取り壊しが決まった九龍城砦についに立ち入ることができなくなってから、洛軍は信一が買ったばかりの古くて狭いビルの2階の隅に寝泊まりしていた。
少し前にここからやや離れた地区にある理髪店に何とか雇ってもらえて、今はまだ掃除しかさせてもらえていないが、来週からは道具の手入れを教えてもらえることになった。少し浮き足だった気持ちで帰途を歩いて、屋台で適当なおかずを買って、元々ビルに打ち捨てられてあった木箱をテーブルがわりにしパイプ椅子に座って、それらを素早く平らげた。外で車が行き交う音以外は何も聞こえない。信一がいつか夢見ていたカラオケ屋に改装するには狭そうだが1人で間借りするには広すぎる空間の中に、洛軍のげっぷの音が響いた。
汗は明日の朝にでも近くの公園の水場で流せばいい。そう思って、城砦から運んできたビーチチェアに寝転がった。ぎし、と金属が小さな悲鳴を上げる。洛軍の人生はひどく孤独なものではあったが、静かな場所で暮らすのは殆ど初めてだった。あの騒がしさが強烈に恋しくなることはある。今夜のような過ごしやすい気候で、少しだけ良いことのあった時なら尚更だ。何しろ城砦では自分だけのものなどひとつもなく、全てを分け合っていた。風呂、便所から始まり、水道、電気、食料、仕事、空間、騒音、におい、時には病までも。そしてそうやって人同士が身を寄せ合っていることで瞬間瞬間生まれていく目に見えないたくさんもの。できごと、変化、感情、記憶。目を閉じると、生活をいとなむ住人達の顔が次々に浮かんでは消えた。みんな元気でやっているだろうか?
彼らにゆくえを洛軍が知るにはこのビルのオーナーと話すのが一番の早道なのだが、最近の信一は神出鬼没だった。なにせ最後まで移転先が決まらずに残った住民達の世話のために、不動産屋、入管、役所、警察、関係各所を駆けずり回っている。住居だけでなく職の世話も必要だから、香港中の表社会裏社会を行き来しているのだ。寝泊まりは、信一の支援に(主に裏社会の面に関して)尽力しているタイガー哥の事務所でしているらしいが、そこにさえ帰ってこないこともしばしばだということは十二少から聞いている。
身分証を持たない者、身寄りのない者、金が少しもない者、仕事に就くことが難しい者。城砦にしか居場所がなかった彼らの人生に道筋をつけるのが、九龍城砦のリーダーの立場を継いだ信一の目下の、そして最後の仕事だった。洛軍や四仔、十二少も最初はその仕事を一緒にしていたのだが、大方の目処がついたところで信一はあとは自分の力でやり遂げたいと申し出た。それで、洛軍と四仔は自分自身の居所を探し始めた。四仔は通りで整体院の商売を始めることにして、洛軍も香港中の理髪店を片っ端から回った。結局は信一のビルに置いてもらっているのだから、洛軍も信一に世話をされた1人ということになる。
信一もどうしているだろう。最後に会ったのはもう1ヶ月も前だ。
そんなことを思いながら眠りについた洛軍は、信一と四仔と十ニ少で麻雀をしながら今日の出来事を話して、するとなぜか3人に腹をぎゅうぎゅうと押される夢を見た。
目を覚ますと、パイプ椅子に腰掛けた信一が洛軍の腹の上に突っ伏して眠っていた。驚いたが、初めてのことではない。信一は洛軍とふたりきりになると、そんなふうに振る舞うことが増えた。まるでそうするのが当たり前のように洛軍に身を預けるやり方は、決してきれいなばかりの世界で過ごしてきたわけではないはずなのに、どこか子どもっぽく素直で甘えたな信一の本来の性格をそのまま体現しているように洛軍には思えた。
休まる格好ではないだろうに、と洛軍は溜息を吐く。取れかけたパーマの髪は伸び切って、寝顔を隠している。心の赴くままに指を伸ばして、信一の顔にかかった髪にそっと触れて彼の耳に掛けると、形の良い薄い唇がむにゃむにゃと言いながら動いたので洛軍は少し笑った。眠っていてさえ疲れを感じ取れるほどに信一はやつれている。このまま信一を眠らせておくためには洛軍が二度寝をするのが一番だが、次に目を覚ました時に信一が姿を消してしまっていることもこれまでに何度かあったから、朝のあわい光の中、洛軍は信一を起こさない程度に髪を弄びながら、彼の目覚めを待った。
目覚めた信一は、洛軍と目が合うなり力無く笑って、かと思えば開口一番「出掛けるぞ」と言った。
体を起こしながら大袈裟なくらいのあくびと伸びをした信一は、足りない指で器用に髪を一つにまとめると、ろくな説明もなしに洛軍を外に連れ出した。
洛軍が毎朝通っている屋台で粥と油条を平らげると、信一のバイクの後ろに乗って移動した。洛軍が信一の腰に右手を回すと、記憶のそれよりも更に細さに頼りなく思えて、タンデムバーを持つ左手に自然と力が入った。
