契約書を失った3章直後のアズが願いを叶えてくれる鏡に縋りかけて大変なことになるホラー話(続かない).
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体中の血が凍るような恐怖を男は感じていた。はあ、はあ、と五月蠅いほど荒い呼吸を繰り返して落ち着こうと躍起になるが、冷や汗は止まらず、心臓も壊れたようにバクバクと暴れている。怖いという感情以外なにもない。
アパートの階段を駆け上り、引っ掻くように鍵を開け、自宅のワンルームに転がり込むなり震える手で施錠をする。ガチャリと大袈裟な音を響かせると、チェーンもしっかりと掛ける。いつもならチェーンなんて面倒くさがってしないが、今だけは違った。
ヤツが来る。その恐怖だけが全身を突き動かしていた。
「くるなくるなくるな…ッ」
祈るように繰り返して、ガチガチと歯を鳴らしながら部屋の隅に逃げ込む。
この部屋の鏡は三日前に全て取り外した。窓もカーテンで締め切っているし、電気さえ付けなければ反射するようなものはない。この部屋でじっとしている限り安全だ。
そう言い聞かせて、ひたひたと這ってくるような恐怖心に必死に抗った。
「なんで…、なんでこんなことに…? オレは…オレはただ…ッ!」
頭を抱えてうずくまったそのときだった。ビシャアンッと鋭い雷鳴が轟き、男は「ヒッ!?」と悲鳴を挙げて跳び上がった。その拍子に側にあったテーブルの脚を蹴ってしまい、置いてあった小物入れが床に散らばる。反射でつい落ちたものに目を向けて、男は息を呑んだ。
そこにあったのは少し前の夏に買ったサングラスだった。ガールフレンドに「似合ってる」とおだてられて買った“ミラーサングラス”。
なぜ暗い部屋でそれを認識できたのかといえば、雷の閃光が薄いカーテンをものともせず室内を照らしたからだ。
サングラスの中の自分と目が合う。
「か…、鏡…ッ!」
まずい。まずいまずいまずい。
警鐘が脳内で鳴り響く。ガンガンと、まるで鼓動のように早く、激しくなる。
目を、逸らさなければ。そう思うのに、体が動かない。
じっとサングラスに映る自分を見つめていると、ミラー越しに黒い影が映り込んだ。
*
穏やかに目覚められるようになったのは、いつからだろう。
幼い頃は朝が憂鬱で仕方なかった。タコ壺の口から朝陽が差し込めば、今日もいじめられるのかと考えて気持ちが沈んだ。八本の足が全部震えて動けない日もあったが、学校に行かないわけにはいかなかった。
海の世界は広いようで狭い。小さなコミュニティの中で不登校になれば、その事実はたちまち広まり、異端児として白い目を向けられる。明るい性格と誰とでも友達になれる無邪気さが人魚の世界では「まっとう」なものであり、暗く孤立しがちな己の性分は「悪いもの」と見なされていた。
その考え方は「普通」だとアズールも思っていた。だけど、それでもこれは「おかしいこと」だとも思っていた。明るくて誰とでも友達になろうとする思考が「まっとう」なら、どうしてクラスメイトたちは自分をいじめるのだろう。いじめは「悪いこと」のはずなのに、みんな当たり前のように自分をいじめる。
そして同時に言われ続けてきた「グズでノロマなタコ野郎」という暴言。ひとりじゃ何もできない無能だからいじめてもいいということなのか。
──ならたくさん勉強して、海の魔女のような力を身につけてやる。
力があればいじめられない。それどころか、自分を馬鹿にしてきたやつらを見返して跪かせることもできる。
その原理に気づいてからは、がむしゃらに勉強した。最初は邪魔をしてくるいじめっ子もいたが、これまでの大人しい態度を一変させて墨を吐きつけてやれば、存外簡単にいじめっ子たちは追い払えた。
そうしてひたすら勉強を続けていると、朝を迎える恐怖がいつの間にか消えていた。はじめは覚えたことを翌朝には忘れて、思うような結果が出ず焦りもしたが、鍛え続けた記憶力は徐々に許容量を増やし、気づけば膨大な情報量を脳みそに収められるようになった。
朝、目を覚ます。目覚めて、記憶したことを難なく思い起こせる。それが嬉しくて楽しくて、気づけば穏やかに朝を迎えられるようになっていた。
だから、こんなに重苦しい目覚めは本当に久しぶりだった。
こじ開けた両目でぼんやりと天井を見つめる。見慣れた景色に自分の部屋だと理解して、息を吐く。ちらりと枕元の時計を見ると、デジタル表示された日付が記憶してるものより二日も過ぎていた。
最後に覚えているのは、オーバーブロットした日のこと。アズールの全てとも言える契約書が全てなくなってしまった日のことだ。
(あれから二日も寝ていたのか…)
冷静に状況を分析する。異常な状況だが、驚きはしなかった。同じ寮長のリドルやレオナがオーバーブロットしていたこともあって、事前に情報を得られていたのが幸いした。オーバーブロットは死の一歩手前のような状態で、体力を酷く消耗することも知っていた。だから自分もそうなのだろうと他人事のように考える。
体を起こすとくらりと目眩がした。浮力が働く海の世界とは違い、重力に支配された陸ではたった数日寝たきりになるだけで筋肉が衰えると聞いたことがある。だから体が思うように動かなくても「そんなものか」と冷静に受け止めることができた。思った以上に精神は安定していた。
だけど、そのまま大人しくしていることはできなかった。どうしてもこの目で確かめたいことがあって、アズールは重い体を引きずって部屋を出た。情けないが自力では歩けそうになくて、寮長の証である杖を突いて廊下を進む。普段ならパジャマ姿で出歩くなんてだらしないことは決してしないが、着替える気力も余力もない。
カツ、カツ、と杖を突く音がいやに鮮明に響く。先ほど見た時計は朝五時を示していた。まだ人気はないはずだと安心して足を動かす。
壁伝いに進む道のりは寮を出て、モストロ・ラウンジに続く廊下を進むが、ラウンジも通り過ぎてさらに真っ直ぐに歩いて行く。いつもなら十分もかからない道のりだが、上手く動かない体が重たくて倍の時間を要した。
