夜半前、時雨にて日が恐ろしく早く沈む季節、力ない太陽が隠れる直前になって降り始めた雨は、しとしとと静かな音を立ていまだ窓の外に居座っている。
原付で恋人の家を訪問をしていた俺は、その母親に、雨の夜道は危ないからと引き止められた。その流れで夕食を、品のいい調度で作られたリビングでご馳走になる。料理本にでも載ってそうな、暖かで品数の多い夕食。食べている間に大人達の間であっという間にいろんなことが決定された。食後は年上の恋人の部屋に押し込められ、ベッドで寝そべって、ただただ天井を眺めている。この部屋で2人、清く正しく美しく過ごし、家主が帰宅次第、原付は置いて車で自宅へ送ってもらうことになっている。
階下には恋人の母親がいるので、眉を顰めるような騒がしい行為は一旦お預け。
容赦なく冷えこむ外と相反して、しっかりと造られた家屋の内側は暖かで静か。高級ではないけれどやっぱり質が良く品が良い家具が並ぶ合間に、恋人の趣味の小物や服。バスケットボールに関するいろいろ。俺自身は恋人が毎夜使用しているベッドで恋人の香りに包まれている。最高。
当の恋人はベッドの隣の学習机に向かい、参考書とノートを広げて学業に勤しんでいる。なので俺は先ほどから恋人の邪魔にならないよう、息をひそめて「じっとして」いるワケだ。
居心地は良いがさすがに何もすることがないと暇を持て余す。会話も本も煙草もない状況で脳が溶けだしそうだ…―思考が勝手に空回りを始める。
「―――――バスケ部員リンチ計画主犯を殴ったら、ソイツが俺に惚れて付き合うことになった―」
浮かんだ文言はラノベのタイトルみたいだった。ウケる。実際にその状況に放り込まれることになったのが、俺、水戸洋平だ。
ちなみに先に述べた恋人は男。名前は三井寿である。通称三っちゃん・ミッチー・三井サン。
多岐にわたる交友関係を持つ彼は、いろんな呼称を持っている。ただいま高校3年生、学校の先輩。2コ上。交際期間6か月目に突入。
恋人は男、俺も男であるからつまり男同士の関係。このご時世、世間様に胸を張って公言できる関係ではない。ただ、男性同士という以外、この人とのオツキアイ絡みで世間に顔向けできないような事はやっていない。今後も一切やらないつもり。
高校に入るまでは恋愛や性についてごくごく平凡な嗜好で、ド・ノーマルだと自負していた俺だったので、まさか男と付き合うことになるとは想像していなかった。加えてそれがワケアリでボコボコに殴った相手だなんて。その挙句、殴った相手に惚れられるなんて。事実は小説よりビックリの連続だ。
正確な状況共有のために付け加えておくと、三井サンはおれに限らずいろんな人にそこそこ殴られていた。殴られやすい人なんだ。かわいそうに。そしてそんな三井サンは、驚くことに、その連中とそれ以降シメることなくシメられることもなく、なあなあで和解している。
現在はそいつらと部活動を通して青春の真っ最中である。俺はこれについても内心ビックリしている。彼が部員を襲った日、目論見外れた現場に突如充満した、あの、「仕方ねーなぁ」の空気。それで済ませていいのかよ。当事者たち全員から文句がでてないようだし、部外者が口をはさむことじゃないけどさ。
体育会系の情緒ってよくわかんねーね、と思う。もし俺なら、売られた喧嘩と未払いのケジメについては死ぬまで忘れないから。
大人数を撒きこんだすったもんだの末、そのみんなに見守られながら不良を卒業した三井サン。見た目は凛々しき男前でタッパは俺よりデカい。…のだが、当初は俺とはまともに視線が合わず、俺が視界(の遠くの端っこと思しきところ)に入っただけであからさまに緊張し、少し身体がぶつかる…というかあれは接触。ちょんと小指の先程度が接触しようものなら、それだけで大仰に飛びのくような、ちょっと情けない先輩だった。あーこりゃ避けられてるな、そりゃこういうなんでも持ってそうな人が、ぽっと出の年下のチビにのされるのはどっからどう見ても不名誉。できるならその事実を皆の記憶から、この世から消し去りたいだろう。校内のあちこちでそいつに出会うかもしれない状況は、彼の、もしかしたら繊細かもしれない精神をひっきりなしに削り取っているに違いない。大袈裟にビビられるのも仕方ないか、と判断していた。
ただ、怖がり避けるにしてはこの人、屋上、体育館裏、別棟に向かう通路など、あまりに俺らの行動範囲と被る場所をうろついていたので、たびたび鉢合わせをする。オモシレーけど妙な人だねと軍団内で笑ってたんだ。
そんなオモシレーけど妙な行動をする三井サンと俺が、ちょっとしたきっかけで強引に付き合うことになった。進展したあと、急接近ゆえにまだよく知らないお互いの情報共有に勤しむ。赤と青、どっちが好き?みたいな。ホットドッグと焼きそばパン、どっち食う?みたいな。高校生らしい他愛ない無駄話に乗せて。そのうち三井サンの怯えや緊張が薄れ、手放しの笑顔も増えた。いいな。こっちの方が断然いいと思う。
そんなやりとりを積み重ねて、俺は三井サンの謎の行動に心当たりを見つける。
―もしかすると、三井サンが怖がっていたのは俺自身ではないのでは?
