Recent Search
    You can send more Emoji when you create an account.
    Sign Up, Sign In

    hysk__0

    @hysk__0

    ☆quiet follow Send AirSkeb request Yell with Emoji 💖 👍 🎉 😍
    POIPOI 13

    hysk__0

    ☆quiet follow

    至千、再掲、千景の過去捏造、暴力表現あり、2019年とかに書いたやつなのでオーガストのあたりぼやぼや

    カーネーション 俺を産んだという女は、俺を産んだというだけで偉そうだった。なにもしていない俺を叩いては邪魔なお荷物だと罵った。なにもしてないのにと泣く俺に、なにもできない役立たずだからと言う。女のいう通りだった。俺は1日4回与えられるひとかけらのパンだけで体力がなかったし体も小さく、字も読めず、数も数えられなかった。俺は役立たずだった。女は俺を閉じ込めていた。俺の居場所は、女の隣にしかなかった。女の居場所もまた、俺の隣だけだった。それが俺にとっての家という場所。
     女は外へ出ることを怖がり、毎晩男を家に招いた。そして俺を風呂場へ押し込める。女は毎晩同じ鳴き声で男を喜ばせていた。男がいないとあの女は、そして俺も、生きていかれなかった。
     ある晩、女はいつもと違う声だった。男を喜ばせる甘ったるい鳴き声は気味の悪い叫び声になる。また失敗したのだと思った。俺と同じように、女も失敗が多かった。招いた男を相手に失敗すると、女はひどく罵られ、殴られた。それでも女は小さい俺のように泣くことはなかった。だがその夜は違った。泣き叫び許しをこう女の声はとうてい聞いていられなかった。俺は冷たいシャワーを浴びて浴槽に沈んだ。水の中まで歪んだ声が聞こえて俺は息がくるしかった。ふと女の声が途絶えた。終わったのだと思った。浴槽から顔を上げ咳き込む。俺は濡れた服のまま、凍えた体を抱きしめながら風呂場を出た。男の姿は既になく、ただ汚物を垂れ流して動かない女だけが床に転がっていた。俺はしばらく女を観察した。俺は数が数えられず、字も読めなかったが、女を観察することは得意だった。立ちっぱなしの足がガクガクと揺れ、濡れた髪も乾くころ、歪んだ顔の女は二度と動かないと悟った。俺は静かな女の隣に寝そべった。俺は寒くて仕方がなく、女が温かいことを知っていたから。静かなときの女は優しかったから。しかしその夜の女はぬるくてかたくて、腕を上げて震える俺を抱きしめることもしなかった。外が明るくなり、俺は家を出ることを決めた。女の隣は寒過ぎた。
     
     
     