時間を掛けて辿り着いたのは、アズールの領域であるVIPルーム。目的は最奥にある大きな金庫。厳重に施した錠を解いて、がちゃりと重たいドアを開けると、ひやりとしたものが背筋を伝った。
わかっていたのに、知っていたのに、わざわざ確認して傷つくなんて、馬鹿のすることだ。
金庫はもぬけの殻だった。
「……はは…」
乾いた笑いが虚しく零れる。少し前まではここに黄金の契約書がたくさん詰め込まれていた。それはアズールが何年にも渡って奪ってきた能力の数々で、悪趣味だと言われたこともあるが、よくここにきて無意味に契約書を眺めたりもした。グズでノロマなタコ野郎と馬鹿にされてきた自分が奪ってきた宝の山。眩い輝きを見るだけで心が満たされた。
それを、たった一瞬で全て失った。
ショックだった。気にしてないなんて嘘でも言えない。
だけど、全ての原因である監督生やレオナに怒りが沸かないのも事実だった。脳天気な人魚たちを見返してやりたいという怨嗟にも似たあの激情は不思議とない。
それはたぶん、彼らがアズール・アーシェングロットという個人の能力を認めてくれたからだ。イソギンチャクの駒を増やすための餌として差し出したテスト対策ノート。あれはアズールが自力で作り出したもので、そのノートを作った自分を彼らは凄いと言ってくれた。
あのとき、自分でも信じられないほど嬉しかった。フロイドに茶化されてしまったが、涙目になっていたのも事実だ。
だからなのか自分でもよくわからないが、彼らに対してあまり多く思うことはなかった。なくて、代わりに残ったものは、自分を形作ってきた契約書がなくなってしまったという虚無感のみ。
空っぽの金庫を見て、体の重みがさらに増す。真っ暗な空洞を見つめていると気が変になりそうで、無意識に視線を逸らすと、不意に視界に淡い光りが映った。
光りはドアの内側にあった。その正体を見つけて、アズールの両目が大きく見開かれる。静電気か何かでくっついたのか、ドアの上の方にぴたりと張り付いた契約書が一枚あった。
弾かれたように体を跳び上がらせて、必死に手を伸ばす。ぺりっと簡単に取れた契約書に痛むほど胸が震えた。まだ一枚、残っていた。
残ったものはなんだろう。期待と不安が入り交じった胸中で契約書の中身を確認する。
そうして見えたサインに、アズールは息を呑んだ。
「これ…」
震えた吐息が零れる。零れて、複雑な笑みが浮かぶ。
喜べばいいのか落胆すればいいのか、わからなかったからだ。
「よりによってこれですか…」
はは、とまたも笑いが落ちる。落胆したのは現状が大きく変わる契約書ではなかったからで、喜んだのも同じ理由だ。
サインされていたのは「ジェイド・リーチ」と「フロイド・リーチ」の名前。アズールの両脇を固める双子のもの。
それは唯一彼らと交わした契約書だった。ただ、契約内容は二人に害を及ぼすようなものではない。そんなものフロイドならまだしもジェイドは絶対に結びたがらない。だから書かれている内容は、彼らにとって取るに足らないくだらないもの。
【(甲)ジェイド・リーチとフロイド・リーチは、(乙)アズール・アーシェングロットの過去を一切口外しないことを条件に(乙)の側で娯楽を享受する権利を得る】
懐かしい文面に鼻で笑いたくなる。なんだこの契約書は。よくもまあ恥ずかしげもなくこんな文面を作ったものだ。少し前の、けれど今より確実に子供だった幼い欲求に鳥肌が立つ。
これはミドルスクールを卒業する際にお遊びで交わしたものだ。好奇心旺盛な双子が「契約をしてみたい」と突然言い出し、アズールは心の底から仰天した。彼らはアズールの契約のえげつなさを誰よりも知っているはずなのに、それを体験してみたいと言い出したのだ。
チャンスだと思った。これまでよくわからないまま双子を側に置いてきたが、彼らが「面白い」という理由だけでアズールの手伝いをしていることはわかっていた。遊びじゃないんだと何度も思ったが、彼らの優秀さは目を瞠るものがあり、いつしか自ら望んで彼らを側に置いた。
だけど縛られることを好まない双子だ。あからさまな契約には絶対に応じない。
だからアズールはもっともらしい契約の裏で、双子を縛り付ける文面をひっそり紛れ込ませた。
『「僕の過去を口外しない」という契約内容なら』
それはアズールが双子に対して一番に結びたい契約だった。本物の望みだからこそ真のもくろみを隠すことができる。嘘をつくポイントは、つきたい嘘以外は真実で固めること。
案の定、双子は納得した様子で頷いた。そして対価として与えるものをぼやかす。
アズールが提示した「娯楽」という曖昧な定義。
この意味合いは非常に広く、逆を言えばどのようなことだろうと双子を楽しませればいいという大雑把なものになる。
アズールはそれができる自信があった。面白いことが大好きでたまらない強欲なウツボを自分なら満たすことができる。
そうしてぼかして、その実アズールは自分が真に求めるものを文面に“隠した”。
たった一語の、けれど、確実にほしかった利益。悪徳商法ここに極まれり。
きっと双子は、あの契約書の真の意味を理解していない。
──そんな契約書が、今この手の中にある。
「そうか…。これは残ってたのか…」
力が抜けて金庫のドアにもたれ掛かると、そのままずるずると座り込む。
きっと双子はこの契約書も砂に変えられたと思ってる。もしかしたら契約をしたこと自体忘れているかもしれない。元よりイソギンチャクのような絶対的拘束力がある重要な契約でもない。
だけど全てなくしたアズールにとって、この契約書はもはや唯一の拠り所であり、そして──。
震える手で契約書を胸に押し込める。すると部屋の外から慌てた足音が聞こえてきた。誰かがここに向かってきている。
アズールは鋭く息を吸い込むと、咄嗟にパジャマの下に契約書を隠した。ぎゅうっと体を丸めたのと同時にVIPルームの扉が開いた。
「アズール…ッ!?」