これが最近の俺の中で一番しっくりくる仮説。
一見単純で率直に見える彼の性格や言動からは思いつき難い。しかし、ひとつひとつ事情を確認していけば充分腑に落ちるものだった。
三井サンは一言で言うと華やかな人だ。中学時代、将来を嘱望されていたらしい。バスケットボールの名プレイヤーとして名を馳せ、チームのリーダーとして活動し、憧れの指導者に師事するため高校に入り、これから明るい未来に向かってさあ邁進。そんな最悪のタイミングで身体に故障を抱えたと聞いた。
順風満帆の経歴からの、あっという間の挫折。葛藤は容易く想像できる。
はじめのうちは理不尽な運命にもメゲず前向きに取り組んだにに違いない。手に余るほど温かい言葉や同情に囲まれながら。
そして時が経つにつれ、周囲の期待はだんだん重くのしかかり、かさむ負債に変わる。
手術をしてリハビリをして無茶をして、再び膝を壊して、絶望して、逃げて、逃げた先で絶望して、転がるようにまた逃げて。そのころにはもう逃げるしかなくて。
輝かしい道を歩んできた勝ち気な少年にとって、思い返してなお実感が持てないような、あっという間の転落だったろう。
この世界には「底」がある。どこにも行けないヤツが集まる、社会のゴミ溜めみたいな場所だ。オシマイの場所。淡い希望も苦い絶望も絞りつくされた人間。誰にも気づかれずトドメさえ差してもらえない抜け殻がポイと投げ出される。そんな場所。
その中でできることはとても少ない。己と同様のゴミを押しのけながら足元の泥を舐めすすりながら、無為に時を過ごす。それだけ。尊厳に満ちていた魂には深い亀裂が入り、その傷口からずっと何かを零しながら、「いつか来る終わり」を待つようになる。
三井サンの場合は、気まぐれな神様が不運な転落の採算を合わせてくれたんだろう。どう足掻いても忘れられなかったバスケットコートに、奇跡的に戻ることができた。
だけど、引き上げられて輝かしい場所に戻って、過去は過去だもう終わったことだとキラキラ笑える人間は、どれほどいるだろうか。
―頼れるシューターで、有名人で自信家だった。
―誰も世界も自分を顧みなかった日々は脳裏に焼き付いている。
―チームの誰一人にも負い目を負わせないよう、胸を張って、強気で、いつも前を向いて。
―怨嗟と不機嫌を振りまいて、終わらないヤツあたりを続けて生きた事実は消えない。
こんな相反するモノをごちゃまぜに抱え続けて過ごしたら、そのうち心は真っ二つに割れてしまう。
彼が最初から何も持っていなければ、葛藤もシンプルに終わっただろうに。
厭わしい過去でも、漱げばそれなりに清浄になる。幸い、彼にはとびぬけた才能があり、恵まれた環境があった。バスケ部の連中に対しては、奪ったもの以上の栄光をもって報いることができるだろう。
では道に迷った2年間、鬱屈と怨嗟で生き延びた、けっして短くはない期間。そこで膠着した埃のように、厚い泥のように堆積した彼の過去の所業についてはどうだろうか?どこで、どうやって、誰に、その罪を贖えばいいのか。
実際に何があったのかは彼しか知らない。でも、実は痛ましいほど真っすぐだった彼の性根を思うと、その責め苦の終わりの見えなさに眩暈がする。
夜、二人で過ごすようになって時々、普段なら深い眠りに落ちている時間に、啜り泣く音がする。
隠す様子も声を殺してる気配もないから、よくない夢を見て魘されているのだろう。こんな無防備な顔で。自分では拭えない涙を流して。
それを見つけた時には静かに身を寄せて、こっそりと体温と震えを分け合って、ただ時が過ぎるのを待つ。
そして、無自覚ではあるが、おそらく三井サンは気づいている。
俺もそのゴミ溜めみたいな場所を知っていることを。アンタの落ちた場所を、俺も見たことがある。
自分がなにをしでかしたかを知ってる男だ。そりゃ警戒もするだろうよ。
過去の仲間と決別した今、三井サンの抱えた罪を追及できるのは俺だけになった。
でもそれは翻って、この先行われる彼の贖罪を正しく測れるのも、俺だけ。…ってことにならないか?
だからアンタは俺を選んだんじゃないかな。あんなに怯えながらも、頼むから、いまだ腫れて痛むこの傷に気づいてくれと、意を決して近づいた。
そうでしょ?