     布団を干すからと午前中に叩き起こされる。発売されたばかりのシリーズ最新作を明け方までプレイしていた至は憎らしいほどの良い天気に眠る場所を奪われたのだ。太陽が眩しくて忌々しい。シーツやらなにやらが回収され、仕方なくソファーに突っ伏してスマホを見る。大きな液晶画面を見る気力はない。半分寝ながらソシャゲのログボを回収していると、静かに部屋のドアが開いた。爽やかな朝の空気と共に長身の彼が入室する。
    「ああ、茅ヶ崎。おはよう」
    「せんぱい……おはようございます?」
    「なんで疑問形なんだ」
     ふ、と鼻で笑う人は涼しげな動きで、窓際にぽつんと置かれた白いチェアに座った。
     この人も寝ていない筈だ。いや、寝ているのかもしれないが、少なくともこの部屋では寝ていない。回数は減っているが相変わらず深夜に部屋を出ていくことがある。昨夜もまさにそうだった。ヘッドホンをして液晶に向き合う至の背中を軽くさすり、出てくるよとジェスチャーだけでいわれた。至は口の動きでいってらっしゃいと返し、ドアが閉まる気配を感じてから気を付けてと小さな声で呟いた。深夜の外出について事情を聞いたことも、引き止めたこともない。ずっと前のことではあるが、一方的な契約を結ばせたこともあり、ここにいてくださいなんてことは言いにくい。それに理由を聞いたところで彼は答えられず、きっと困らせるだけだ。話せないことは誰にでもあるもので、ルームメイトのそれはおそらく絶対の機密事項。結局嘘の理由をでっち上げていつものように笑うしかないのだろう。彼に嘘を重ねてほしいとは思わない。
     ラップトップを膝に乗せて、窓の外を眺める千景の眼鏡は眩しそうに太陽の光を反射させている。
    「出掛けるか」
     開いたばかりのラップトップを閉じて立ち上がり、独り言だと思い反応を示さなかった至の顔を覗く。目が合えば、おいと声をかけられ同じ言葉が繰り返される。
    「おい、出掛けるぞ」
    「え、俺も?」
     至の言葉に不思議そうな顔をしてうんと頷く。ソファーから体を起こして、ラップトップを抱えたままの千景を見上げる。
    「どこに」
    「決めてない。どこがいい?」
    「からかってます?」
    「いいや、今は真面目だよ」
    「今はね」
    「うん。な、出掛けよう」
    「それはデートのお誘いですか」
     にこにこと楽しそうな顔は再び不思議そうな表情に変わる。滅多に見られないきょとん顔にデートのお誘い。内心キタコレとはしゃぐ至をよそに、千景は思いついたようにやや左の方へと口角を上げた。
    「デートなら、手、繋ぐ?」
     千景は頰をほんのり赤く染めて、スッとソファーに座り、スマホを持つ至の手に指を絡める。眼鏡越し、わざとらしいほどの上目遣い。真面目とは。至はからかわれていると知りながらも息を呑む。絡められた指をそっと握り返そうすれば、すんでのところで千景はパッと手をはなした。頰の赤みは既にない。
    「はい、はやく着替えておいで」
     千景はおかしそうな顔で、先ほどまで熱をはらみながら絡めていた指を振った。
     

     
     外に出ると大きな光の塊に目が眩んだ。俺は開いたままのドアの横にうずくまる。家から出てはいけないと女の声が囁く。動かない女の隣の方が安全のように思えた。どうしようかと考えているうちに、先ほどまで感覚のなかった指先がじんわりとあたたくなるのを感じた。下を向いたままの頭のてっぺんがジリジリと火照る。感覚を取り戻した指で目を覆い俺はついに立ち上がった。
     あれはなに、と一度尋ねたことがある。珍しく外が明るい時間に起きていた女に、俺は窓の外を指差してママと呼びかけた。あの大きいあかるいものはなに。女はベッドから起き上がる様子もなく、開いた雑誌から視線を外さない。女は無反応で、俺は聞こえていなかったのかと思いもう一度ママと声をかけた。それが失敗だった。女は不機嫌に立ち上がり、勢いよくカーテンを閉めてから何も言わずに俺を突き飛ばした。女は再びベッドで横になり読めもしない雑誌をめくる。俺は床に尻餅をついたまま手を伸ばして、カーテンから漏れる明かりに手のひらをかざした。床の上の尻は冷たく、かざした手はあたたかい。明かりに透ける手のひらを眺めていると女に呼ばれた。床に座っていたら風邪を引いて面倒だ。そういって女は俺をベッドに上げて腕に抱いた。女の腕の中は木漏れ日よりも温かかった。
     光の塊が太陽と呼ばれていることを知るのはずっと後のことだ。
     
     
     