バンッと乱暴に扉を開けたのは、意外なことにジェイドだった。きっちりと着こなしている制服を乱して、慌てた様子でいる。見たことがないほど取り乱した様子に呆気にとられていると、アズールを見つけたオッドアイがこれ以上ないほど見開かれた。
「ジェ──…」
名前を呼ぼうとして、失敗に終わる。
ジェイドは荒々しい足取りでアズールのすぐ側まで来ると、力が抜けたようにへたり込んで力なく笑った。
「ここにいたんですね…、よかった…」
ほっと、安堵したように囁く。疑いようもないほど心配されていることが伝わった。
何をそんな大袈裟な、と言おうとした口を咄嗟につぐむ。忘れていたが、自分は二日も眠っていたのだ。そんな状態で部屋からいなくなっていれば、驚くのは当然だ。
「もしかして、部屋に来たんですか…?」
「ええ。貴方が眠ってからはきっかり一時間おきに様子を見てました」
「ストーカーですか」
「忠実と言ってください。フロイドなんてアズールの部屋から出ないって言いましたよ」
「授業サボりたいだけじゃないですか」
「否定はしません」
「しろ。お前たちは本当に都合良く僕を使って…」
いつもの嫌味の応酬になりかけたが、ふと見上げたジェイドの顔つきが怖いほど真剣で、アズールは言葉を飲み込んだ。
じっと切れ長の瞳が覗き込んでくる。返す言葉が思い浮かばなくて、黙って強すぎる視線を受け止めていると、ジェイドの右手が持ち上がり、手袋を外した。いつもは隠されている素肌の手が物珍しくて、思わず凝視していると、大きな手の平がやわらかい仕草で頬に触れてくる。
はあ、と溜息をついたかと思うと、ジェイドは着ていたブレザーを脱いでアズールの肩に掛けた。
「体、冷えてるじゃないですか。ただでさえ体力を消耗しているのですから、無理は禁物ですよ」
「…人魚なんですから寒いのは別に……」
「言い訳は元気になってからにしてください」
そう言うなりジェイドは、アズールの体に両手を伸ばしてくる。おそらくアズールを立ち上がらせようとしただけだろう。
だが肩に手が置かれた途端、アズールの体がビクッと飛び跳ねる。無意識に隠し持っている契約書を守ろうと背中を丸めた。たった一枚の契約書に縋っている己が情けなくて、そんな自分を知られたくなくて、ますます身を縮こまらせていると、ジェイドの目が驚いたように丸く見開かれる。頼むから気づくなと胸の中で念じていると、ついっとジェイドの視線が持ち上がった。
ジェイドが見ているのは空っぽの金庫だった。無言で金庫を見つめる瞳に耐えかねて、アズールは唇を噛みしめて下を向いた。
大口を開けた金庫の中身は何もない。見た目ばかりが仰々しくて、中身はただの空洞などお笑いぐさだ。惨めなことこの上なくて、まるで今の自分のようだと寒気を覚えた。
沈黙が重くのし掛かる。
何を考えているのかわからないジェイドに怯えに近い感覚を抱いていると、ようやく空気が動いた。
「戻りましょう。フロイドもラウンジで貴方を探していますよ」
いつもの口調で、穏やかに告げられる。あまりにも普通の様子が、かえってアズールを驚かせた。
ジェイドは金庫の扉を閉めると、アズールの背中と膝裏に腕を差し込んでくる。そのまま横抱きの状態で持ち上げられて、アズールは慌てた。
「お、降ろしてください。自分で歩けます」
「ご心配なく。まだ寮生たちが起きる時間じゃありませんから、可愛らしくお姫様抱っこされているところなんて誰にも見られませんよ」
「うるさい。黙れ」
「おやおや、すっかり元気ですね。何よりです」
いつもの意地悪な笑みを向けられる。腹立たしいと思うのに、いつもと変わらないジェイドに不覚にも安堵する。ジェイドは器用に杖も持ち上げると、優しい動きでアズールを運んだ。
カツンとジェイドの靴音が鳴る。その音とジェイドの胸の温度が心地良くて、丸二日眠ったはずの体が眠気を訴える。とろんと微睡みに身を委ねると、やわらかい声が降ってきた。
「おねむなら寝ててもいいですよ」
子供に言うような口調に反感が芽生える。けれど文句を言う前に瞼が落ちて、意識を手放すその瞬間まで強くパジャマを握りしめていた。
*
次に目を覚ましたとき、最初に見たものはフロイドの顔面だった。一瞬泣いているのかと思ったが、目覚めるなり「また寝んなし!」と怒られた。前後の記憶が定かでないアズールは現状を把握しかねたが、水を持ってきたジェイドが説明してくれた。どうやらVIPルームから部屋に運ばれた後、あのまま夜までぐっすり眠っていたらしい。枕元の時計を見ると夜の九時を過ぎていた。
纏わり付いてくるフロイドをなんとか剥がすと、明日の準備をするためにベッドから抜け出す。もう一日休めとフロイドにぶーぶー言われたが、三日も何もしていないのかと思うと落ち着かなかった。授業の遅れも取り戻したいし、ラウンジだって気がかりだ。もっともジェイドとフロイドがいて大きな問題はないだろうと思っていたし、案の定ジェイドから報告を聞くに運営自体は正常に行われていた。
正常じゃなかったのは、アズールが暴れたせいで客足が遠のいたこと。それは全てアズールの責任であるため、当然二人を咎める理由にはなり得ない。
アズールにできたことといえば「よくやってくれました」と心からの感謝を伝えること。それしかできないことが苦痛だった。
翌朝、予定通り学校に行くためにアズールは体を起こした。ネクタイを締めて、ブレザーの胸ポケットにマジカルペンを差し込み、鞄に筆記用具の類いを綺麗に収める。フロイドは授業でいるものを全て教室に置いているためいつも手ぶらで行くが、アズールは万年筆やノートなどお気に入りの持ち物が多く、寮通いでも鞄を持ち込んでいた。
いつものように必要なものを入れて、準備が整う。けれど部屋を出ようとしたところでふと思案に耽り、机の上にある簡易金庫を開けて中身を取り出した。
それはたった一枚残った黄金の契約書。
アズールは少し考え込むと、それを小さく折りたたんで制服の内ポケットに入れた。
(手元に置いておくのが一番安全か)
