兼さん 真夏。
蝉も木陰で一休みしているような暑い日。
和泉守は、部屋で組紐手芸の本を読み耽っていた。
最近、お洒落を嗜む本丸男士の間では手芸が流行っている。和泉守兼定もご多分に漏れず、組紐手芸を数ヶ月前から始めていた。
ちょうど頼んでいた本が届いた午後という事もあって、和泉守は暑さも忘れ、本を片手に手元のノートに鉛筆でメモをとっているところだった。
こうして空き時間を見付けると組紐の本を読み、自分の作りたいオリジナルの作品のイメージを練ってから、自分好みのオリジナル作品を作る。
和泉守は、既にお洒落な男士達から一目置かれるほどの腕前だった。
「兼さん」
ふと、堀川の声がする。
夢中で構想を練っていた和泉守だったが、反射的に顔を上げ、返事をした。
「国広?」
顔を上げた先の、開けっ放しにした障子戸の周囲には、人影がない。
あれ、聞き違いだったかなと、和泉守が首を捻ると、また声がした。
「兼さん」
今度は聞き違いなんかじゃない。
和泉守は立ち上がり、障子戸の外の廊下まで出る。
「国広」
長く伸びた廊下には隠れる所なんて無いはずだが、誰もいない。
並びは軒並み部屋を留守にしていて、廊下に面した他の部屋は、全て障子戸が閉じられていた。
「……国広?」
堀川国広は和泉守に悪戯をするような性格ではない。
再び首を捻る。
あまりの暑さで蝉も鳴かなくなった庭に面した外廊下は、真っ昼間なのにしんと静まり返っている。
風も凪いでいる今は、まるで時間が止まっているようだった。
「兼さん」
「国広!」
また声が聞こえた。
声がした方向へ、和泉守はぱっと顔を向ける。
最近主が増築した、新たな男士の私室として使う予定の予備棟の、廊下の向こうから聞こえたようだった。
あんな所へ、堀川は行く用事なんてないはずだが。
「兼さん」
廊下の奥、角を曲がった辺りから、呼んでいる声が聞こえると、和泉守は爪先を増築された棟の方へ向けた。
ほんのりと、真夏の日差しに炙られた新築の木の匂いがして、息苦しい。
「ンな所で、一体何してんだ国広ぉ~…」
暑くてうんざりした雰囲気を隠さず声に含ませて、和泉守は不満げに大分離れた廊下の奥へ声をかけた。
もしかしたら、面倒事でも起きたのか?
廊下をずんずん歩き、真新しい廊下に踏み込む寸前で、和泉守は良く知る二人に呼び止められた。
「あれ、和泉守だ。何してんの?」
馬当番だったはずの加州清光と大和守安定が、甚兵衛姿でこちらへ歩いてきたところだった。
「お前ら、もう当番終わったのか」
和泉守は足を止めて二人を振り返る。
二人の髪が少し湿っていて、大和守の肩にタオルがかかっている所を見ると、既に馬当番を終えて一風呂浴びてきたところらしい。
「俺は今、国広に呼ばれて……」
途端に、加州と大和守は怪訝な顔をして眉を潜めた。
和泉守自身も違和感を感じて、言葉を濁す。
「何いってんの。堀川は国広兄弟と遠征で、帰るの明日の朝だって言ってたでしょ。今日の昼前出る時、俺達は馬小屋行くついで、アンタは本が届いて受け取るついでに、見送ったじゃん」
加州の言葉で、暑さでぼんやりとしていた頭が冷えてきた。
だが、自分は呼ばれている。
「えっ、まさかボケた? やめてよ、俺ら、たしかに人間だったらみーんな爺さんだけどさ〜」
「お爺さんどころか仙人だよね。……あ、そうだ和泉守、一緒に台所行って麦茶でも飲もうよ。もしかしたら最近流行りの熱中症で、幻聴だったんじゃない?」
狐につままれたような顔をして黙っている和泉守を見かねて、大和守が誂うような口調で構った。
煽られて、和泉守が言い返す。
「ばっ、刀が熱中症になったら、戦なんてできねぇだろうが」
いつもの調子で返事をした和泉守が、ちらちらと増築された棟の方へ視線を向ける様子に気付いた二人は、なんとなく妙な気持ち悪さを感じた。
そして、言葉にできない微妙な気持ちが何であるか判別がつかないうちに、二人は自然と行動を起こしていた。
加州と大和守は、和泉守の左右の腕を取るように組むと、強引に大股で台所へ歩き出す。
とにかく、和泉守を増築された方には行かせてはいけない。
そんな気がする。
「決まり決まり~っ、さーて、麦茶麦茶~」
「あっ、そうだ、まだアイスあるかな」
「待てよ、まだオレは一緒に行くなんて……」
両腕を取られた和泉守は、新築棟から反対方向の台所へ引きずられながら振り返る。
じゃあ、今、俺の名前を呼んでいた声は一体……?
「そういえば昨日主がいっぱい買ったって言ってた。よーし、予定変更! アイスだー!」
「アイスだー!」
俺は、一体何に返事をしちまってたんだ。
新たに増築された棟が見えなくなる一瞬。
ほんの少しだけ横目で見た、長い長い廊下の奥。
夏の日差しで出来た濃く暗い陰が、和泉守の目には、なぜだか、ひどく恐ろしいもののように見えた。