     いつか監督と話したことがある。千景は運転がうまくて、丁寧なタクシーみたいだと。確かにその通りだ。会社の行き帰りなどでも稀に同乗するが、千景は運転が上手い。ハンドルを軽やかに左にきる。正面を向く横顔は太陽に照らされ、影を作る。
    「海を見に行く映画見たことあるか」
    「情報少な過ぎでしょ」
    「余命幾ばくかの男2人が病院から向け出して海を見に行くんだよ。どうして海だったかな」
    「海行きたいんですか」
    「ん?いや、海より山がいい。海ならずっと深いところ、潜ってみたいな」
     意外だった。彼が自分の話をすることは多くない。返事のない至に瞬間視線を移し、すぐに正面を向く。至はハッとして会話を続ける。
    「意外ですね。チート先輩なら潜水もできるかと」
    「泳げはするけどね。潜水は、そういえばやったことないな。茅ヶ崎はやったことある?」
    「あると思います?あ、いやあるわ」
     言ってから、しまったと後悔する。千景の反応をうかかえば目だけで続きを促される。この人相手に誤魔化すことはできない。至は諦めて息をつく。
    「本格的じゃないですよ」
     小学生のときの家族旅行だった。海に囲まれた島で、魚がたくさん見られるからと言われた。たくさんの魚は正直少し怖くて、本当は嫌だなと思っていた。体力はなくもちろん泳ぐのも得意ではなかった。それでもボートに乗せられ、曰く"最高のスポット"まで連れて行かれた。慣れないボートで既に気分が悪くなりかけていた至を置いて、怖いもの知らずの姉が我先にと海へ飛び込み、1分もしないうちに顔を出した。大きく顔を覆うゴーグルを外して、至を呼ぶ。潜らないと後悔するよという姉の顔は本気だった。姉には従わないとあとがこわい。たくさんの魚よりもずっとこわい。仕方なく至は冷たい海へと足をいれた。学校のプールとは異なる水質にただひたすら足をばたつかせながらなんとか体を沈めた。恐れていた魚の大群はなかった。透明な海水に太陽の光がキラキラと溶けている。少しの群れで視界を横切るちいさな魚たち、深くはない底で踊る海草や大きな貝は確かに珍しいもので、ゴーグル越しに広がる海の世界はただただ綺麗だった。
    「顔をつけるのが精一杯でしたけど」
     ははっと渇いた笑いをこぼす。千景は相槌を打つばかりでいっそ無関心にすら思えた。ああ、やはり。家族の話はよくない。
     千景が肉親の話をするときは基本的に作り話だ。昔馴染みらしい密と兄弟喧嘩のような戯れをしていることもあるが血縁の話は聞いたことがない。我らが春組を家族として受け入れる姿は満更でもなさそうで、年下を構う姿は様になっているけれど。恐らく同じような境遇の咲也とはまた異なる事情を抱えているのだろう。
     しかし、これは選択ミス。頭を抱えそうな至を横目に千景は口を開いた。
    「俺も昔家族で海に行ったことがある。なんでもない海水浴だけど。……両親はまだ5歳くらいの俺から目を離してね、俺は足がつくような浅瀬で溺れたんだ」
     千景の自嘲するような話し方に思わず顔を上げ、日に照らされる横顔を見る。懐かしむような顔に作り話の気配はなかった。
    「自力で海から上がって泣きながら両親を探した。俺を見つけた母親が、ひとりで行かないのって叱るんだよ。いなくなったのは向こうなのに」
     決して楽しいとはいえない思い出だ。まるでなんでもないように最悪だなと笑う人を今すぐ力一杯に抱きしめたい。今なら、自分が、自分たちが、楽しい海の思い出をたくさん作ってやれるから。
    「なんてな。それらしい話だろ」
    「は?」
     上げかけた腕がかたまる。いつのまにか太陽の光はコンクリートに遮られていた。立体駐車場の一角で車を止めた千景と目が合う。演技の稽古がこの人を余計に器用な嘘つきにさせているのだろうか。先ほどよりもずっと胸が痛くて、目を合わせていられなかった。下を向いた至の様子を探ろうと千景がシートベルトを外して体を傾けた。至はどうしようもない怒りに視界が滲む。下を向いていると零れ落ちそうだった。顔を上げ、運転席とは反対の方を向く。子供みたいな拗ね方で自分に呆れる。窓の外には車が並び、満車の表示が見える。休日で混む時間帯だというのにちゃっかり店内への出入り口に近いスペースを確保したようだ。店内に見えるのは覚えのある看板だった。
    「なんで家具屋」
    「お前の溢れたおもちゃを入れる収納ボックスがほしい」
    「余計なお世話乙」
    「茅ヶ崎、怒ってるのか」
     意外そうな声色に、見ればわかるだろと怒鳴りたくなるのを堪える。窓に反射した千景の顔は叱られた子供のようだった。出先でこんな風に喧嘩だなんて恋人みたいだ。思ってから、自分たちは付き合っているのだと実感する。至は千景に向き直り、意外にもわかりやすくしょげた様子がかわいくて、キスをする。メガネのフレームが冷たい。
    「俺は千景さんと違って素直だから言いますけど怒ってます。今のは最低な嘘でした。まあ、浅瀬で溺れた5歳の子も、そんな子を責める親もいないならよかったです」
     突然のことに手で口をおさえたままの千景は至を見つめて動かない。千景の視線を無視して、胸を締めるシートベルトを外し、車のドアを開ける。駐車場の独特なにおいに目をつむり、深呼吸をする。車内の息苦しさよりはいくらかましだった。深呼吸を二、三繰り返しながら、なかなか出てこない千景に至は内心焦りを覚える。彼を傷つけるのは本意ではない。なんでもないふりをして窓をコツコツとノックする。行かないんですかと口の動きで伝えると、千景は至を見上げて口を開いた。
    「嘘よりましな話がないんだ」
     千景の言葉は窓ガラス越しで、至には届かない。
     
