溺れて泡を吐くように 不釣り合いな恋だとは分かっていた。
安っぽい作りの机と本棚、ベッドしかない狭い賃貸の部屋。彼女がここに来ると突然照明が明るくなったかと勘違いしそうになる。
手入れの行き届いた髪と肌いつも艶めいていて、着ている服はきっと自分には想像もつかないような値段なのだろう。だが、微かに首を傾げて微笑む表情には気取りがなく、親しみがこもっている。
彼女は、援助してくれている研究所の理事の妹だった。
こちらの方は幼い頃に両親を亡くし、親族もなく孤児院で育った身の上だった。不幸に生きるのが、最初から決まっているような。
中学から配達のバイトして金を貯めているような生活だった。進学がしたかったのだ。勉強が好きで続けたかったし、少しでも人らしい生活をしたかった。好きだけでなく、かなりできる方でもあったのが幸いだった。
院は高校卒業と同時に出なければならなかった。奨学金で大学へ行けたのは良かったが、暮らしていくのに困った。
大学で出会った友人の紹介で、大手の研究所のバイトをしていたが、それだけではとても足りない。掛け持ちしても足りない。いやいっそ研究所を辞めて稼ぎのいい労働一本するべきだった。だが、もしあそこを辞めてしまったら、勉学よりも労働が主になってしまうのは目に見えていた。こうやって貧しさからは逃れられないのだな、と虚ろに思った。
そんな時、理事に呼び出されたのだ。
「お前は変わった光の眼をしているな」
ここに就職する、及び雑用をする条件で援助してくれるというのだ。どうやら自分に可能性を見てくれたらしい。
願ってもない申し出だった。最初からここの職につきたくてバイトを申し込んだようなものだったから。
しばらくして。
見知らぬ女の人を度々見かけるようになった。
明らかに研究所職員ではない。最初何かの撮影があってそのモデルかと思った。艶のある長い髪をさらりと下ろして、しなやかな体つき、白い肌にふっくらとした唇、一瞬驚いてしまうほど綺麗な人だった。胸をつくような甘い香り。質の良さそうな桃色のワンピースに薄手のショールのようなものをふわふわとたなびかせて歩く様は、この無機質な研究所には余りにも似合わなかった。
理事の妹だと聞いた。
嫁いでいたのが、夫を亡くし戻って来ているそうだ。理事が届け物を任せる時に研究所へやってくる。確かにあんな人が何か持って来たら無碍に断れる輩はそうそういないだろう。
そのお付きに自分が選ばれた。面倒なことを聞かれても何でも答えられるかららしい。安物の服しか持っていないので、スーツまで誂えてくれた。恐縮したが、経費だと理事はさらりと言った。
「馬子にも衣装だな」
と理事はニヤリと笑い、
「きちんとした格好も素敵ですね」
と彼女は言った。すれ違ったら会釈くらいはしていたが、自分のことを把握していたのだろうか。などと一瞬よぎったが、そんなはずがない。兄に合わせただけだろうとその時は思った。
行き帰りに他愛もない話を交わした。
子供の頃の兄は近所で知らぬ者もいないほどの悪ガキだったとか、弟をいじめてただとか。でも妹にはずっと優しくて、今でもほんの子供のような扱いを受けているとか。
分かるような気がした。彼女は何もない所で急につまづいたり、地下鉄の長いエスカレーターを怖がるような様子があった。高い場所が怖いらしい。外に出慣れてないようだった。それはいかにも深窓のお嬢様といった風で、本当なら出会うこともない人なのだ。
「大丈夫ですよ、ちゃんと手摺りに手を置いていれば急に止まっても落ちないんです。俺が前に立つから、怖くなったら肩に掴まってもいいし」
最初は耐えているようだったが、中頃になると肩に手をつけ、ぎゅっと握ってきた。その細い指の感触と微かな重み。時が経つにつれ、いつ肩に手を置かれるだろうと待つようになった。そしてその手が離れてしまうのを惜しむ、この感覚。以前にもこんなことがあったような不思議な心地がした。
「あなたは不思議な人ですね」
ある時彼女が言った。
「私を特別扱いするわけでも馬鹿にするわけでもなく、対等に接してくれる。嬉しいです」
「特別扱いした方がいいですか」
「いいえ、そのままで」
ふふと笑う。
それは、彼女の方だった。
孤児院出身だというと一様に憐れまれ、時には蔑まれた。でも彼女は「誰も生まれてくる環境を選ぶことはできませんものね」と言っただけだった。「それもあなたを形作る要素の一つなのでしょう」と。
スーツを着てこいと連絡を受けるのは、彼女とどこかへ行く時だった。
その連絡を次第に心待ちにするようになった。
それは、この気持ちは。
伝えるつもりなどなかったし、ずっと隠し通すことに決めていた。
決めていたのに。
何が起こったのかよく分からない。
滝へ落ちていくように呑まれていくように彼女と恋をした。
歳の差も環境の差も、世話になっている理事の肉親だと分かっていたのに、止められなかった。
エスカレーターではすぐに彼女は肩に手を置くようになり、手摺りの上では指を絡めた。
彼女と触れ合って、自分が今までいかに孤独だったかを知った。孤独が当たり前すぎて、それが何であるかも分かっていなかったのだ。
でも。
熱で浮かされたような日々を過ごしてしばらくして、休日に2人で会うような時。
高級な洗練された身なりの彼女と、安物の服を着た子供じみた自分。周りからはどんな風に見えているのだろう。
彼女はどこに行っても喜んでくれたが、ファストフードのカウンターも定食屋も明らかに似合わなかったし、相応しくなかった。相応しい場所へ連れて行けるお金も時間も、更に経験も自分にはなかった。
それが伴うまで待ってもらうのか?