あの一件以来、金庫に契約書を入れておくことが憚られた。もちろん金庫が破られたのはラギーの手腕あってこそだとわかっているが、一度植え付けられた恐怖心は簡単に拭えない。
フロイドには悪いが目覚めて完全に意識が覚醒したとき、真っ先に思い浮かんだのはこの契約書だった。二人の目を盗んでパジャマの下を確認すると、きちんと契約書があってほっとした。
契約書はアズールの手にあるときは無敵だ。元はただの紙切れでも、アズールが触れている限り破れることはない。抱きながら眠ってうっかり破いてしまう心配はなかったが、それでもこの目で無事を確認して深く安堵した。
制服の上から契約書を撫でると、深呼吸をして部屋のドアを開けた。
「おはようございます、アズール」
「アズールおっはよ~」
一歩外に出た途端、正面から二つの声に呼ばれてぎょっとする。そこには制服姿で立ち並ぶジェイドとフロイドがいた。いつもなんとなく集まるので、こんなふうに部屋の前で待ち構えられて驚いた。
「ジェイド…、フロイド…?」
「ん? どったのアズール? 変な顔して」
「変な顔は余計だ」
「では愛らしい顔と言った方がいいですか?」
「やめろ気持ち悪い」
つい悪態をつくと、二人はニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべる。それはよく知る笑い方で、いつもなら腹立たしいだけだが今は違った。
いつもどおりの二人にアズールは内心ほっとする。冷ややかに突き放されるのは当然だが、変に同情されるのも嫌だった。いつもの口調で、いつもの調子で、アズールを出迎える。それが何よりもアズールの心を軽くした。
「では、行きましょうアズール」
「あ~、オレ今日一限目イシダイ先生の授業だ~。めんどくせ~」
「フロイド、サボりはいけませんよ」
「はいはーい」
会話をしているのは双子なのに、二人は当然のようにアズールを真ん中に置く。本当にいつも通りで、オーバーブロットしたことも契約書を失ったことも悪い夢だったのではないかと思うほどだった。
しかし寮を出るなり世界が変わっていることを嫌でも思い知らされる。鏡舎に着いた途端、ざわりと周囲の空気がさざめいた。そこにはアズール達と同じように校舎に向かう生徒が何人もいたが、その全てが足を止めてアズールに注目する。
それは決して三日も休んでいた生徒を労るような優しいものではない。軽蔑と嘲笑と畏怖をない交ぜにしたような不愉快な視線だ。
(なんというか、想像通りですね)
こうなることは予測済みだった。自分の失態を喜ぶものは数え切れないほどいる。というより、この学園のほとんどの生徒が該当するだろう。
けれどアズールは元はいじめられっ子だ。悪意の籠もった視線など慣れっこである。今さら傷つくような可愛らしい精神は持ち合わせていないし、萎縮して顔を青くするようなか弱さもない。
おあいにく様と涼しい顔で歩き出すと、何人かの生徒が苛立ったように舌打ちをしたがどうでもよかった。
本当にどうでもよかったのに、フロイドが不機嫌な声を漏らした。
「ねえ、アズール。こいつらうざいから絞めていいー?」
静かな声が、張り詰めた空間で妙にくっきりと響く。
ざわりと周囲の気配が恐怖で波打ったのがわかり、アズールははあっとわざとらしく息を吐いた。
「いいわけないじゃないですか。魔法での私闘は禁止ですよ?」
「魔法使わなきゃいいってこと?」
「冗談。復帰初日から悪目立ちなんて御免です。視線が煩わしいならお先にどうぞ。僕は後からゆっくり校舎に向かいますので」
要はアズールと一緒に居るから嫌な注目を浴びるのだ。だから言外に自分から離れろと促してみるが、フロイドはきょとんと瞬きをすると、「ん~」と唸ってからニイッと笑った。
「やなこった。コイツらに負けたみたいでムカつく」
ギザギザの歯を零して、あはっと独特な笑い声を零す。不穏な笑みを浮かべるフロイドに周囲の緊張感がさらに高まったが、それが杞憂であることをアズールとジェイドだけがわかっている。フロイドの機嫌は悪化するどころか直っていた。
ざわめきが水を打ったように静まりかえる。おかげで溜飲が下がった。隣のジェイドも心底愉快そうに口角を吊り上げている。アズールも最善の形で雑魚共を黙らせることができて上機嫌だ。
けれど何よりアズールが一番喜んだことは、離れる選択を選ばなかったフロイドだ。負けたみたいでムカつくというのは紛れもない本心だろうが、面倒臭いことが嫌いなフロイドが暴れて一掃するでもアズールを見捨てて離れるでもなく、笑って側に残ることを選んだ。
そんなことに喜びを覚えた己に、誰よりもアズールが一番驚いた。
*
「古来より『3』という数字は、あらゆる構成を成り立たせる万能の数字とされている。上、中、下。縦、横、高さ。過去、現在、未来。肉体、精神、魂。このように3つの成り立ちが──…」
四限目の魔法史を受けながら、アズールはペンを滑らせる。平坦なトレインの声を聞きながら、授業内容を脳みそにインプットしていく。三日も授業を休んでいたのだから何かしらの影響はあるかと構えていたが、普段から予習復習を欠かさないアズールは肩の力を抜いた。
(大丈夫だ。問題ない)
誰にも知られぬように、密かに息を吐く。深刻な懸念を抱いていたわけではないが、契約書という後ろ盾を失った今、丸裸の自分がどこまでやれるのか手探りの状態だ。
だが問題はなさそうだ。トレインの話しにもついていけている。
「呪文でもっとも単純且つ強大な威力を発揮するのが『名前』だ。相手に名乗らせることで術を発動させる魔法は多い。だがこれも3つの法則を守ってこそ成立するものであるため、どれかひとつでも事欠けば当然術も発動しない」
とつとつと読み上げながら、トレインの目がアズールを見据える。
「その3つの法則とは何か…。わかるか? アーシェングロット」
指名されて、アズールは自信たっぷりに微笑む。
「本名、肉声、魂。これら全てが一致していることです」
「さすがだなアーシェングロット。正解だ」
トレインの口元が緩く弧を描く。オーバーブロットを引き起こして尚、教師陣からの信頼は変わっていないようだ。
