    「これと、交換にしよう」
    「それオレ様のだろーが!」
    「やるよって言ったクセに」
    「いらないって言ったのはチビだろ!」
    「チビって私のことか」
    「チビはチビだ!」
     おかしくなって、人魚はまた笑う。
    「オマエは、レンって言うんだろ」
    「……で、なんだよ!」
     涼やかで空に通る声が名前を呼んだとき、青年は心にさざなみが起こった心地がした。
    「私の名前は、まだ秘密だけど」
    「チビなんだからチビでいいし」
    「そうだな」
     人魚は海に入る。美しい尾が月と海を浴びて、きらめきを放った。
    「あぁ、かとらりーのこと聞いたんだ」
    「え、」
    「お姉様が教えてくれたんだが、多分それは地上にあるって」
    「ハァ!?」
    「前に、沈没船が地上に持っていかれたんだ。そこにあったやつなんだと思う。あの船、すごくキラキラしてて面白かったから……そこにあったっておかしくない」
     呆気ない情報提供に青年は目を白黒させるしかなかった。赤いリボンが青い髪と靡く。夜でも鮮やかなそれが目に焼き付く。
    「オマエが知りたがってたことは教えた。だから、チョコレートと交換するのはこれでいいだろ?」
    「……っあ〜〜、なんなんだよ偉そーに、チビのクセに……!」
     憎らしい。艶やかなゼリーの瞳が、とろけるジャムの髪が、海に飲み込まれる。きっと甘いそれが、自分の手から離れてしまうことが認められなかった。ココントーザイどこでも参上、甘いモノだけを狙う不思議な誰か。天下のチョコレート怪盗サマが、目の前の甘いものをみすみす逃すなど!力の及ばない何かに対してこんなに怒ったことはなかったかもしれない。青年は砂浜を歩く。足音に湿度が混ざり、それはすぐに波音に変わった。ざぶ、ざぶ。恐るべき質量に怯むことなく青年は歩みを進める。
    「何やってるんだ、折角助かったのに」
    「明日!チョコレートやるから」
    「あした?」
     あぁ、コイツは明日のことをなんと言っていたっけ。
    「また、日が昇ったら!」
    「……あぁ、わかった。オマエたちは、それを明日と呼ぶんだな」
     人魚は笑った。
    「また、明日」
    「それ、ぜってー失くすんじゃねーぞ」
    「あぁ。こうすればいいかな」
     人魚は髪を一房掴んだ。慣れない手つきでリボンを絡めようとする。
    「ちげーし!」
    「っあ、危ない」
     手を伸ばした青年の足が波に攫われた。視界が青く揺れたその瞬間、鈍く輝く尾が迫った。ざぱりと持ち上げられた青年は咳き込む。
    「次は助けないかもしれないぞ」
    「チビが……間違えるからだろ……」
     こっちに来やがれ、と手招きすれば大人しく浅瀬に進む人魚。全身が濡れているからもう知ったことではない、と膝立ちになって人魚の横に構える。横顔は、見ないふり。
    「同じなのは癪に障る、テキトーにやるからな」
    「確かに、同じのだとどうなってるか見えないから嫌だな」
    「いちいちうるせー!」



    「……先に来たと思ったのに」
     朝の光は静かに空を満たす。人魚は水面から静かに顔を出した。
    「ずっとここにいたんだよ」
     岩場に座っていた青年は立ち上がり、消波ブロックに向かって歩き始めた。人魚はそれを追うように泳ぐ。
    「私もそうすればよかった」
    「オネエサマたちが心配すんだろ」
    「……それはそうかもしれないけど……」
     歩みが止まる。青年はブロックに腰掛けた。手を伸ばせば触れ合える距離。
    「つか見たぞ、ひとり」
    「え」
    「黒髪のヤツ」
     青年は得意気に口角を上げた。人魚は心当たりがあるようで、ぎくりとした顔になる。
    「な、なんか言ってたり、とか」
    「睨まれただけ」
    「姉さん……」
    「よほど仲が良いみたいだなァ?」
    「……仲は、良いと思う。私は姉さんのこと大事に思ってるから」
    「ふぅん」
     はにかんだ笑顔が、この二日間で得られた成果なのだろうか。
    「これも、大事にしてくれてたみたいでな?」
    「あ」
     青年は人魚の髪に編み込まれたリボンを解く。それで自分の髪を括り直すそのわずかな間で、人魚が残念そうな顔をする様子をちらりと見てしまった。それを振り払うように約束の品を渡す。
    「ほら、やる」
    「ずっとここにいたんじゃないのか」
    「それはそれ、これはこれだバァーカ!正直に喜びやがれ」
    「……そうだな。ありがとう」
     チョコレートを両手に抱えたまま、人魚は動かなかった。
    「食わねえの?」
    「食べたらなくなるだろ」
    「そりゃそーだろ!バカだな、チビ」
    「なくなったら、次はいつ食べられるかわからないから」
     人魚は、人間とは違う文化に生きている。人間の文化の外れにこっそりと生きている怪盗よりももっと違う、御伽話と隣り合わせの世界にいるのだ。地上のものに憧れて、なんてことない姿見に目を輝かせるような生き物。
    「欲しかったのに、いざこうなると……迷ってしまうな」
     困った顔をしてこちらを見られても、どうしようもない。
    「……そういうもんだろ」
    「それは、わかってる」
     そういうもんだろ、ともう一度呟く。自分に言い聞かせるつもりだった。違う生き物なんだから。違うんだから、仕方ない。そうだろ。
    「……じゃあ、明日が100回来たらまた来てやるよ」
    「100回…」
    「わかんねえの?」
    「それくらい、わかる」
     10が10こだ、と人魚は両手を広げた。
    「なんで来てくれるんだ」
    「……欲しいんだろ」
    「りがいのいっち、って言いたいのか?オマエには良いこと、ないんじゃないのか」
    「……良いこと」
    「私は、何か準備できるわけじゃないから」
    「あー……」
    「それとも、もし思い違いだったら忘れてほしい、んだ、が」
     歯切れが悪く、珍しく尻窄みな物言いに視線をやるとなんともむず痒そうな顔をしていた。
    「友達だから?」
     ともだち。そう言うには少し命を張りすぎてしまった気もするし、甘さに焦がれすぎてしまっている気もする。しかし、その言葉の響きは全てを丸く収めるのに一番うまく作用すると思った。場を収めることにも、自分の心を収めるためにも。
    「そーゆーことにしといてやる」
    「……ニンゲンの友達……初めてだ。嬉しい」
    「あっそ」
    「オマエも、嬉しいか?」
    「……調子に乗んなバァーカ、来てやんねーぞ」
     跳ねるアホ毛が萎れた気がしたのは気のせいだろうか。
    「……」
    「なんでそんなにわかりやすいんだよ」
    「うるさい」
     おかしくなって青年は笑う。
    「たまに来てやる、感謝しやがれ」
    「……えらそう」
    「あぁ?当たり前だろ、オレ様を誰だと思ってやがる、最強大天才の」
    「チョコレート怪盗、さま?」
     なんで知っているんだ、どこまで知っているんだ、なんだその顔は?萎れていたように見えたアホ毛は元通りだったし、瞳はいたずらに光っているし。青年はもう、人魚のことを無知だと思えない。甘い甘いその瞳をチョコレート漬けにする日まで人魚に怯え続けるのも、悪くはないと思った。
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