*
「おれも手放せねー」
油断したのか間抜けな独り言がこぼれた。
深刻な考えを巡らせたものの、あいかわらず俺が寝そべっているのは、何に脅かされることも急かされることもない充分に暖かくて快適な部屋に置かれた恋人の匂いが充満するベッドの上…である。
暇だったのか惰性でか、課題とにらめっこしていた三井サンが顔を上げて返答をよこす。
「?なんかいった?」
あ、30分ぶりの視線だわ。彼の好む表情と角度をキメて応える。
「…えーと、俺の顔、三井サンの好みでよかった。って」
「おー…………………………なんだよ突然/////」
不意打ちの赤面、イイ。でももっと勉強に集中して。普段からそんなんだから、おれは恋人と過ごすのにこれ以上はない場所で一人で待ちぼうけする羽目になってんだろ。
「いくらダチになっても、その気が起きない人とはオツキアイには進展しないからさ」
「まあ、そうだけど…。でも、おまえ、けっこうモテるんだろ… …って聞いたぞ…噂で…」
「ふーん」
詰まんない噂。片方の眉を持ち上げて応じる
「光栄だけど、そもそもそういう噂話って際限なく膨らむものなんだよ三井サン。
それから、モブモテと好きな人に好かれるのは根本的に違う。その気が起きない人と進展はしないっつったじゃん。
あと、これは俺を好きな誰かの話じゃなくて、三井サンが俺と付き合ってくれたかどうかって話だから…」
「うっせー!お前ときどき話が長いし細かいよな。実際に女どもが告白してくんだろーが。俺はごまかされねーぞ」
雑に切り捨てて机に向かいなおす。この人は長ったらしい話は好きではないのだ
「モテるより身長がもうちょっとほしいんだけどな。このままでも別に悪かねぇけど、アンタが相手だとぜんぜん足りねえよ。ねぇ俺の背まだ伸びると思う?」
「とーとつに話題変えんな、やっぱクロじゃねえかよ。」
ぶっきらぼうな言葉。機嫌悪っ。 …に続いて、三井サンはぼそぼそと続けた。
「…お前にデカくなられると、ぜってーいろいろ振り回されるわ。成長はゆっくりで頼む」
言いくるめようと構えていたところに、思いがけずデレた言葉が飛んできた。慌ててベッドから身を起こす。視線を合わせない横顔の三井サンは、さっきより少しホカホカしている。
ねえそれって今の俺でもじゅうぶん満足ってこと?俺の事を気にしてるけど三井サンだって相当モテるよね?いままでどんな女とどういう風に付き合ったのか知りたい教えて?まだ付き合って半年だけど、俺達が大人になったあとの話も踏まえて喋った?へー嬉しい。いろいろって何どこからどこまで?どこまでだったらOK?いろいろ聞きたい。言わせたい。
一度にどっと気持ちがあふれて、それを全て、彼が向かう机の上に並べて順番に問い詰めたい。でも、また長い話は無視されそうだな。うまい方法が浮かばないまま胸がきゅうと詰まって、結局まとめて飲み込んだ。
接近のきっかけは怯えと自罰。でもいまはそれだけじゃないと自惚れてもいいよね。彼といる時、不意にポロポロと転がりちらばる甘えや信頼の断片を、俺はいつも恋人に気づかれないように拾い集める。思わぬ言葉を彼が零すたびに自尊心と自負心を刺激されてどうしようもなくムズムズする。
俺よりいろんなものを持っていて、俺よりずっと早く大人になる人なのに、もっと頼られたいだなんて。可笑しいよな。
大っぴらには言えないが、三井サンのやらかした事件は、俺にとってはスペシャルな幸運だった。
あの事件のおかげで俺は、恋の予感なんて微塵も感じなかった、しかし今となっては大変に魅力的で興味深い恋人の隣に座っている。そしてその僥倖を逃すことなく、マセた高校生に相応しい交際生活を謳歌しているのだから。
膨れ上がるくすぐったさをすっかり持て余してしまって、もう我慢は止めた。彼の興味を引き、かつ、打ち返しやすい言葉を早急に選んで、ここぞというタイミングで投げる。
「俺達さ、セックスの相性も良くて、ホントよかったよね!」
「突然なんの話なんだよ!!!!」
釣れた。今度は真っ赤。お勉強への集中力は霧散してしまった。
「だってさ顔も身体も相性は大事だろ?俺はさ、アンタともっとたくさんいろんなことしたいから―」
「ばっかてめ絶対ここでサカるなよ!親いるし!俺は今日中に課題を終わらせなきゃなぁ――――――」
「知ってる、だから今日は我慢してるだろ。そのかわり、ご褒美に、俺の背が伸びたら新しい体位も試したい、俺の好きなように。ね?いいだろ?ご褒美欲しいな?」
下世話な睦言に、そっと、遠い将来の約束を紛れ込ませた。
照れながらも悪くない反応の三井サンに飛びついて、そのままベッドに引きこむ。怒られながらじゃれながら悪戯をしたりされたりして抱きしめて、顔を見合わせて笑い出すまで、少しの間だけ俺に付き合って。
湧き出る甘い気持ちは、ここが、彼が、あまりに暖かくて居心地がいいから生じる、一時の錯覚。気の迷い。傷の舐めあい。
でも今だけは揺るがない真実で。俺は寒い夜の冷たい雨の中、息継ぎをするように彼に触れる。
もし俺たちの夜が明けなくても雨が止まなくても、こんなふうに過ごすなら悪くないんじゃない?
20230317 sunaba
20230807修正