「正しい名前を言う。これは大前提だが、その名前を唱える声と魂…つまり、本人が本人の声で唱えなければ術は成立しない。たとえば魔法で声を奪い、その声で名前を唱えたところで、唱えた人物が別人であれば意味はないと言うことだ」
その後もトレインの講義が続く。何人かの生徒は眠っていて、その生徒ひとりひとりにトレインは目を光らせている。おそらく次のテストで今話している部分が出てくるだろうと、アズールはさりげなくペンを走らせた。
最後の一文字を書き終えたところで、タイミング良くチャイムが鳴った。
「今日はここまで。居眠りをしていた生徒は…わかっているな?」
最後の警告をして、トレインは教室を後にする。これは確実にテストに出るなとぼんやり考えていると、不意に頭上から影が落ちてきて顔を上げた。
そこには碌に話したこともないクラスメイトが二人いた。にやにやと不快な笑みを浮かべて、アズールを見下ろしている。
「よお、アーシェングロット。無様に暴れて寝込んでたみたいだが、もう大丈夫なのか?」
「大丈夫なわけねーだろ。なんせ大事な大事な契約書が全部なくなっちまったんだもんなあ?」
「ああ、そうだったな! わりぃわりぃ。今までの成績も他人の力でずるして取ってたんだもんな? そりゃ今後のこと考えたら元気なんか出るわけないよな~?」
ぎゃはは、と耳障りな笑い声が響く。ついでに周りの視線も一気に不愉快なものへ変貌する。
馬鹿馬鹿しいと、アズールは無言のまま立ち上がった。
「おい、無視すんなよ。せっかく心配してやってんのに」
「そうだぞ。図星だからって逃げんじゃ──…」
「すみません。邪魔なのでどいてくれませんか?」
目を合わせるのも面倒で、教材を整えながらすげなく放つ。
ピキリと、二人の生徒が纏う空気が鋭さを帯びた。
「なに偉そうに指図してんだよ」
「力のねぇテメェなんざ怖くもなんともねーんだよ」
分かり易く怒りを露わにする生徒に、アズールは思わず笑い声を零す。小馬鹿にした笑いに生徒たちはますます怒りの色を濃くし、アズールは「失礼」と笑いながら返した。
「あまりにもおめでたい頭をしていらっしゃるので、笑わずにはいられませんでした」
「ああ…? テメェ、自分の立場わかって──…ッ」
一歩詰め寄ってきた生徒の肩にアズールは手を伸ばす。つうっと指の腹で肩のラインをなぞると、害意などまるでないと言わんばかりに優しく掴んだ。
「確かに僕は契約書を失いました。ですが、当然ながらユニーク魔法は顕在です。アレは紛れもなく僕自身の能力なので」
悦を滲ませてほくそ笑むと、初めて目の前の男に視線を合わせる。
目を合わせた途端、生徒はビクリと体を跳び上がらせた。残忍な笑みを浮かべている自覚があるだけに、愉快な気持ちがさらに膨れあがった。
「今の僕は怖くもなんともないと仰いましたが、その言葉、そっくりそのままお返しします。僕もあなた達のことなど怖くもなんともありません。だって、」
するりと肩をひと撫でして、冷たく吐き捨てる。
「今僕が魔法を使えば、あなたの全ての能力を一瞬で奪えるのですから」
魔力、知力、運動能力。
人格を形成し、肉体を動かす全ての能力。
それら全てを奪われたものは、ただの物言わぬ傀儡となる。
氷のような声音で告げると、生徒たちの顔が瞬時に青ざめる。
目の前の生徒たちだけでない。周囲の空気も温度をなくし、嘲笑に満ちていた空間が恐怖に塗り替えられた。
それを肌で理解して、アズールは無邪気なまでににこりと笑った。
「──なあんて、冗談ですよ。魔法での私闘は禁じられていますからね」
ぽんと気安く肩を叩いて、慄く生徒の脇をすり抜ける。どうせ煩わしい注目を浴びるなら、嘲笑われるより畏怖される方が断然いい。幼い頃にいじめられたアズールだからこそ、そのことをよくわかっていた。
教材を自身のロッカーにしまうと、そのまま教室をあとにする。廊下に出てドアを閉めると、再び教室がざわついたのを感じた。別にどんな反応だろうがどうでもよかったが、今後の参考までに耳をそばだててみた。
扉越しに聞こえてきたのは怒りよりも恐怖で、戸惑いを含んだ声がアズールの耳を掠めた。
「おっかねぇ…」
「オーバーブロットの件で懲りて大人しくなったかと思ったが、全然じゃないか…」
「あいつヤバすぎだろ…」
聞こえてきたどよめきに満足する。これでしばらくは平穏に暮らせるだろうと思った。
ところが、今度こそ教室を離れようとしたその間際、思いもしなかった会話が聞こえてきた。
「そういえば、今回の件で先輩からおもしろい噂聞いたぜ」
「おもしろい噂?」
「『対価さえ支払えばなんでも願いを叶えてくれる』ってのがあいつの売りだったじゃん? でもそんなヤバイ橋渡らなくても願いを叶えてくれるおまじないってのがあるらしいぜ」
「はあ? なんだそりゃ。おまじないとか乙女かよ」
「だよなあ。けど一時期けっこー流行ったらしいぜ。まあ先輩が言うには学園七不思議みたいな信憑性ゼロのやつみたいだけどな」
「てことは、結局アーシェングロットを頼るしかないってことじゃん」
「そうなるなー」
あはは、と雑談に花が咲く。そんなおまじないがあったのかと内心興味を抱きながら、アズールは今度こそ教室を離れた。
*
「それ聞いたことある。鏡を使うおまじないらしいよ~」
「鏡」
万年筆を口元に当てながらフロイドの言葉に耳を傾ける。アズールは閉店後のラウンジで新メニューの考案をしながら、掃除をするフロイドに例のおまじないの話しを振ってみた。
「カニちゃんに聞いたんだっけな? オニーチャンがここのOBで、そんときに流行ってたみたい」
「まさか本当にあったとは。一体どんなおまじないなのやら」
「えっと、確か鏡に向かって三回お願い事を唱えればいい…だったっけ?」
「なんですかそれ。そんな簡単なことで願いが叶ったら商売あがったりですよ」
幼稚な内容に呆れた溜息をつく。すると使っていたカウンターテーブルにティーカップが置かれた。顔を上げるとジェイドがにこりと笑みを浮かべる。