日々めまぐるしく様相を変える香港の街を駆け抜けていく。古い建物は次々取り壊され、その跡には所狭しと新しく高いビルが建てられる。それはさながら有機物の代謝のようでもあった。洛軍が香港に来てまだほんの数年だというのに、ずいぶんと様変わりしてしまったような気がして、洛軍が街の様子をきょろきょろと見回す一方で、そんなことはお構いなしに信一はバイクを猛スピードで走らせた。
着いた場所は、いっとき信一らが住んでいたあの水辺の家だった。
元々このあたりに住んでいた蛋民はもうほとんどいなくなっていたし、彼らが城砦を取り戻して以来この場所は放っておかれていたので、荒らされて散らかり、風雨に晒され建物や杭の風化も進んでいた。信一は、洛軍に屋根と壁にできている隙間を塞ぐように言って、自身は家の中に散らばったものを使えるものと捨てるものに分類しはじめた。洛軍は辺りから廃材を拾ってきて、鋸で適当な大きさにすると慣れた手つきで釘で木片を壁に打ちつけた。穴はあちこちに空いていたので、一時間半ほどかかってようやく雨風を凌げるくらいの家になった。
屋根から降りると信一はデッキの上のテーブルと椅子をぼろ布で拭いているところで、額の汗を拭った洛軍と目が合うと肩をすくめ、いつの間に用意していたのか、コカコーラの瓶を親指で指した。
洛軍は信一が並べた椅子に座り冷えたコーラを一気に飲み干す。呆れたように笑って隣に掛けた信一は煙草に火をつけた。潮風が汗を飛ばして心地が良い。水辺に溜まったゴミと磯臭さでここも決していい匂いとは言えないが、城砦の籠った空気とは雲泥の差だ。洛軍が陸の景色を眺めていると、隣で信一が結んでいた髪を解いて、洛軍の肩にもたれ深く煙を吐いた。きっと、かつて誰かにそうしていたように、今自分にそうしているんだろう、と洛軍は思った。2本の指で煙草を持つ信一の右手を見下ろして、数年前に失くなった彼の指のことを思った。そして今、親しんだ場所を失くしたかわりに洛軍は自由だった。絶え間なく風の吹くこの場所で凧を上げたとして、高く上がるどころか糸が切れてどこかへ飛んでいってしまうかもしれない。
燃え尺が短くなるとそれを行儀悪く海に投げ捨てて、煙草の箱を弄んでは、徐に新しい煙草を取り出して火をつけて。随分と長い時間そうしていた信一が、「仕事は順調か?」と聞いてきたので、洛軍は進展があったことを伝える。すると信一が笑って頷いたのを洛軍は肩の振動で感じた。
洛軍は信一のことを聞こうとしたが信一が答える前に、海辺を歩いていた女2人と子どもが桟橋を渡ってゆっくりとこちらに近づいてきたので慌てて身を捩る。しかし信一は動かずまるで仲睦まじさを見せつけるように洛軍にもたれたまま軽く手を振った。
「姐さん達すまないな、こんなところしか用意できなくて。でも一応タイガー哥のシマの一部だから安全には過ごせる」
彼らが目前まで来るとさすがに信一は立ち上がって挨拶をしたので、洛軍もたじろぎながら立ち上がった。移民のため身分証もなく身寄りもなく、城砦にいられなくなった後は仕方なく街を転々としていたが、一人は足が悪く一人は病気がちで、まともな仕事に就くことができず金に困り信一を頼ってきたのだという。連れているのはどちらの子でもないが、自分達と同じように身寄りがない子どもを放っておけずに、城砦にいる頃からふたりで育てている。
近いうちに家と仕事を工面する、それまでの食糧や雑貨はここに誰かに届けさせると約束する真剣で善良な横顔を、洛軍は横で見ていた。
「台風が来るまでには見つけないとな」
バイクを停めてあるところまで戻る道すがら、信一が独り言のように呟く。洛軍は、不確かゆえに彼らの前では言わなかったある当てについて話した。
「理髪店の客が話していたんだが、店の近くの雑貨屋が計算のできる店番を探しているらしい。彼女は城砦でも子ども達に簡単な勉強を教えていたくらいには頭が良かったし、足が悪くても店番なら座れるから問題ないだろう。店主が彼女を気に入れば身分証が無いのも大した問題じゃない。この後戻ったら店主に聞いてみるよ」
「本当か? そりゃあいい、すぐ聞きに行こう」
子どものように明るい笑顔を浮かべる信一に、洛軍は頷きつつ不意を突いて相手の顎を片手で掴んだ。
「雑貨屋に寄ったら、少し時間は遅いが近くの飯屋で昼飯をたらふく食おう。そしたらお前は少しビルで休んでいけ。ちゃんと寝ろ。その間にせっかくの顔を台無しにしてるこの無精髭を剃ってやるから」
やや呆気に取られていた信一だがすぐに「俺の顔に傷つけたらただじゃおかないからな」とにやりた笑った。そうしてもう今日はひたすら甘えることに腹を決めたのか、洛軍に愛車の運転すら任せて、挙句に洛軍にしがみついたまま後部座席でうとうとして眠り始めたので、洛軍は信一を落とさないよう、冷や汗をかきながら徐行運転する羽目になった。