     
     
     招かれた男たちと女が過ごすベッドの上は嫌いだった。しかし家にあるベッドはひとつだけで、女と俺はそこで眠るしかなかった。
     時折、ひどく臭う枕を背中に敷いて、音の鳴らないテレビを見た。画面はちりちりと掠れて、隅の方は複雑な虹色にちかちかと映る。テレビというのはそういうものだったから、それで俺はなにも気にならなかった。女は動物の映像だけを俺に見せる。俺はそうした映像を気に入っていた。手と足で素早く走り、別の大きな動物に襲い掛かる生き物が好きだった。それは画面の向こう側で、生き物の名前は聞こえない。すごくはやい、と隣でタバコを咥えているだけの女にいえば、お前もいつかあれに食われると女が言う。タバコに火をつけた。俺は女の言葉の意味がわからずにテレビに視線を戻す。画面越し、4本足の生き物が俺を睨んでいた。
     結果的に、女との生活は長くはなかった。ここで死ねば人生の半分以上をあの家の中で過ごしたことになる。何度もそう思って生き延びた。歩みを止めれば4本足が俺を襲うだろう。
     「キミにはまだはやかったね」
     赤が滴る俺の腕を拭うあいつになんともないと強がった。ここで食われるわけにはいかない。困ったように優しく笑う彼の目の色は画面越しに俺を睨む生き物のものと似ていた。
     