「無償でお願いを叶えてあげるとは、これが正真正銘の慈悲の心というものですね。是非アズールに爪の垢を煎じて飲んで頂きたいものです」
「おまじないに爪があってたまるか。というか、思ってもいないことを口にするんじゃない。僕がなんの対価も求めずただ願いだけ叶えていたら、お前達の楽しみがなくなるじゃありませんか」
「ふふ、全くその通りですね」
食えない笑みに顔を顰めるも、ふわりと香ったアールグレイに心が和む。こくりと一口飲めば、慣れた味がなんだか久しぶりに思えた。四日ぶりに口にしたジェイドの紅茶は相変わらず文句のつけようがない。
「それにしても、おまじないですか。貴方がそんなお伽噺に興味を持つなんて、意外でした」
「別に興味があるわけではありません。ただ、僕にお願いするより『おまじないに頼った方がいい』なんて言われたら面白くないじゃないですか」
「なるほど。僕はてっきり…」
かちゃんと、静かにティーポットを置いて、ジェイドの瞳が僅かに細められる。
「何か“お願いしたいこと”でもあるのかと」
静かな声がいやに鮮明に響く。フロイドもモップの柄に両手を乗せて、アズールをじっと見つめていた。
アズールは一瞬言われた意味を理解しかねて反応に遅れたが、ハッ、と唇を歪めて嘲笑を浮かべた。
「馬鹿馬鹿しい。くだらないことを言っている暇があったら新メニューのアイディアでもください」
「……ええ、そうですね」
やけに素直に聞き入れられて、アズールは密かに瞠目する。ジェイドならもう一言二言なにかあるかと思ったが、両目を細めたままわずかに柳眉を下げた。
その目が何か言いたげで、視線から逃れるようにアズールは椅子から立ち上がった。
「どちらへ?」
「冷蔵室です。新メニューに使えそうなものがないか見てきます」
すぐに戻ってくると告げて、ラウンジの裏へ向かう。厨房を抜けた先にある冷蔵室の扉の前に立って一息つくと、ジェイドの眼差しを忘れるように小さくかぶりを振った。
そのとき、ふと視線を感じて顔を上げると、壁に掛けてある調度品の鏡があった。スタッフがいつでも身だしなみを確認できるよう、ラウンジ内の各所には鏡が配置されている。まさか鏡の中の自分の視線を感じたのかとおかしな気持ちを飲み込んでいると、先ほどフロイドが言っていたおまじないが頭を過ぎった。
なんでも願いを叶えてくれるおまじない。
もし本当に、そうならば──…。
「…馬鹿馬鹿しい」
鏡の中の自分を睨み付けて、吐き捨てる。例え一瞬でも、例え戯れでも、愚かなことを過ぎらせた己に反吐が出た。
*
手探りだった生活も三日を過ぎれば呆気なく馴染んだ。契約書は失ったけれど、実際にアズールが奪った能力を活用することはあまりなく、せいぜい“契約書は無敵”と印象づけるために電撃の魔法を借りるくらいで、大抵のことはアズール自身の能力でまかなえていた。
それだけの能力があることは理解していた。客観的に己を俯瞰できないほど愚かではない。
ただ、『昔の自分とは違う』と胸を張って言える証がなくなって、ほんの少し心細くなっただけだ。
「『鏡は本当の自分を映す』ものとして、占術師が占い業によく用いる。よって今日の授業では占いの基礎学を実践形式で学ばせてやる。しっかり頭に叩き込め」
ぱしんと愛用の指し棒で手の平を打ち付けて、クルーウェルが手鏡を配っていく。アズールは与えられた鏡を見つめながら予習済みの手順を思い浮かべる。
「では基礎中の基礎、『自身の心』を鏡に映す方法を教える」
「心ってどういうことだ…? まさか好きなヤツがばれるとか…?」
「うわ~やめろ~! オレの心を覗くな~!」
「そこの仔犬共! 私語は慎め! それと今回鏡に映すのは“好きなもの”といったプラスの感情ではない。むしろその逆、負の感情だ」
負の感情、と不思議そうにざわつく生徒たちにクルーウェルはわかりやすく説明する。
「今から実践することは“基礎”だが、鏡に自身の心を映すのは簡単なようで難しい。よってお前たちのような素人の仔犬には、嫌悪、恐怖、といった明確な感情の方がやりやすいということだ」
心を形成する感情は結局のところ脳みそが生み出すものだ。脳とは不思議なもので、“好きなもの”は当然危険性がないため反応が鈍るが、“嫌いなもの”や“恐ろしいもの”には無意識に過剰反応を示す。命を守るための本能といえよう。
「負の感情はイメージしやすい。それこそ自覚のあるなし関係なくな。だからどんな有能な占術師でもまず最初にやることが『負の感情を鏡に映し出す』だ」
やり方が書かれてあるページ数が示されて、各自教科書を広げる。
「ちなみにこの鏡は特殊な造りになっているため、映ったものは自分にしか見えない。プライバシーは守られるから安心して己の醜い心をさらけ出せ」
「なにそれ普通に嫌だ…ッ」
「教師の発言じゃない…ッ」
「二度も同じことを言わせるな私語は慎め!」
「はい!」
「すみませんでした!」
同じ注意を受けて、生徒二人は震え上がる。その後一通りやり方を教えられると、全員鏡と睨めっこをしたが、ほとんどの生徒が首を傾げた。
「え? なにも映らないんですケド…?」
「んん~? なんか白っぽい靄は見えるけど、なんなのか全然わかんない…」
「ぎゃー! 鏡割れたー!」
四方八方から困惑の声やら悲鳴が聞こえてくる。クルーウェルの言った通りなかなか難しい作業のようで、成功の秘訣は質の高い魔力を一点集中で慎重に注ぐことと、魔力を注ぎながら意識を頭に集約することらしい。魔力の加減を間違えれば鏡は割れ、上手く魔力注入できても頭から意識が離れれば負の対象は鏡に現れない。なるほど確かにこれは難しい。
そんないっぺんにいろんなことできるか。大半の生徒が喚く中、アズールは静かに作業に集中する。ナイトレイブンカレッジでもトップクラスの実力を誇るアズールは魔力量も魔力を操るテクニックも完璧だ。
嫌いなものとしてアズールはキノコを思い浮かべていた。キノコ自体は嫌いではないが、ジェイドに食べさせられ続けてちょっとした恐怖を抱いている。形的にも思い浮かべやすくて手っ取り早いと考えた。