彼女の貴重な時間を無駄にさせているのではないかと思えた。人からあてがわれたスーツがあったから出来た恋だったのかもしれない。
一度そう思うと頭から離れなくなった。
早い方がいい。長く幸せを得るほど、一緒に過ごすほどに恋慕が募り、辛さが増すだけだ。
分かっていてもなかなか踏み切れなかった。
彼女を失った後を想像すると寒気がした。でも、後から彼女にあの時間は無駄だったと思われる方がよほど辛い。
多分、今の内に別れるのがお互いにとっていいことなのだ。この思い出で、きっと自分はずっと生きて行ける。これほど誰かを好きになることはないだろう、そんな人に出会えただけでも良かったと。
そして、今日、きちんと話をしようと思って部屋に来てもらった。彼女が去っていった後の自分が正常な状態だろうとはとても思えなかったから。
もう慣れたもので彼女はすぐにベッドに腰掛ける。他に座る場所がないのだ。
「最近少し沈んでるみたいだけど、何かあったの?」
彼女が見上げてくる。虹彩が揺らめいて、星を宿しているような瞳。
「──いや、ちょっと話があって、」
隣に座る時、指先が触れたが、すぐに離した。触れてしまうと話せなくなる。
彼女は眉をややひそめた。2人きりになると常にどこかしら触れていたから、不審に思ったのかもしれない。
「……」
「色々考えたんだけど、」
そこまで言うと、急に抱きついてきた。柔らかな感触と、胸をつくような甘い香り。
「ちょ、」
今度は唇を押し付けてくる。勢いのせいで当たった歯がカチリと音を鳴らし、驚いて思わず顎を引いた。
「ねえ、……しよう?」
切なげに目を細め、縋るように言ってくる。
彼女からそんな直裁な言葉を聞くのは初めてで、そちらにも驚き、理性が揺らぐのを感じた。
「待って、話が」
「後で聞くから、」
なおも唇を押し付けてくる。応えたら駄目だとぐっと閉じていると、今度は頭ごと抱きかかえられた。髪に頬擦りされてるのが分かる。
こんな風に、自分を抱きしめてくれる人なんて、今までいなかった。
彼女の匂いと感触。撫でられて、体と思考が泡立ってくる。
「──駄目だ、今は、」
「今はして。お願い」
震える声。何の話をするのか察しているのか。だからそんなことを言うのか。
再び顔を寄せてくる。何度も頬につけられる唇。
「なんだよ、そんなの、まるで──」
彼女の唇は少し厚みがあって、とても柔らかい。抗えない、抗えるわけがない。
顎を傾けてキスする。乱暴に舌を合わせる。
そんなにして欲しいならしてやる。
力任せに抱きしめる。
何度もしてやる。もう駄目って言ってもやめてやらない。何度も何度もしてやる。
いつもは壊れ物を扱うようにそっと脱がしていた服を、今は包装紙を開くような無造作さで剥がして行く。彼女はその間もこちらの身を抱えようとするので、取っ組み合いをしているようだった。
見える部分にも沢山跡をつけて、何度も何度も、気を失うまで抱き潰してやる。
この人は、自分の何がいいんだろう。何も持っていなくて、こんなに子供じみていて、見境がなくて。──話だって聞く気もないのに。
ああ。
こんなの、まるで──。
体目当てみたいじゃないか。