     
     家族連れで溢れる店内は車内とは異なる空気の悪さだった。至は気まずくて、千景の半歩後ろをついて歩く。車内で見せたしょげた様子はもはや皆無で、怒っているというわけでもなさそうだ。かといって愉快とは程遠い。千景は無表情のままに、至の歩くスピードに合わせて人混みを進む。
     北欧の国が発祥らしい家具屋はふつうとは少し異なり、店内には商品を使用したモデルルームが並ぶ。一人部屋、リビングにキッチン。小さな子どもから大人まで、誰もが楽しそうに部屋の間を通り抜けている。
     いくつかの"部屋"を過ぎればそこは寝室のエリアだった。並ぶいくつものベッドに千景は足を止めた。収納ボックスが目的であれば当然スルーだと思い、通り過ぎようとした至の腕を強めの力で掴む。
    「あだっ!先輩、ゴリラなんだからもっと優しくしてくださいよ!」
    「誰がゴリラだ」
     掴んだ腕を離さないまま千景は至を引きずるようにしてベッドの隙間を縫うように歩く。時々足を止めて確かめるようにベッドをぎしりと押した。ふむ、とわざとらしい仕草で考える振りをする。
    「俺はセミダブル2つでもいいと思うんだ。ダブルひとつじゃ狭いよ」
    「はい?」
    「まぁ、いっそキングでも……なんて。なあ、お前もちゃんと考えろよ、2人の部屋だろ」
    「……はい?」
     千景の唐突な言動についていけない。なにこれ、もしかしてエチュード? 困惑する至を無視して、そばにあったクイーンサイズのベッドに腰掛ける。軽く上下に揺れて、千景は思い付いたような顔をした。
    「これいいな。茅ヶ崎も、ほら」
     掴んでいた至の腕を離して自分の隣をぽんぽんと叩いた。至は仕方なく腰掛ける。いたってふつうのベッド。試しに力を入れてマットを押した手に千景の手が重なる。驚いて隣を見れば、千景は正面を向いたままだった。
    「ちかげさん」
    「なに」
     握りしめた手の甲を千景の親指が撫でる。視線だけが至を向く。
    「デートだからね」
     目が合い、千景は力なく笑った。それは期待と不安が混じり合ったような表情で、至は拳を緩めて千景の指に自分のものを絡めた。2人きりであったなら、ゆるく弧を描く唇に何度も口づけをしていただろう。流石にそれをする勇気はなく、クイーンサイズのベッドに倒れる。
    「流石にでかい」
    「そう?まあ、今の部屋には置けないな」
     千景は仰向けの至のとなりに横向きで寝転がる。髪が白いシーツに散らばる。ベッドに押し付けられ少しズレた眼鏡がだらしなくて、本当に2人きりのような雰囲気だった。小さな子ども連れが横を通り過ぎる。3つ離れたベッドではカップルらしき2人組が楽しそうだった。
    「茅ヶ崎至」
    「なんですか」
    「お前がほしいよ」
     穏やかで、独り言のような響きだった。絡められた指に力が入る。
    「昔チーターが好きだったんだ。お前は、とろいシマウマだな。俺がチーターだったらいくつものシマシマの中から必ずお前を選んで死ぬまで追いかけ回してた」
     俺が人間で良かったねといって至の手に軽く爪を立てた。千景はいまだ穏やかな顔で至の横顔を見つめている。独り言ではない千景の言葉をしばし考えて至は口を開いた。
    「チーターって、そういうのふつうはライオンじゃないですか」
    「そうだったかも。忘れた。どっちでもいいよ」
    「適当過ぎワロ」
     顔を横に向ければ千景の顔はすぐそばだった。やはりそれほど広くはないのかもしれない。
     お前がほしいだなんて言葉、家具屋のベッドの上では台無しで、だからこの人はノーロマンなのだ。至はひとりで納得しながらズレた眼鏡越しの濁った青色を見つめた。
     
     
     