鏡を見つめる。その中に黒い靄が浮かび、徐々に形を成していく。随分と簡単にできるものだと内心小馬鹿にしていたが、象られたものに大きく目を見開いた。
現れたのは、何十匹という人魚の稚魚。
一秒たりとも忘れたことのなかった顔がずらりと並んでいる。
ぞわりと、寒気を覚えるほどの嫌悪が背中に広がると、鏡の中から声がした。
『や~い! アズールズルズル墨吐き坊主~!』
『さっさと拭けよ! 足ならいっぱいついてるだろ!』
無邪気で残酷な甲高い声。
幼い頃に吐き続けられたおぞましい呪詛。
『あいつほんとグズだよなあ。タコ足だから泳ぐの遅いし』
『オレはすぐ泣くのが嫌だな~。泣くと墨吐くから水が濁る』
『バカだからさ、何回墨吐くなって言ってもわかんないんだよねー』
きゃはは、と、悪気の欠片もなく暴言を吐く稚魚たち。
彼らは自分たちが酷いことを言っている自覚がない。
それはアズールという存在が“悪”で、自分たちが“正義”だと信じて疑っていないから。
だからアズールは彼らを見返してやろうと決めた。
死に物狂いで勉強して、ユニーク魔法を身につけて、彼らの弱みや悩みを握ってあらゆる能力を奪った。
奪って奪って奪い尽くして、奪えば奪うほどグズでノロマな自分から脱却できた。
もう自分は泣いてばかりのタコじゃない。
脳天気な人魚たちの暇つぶしに消費されるような弱者ではない。
彼らの長所を奪い、彼らより上に位置し、彼らを跪かせる側の強者になった。
──もう昔の僕じゃない。
『でも契約書、なくなったんでしょ…?』
幼い声に、ひゅうっと、鳩尾が冷たくなる。
はっとして鏡を見ると、いつの間にか稚魚たちは消えていた。
代わりに一匹の稚魚が真っ直ぐにアズールを見つめている。
鏡みたいだと、当たり間のことを思った。今目の前にあるのは鏡なのだから当然だ。
けれど、そうじゃない。今この鏡が映しているのは自身の負の感情で、自分自身ではない。
自分じゃ、ないはずなのに、
『契約書がなくなったら、君は僕に逆戻りってことだよね…?』
途方に暮れた力のない声。いじめっ子たちの声と違ってなんの感情もない、むしろ、純粋すぎる声に震えが止まらない。
鏡みたいだと思った。だってアズールが見つめる先にいるのは、紛れもなく自分だった。
今の自分じゃない。いじめられていた頃の幼い自分。
だからこれは今の自分の姿じゃないはずなのに、泣きすぎて腫れ上がった瞼が、墨まみれの口元が、ぶくぶく太った醜い体型が、今の自分の姿のように思えてならない。
(ちがう)
ちがう。ちがう。今の自分は“コレ”じゃない。
自力で勉強して、豊富な知識を身につけて、ダイエットにも成功して、身だしなみもきちんと整えて、名門ナイトレイブンカレッジの寮長を務める完璧なアズール・アーシェングロット。
それが今の──、
『契約書がない僕は、ただのグズでノロマなタコ野郎だ』
ぴしゃりと、鋭い言葉が叩きつけられる。
瞬間、鏡の割れる音がした。
気が狂いそうなほど頭の中が真っ白になる。
「──…ト…、アーシェングロットッ!」
突然強く肩を掴まれて、はっとする。白く塗りつぶされた思考が色を取り戻し、呆然と視線を持ち上げる。
目の前にはクルーウェルがいた。焦りを滲ませた顔つきで、アズールの両肩を掴んでいる。いつの間にかアズールは立っていて、生徒たちの視線を一身に集めていた。
「クルーウェルせんせい…?」
「ああ、オレだ。どうやら正気に戻ったようだな」
ふうっと細く息を吐いたかと思うと、クルーウェルの手が離れていく。何も考えずその手を視線で追うと、足下に鏡の破片が散らばっているのが見えた。
「ぼく…?」
「やはり自覚なしか。この鏡は今お前が割ったものだ」
クルーウェルの革靴が、パキッと音を立てる。砕け散った破片をぼんやりと見下ろしていると、頬を冷たい汗が伝った。いつの間にか全身が冷や汗でぐっしょりと濡れていた。
「通常の仔犬であればここまで自身を追い詰めるほど対象を具現化できないのだが、お前が優秀すぎることを失念していた」
すまなかったと、教師の立場で謝罪される。ああ褒められた、と危うい思考で耽りながら今起こったことを冷静に思い返した。
そこまで深く気にしていないつもりだった。むしろオーバーブロットの件である意味乗り越えたのだと思っていた。
けれど実際はそうじゃなくて、弱い自分は全然消えてなくて、未だに憎い過去に囚われている。それをまざまざと思い知らされて、吐き気が込み上げた。
「今日はもう帰っていい。出席の心配はするな」
「…わかりました」
そう答えるので精一杯だった。
耐えがたいほど無数の視線に晒されて、アズールは重い足取りで実習室を後にした。
*
誰もいないとわかった途端、足が震えだした。今は五限目の真っ最中で、寮に人はいない。鏡舎に行くまではまばらに生徒がいたため1ミリたりとも異変を晒さなかったが、一人になった途端にこのザマだ。むしろ今の今まで酷く気を張っていたことにアズール自身気づいていなかった。認めたくないのに言い訳のしようもなくて、愕然としながら冷たい息を吐く。引いたはずの汗がじわりと滲んだ。
(開店までに回復しないと…)
濡れた額を手の平で拭って、震える足をなんとか動かす。
あんなものはなんでもないと笑って払いのけなければならない。それができなければ、どれだけ自分は弱いんだと屈辱に押し潰されてしまう。
なのに、幼い嗤い声が頭にこびりついて離れない。キンキンと貫くような音に頭が痛くなる。
とにかく仮眠を取ろう。眠って少しでも体力を回復させなくては。
逃げ込むように自室に入って、洗面所に真っ直ぐ向かう。噴き出る汗が不快で気持ち悪くて、顔を洗いたいと思った。
蛇口を捻り、ザーッと水を流す。僅かな理性で両手の手袋を取ると、素肌の手の平に冷たい水が触れる。気持ちよくて、早くその冷たさがほしくて、水が飛び跳ねることも構わずざばざばと顔を洗う。やはり水はいい。人魚のアズールにとって水は無条件に安寧を与えてくれるもの。