     4月という俺が生まれた季節と、女が俺を産んだ時期には多少のズレがあった。でも4月の方が君らしいと適当に笑う男は8月に相応しく、俺を熱いほどに照らし導いた。
     アドレス帳を眺めていた俺は呼ばれて顔を上げる。見上げた先で彼は、仕事だよと神妙な顔つきだった。腕に負った怪我が治ってからも外に出してもらえなかった俺は彼の言葉に口角を上げた。そんなに嬉しそうにしないでくれと彼はやはり困ったように笑う。
     机に広げられた資料の中から1枚の写真を手に取る。写真の男はどこかで見覚えのある顔だった。俺は思い出せず、記憶力の訓練がまだまだ必要だと分厚いアドレス帳を睨んだ。どうしたのと彼が尋ねる。俺はなんでもないと返して、写真を机に戻した。
     俺が男を捕まえる。彼が男の口を割らせる。いつもと変わらない仕事だ。その日は俺が彼と出会ってから5回目の4月の日だった。
     目を覆って人にぶつかりながら歩く俺の手を掴んだのが彼でなければ、俺は数を数えることができないままだったに違いない。終わったらお祝いをしなくちゃねと彼は俺の頭を撫でた。いつまでも出会った頃のような扱いに俺は恥ずかしくて、やめろと彼の手を払った。彼はごめんごめんと笑ってから、真面目な表情で行こうかと言った。
     暗闇で逃げた男を押さえつけ、膝を地面に打ち付けた。暴れる男と痛む膝に舌打ちをして、大人しくしろと男の腕をひねる。折ってしまおうかとも思うが、男の醜い悲鳴を聞きたくなかった。それに、あとで彼が困るかも。不意に男が怒鳴る。調子に乗るなよクソガキが!こちらを振り向いて月光で照らされた男の顔に、壊れたテレビと汚いベッドがひとつだけの部屋が蘇る。
     すぐ終わるからと額に当たる唇のかさかさとした感触。女の後ろで無関心にタバコをふかしながらベルトを外す男の横顔。冷たい水の中で聞いた女の叫び声と男の怒鳴り声。勢いよく閉まるドアの音。動かない女の隣で開いたままの読めない雑誌。握ったドアノブの冷たさ。最後に振り返った俺を見つめる灰色に濁った青色。すべてが鮮明だった。
     ひねる腕を力任せに反対側へと押し曲げる。男は思った通りの醜い悲鳴を上げて顔を伏せた。人を殺したことはなかったが、人は簡単に死ぬものだと知っていた。それを俺に教えたのはこの男だ。背中に乗り上げて、太い首に手をかける。俺は四つ足で、自分よりも大きい生き物の命を奪う術を持つ。
    「エイプリル」
     首を絞める両手に力を加えたところで冷たい声が路地に響く。全身に入った力が抜けずに返事ができない。人影は近づいて再び俺を呼ぶ。俺はやっと手の離して振り返る。月の下で満足そうに笑った彼は俺を立ち上がらせ、膝の汚れを払った。動かない男の首に指を当てて大丈夫と頷く。全身に汗をかいて震える腕を抑えながら、俺はその姿を呆然と見つめていた。3度目に俺を呼ぶ声はいつもの温かさだった。痛む膝に足を引きずりながらゆっくりと近づく。あと数歩のところで引き寄せるように抱きしめて、君の仕事じゃないよと彼は優しく言った。
     月が沈む頃、彼の隣で軋む膝を抱える。痛むのかと心配そうに彼の手が膝をさする。彼の体温に痛みが和らいだ。この頃ずっとだと返せば、彼は目をパチクリとさせる。君はきっと僕より大きくなるね。彼は嬉しそうに頰を膨らませた。
     
     
     
     組み立てれば3段に分かれる収納ボックスがふたつ、後部座席に積み込まれる。至は助手席から後ろを覗いた。
    「これ、千景さんのスペースに置くんですよね」
    「は?」
    「え」
    「わかった、俺からのプレゼント。大事に使えよ」
     運転席でシートベルトを締める千景は先輩面で有無を言わせない。至は諦めて、嬉しいですと棒読みで返す。千景は笑いながらエンジンをかけた。
     駐車場を出て寮の方角にウインカーを出したところで、あ、と声を上げる。
    「なに?」
    「海行きましょう」
     至の言葉に千景は眉を寄せた。とっくに消えた気まずさを蒸し返すような発言で、至は気にせずスマホを取り出して続ける。
    「取り敢えず近いところ調べるんでそれっぽい方に走らせてください」
    「お前な」
    「んー、意外と距離ある。先輩、次右で」
     タチの悪い我儘モードで、やたらと強気な至にやれやれと息を吐く。言われた通り右折して次の指示を待ちながら車を走らせる。結局年下を甘やかす人だ。至はスマホを操るフリをして口を隠した。
     15分ほどで西日の当たる駐車場に車を停める。車を降りて少し歩けば海を一望出来る丘に着く。思っていたような砂浜ではなかったが、沈む太陽に染まる地平線に至は目を奪われる。少し後ろからパシャリとスマホのシャッター音が聞こえて振り返れば、顔をオレンジに染めた人がインステ映えといたずらに目を細めた。
     太陽がゆったりと沈むのを2人は並んで眺める。言葉はなく、たまにはそれもよかった。柵に置かれた左手は無防備で至は右手を重ねる。赤みのさす頰は夕焼けだと誤魔化せばいい。
    「茅ヶ崎」
    「千景さん」
     呼ばれて、名前で返事をする。隣を見ればやはり正面を向いたまま。
    「天国では海の話題が流行っているらしい」
    「……」
    「海の話ができないと話についていけないから、2人は海を見に行くんだ」
     数時間前の映画の話だと気づく。余命僅かの男2人は海を見たことがなかった。知り合ってすぐで、2人は病院を抜け出して車を盗み、海を目指す。どうせ死ぬのだから彼らが気にすることはなにもなかった。ただひたすらに海を目指す。
     千景は眩しそうに目を細め、顔の前に右手をかざした。節くれ立った手が黄昏に赤く透けている。その光景に幼い頃よく聞いたメロディが浮かぶ。小学生になっても繰り返し歌われる童謡で、今でも歌詞を覚えている。"真っ赤に流れる僕の血潮"。特に印象的なフレーズは未就学児には難しい言葉で、だからずっと覚えているのかもしれない。隣で手を伸ばす彼はこの歌を知っているのだろうか。
    「先輩」
     まるですぐそこにあるかのように口にするけれど、天国はまだ遠いはずだ。あなたは生きているのだから。
     かかげた右手を下げて至を向く。レンズ越しの青色が常よりも明るく見える。
    「俺たちたぶんまだ50年くらい生きます。もっと長いかも」
    「……そう」
    「ですです。先輩の、これまでの20数年間で起こった話せないことも話したくないことも、俺はいつか聞けたらいいなと思ってます一応。千景さんに任せますけど。でも……それで、取り敢えず今これからは嘘で誤魔化さなくていいような卯木千景さんの思い出作ります。まずひとつ、今日のこの海の景色は嘘じゃないからあんな作り話しなくて良くなりましたね」
     俺のおかげと得意げな顔を作る。千景はなにも言わずに至の顔をたっぷり見つめて、ふと正面を向く。つられて至も同じ方向に視線を移す。太陽は沈み、薄暗い。海面には陸の光がキラキラと光が反射している。
    「海も悪くないな」
    「俺もそう思います」
    「天国に行けたらこの海の話をするよ」
    「いやいや、夏にまたみんなで行きましょうよ。ちゃんと砂浜で。秋と冬にも。来年も、次の年も。海の話はもう飽きたって言われるくらい。50年あるんだから」
     重なる手を強く握られ、至は言葉を切る。千景の瞳は海にも負けないくらいに眩いていた。いつか見た海水に透ける太陽の光を思い出す。
    「お前はひどいやつだ」
    「先輩思いのできた後輩では?」
     千景は目元を赤く染めている。太陽は沈みきっているのだから、それは夕焼けのせいではないはずだ。普段の鋭い目付きは緩んだ目尻で、幼く見えた。
    「50年なんて」
    「守ってくださいね」
    「……まったく」
     年下のワガママを聞くのが好きな彼だ、きっと約束は守ってくれるだろう。やれやれと息を吐く千景と見つめる至は2人きりで、まさにロマンチックな口づけのタイミングだった。
     
     
     
     家という場所を出て居場所を見つけた。
     カビ臭い小さな浴槽よりずっと広い。潮の香り。夕陽が反射する。俺は50年後も、その先も、海を見る。隣の手を握る。
     地獄でも海の話は流行っていると良いと思った。
    Tap to full screen .Repost is prohibited
    Let's send reactions!
    Replies from the creator