それなのに慣れ親しんだ水音が、ひんやりとした感触が、海にいた頃の自分を思い起こさせる。陽気な笑い声の裏でいじめられていた過去。いじめている側にとっては些細な出来事でも、本気で大したことじゃないと思っていても、
──ともすれば、アズールをいじめていたことすら忘れてたとしても、それらは確実にアズールの心を傷つけ、人格をねじ曲げた。
そんな残酷な過去の舞台は、他でもない故郷の海。海がないと生きていけないアズールの本来の姿。
それらを思い出させるから、アズールは無意識に人魚の姿に戻ることを避けている。体型維持に躍起になるのも、嘗て馬鹿にされた醜いデブに戻りたくないからだ。
そうだ。戻りたくない。
昔の自分には、戻りたくない。
なのに、今の自分を形作るものが、黄金の契約書がなくなった。
「…して…」
水音に紛れて、無意識に声が零れる。
「か…して…、返して…ください…」
それは一体、誰に向けた言葉だろう。
あのときもそうだった。
契約書を手にしたレオナに、なんの躊躇いもなく「返してください」と乞うた。
プライドなんてどうでもいいから、どんなに惨めだと笑われてもいいから、契約書だけはどうしても返してほしかった。
彼らに思うことがあまりなかったのは嘘ではない。いじめっ子たちに抱いた復讐心がほんの少しでもあったならば、今頃彼らを再起不能になるまで徹底的に打ちのめす方法を錬っている。それをしていないのが嘘をついていない何よりの証拠だ。
それでももし、契約書が返ってくるのであれば、返ってきてほしいに決まっている。
少しでもマシな自分になるために、というのは勿論だが、その他にアズールに心を向けさせるものがいる。
ジェイドとフロイド。彼らを手放したくない。
そのためにも、自分は完璧でなくてはならない。
だから契約書が必要なのだ。
「契約書を返してください、契約書を返してください、……契約書を、返してください…ッ」
磨り潰した声でそう唱えたときだった。
目の前の鏡がキラリと光り、知らない声が響いた。
──ソレガ アナタノ ネガイゴト?
「え…?」
突如聞こえてきた不可思議な声。男か女か、子供か老人かもわからない声。
顔を上げると鏡に自分の顔が映る。けれど自分以外は何も映っていない。洗面所の風景も、角度的に映る出入り口の扉もなく、白い光りの中にアズールだけが浮かび上がっている。
『鏡に向かって三回お願い事を唱えればいい…だったっけ?』
不意にフロイドの言葉が頭を過ぎる。
馬鹿なと即座に否定が浮かぶも、確かに今、アズールは心からの願いを鏡の前で三回唱えた。
──アナタノ ネガイヲ カナエマショウ。
不可思議な声がやわらかく耳朶を撫でる。この声を聞いていると思考が溶けていくのを感じる。まるで危険なドラッグだ。意思とは関係なく強制的に意識が誘われる。腐るまでドロドロに熟した果実を胃に流し込んでいるような、不快で強烈で、でも、その甘さに魅了されてしまう。
──アナタノ ナマエハ?
「名前…、僕の…名前…」
それを言えば、本当に契約書が返ってくるというのか。
もし本当にそうならば、なんて甘美な至福だろう。
鏡面が水面のように揺れる。水鏡のようなそれに映るアズールの瞳が、光りを失う。
空虚な目で鏡を見つめていると、思考が空っぽになるのを感じた。
何も考えられない。
「僕の…名前は…」
名前を、言うだけで、
「アズール…。アズール・アーシェン──…」
全部返って──来るはずがない。
ヒュッと鋭い息が気道を通り抜ける。内側から喉が裂けるような痛みを錯覚して、悪夢から覚めたようにバチリと頭の中で火花が弾けた。
体を動かしたのは思考ではなく本能だった。全細胞を奮い立たせて危険を訴え、防衛本能が働く。
アズールは右手で拳を作ると、目の前の鏡を力一杯殴りつけた。
「…ッ、ハッ…!」
水中から顔を出したように、長く止めていた息を吐き出す。いつの間にか映り込んでいた白い光りは消え、残ったのは正常に背景を映し出す割れた鏡。その中心に突きつけられた拳からは血が流れている。いくつかの破片が皮膚を貫き、ぽたりと赤い雫が落ちたが、痛みは感じなかった。感じている余裕がなかったと言っていい。信じがたい出来事と、一瞬でも思考を奪われたおぞましさに全身がぶるぶると震えていた。
「いまのは…?」
定まらない視点を彷徨わせていると、ガチャリと扉の開く音がした。
「アズール? いるのですか?」
「なんか変な音したけどー?」
ズカズカと無遠慮な足音が近づいてくる。ジェイドとフロイドのだ。そういえば鍵を閉め忘れたとぼんやり考えていると、視界の隅に双子の姿が映り込んだ。
「アズール…?」
「は…? なにこれ…?」
心底驚いた声が静かに落ちる。とてもあの双子から発せられているとは思えない。それほどまでに二人が見ている光景が異常であることを物語っている。
ぽたりと、またも血が床に散らばる。同時にジェイドとフロイドが弾かれたように駆け寄ってきた。
「ちょ、なにこれ!? なにしてんのアズール!?」
「とにかく止血を。フロイド、アズールを見ていてください」
ひっくり返ったフロイドの声と、静かだが確かな動揺を滲ませるジェイドの声をどこか遠くに聞く。
洗面所を出て行くジェイドの背中をぼうっと見ていると、フロイドが血を流す右手をそっと持ち上げて、心臓より高い位置に持って行く。
二人とも自分のために動いているのに、なんだか全てに現実味がなくて、まるで他人事のように思っていると救急箱を手にジェイドが戻って来た。
ジェイドは傷口をじっと見ると、ピンセットで刺さった破片を丁寧に取り除いていく。本当に器用な男だと引き抜かれる欠片を眺めていると、ジェイドの唇が重々しく開かれた。
「何があったんです?」
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まさかのここで終わってて本人が一番びっくりしてます。
ねえ1年前の私、続きは???